第9話 噂の出所【1】

 久野くのたまにとって自分の部屋は、誰にも邪魔されない唯一の場所である。ここは、外の喧騒や日常の煩わしさから完全に切り離され、安心して過ごせる絶対的不可侵の領域だった。部屋のドアを閉めれば、そこからは彼女の時間だ。壁には、お気に入りの女性向けキャラクターのポスターがずらりと並び、穏やかな笑顔で彼女を静かに迎えてくれる。

 21時も後半に差しかかった頃、久野は食事を終えると、風呂に入って身体が温まった。湯船でしっかりと身体を温めたおかげで、風呂上りの身体からはまだ湯気が立ちのぼっている。勉強机に腰を下ろすと、鏡の前で櫛を手に取り、ゆっくりと髪をとかし始めた。

 静寂に包まれた部屋の中で、櫛の歯が通るたび、さらさらとした音が響く。

「んで、見つかったの ? ネズ太を改造したマッドサイエンティストってやつ」

 髪をとかしながら久野は、不意にネズに呼びかける。

「いやまだや」とばつが悪そうに目を逸らした。ネズ太は自分を改造した者が学校関係者だと考えていたが、いまだ決定的な手掛かりは掴めていないようだ。

「本当なの? 学校にマッドサイエンティストがいるって話」

「間違いないとは思うんやけどな」

「なんかないの? その人の特徴みたいなの? 実験室で改造されてたんだよね?」

 久野は鏡越しにネズ太をじっと見つめる。

「うーん、実験室は薄暗くてあんま見えんかったんや。あっ、でもな、そういえばポスターが貼られとった気がするわ!」

 ネズ太は思いだしたのか、パッと表情を輝かせた。

「そうや! お前さんの部屋に貼っとるあのキャラ、あれとそっくりのポスターや!」

 ネズ太は興奮した様子で身を乗り出した。

「……は?」

 久野は一瞬動揺すると、鏡越しに自分の部屋の壁を見やった。そこには、イケメンキャラのポスターが微笑んでいる。久野は、あっちこっち泳ぐ黒目でポスターを見つめながら訝し気に尋ねた。

「ちょっと待ってよ……そんなことで決めつけられる? そもそも、腐女子なんて隠れているだけで腐るほどいるんだし、ポスターが部屋に貼られてあるからってBL好きとは限らないでしょ?」

「俺、なんもソイツが腐女子やなんて言っとらんで……」

 ネズ太はじっと久野を見つめながら、得意気に口を開く。

「お前さんが読んでる本、こっそりと読ませてもろたけどな……」

「ちょ、勝手に私の本を読んだの!? 」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする久野に対しネズ太は「まあまあ、そう焦んなや」と軽く手を振ってたしなめると、矢継ぎ早に言った。

「なんや、BL界隈には『受け』や『攻め』なんて概念があるんやろ ? でな、実験室でそんなんぶつくさ言っとるのを思い出したんや」

「えっ、じゃあさ……そのマッドサイエンティストってやっぱり腐女子?」

 久野は信じがたいといった表情を浮かべるが、一瞬浮かんだその可能性を否定するように首を振った。

「でも、学校ならなおさら隠すでしょ。そもそも見つかったとしても、その人がマッドサイエンティストって証拠はあるの? 」

 一人と一匹は首を捻って考え込んだ。部屋の中にしばらく静寂が戻ったが、その時ネズ太の頭にふと閃きが降りる。

「お前が図書館にいる俺を見つけたんはたまたまやったんか? それとも他に目的があって図書館に来てたんか? 」

「図書館の奥に極秘本があるって噂を聞いて、それが本当か確かめに行ったら、偶然ネズ太に会ったって感じ……」

「極秘本ってのがよくわからんが、それ以外は何となくわかったわ」

 ネズ太は眉をひそめながらも納得した様子で頷く。髪を櫛でとかし終えた久野は、振り返って尋ねる。

「それで、何か分かった?」

 ネズ太は眉を少しひそめて考え込んだ。

「いや、なんか出来過ぎやないか思ってな……。図書館の奥に極秘本ちゅうのがあって、そこはたまたま俺が拠点にしとった場所やろ? なんか不自然に出来過ぎやないか ?」

「まあ、偶然が偶然を呼ぶってことわざもあるし。事実は小説よりも奇なりとか、明日は明日の風が吹くとか。まあ、たまたまなんじゃない?」

「最後のはちゃうやろ……」

 ネズ太は呆れたようにツッコミながらも話を続ける。

「けど、その噂が広まった理由が気になんな。泉妻いずつま竹林たけばやしから聞いたって話やんな?」

 久野は思いだしたように顔を上げると、考え込むように少し俯く。

「そういえばそうだね」

「その噂、ただのゴシップちゃうんやないか? もしかしたら俺を改造したヤツも俺を探しとって、意図的に広めたんかもしれん。噂の出所が竹林やったとしたら、竹林が知っとるか、もしくは噂を最初に流したやつに近い人物かもしれんな」

