走馬灯を見るのはあの世からでも

藤岡櫂

本文

……リ……きて……やく……


誰かの声に耳をくすぐられて、私は起き上がった。

 見渡すとそこは、白で埋め尽くされていた。まだはっきりしていない目でもはっきりわかるほどに。

 そして、白に目が慣れてくると、目の前に黒があることに気づいた。あれ、なんで気づかなかったんだろう。

 その黒は、だんだんと形を形成し、やがて人型に纏まった。

(誰、?)

 私は後ずさりした。黒とさっきよりも距離ができているから、後ずさりできたんだと思う。逆にそれがなければわからなかった。それだけ白は無であったし、動いた感覚もなかった。

 ようやくそのパーツまではっきりと視認できるようになったその人は、顔を歪めた。

「誰って、そんな」

 その人が呟いたのに対し、私は焦った。どうやら、さっきの心の中の言葉が口をついて出ていたらしい。

「あの、失礼なこと言っていたらごめんなさい」

 私は非礼を詫びながら立ち上がろうとしたが、どうしてか思うように立てない。

「うん、でも気にしないで――って、そうだ、動かないでちょっと待ってて、ね」

 その人がそう言った瞬間、視界からふっと消えたかと思うと、すぐにまた私の視界に現れた。私はここが、夢を見ているときのような不自然さで構成されていることに気づいた。

「ところで君は、ここがどこか気づいた?」

 その人は私の心を読んだかのように言う。

「夢?」

 私がゆっくりと――さっきのその人の瞬間的な動きとは正反対に――口に出して尋ねると、その人はこちらに合わせてか、ゆっくりと首を振った。

「夢、と声に出して言えるなら、ここは夢じゃないんだよ。夢だと気づくまではいいけど、それを口に出してしまうと夢のさらにその上の高次元世界に囚われてしまうからね」

 その人は難しい話をし始めたが、今の私にはなんだか理解できる気がした。

「うん。それでここは、その高次元世界みたいな場所でさ――率直に言うと、あの世、だ」

 あの世――

その言葉の響きは、私には聴き慣れない不協和音程であり震駭しながらも、ここにおいてはたしかに協和音程であるようにも聴こえた。

「……あの世って、私は死んだんですか」

 今更、真っ先にするべき質問がやっと湧きあがってきて投げかける。

「うん、死んだよ――でもね、俺はここで何人もここに来ることになった人を正しいところへ導く案内をしてきたけど、君みたいに自分が死んだことに気づかずに来てしまった人は初めて担当するな」

 どうやら私は珍しいほうの人のようで、それも喜べないほうの珍しいなのだとわかった。そして、その人はあの世の側の人――もしくは人ならざるなにか――であることもわかった。

「あの、すみません。でも本当に憶えてないんです。生きていたときのことはなにも」

 私は迷惑がかかっているならと軽く頭を下げる。そうだ、私は記憶喪失したんだ。徐々に状況が分かってくる。

「あー、そんな申し訳なさそうにしないで。そもそも君をここに呼んだのは俺だから」

 え、という声が私の硬い口から漏れ出る。呼んだ、って。

 その人は私の反応を見て――もしくは響いて跳ね返ってきた自分の声を聞いて――途端に慌てる。

「って、撤回させて。俺が君を死なせたって意味じゃなくてさ……。ごめん、誤解を生む言い方だった。俺が言いたかったのは、何人もいるあの世の案内人のなかで俺が君を案内するように、自ら手配したってこと。なぜなら――」

 その人はここで一度、言葉を切った。言葉が口の中で十分に温まるまでの間は今まででいちばんゆっくりと感じられた。

 やがてその人は口を開いた。今度はゆっくりじゃなかった。

「君の記憶を取り戻すために」



 その人は、私の失った記憶を取り戻すと言った。そのお誘いに私は乗った。私も、それを望んだ。私は何者だったのか、ただ知りたかった。ただ知らなければならないような気がした。

 その人に、右を見て、と言われてその通りにすると、さっきまで周囲と同じように白かったところに色が生まれていた。

「これは、『走馬灯世界』だ」

 記憶喪失の私でもとりわけ聞き慣れない言葉に、私は首をひねる。

「これからそこに、この『走馬灯世界』という装置を使って、ある景色を映す。それは、君が死ぬ前に見ていた景色――いわば、記憶だ」

 あの世ではこんなことができるのか。そう驚く私を俯瞰するに、私は生きていたとき、つまり現世で備わった常識や価値観は失われていないのだろう。うん、たしかに現世ではこんなことはできなかったはずだ。

