夏の海に包まれて
杉野みくや
真夏の海に包まれて
首元を伝う汗を拭い、けたたましく鳴きわめいているセミの鳴き声に鬱陶しさを覚える。立秋を過ぎたというのに、気温はまるで衰えしらずだ。
8月ももう終わろうとしている今日、飯塚は24連勤目を迎えていた。目の下に色濃く残るクマと、20代後半とは思えぬシワの数が彼の苦悩を如実に表していた。
このブラック企業に務めてはや5年。同期のほとんどが早々に辞めていき、残った精鋭たちも半分ほどが病んで去ってしまった。
本音を言えば、飯塚だって一刻も早く会社を辞めたいと思っている。だが、就職活動の時に地獄のような思いをした飯塚にとって、再び職を探すというのは痛いと分かっていながら素足で針山を登るようなものだ。だからといって、会社をやめてフリーターになるほどの度胸はあいにく持ち合わせていない。
今日もヘトヘトになりながら、体に鞭を打って仕事に取りかかる。定時を過ぎれば、タイムカードを切って延長戦のスタートだ。朦朧としながらエナドリを喉に流し込む。
なるべく頭を空っぽにし、ひたすらに、ひたすらに手を動かしていく。気づいた時には、23時半を回っていた。
なんとか24連勤目を乗り越えた飯塚はいつものごとく、終電1本前の地下鉄に乗り込んだ。珍しいことに、今日は誰ひとりとして乗っていなかった。普段なら同じ境遇にいるであろうおっさんか、飲み会帰りの若者のどちらかが必ずと言っていいほどいるものなのに。
飯塚を乗せた地下鉄はガタン、と音を立てながらゆっくり動き始める。つり革を掴みながらただ揺られるこの時間が、飯塚にとって唯一のオアシスとなっていた。家に着けば泥のように眠り、あっという間に朝が来る。そうすれば、仕事のことが嫌でも頭に浮かんでしまう。
だからこそ、こうして頭を空っぽにし、一時の現実逃避に走る。子どもが少しでも夜更かしをして、翌朝の憂鬱から目を背けるのと似たようなものである。
しばらくぼんやりしている間にも、地下鉄はどんどん先へと進んでいく。地下鉄の奏でるガタンゴトン、という一定のリズムが耳にも脳にも心地よく響いてくる。
誰もいないということもあってか、今日はことさらに強烈な睡魔が飯塚を襲っていた。
「もう、ダメだ。でも、ここで寝てしまったら、絶対、寝過ごす」
半分ほど意識が朦朧としていると、ふと目の前の椅子が目に止まった。茶色一色の、見るからにふかふかそうなその長椅子は飯塚の睡魔を引き込んでいく。
「ちょっとだけなら、許されるよな?」
飯塚は誘われるがまま横になると、あっという間に意識を失った。
どれくらい時間が経っただろうか。ひんやりとした冷気に身体がぶるっと震える。
「う~ん、う@%※$#」
寝言のようなものをつぶやきながら寝返りをうつ。すると、堅い何かがコツンと頭に当たった。
「うっ、ん?」
目を覚ますと最初に、地下鉄の改札が目に入った。続いて、真っ平らなねずみ色の床といくつかの柱、そして上へと続く階段が目に飛び込んできた。
「ここは?」
たしか、電車のふかふか椅子で寝ていたはずでは?と疑問に思いながら、重い身体をよっと起こす。頭上にあった券売機は電源が切れているのか、画面もボタンも明かりを失っていた。
見覚えのない改札に、薄暗い構内。駅員を探そうと辺りを見回すも、人の気配はつゆとして感じられない。
まるで自分だけが、異世界にでも放り出されたかのような感覚だった。
「たぶん寝過ごしたんだろうけど、なんでこんなとこで寝てたんだ?――ってやべえ!仕事が!」
とりあえずスマホを取り出し、電源ボタンを何度も押す。しかし、いくら押してもスマホは全く反応を示さなかった。
「おっかしいな。結構充電あったはずなのに」
焦る気持ちを募らせながらその辺をうろうろしていると、地下鉄では到底あり得ない香りが鼻をほのかにくすぐった。
しょっぱくもどこか懐かしい、セミが鳴くこの季節にぴったりな夏の代名詞のひとつ。
