ぬいぐるみ人質事件〜探偵の後継者争い番外編〜

晴坂しずか

ぬいぐるみ人質事件〜探偵の後継者争い〜

 連日酷暑こくしょが続いていた八月のある日、朝食を終えて自室に戻るとベッドの上に紙が一枚落ちていた。

 何かと思って手に取り、何気なく読み上げる。

「ポチは預かった。返してほしければスマートフォンを持って洗面所まで来い」

 はっとして室内を見ると、俺のお気に入りのぬいぐるみが消えていた。棚にずらりと並べた柴犬コレクションのうちの一つ、もっとも抱き心地のいいポチ一号だ!

 脅迫文と思われる紙は普通のコピー用紙である。フォントは妙に緊張感のないMSPゴシック体。こんなひどいことをするのは一人しかいない。

 ポチ一号を取り戻すべく、とりあえず指示に従ってスマートフォンを片手に洗面所へ急行した。


 そこで待っていたのは予想した通り、双子の妹の千雨ちさめだ。

「ポチを返せ!」

「まだ何もしていないのに返すと思って?」

 千雨の腕にはぐったりとしたポチ一号が抱かれていた。ああ、なんということだ!

「要求は何だ?」

千晴ちはる亜坂あさかちゃんと連絡先交換したでしょ?」

 いきなりそう言われてはっとした。千雨の要求が読めたからだ。

「まさか、彼女とのやり取りを見せろと言うのか……!」

「ええ、そうよ。真面目な千晴のことだもの。一度もメッセージを送ってないわけがないものねぇ?」

 くすくすと笑う妹に、俺はぎりりと唇を噛む。

「なんて卑怯なんだ」

「あら、従わないつもり? それじゃあ、可愛いポチちゃんをいじめちゃおうかしら」

 そう言って千雨はドラム式洗濯機の蓋を開けた。

「あっ!」

 ポチ一号が狭い洗濯ネットに入れられて、乱雑に洗濯機の中へ投げ入れられてしまった!