「さっき言ったかもしれないけど、あの世というのは現世から見て高次元世界なんだ。だから、現世ではできないような時間の移動が、ここでは可能になる」

 その人は難しく、かつそれでもなんとなく理解できるような説明を淡々としながら、その手を宙に揺らす。きっとセッティングをしてくれているのだろう。

「ただ、この装置には問題がある。というのも、記憶を時系列順にして見ることができない。記憶は五分ずつに分割されて、脳の呼び出しやすい場所にある記憶――つまり、死ぬ直前の記憶から五分ずつ遡ってそこに再生されるんだ」

 相も変わらず難しい話を捲し立てるその人を見ていて疑問に思う。どうして私の記憶にこうも執着するのだろう。そんなのあなたにはどうだっていいじゃない。いや、せっかくいろいろやってくれてるのにそう思うなんて失礼だろ。私の中の私が勝手にせめぎ合う。

「じゃあ、準備はいい? こっちの準備は終わったけど」

 唐突にそう尋ねられ、反射で返した私の返事は上ずった。

「それじゃあ、そこを、よく見てて」

 なにかが広がっていく、そんな音がする。今度は響かずに。

 すると、そこに広がる景色に、命が吹き込まれた。



――走馬灯世界ヲ蘇ラセマス。




          *



 やっぱり、つらい。

 彼なしに生き続けることに自信の持てない私の弱さを、思い知らされた。

 彼に私がかけてしまった負担がどれだけ大きかったかを、思い知らされた。

 私は私がどっちなのかも、どっちを好きになるのかも、表面に見えないからって誤魔化して生きてきたし、彼にもそうやって、表面からは普通に見えるからって甘えてきたけど、そんな態度のほうが甘えだということにまったく気づかなかった。

 悪循環は、止まらない。

 するとそのとき、[まもなく、電車が通過いたします]というアナウンスが耳に入ってきた。

そろそろ電車が通過する頃合いだろう。

 彼はそんなことを望んでいないと思う。しかし、だ。

 私は気づいたらホームから線路の中へ飛んでいた。

 線路に飛び出すことは、彼なしに生き続けることに比べたら、なんて容易い行為だろう。

 私の上半身が線路に侵入したその瞬間、警笛が鳴り響いた。



          *



 私のあの告白が、彼を悩ませてしまったのかもしれない。

 電車に乗り込みながら思う。

 運転再開して最初の電車の中には少しだけ人が乗っていた。四十分ほど閉じ込められていたにしては、どの人も疲れた顔をしていなかった。この路線では人身事故はしょっちゅうあるから慣れっこなのだろう。

 先頭に並んでいたから気づかなかったが、私が電車に乗り込むとその後ろからもぞろぞろと人が乗り込んできた。そのため席は確保できたが、隣に人が座るくらいには混みあった。それでも普段の平日の昼間だったら考えられなかった。彼が私の隣に座るスペースはなくなってしまった。

 私はさっきまでのことを振り返る。

こんなつもりじゃなかった、なんていうありきたりな後悔が一番苦しいなんて知らなかったな、とか。

 あのとき、私は一生あのようなお手伝いは経験しないで生きていくのかな、とか。

 断ったのは結局、彼のお母さんの私への呼び方が気に入らなかったとかそういうことで、自分は相当しょうもない人間なんじゃないか、とか。

 いけない。こういう悲観的な内省は自分を苦しめる。それでもしてしまう。悪循環は好循環よりもしぶとい。

 二駅分乗って、私は電車を降りた。降りるとそこはホームの端だった。

 十秒ほど突っ立っていると、一気に人気は消えた。



          *



『大切なエリへ。

 教えてくれてありがとう。エリの正直に言ってくれるところ、俺は好きです。俺に打ち明けてくれたのも、エリの本音を聞けたと思って純粋にうれしかったです。

 でも、俺にはエリの望むような関係をつくれる自信がありません。俺はエリを無意識に傷つけてしまうかもしれない。もう傷つけてしまっているのかもしれない。そう思うと、俺は俺のことが怖いです。俺は情けないです。エリはそんな俺を許してくれますか』