その香りがただひとつしかない階段の上から漂ってきていた。
「え?」
眉をひそめながらも、飯塚の足は階段へと向かっていた。
無機質な階段を上るにつれて、その香りは徐々にハッキリとしたものになっていく。ざざーん、というあの音も微かに聞こえ始めていた。
階段を上がりきったその時、信じられない光景が目に飛び込んできた。
目の前に広がる、透き通った青い海。大きな入道雲の足下を水平線がどこまでも縫っていく。
誰もいない砂浜で、寄せては返す波の音がこだまする。まくった袖から露わになった素肌を太陽がジリジリと焼いていった。
言葉を失った飯塚はしばらくその場で立ち尽くしていた。
まるで、夢でも見ているかのようだった。いや、実際夢なのかもしれない。こんな場所があるなんて聞いたことがないし、なんなら埼玉方面の地下鉄に乗っていたはずだ。
24連勤もすると夢と現実の区別もつかなくなるのかと皮肉混じりに考えていると、背後から声をかけられた。
「あら、見ない顔ですね」
後ろを振り返ると、白い日傘を差し、純白のワンピースに身を包んだひとりの女性が立っていた。袖口から見え隠れする、細く透き通った二の腕。肌麦わら帽子の下から覗く大きな瞳。肩にかかった茶色の髪を海風になびかせながら、彼女はニコリと微笑みかけていた。
「っ……」
言葉が喉に引っかかる。
綺麗な人を前にするとこうもぎこちなくなるものなのか、と飯塚は密かに驚いた。
「こちらにおいでください」
女性に言われるがままに、飯塚も砂浜に足を踏み入れた。革靴と砂浜の相性はあまり良くない気もするが、今さらそんなこと気にしたってしょうがない。
サラサラとした砂浜の上を歩くのも実に久しかった。一歩進む度に足が1,2センチほどズボッと沈む。そのせいでとても歩きづらく感じる。
それとは対照的に、女性は軽やかな足取りで砂浜を進んでいく。カンカン照りの太陽に照らされたその微笑みは日傘越しであってもとてもまぶしかった。
ぼんやりしながらついて行っていると、彼女はふと立ち止まった。かと思えば、その場で急にしゃがみこんでしまった。どうしたのかと回り込んでみると、彼女はいきなり立ち上がった。
「見てください、これ!」
彼女は満面の笑みを浮かべながら、大きな貝殻を見せてきた。雲ひとつないこの空と同じ、濁りない水色が飯塚の目を引きこむ。
「き、きれいですね」
「本当にそう思ってます?」
「お、思ってます!思ってますとも!」
「ふふっ、ならこれはあなたに差し上げます。本日の出会いを祝して」
イタズラっぽく微笑んだ女性の白い手がこちらに向いた。
水色の貝殻を取ろうとした時、その絹のような指に一瞬だけ手が触れる。さらりとした感触が心にまで伝わってくる。あともう少し触れていたらひびが入ってしまうのではないか。そう思ってしまうほどに繊細できれいな指をしていた。
「海にいらしたことは?」
「ありますけど、もう随分と昔のことです」
「なら、入らない訳にはいきませんね」
そう言うと女性は突然、襟を肩の方にずらし始めた。
突拍子のない行動を前に、疲れ切った脳は理性の歯車を停止させてしまった。飯塚は大人げもなく、彼女の動作に見入ってしまっていた。
彼女の白い肩が露わになろうとしたそのとき、大きな瞳が飯塚に向いた。
「何見てるんですか?」と尋ねる彼女はいたずらな笑みを浮かべていた。
「あ、いや、あの」
我に返った飯塚はあたふたしながら必死に視線をそらした。
「ふふっ、ちょっとからかってみただけです。こんなところで着替えるわけないじゃないですか」
女性は手を止めると、そのまま海へと近づいた。そして、おいでというように手をこまねいた。
断る理由もなく、飯塚はその白い手に引かれていった。
女性は波に向けて、手をそっと近づける。
白波に包まれる、透き通った手足。日傘と麦わら帽子が似合う、美しい笑顔。額に滲む汗がキラキラと輝いて見える。