「さあ、楽しい水責めの始まりよ」

 千雨は冷徹にもボタンを操作し、薬剤を投入していく。

 洗濯機がごうごうと動き出し、俺はとっさに駆け寄った。

「なんてことをしてくれるんだ! ああ、ポチ……!」

 水に揉まれてポチが回っている。可哀想なポチ……助けてやりたいが、無情にも蓋にはロックがかかっている。

 千雨はにやにやと笑いながら言った。

「白状する気になったかしら?」

 性格の悪い妹をにらみながらも、仕方なくスマートフォンを操作した。

「何回かメッセージのやりとりはしたよ」

 千雨がすかさずのぞきこんでくる。

「亜坂ちゃん、しばらくお休みしてるんでしょう? 元気にしてるかしら?」

「うん……秋には活動再開したいって」

「へぇ、それならよかった。ところで千晴、ジンテーゼのライブ見た?」

 ぎゅっと口を閉じて返答を拒絶する。答えたくない質問だった。

 千雨は当然のように察知してたずねてくる。

「ジンテーゼのライブよ、ライブ。ミュージックビデオでもいいけど、見たんでしょう?」

「うっ……み、見たよ」

「亜坂ちゃん可愛かったでしょ? ねぇねぇ、どの衣装が好き?」

「うるさいな、もういいだろ。早くポチを返してくれ」

「あら、それならひそかに入手したブロマイド、見せてあげないわよ」

「えっ、ブロマイド!?」

「ふふふ、反応したわね。素直に従ってくれたらあげてもよかったんだけれど」

「そ、それは……いや、僕にも理性というものがある。欲しいとまでは言わない、見せてくれればいい」

「見るだけ?」

「うん、見るだけ」

「へそチラ衣装よ」

「その手には乗らない」

「ミニスカ」

「興味ない」

「胸の谷間」

「……すみません、見せてください」

 情けないとは思いつつ、俺はその場で土下座をした。断じて言うがブロマイドが見たいわけではない。一刻も早くポチを取り返すためのポーズだ。

 千雨はくすくすと笑って言った。

「ついてきなさい」


 千雨の部屋はあいかわらず本ばかりが目立つ。女の子らしい雑貨もあるにはあるが、一見したところでは俺の部屋の方が可愛いかもしれない。

 引き出しからクリアケースを取り出して、千雨はベッドに腰を下ろした。

 妹とはいえ女性のベッドに座るのは腰が引けるため、俺はその前の床へ正座する。

 ケースを開けて千雨は五枚ほどのブロマイドを差し出した。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

 丁重に受け取り、ドキドキしながら確認する。いかにもアイドルらしい可愛い衣装を着た亜坂さんが一人で、時に他のメンバーと笑顔で写っているものだった。

「うーん、へそチラとミニスカは分かるけど……」

「最後の一枚は?」

 言われて一番後ろにあったブロマイドを見てみる。比較的露出が多めで、たしかに胸の谷間がくっきりと見えた。

「おお、やっぱり大きいな……」

「Eカップだそうよ」

 思わずごくりとつばを飲みこんだ。立派な巨乳じゃないか……。

「デートの約束はした?」

「できるわけないだろ」

「彼女の事務所、別に恋愛は禁止してないそうよ」

「……そうだったのか」

 思いきって誘ってみようか? いやいや待て待て、千雨の言う通りにはならないぞ!

 我に返った俺は手にしたブロマイドを突き返す。

「それよりポチだ。早くポチを返せ!」

 千雨は片手でブロマイドを受け取りつつ、もう片方の手でスマートフォンをいじっていた。

「あったあった。この動画、亜坂ちゃんのアップが多めで可愛いわよ」

 と、画面をこちらへ突きつけてくる。

 俺はすぐに顔をそらした。

「見たくない……っ」

「そんなこと言うと、あんたのポチちゃんをもっとひどい目に遭わせるわよ」

「くっ……」

 一度閉じた目を開けてしぶしぶ動画に見入る。陽の光の下、亜坂さんがメンバーたちとはしゃいでいるミュージックビデオだ。一部では水着を着用していて、彼女の豊満なおっぱいが嫌でも目に入る。

「こ、これは卑怯だ……」

「可愛いでしょ? さあ、次の質問よ。亜坂ちゃんのこと、どう思ってるの?」

 視線を上げると千雨のにやにやした顔が見えた。くそ、ポチが人質にとられていなければ、こんなことには……っ。

 俺は恥ずかしいのをこらえて口を開く。

「す、す……」

「はっきり言いなさい」

 もうやけくそだ!

「好きだよ!」

「はい、よくできましたー」

 パチパチとわざとらしい拍手をして、千雨がスマートフォンをベッドへ放る。

「それじゃあ、ポチちゃんの様子を見に行きましょう。はたして、まだ生きてるかしらね?」


 洗濯機の前へ戻ると水責めはすでに終わっていた。千雨の手により、びしょ濡れになったポチ一号が取り出される。

「あらあら、瀕死ひんしのようね。千晴、亜坂ちゃんの好きな食べ物を教えてあげましょうか?」

 彼女の好物だと!? し、知りた……いやいや、そんなものは後からでもいい。

「別に知りたくない」

「それじゃあ、ポチちゃんがもっとひどい目に遭うわよ」

 言いながら千雨は歩き出し、居間から庭へ出た。

 むっとした暑さだけでも嫌なのに、直射日光がまぶしく辺りを照らしていた。

「吊り下げの刑よ」

 物干し竿にかけた洗濯ハンガーにポチ一号が吊り下げられる。

「ああっ、耳が!」

「ついでにこっちも挟んじゃいましょ」

「尻尾ー!!」

 両耳と尻尾を挟まれて吊り下げられたポチ一号は、いかにも痛々しくて見ていられない。

「っていうか、ポチが日焼けしちゃうだろ!」

「この暑さよ? 三十分もあれば乾くんじゃなくて?」

 冷静に返されて言葉が出なくなる。今日はとてもいい天気だ、たしかにすぐ乾くだろう。

「くっ、卑怯な……」

 と、俺が千雨をにらんでいると部屋の方から声がした。

「何やってるの、二人とも」

 はっとして同時に振り返る。妹の万桜まおちゃんが不思議そうにこちらを見ていた。

 俺たちは真顔になって返す。

「千雨が僕のポチ一号を洗ってくれたんだ」

「せっかくだから人質事件にしてみたの」

「……お姉ちゃんたち、たまによく分からないことするよね」

 万桜ちゃんは苦笑いを浮かべて言うと、すぐにどこかへ行ってしまった。

 ポチ一号はその名の通り、俺が小さな頃から大事にしているぬいぐるみだ。大人になった今でも一緒にベッドで眠ることがあり、すっかり汚れてくたくたになっていた。

「万桜ちゃんに引かれた気がするわ」

「同感だね」

「亜坂ちゃんの好きな食べ物、教えてあげましょうか?」

「うっ……自分で聞くからいいです」

「それなら、ポチちゃんをもっとひどい目に」

「ああっ、ポチー!」

 こうして暇な双子による人質事件ごっこは続くのだった。

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