 くしゃくしゃな字が、よりいっそう彼の端正な顔を想起させて私は顔を歪める。

 本当はこれも棺に入れて燃やしてしまいたかった。これがある以上、私はきっと自分自身への後悔で苦しみ続ける。「それは関係ないんだよ。私はあなたの性別じゃなくて、あなた自身に惹かれているんだ」って、直接言えなかった後悔で。

 どんなに後悔したところで、時間は流れ続ける。たった今運転を再開したというアナウンスが、たった今入った。



          *



 葬儀場の最寄りの駅の改札口は、いつもより人が多かった。

 私は、多くの人の視線の方向――電光掲示板を見やる。

[只今、電車は人身事故の影響で運転を見合わせております。運転再開は11:40ごろを予定しております]

 私は小さく舌打ちする。どうしてこんなときに。

 しかし、その横の時計を見ると11:31を指している。意外ともうすぐ再開してくれるようだ。

 私は思い切ってポケットからスマホを取り出して改札を通る。そして階段を下りてホームに出ると、熱気を帯びた身体がまたひんやりとしてきた。

 ホームにはそれほど人はいなかった。外よりも少し暗くて一人になれる場所。今の私にいちばん必要な場所だと思った。

私は母から借りた使い慣れていない黒いバッグから、まだスネイルフィッシュのシール――いっしょに『深海展』に行ったときに買ってたよね――がしっかりと吸着している一封の封筒を取り出した。

その中には、彼からのお返事がある。今いちばん読みたくなくて、でも読みたいものが。



          *



 ひんやりとした葬儀場をゆっくりと出ると、忘れていた真夏の熱気が一気に私の身体を包んだ。外は真夏であることをすっかり忘れていた。お盆が過ぎてもなお真夏は健在だった。

 もうお別れは済んだ。ならば、一刻も早く立ち去ってしまわないと。

 まもなくして、ローファーのかける音がする。同級生のミズキが私の後を追ってきた。

「ねえ、エリ、結局帰っちゃうの」

 私を引き留めようとして私の一歩前に来る友を尻目に、私は早歩きのペースを崩さずに葬儀場のある丘を下る。

「ライくんもう車に乗っちゃったよ」

「そっか」

 私は短く返す。ここでまばたきをしたらよくないと思って、我慢した。

「ねえってば」

 ミズキが私の腕を掴む。ミズキの手の小ささと、私の腕の細さが否応なしに伝わってくる。

 それが、耐えられなかったのかもしれない。

「ごめんミズキ、本当は私がライを殺したんだ。だからあの場にはいられない」

 私はそう言い放ってミズキの手を振りほどいた。そしてまた下り坂のほうに身体を向けて、歩き始める。呆気にとられたミズキを置いていって。



          *



 私の番がやってきた。

 持ち上がった棺の中で生きているように死んでいるライを見る私の目はもう霞んだりしなかった。しずく一粒すら、もう浮かべる余裕はなかった。

 それにしても、ライのその顔は交通事故で亡くなったことが嘘のようにライのままであった。

 さっきいただいた別れ花を手向ける。右手に持っている、昨晩読んだその手紙も入れてしまおうかという考えも一瞬頭をよぎったが、頼むときに中身に言及されるのは不本意なのでやめた。私は臆病だった。

手向けたあとミズキと一緒に後方に下がるときに、ライのお母さんに初めて声をかけられた。

「エリちゃん、ミズキちゃん、ありがとね。ライと仲良くしてくれて。ライから二人のこと、よく聞いてたから」

 ちっとも想定していなくて、私は必死に言葉を探していると、ミズキが持ち前の口上手を発揮して返答してくれた。

「いえ、私たちもライくんには助けられることばっかりで。私たちこそライくんに感謝の気持ちでいっぱいなんです。……あっ、この度は心からお悔やみ申し上げます」

 ミズキが思い出したように頭を下げると、隣で焦っている私も慌ててミズキに合わせた。

「あ、ご丁寧にどうもありがとうございます。で、そうだ。エリちゃんはライの彼女さんなんだし、火葬にもぜひ来てほしいなって思うんだけど、どう?」

 横を見ると、ミズキは(行けば?)という風に私にサインを出してきた。

 でも。

「ごめんなさい。私にはその資格はないです」

 まっすぐ、断った。

「そんな。資格なんて十分あるし、気にしなくていいのよ」

 しまった。困らせてしまっている。私はまた焦って、うまい具合の言葉を見つけられず、とにかく頭を下げる。

「せっかくのご厚意を無下にしてしまってごめんなさい」

 さすがにここまで言ってしまうと、相手は引き下がるほかない。ライのお母さんは残念というよりは不可解そうに私を見て、それじゃあ仕方ないよね、とだけ言い残して、会釈して去っていった。