こんなにも胸を締め付けられるような思いをしたのは、実に久しかった。
「あなたもやってみてください。冷たくて気持ち良いですよ」
女性に言われるがままに、おそるおそる手を近づける。すると、白い波が手首を覆い、そしてすぐに帰っていった。
たった一瞬触れただけなのに、波の冷たさと力強さが手に強く残った。
頭を上げると、女性は海の中へと足を踏み入れていた。ワンピースの裾が海に浸かってしまっているが、そんなのお構いなしというようにどんどん奥へと進んでいっていた。
飯塚も革靴と靴下を脱ぎ捨て、ズボンの裾を膝下まで捲った。女性を追うようにしてすねがすっかり浸かるところまで進んだ頃には、ヒンヤリとした海がとても気持ちよく思えていた。
肌を焦がすように照りつける日差し。果てしなく広がる水平線からもくもくと盛り上がり始めている入道雲。ときおり潮の香りを運んでくれる、涼しい海風。
それら全てを身体で受け止めんと大きく伸びをしていると、視界の端に影のようなものが映った。
「うわっ!?」
飯塚は思わず倒れ込みそうになった。
女性が海の上で仰向けになっていたからだ。
「あら?驚かせちゃいましたか??」
「な、何してるんですか!?」
「ただ浮かんでいるだけですよ〜。こうしていると、海に包まれたような感じがして、なんだか落ち着くんです。まるで、人魚になった気分」
そう言って両手を広げてみせる。その美しい髪も海中で気ままに揺れている。
変わった人だな、と思っていると女性の視線が飯塚に向いた。それから、目を少し細めてニコリと微笑んだ。
まるで「あなたもやってみなさい」とでも言っているかのようだ。
飯塚も両手をいっぱいに広げて仰向けにゆっくり倒れ込んだ。
大の字になって海に浮かぶなんて何年ぶりか分からない。まさか大人になってからこんなことをするなんて思ってもみなかった。
時おり吹く海風がとても心地良い。雲ひとつない青空は今まで見た中で一番美しかった。
しばらくぷかぷか浮かんでいると、だんだん瞼が重たくなってきた。冬山での遭難みたく体が冷えてきたのか、それともゆらりゆらりと揺れ動く波の周期によるものなのか。理由は定かでないものの、こうして目を閉じるのが正解のように思えてくるのは確かだった。
意識が遠のいていくなか、女性の立ち姿だけがずっと脳裏に残り続ける。頭の中でも、彼女は柔らかい笑顔を見せ続けていた。
「おやすみなさい。またどこかで会いましょう」
肌をかすめる生ぬるい風。
駅前のバス停に寄りかかっていたのだから、体が痛くなるのも当然だ。ムチを打ったような痛みを随所に抱えながら、よっこらせと立ち上がる。ロータリーの中心に立っている時計が示す時刻は5時丁度。自分の最寄り駅であれば、そろそろ始発電車が到着する時間だ。
ここがどこの駅なのか、未だに分からない。それでも、仕事には行かなければならない。
せめてシャワーは浴びたいな、と思いながら首元をポリポリ搔いていると、胸ポケットに固い感触を覚えた。おもむろに手を伸ばすと、きれいな水色の貝殻が現れた。
「はっ!?」
飯塚は突然、辺りを見回した。
たった今、凜としたあの女性の声が聞こえた気がしたからだ。
もちろん、彼女の姿はどこにも見当たらない。貝殻を握りしめるひとりの男性がポツンとたたずむのみである。
力が抜けたかのように飯塚はへなへなと座り込んだ。
駅の影から顔を出し始める朝日。遠くから聞こえてくる始発電車の走行音。
いつもなら、それらは辛い仕事の1日を告げる合図だ。でも今日は、そんなことすらどうでもよく思えてくる。
あの海の切ない香りと誰かも知らぬ女性の太陽のような笑顔。それらがいつまで経っても飯塚の頭に残り続けていた。
-完-
夏の海に包まれて 杉野みくや @yakumi_maru
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