靴のジンクス
鈴ノ木 鈴ノ子
靴のジンクス
一緒に暮すようになってから何年が過ぎたのだろう。
いつも通りに自宅マンションの一室の玄関で靴を脱ぎながらふとそんなことを考えてしまった。玄関の壁に釣り下がったコルクボード、そこに2人で撮った写真がいくつも画鋲で脈絡もなく、ただ不調法に、ところどころ幾重にも重なりながら飾られていて、その厚みに思わずそう考えてしまったのかもしれない。
胸に靄が掛かり、やがてそれが苛々へと変化していく。近くのスーパーで買った食材入りのエコバックを上がり框近くの廊下に無造作に投げて、うわっと声を上げて慌てて中身を確認した。
卵が特売だった。
だが、残念ながら一パック120円は60円分を砕け散らせていた。タイムセールで戦って手に入れたというのに……と考えると更に苛々が募る。
写真で笑う彼の笑顔が無性にムカついて思わず指先でそれを弾いた。
「いつまで待たせる?」
靴を脱ぎ、いつもの通りに靴拭きで汚れを拭ってから下駄箱の定位置へと納めた。
指先で跳ね飛ばしてやった彼、源一郎が私のために仕立ててくれたオーダーメードの革靴、それ以外にも数足を作ってもらったが、始まりの一足で、この靴を履いていると営業の仕事が何故か上手くいく。
ここぞの一番勝負の時には欠かさずに履いてゆく魔法の靴。
そして、出会いの靴。
『あの、初めてなのですけど、靴を仕立ててもらえませんか?』
『ええ、靴屋ですからお任せください』
駅ビルの商業誌施設内の角、ちょっと薄暗がりに源一郎の構える小さな店があった。
【靴屋 Jane Doe】
いかにも怪しい店舗名、駅ビルの看板を何気なく見ていて気になって入ってしまった。2,3度ほど冷やかし客のように立ち寄り、ショーケースに飾られた見本に魅入られてしまえば、当たり前のように4度目の来店で心は決まった。
スーツ、いや、執事姿と言った方が板に合うだろうか、それが店主の源一郎だった。
あの頃は気難しそうで仏頂面、とても接客なんてできやしないんじゃないか、と思えるほどの形相に私は内心怯えてしまっていた。
[お前なんかが来るところではない、とっとと帰れ]
聞こえてもいない声が頭に響く。
『では、こちらへお座りください、どのような靴が良いか、お伺いいたします』
ロココ調に統一された店内の作りに良く似合うアンティークの椅子、源一郎が右手で進めてくれたので、私は慌ててその椅子へと腰かける。
どのような目的か、どのようなスタイルが良いか、などなど、専門用語を交えずの説明を聞きながら、拙い知識と分からないなりにも要望を伝えてゆく。「お任せで」と口走るものなら「二度と来るな」と店から叩き出されそうなほどに真剣な眼差しが私を貫いて、背筋を伸ばし、そして両手を拳にし、まるで就職面接の椅子に座った姿は今思い出しても滑稽だと失笑が込み上げてくるほどだ。
『では、足を見せて頂きますね』
そう言って目の前で急に源一郎が屈む、少し頬のこけた細面の顔、何とも言い表せぬ魅惑の色香を放つオールバックで整えられたの黒髪、が眼下の足元にひれ伏すようにあって、急に恥ずかしくなる。
『じ、自分で脱ぎますから』
『いえ』
足元を見ていた顔が上目遣いで私を見上げる。その眼光に私は逆らうことなどできなかった。
『よろしい、では、そのままで』
学校の校長先生にでも諭されているかのような言い回しで、履き込んだ私の靴を両手で優しく脱がし、そして靴下をすっと下ろしていった。ひんやりとして優しい手つき、ゾクゾクっとした感触に背筋が震えた。
『あの、汚いですから……』
『気にしません、なるほど、綺麗な足ですね、爪も爪先も整えられている』
右手で土踏まずを支えられて、私の足を左手がすすっと撫でるようにして形に添ってなんども走り、その何とも言えない感触に心臓の鼓動が増してゆく。
私の顔は日が噴き出るほどに真っ赤に染まっていただろう。
足を眺めた源一郎が上目遣いに少し微笑みながら見ているのを、ただ、恥ずかしさに耐えて、早く終わればいいのにと拳を更に強く握っていたのだった。
『平日の昼間に来店できる時間はございますか?その際に採寸などを行わせて頂きます』
『は、はい』
数秒が数時間になった後の言葉に回らぬ舌でそう返事をしていた。
その後はお決まりだった。何度か通い、靴を仕立てて貰う。
手入れを教えてもらうための理由で店を訪れて、やがては関係を育んでいった。
もちろん拒絶はされなかった。
あの優しい手つきで数多くの事を教え込まれて、今に至る。
でも、そろそろ、先のことを考えていきたい。
エコバックから割れた卵だけを左手に持ち、鞄とエコバックを右手に持ってキッチンへと向かう。確か冷蔵庫に鶏肉があったから今夜は親子丼にしようと決めて卵を流しへ置いた。
あれから2時間、眼前には出来上がった親子丼とお吸い物が二人分、食卓の上で湯気を立てている。時計は21時を過ぎるところで、もう少しすればきっと玄関が開く音が聞こえてくるはずだ。
「ただいま」
ガチャッと音が聞こえて源一郎の声が聞こえた。ほっと心を撫で下ろして私は玄関へと出迎えに向かった。
「おかえり、親子丼、できてるよ」
「ありがと、腹減ったよ」
あの頃の仏頂面ではない、写真と同じ素敵な笑みがそこにあって私の口角もすぐに弛む。
「ご飯食べたら、少し話しがあるんだけど……」
「おお、俺もだ、ちょうどいいタイミングだな」
そんなことを言った源一郎は靴を脱ぎ同じように汚れを拭きとってから靴箱へとしまう。私が寝静まってから源一郎は私の靴と自分の靴を毎日磨いてくれるのだ。
「ちなみにどんな話?」
「食事のあとでいいだろ?」
「今、聞きたい」
「しょうがないな」
廊下を私の方へ足早に向かってきた源一郎の勢いに押されて、思わず背中を廊下の壁にぶつけてしまう。ドンっと源一郎の腕と手が私の頭上の壁に当たりもたれ掛かるような姿勢になった。
「な、なに」
真剣な顔が覗き込んできた。目に靴づくりと同じ情熱の色が宿っていた。
「俺の店で働けよ。意味、分かるだろ」
「……うん」
軽く口づけされて源一郎の身体が離れてゆく。籠った熱をそのままにして。
「和巳、ご飯冷めるだろ、早く食おう」
「手を洗ってからだよ」
「分かった、分かった」
私はいつものように注意して気分を良くスキップを踏みながら食卓へと向かう。
魔法の靴のジンクスに今回も感謝して。
靴のジンクス 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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