 私は、ライの彼女にはなれない。

 ライにとっての彼女は私にあたるが、私にとって私はライの彼女ではない。

「ねえエリ、どうして断っちゃうの。きっと、ライくんは来てほしいって思ってるよ」

 ミズキに問い詰められるが、その答えはミズキにも言えない。私は黙る。

 対するミズキも、出棺のアナウンスが入ったことで、仕方なく黙った。

「まもなく出棺します。男性の方、手伝っていただけると幸いです」



          *




 ――モウ走馬灯世界ハ蘇リマセン。



 景色は命を失い、その彩度が徐々に失われていった。

 それとともに、頭が整理される。

 すべて、思い出した。三十分間の記憶に収まらず、すべての記憶を。

 私は、エリだ。そして、目の前のその人は――

「ライ?」

 あのとき死んだはずの、ライだった。

「やっと気づいたんだね」

 その人は笑顔を浮かべた。私の見たい笑顔だった。



 記憶を取り戻した私は、最大の疑問をライにぶつけた。

「ところで、どうしてライはあの世で案内する仕事をやってるの」

 そう聞くとライは、あれ、そんなことに興味あるの、と言わんばかりの顔を浮かべる。

 私も、聞かせて、と言わんばかりの顔を浮かべてみせる。

「うーんと、死んだ人間はみんなここ、あの世に来るんだけど、一部の人は仕事を任されるんだ。俺の場合は案内人だったってこと」

「じゃあ、私もなにか仕事することになるの?」

 そう尋ねると、ライは首を横に振った。そして、よく聞いてて、と神妙な面持ちで語り始めた。

「エリ、気づいていないと思うけど、ここはただのあの世じゃない。エリのように自死を選んだ人間だけが、ここに来るようになっている。なぜなら――」

 ライはさっきのようにもったいぶって言う。癖になってるのかよ。

「もう一度、生きてみるかどうか考えてもらうために、ね」



〈一般に死というのは運命であり、死亡した人間は受け入れてもらうほかない。しか    

し、自死は例外だ。自死は意志――いわば内的営力によるものであり、外的営力である運命と相反する。したがってあの世で本人の意志が変わった場合はやり直すことができる。

 今の現世では、自死を選ぶ人間は現世の人間が思っているよりも遥かに多い。理不尽な社会構造を考えたら当然のことであろう。しかし、実際に自殺という原因で死亡する人間はその半分ほどに収まっている。なぜか。それは、あの世の案内人の功績によるものである。――(中略)――なお、特定の手段で自死に及んだ人間は記憶を失っていることが多い。その対応として、『走馬灯世界』を使って記憶を取り戻させる手段を講じてよいこととする〉

                      ――――『あの世職員マニュアル』


 あの世でもなお分厚いものは分厚いのだと思わせてくれるような書物を閉じ、その勢いのままに両手の中に消してしまうと、ライは息を息ごと大きく吸った。

「つまり、俺はもう一度エリに生きようと思ってほしいと、そう思っている。強要はしない。でも、もう一度深く考えてほしい」

 ライは真剣だった。目も耳も口も鼻も、真剣だった。

 私もライのその真剣さに応えようと思った。ライの期待に応えようとかじゃないけれど。

「……でも、私は結局、ライの邪魔にしかならなかった」

「ちがうよ」

「私のことでライを悩ませて、追い詰めてしまった」

「ちがうよ」

「私がいなければ、ライが事故に遭うことなんかなかった」

「ちがう!」

 ライの気迫に私は出掛かった声が喉の中で潰えた。

 ライのその気迫もまた一瞬にして潰えて、いつもの穏やかなライに戻った。

「それは、ちがうよ。エリ」

 ちがわない、とは言い返せなかった。ライの時折見せる穏やかな声に、私は弱かった。

 私は、私がいかに弱い人間であるかを、ライに思い知らされた。

 歯を食いしばって噛みしめている私の隣に、ライは座った。あれ、頭の位置が私より高い。そう疑問に思ったが、すぐにその理由に気づいて顔を歪ませる。そっか、私の脚は――

 右耳に直に低い声――私の憧れのひとつ――がやさしく侵入してくる。

「……エリが謝るなら、俺も謝る。俺はエリに対して弱気になっていた。手紙をくれたんだから手紙で返さなきゃとか、変に律儀になっていた。本当は真っ先に電話すればよかったんだ。それなのに、時代とか風潮とか気にして、もっと大切なことをちゃんと気にすることができなかった。特別な悩みなんて存在しなくて、悩みがないからってこちらが優位に立とうとする必要なんてないんだ。でも俺は間違えたんだ。間違えてしまったんだ。本当にごめん」