「それなら、竹林さんに聞いてみれば、噂の元にたどり着けるかもしれないってことだね」

「そや。たぶんやが、実験とかに関わっとるやつが意図的に情報を流しとる可能性が高い。もし竹林に聞いてみれば、何かしらのヒントが得られるかもしれんな」

 ネズ太の口調は確信めいていた。

 竹林に関わると、何かと厄介ごとに巻き込まれることが多い――久野はそんな不安を抱えていた。竹林の無鉄砲さを知っているだけに、面倒な事態になる予感が頭をよぎる。それでも、事態を解決するためには避けて通れない。久野はため息をつきながら、意を決したように言った。

「まあ気乗りはしないけど、竹林さんに明日聞いてみるよ」

 部屋の中には、一瞬の静寂が訪れた。久野は椅子に座り直し、ぼんやりと鏡に映る自分の姿を見つめた。何となく気が重いけれど、これ以上進展しないままではモヤモヤする。

「……ネズ太も結構頭使ってるじゃん。やっぱりサイボーグネズミなだけあって、なかなか賢いね」

「そ、そんな褒めても、なんも出てこんで……」

 ネズ太は照れくさそうに頭を掻きながらも、少し得意気な表情を浮かべた。だが、その表情はすぐに冷め、目を細めて久野を見つめ、ぽつりと呟く。

「……まあ、俺がフォローせんと、お前さんすぐポカをやらかすからな」

「は?」

 久野は少しむっとしながらネズ太を睨んだ。だが、ネズ太は気にする様子もなく、不満を口にする。

「それと、前から言おう思っとったんやけど、俺はサイボーグやで? なのに、ハムスターのゲージに閉じ込められるんはおかしいやろ。人権じゃなくても“ネズ権”ってあるんやないか?」

 ネズ太は、久野がホームセンターで買った4,000円のハムスター用ゲージに入れられていた。中には回し車まで完備されており、ネズ太はその回し車に、まるでテレビの前でゴロゴロするお父さんのように寝そべっている。

「猫吉がいるって何度も言ってるでしょ ? あんた、あのとき襲われてたのを私が助けなかったら、今頃は猫の肥しになってたんだからね!」

 久野は手を腰に当て、呆れたように言い放つ。

「それはお前さんが戸締りを忘れとったからや ! ネズミにどうやってドア閉めろって言うねん!」

 ネズ太は小さな手をバタバタさせ、抗議の声を上げる。

 その瞬間、久野はふと妙案を思いついたように冷たく微笑む。

「じゃあ、明日から餌はキャットフードにするね。ネズミは雑食でしょ? 今まで私のご飯を分けてあげてたけど、それももう終わりだね」

「な、な、なんやて⁉」

 ネズ太は飛び上がって顔を青ざめさせる。ネズ太は一瞬固まった後、慌てて回し車から飛び降り、ゲージの中で勢いよく土下座をする。

「すんませんでした」

「じゃあ、文句は無しね。私が家主なんだから」

 ネズ太はしゅんとしながら、げんなりとした表情で呟いた。

「こんなことなら、もっと優しいお姉ちゃんに拾われたら良かったわ……」

 久野は悪戯っぽく目を細め、「猫吉~、おいで~」と、わざとらしく呼びかける。

 その瞬間、どこからともなく足音が聞こえ、鋭い視線を感じたネズ太は、ハッと顔を上げた。次の瞬間、ゲージの向こう側に黒光りする瞳がじっと見つめている。猫吉が、音もなく忍び寄り、ゲージ越しにネズ太を凝視していた。

 「にゃあ……」と低く唸り声を上げる猫吉。その瞳には確かに、狩猟本能が宿っている。ネズ太は一気に青ざめ、身震いしながらゲージの隅に後ずさった。

「ひゃああ! や、やめてくれ! 俺、そんな美味しくないで! 金属多めや!」

 久野はそんなネズ太の様子を見てクスクス笑いながら、「ふかふかのベッドで寝られると思ったのに、残念だね。猫吉がいるうちは無理みたいだよ」と、冷静に言い放った。

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百年の恋も冷める女子高生の日常 うみのほたるあらた @uminohotaruarata

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