 ライはこちらを向いて頭を下げた。頭の位置が一瞬だけ私に負けた。やった、一瞬あの頃に戻った、なんてことを私は当惑しながらも思った。

 一瞬は一瞬で終わった。顔を上げたライは、さっきとは打って変わって晴れた顔をしていた。

「よし。これで終わり! 過ぎ去ったことを謝るのはやめよう。うん、やめだ、やめ」

 ライのテンションが三オクターブほど上がったことに眩暈を起こしそうになりながら、私はライの笑顔につられて笑顔になる。あれ、私、今日はじめて笑えた。

 そしてしばらく笑いあう。そこに時間という概念はなかった。

 私はたった今、解放された気がした。

 その勢いのままに、私は宣言する。

「……わかった。私は、もう一度生きる。生きてみる」

「約束だね?」

「ああ」

 これが私の答えだ。



 私だけが現世に戻ることができて、ライはできない。

「だって、そういう運命だったからね」

 ライは微笑みを崩さず軽やかに言った。私の知らない微笑みだった。

ライのすっかり受け入れてしまっている様子を見て、私は運命の残酷さを知った。それでも、呪うことはやめようと思った。

ちなみに、私は現世に戻るとこの世界――あの世での出来事はすべて、記憶の奥底に眠って封印されてしまうらしい。

それでも、ライのためにこれだけは言っておかなければならない。

「ライ。私が現世に戻る前に、一つだけ伝えさせて」

「なに?」

 ライと目が合う。ふいに声をかけられて急に目が合う、というよりも、合わさるこの感覚。まだピントが合っていない、というよりも、合わさっていないこの感覚。それはとても懐かしく、それでも慣れてしまったことは一度もなくて、私の鼓動が速まるのを感じた。まだ生き返ってもいないのに。

 私がまだ直接言えていないことを言うために、残りの時間を使う。装置を使わずとも、走馬灯がはっきりと見えて、そして流れていく。

 女性を背負っていて、でもその内側には男性の自分がいて、それなのにどちらかというと男性のことを好きになってしまう――

 この告白をのせた手紙を、午前授業の帰りの電車内で別れ際に渡したあの朝が見える。

 その次の日、別れ際に返事のお手紙を渡してくれたあの昼が見える。

 家に着いてもその手紙を中に閉じ込めた封筒のスネイルフィッシュのシールをすぐには剥がせなくてにらめっこしているあいだにスマホが震えて、ライのことを聞いたあの夕方が見える。

 その手紙を初めて読んで、もう私の声は届かないんだと咽び泣いたあの夜が見える。

 私は大きく頷く。今の私はたくさん思い出せるし、もう届けられないと思っていた声を届けられる。

 私は声が上ずらないように、なんとか心を落ち着かせて目の前のその人に伝える。

「私はあなたの性別じゃなくて、あなた自身に惹かれているんだ」

 そう言い切ると、その声はあの世じゅうに響いた。

そして、ライはまた微笑んだ。今度は、私の見たい微笑みだった。




          *



 私は気づいたらホームから線路の中へ動いていた。

 線路に飛び出すことは、彼なしに生き続けることに比べたら、なんて容易い行為だろう。

 私の上半身が線路に侵入したその瞬間、警笛が鳴り響いた。

 そして、私の視界が回転した。私は倒れこむ。尻もちをついて。

(……後ろに?)

 顔を正面に向けると、目の前を電車が勢いよく通過した。私は状況が理解できずに立ち竦むと、

「エリ!」

 私の名前を叫ぶ声が耳元で聞こえる。私はその声の主に首を抱きかかえられている。私は上しか向くことができない。

 そしてその声の主の首の締め付けがやさしくなってもなお、私は顔を天に見上げていた。

 遠くから、ライの声がした。


――エリ、生きて。約束だから。

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