『ラサンドーハ手稿』雑感
金魚術
『ラサンドーハ手稿』雑感
◯はじめに
「ラサンドーハ手稿」は、雑誌『文學界』2023年5月号「特集12人の”幻想”短編競作」にて掲載され、のちに『水都眩光 幻想短編アンソロジー』に収録された高原英理氏の短編だ。
Twitterでの高原氏の投稿による、本作への主な言及は以下の通り。
「題名は『サラゴサ手稿』完訳完結(注:岩波文庫版を指す)を記念しつつ意識したものですが内容的に共通するところはありません。この所こういう傾向のものは書かずに来たが、せっかくの特集なのであえて」(2023/4/7)
「当作品はひとまず完結していますが、いつかどこかで続きを発表できたらよいと思っています」(2023/9/25)
「時事性を離れ共感性を放棄し奇想と思弁に向かう非エンターテインメント作品は、稀にそれを発表できてもある程度の権威を得た作家によるものでないと主流文学界では無視される。その大きな欠落を埋めてきたのが翻訳作品だった。翻訳だと大きく飛躍した奇想小説多く刊行されまともに言及された。すなわち国内作家のシリアスな小説にはあまり許されなかった奇想の自由、実験的書法の自由が翻訳小説にはあった。「ラサンドーハ手稿」はそうした翻訳奇書を望んで書いた」(2023/10/19)
わずか10ページほどの作品であるが、Twitter及びネット上では「描かれる幻想的な風景と体験」「精神の迷宮を彷徨うように移り変わる視点の幻惑性」「あらゆるものの境界が溶けていくような味わい」「脱主体的な幻想のギミック」「人から人へ飛ぶ移るうち迷宮に閉じ込められるような感覚」「諸々の不可思議を聞くうちにふと”そこ”に焦がれる心地」「移り変わる視点が酩酊を誘い、場所、時間、自分と他人、全ての輪郭が曖昧になる」と概ね好評である。
一方、少数だが「結構主体を追いにくい話」との意見もある。
個人的な感想は「人から人へ飛ぶ移るうち迷宮に閉じ込められるような感覚」という感想に一番近い。「語りの揺蕩い」の幻想的効果について触れるコメントは複数あるが、「語りの揺蕩い」の構造の検討やその構造がもたらす効果射程について、もう少し踏み込んだ発言が見当たらないのは物足りない。個人的にはこの語りの構造そのものが、本作において重要だと感じたからだ。
そこで、ここでは備忘も兼ねて、本作について検討してみようと思う。
大前提として一個人の読後感なので、どこで誤読や浅い読み込みが露わになるかもしれないが、私と同じく本作の語りの構造が気になっている方がいれば一緒に悩もうぜ、の気持ちもある。
◯「ラサンドーハ手稿」で語られる物語について
語られる物語は大まかに、
今では消滅した東欧の小国グルーネージアの首都ラサンドーハにあるヴォフロ街の景色、夕方に現れ語りたがる様々な仮面の様相及び銀の仮面が語るムゼウーマ・モディリの話を、アルヴィラから聞いた「僕」(ウォルディグ)がバスで乗り合わせた少年に語る物語。
飛行船を用いた自殺を計画した自殺志願者が、計画通りに飛行船でラサンドーハを飛び立つ。彼は海上の飛行船で眠り、夢の中で森(ムゼウーマ・モディリ)に辿り着く。そこにある湖で、彼は一旦は自己の意識の殻を破り他人の意識と溶けまじりかけるが、なんとか自己を取り戻して湖から出る物語。
湖から出た自殺志願者の意識がバスに乗っていたウォルディグの身体に入り込み、その身体に残ったウォルディグの記憶から、ウォルディグとアルヴィラの事の経緯を知り、またこのような意識の入り込みは過去にもあったのだろうと推測する物語
自殺志願者の意識となった夢を見た「わたし」が、「わたし」自身を見失っており、仮面となって語り、かつあの塔での記憶の続きを誰かに語ってほしいと望みこの文を残す物語。
となる。
◯「ラサンドーハ手稿」の語りの構造について
本作では、感想でもあった通り、語りの主体がすぐには分かりづらい。おそらく一読して語りの主体の関係を直ちに把握できた読者の方が少ないのではないか。そのすぐには分からない、靄の中で誰かが語っているようなその語りぶり自体が幻想的な効果を生んでいるのも間違いないが、実際のところ時系列・語り手が交錯する本作の語り手をどのように捉えるべきか。
第7節で明らかになる通り、それまでの全てが「わたし」が見ている夢だったので、語り手の不安定さは夢特有の現象を描写している。すなわち、夢の中ではストーリーが混線したり、夢をみる主体が自分自身から第三者へ移る・30歳の記憶を持った自分が17歳の体験をしているなどの矛盾を孕むケースはよく見られることである。
第7節で夢から目覚めた「わたし」もまた夢の中で湖に入り他の多くの意識と混ざり合った存在(ゆえに目覚めてから自己を見失っている)であり、多くの意識が次々と時系列関係なく記憶を語っているための混乱具合である。
という見方ができるだろう。ただ私は、結論としてこのようになるとしても、時系列や語り手の行き来については、その構造を検討してみる価値があると思う。結論として夢だから、混沌とした意識の語りだから、となるとしてもあえて点検してみたい。曖昧具合そのものに何かの発見があるかもしれないから。
いずれにせよこの混乱は無意識になされたものではなく、作者の意図が働いていることは明白だが、まずは語られる内容ではなく、語られ方を見ていきたい。
◯「ラサンドーハ手稿」の語りの構造
作者は本作について『サラゴサ手稿』とは関係ないとしているが、語りの構造については類似が認められる。いわゆる入れ子構造の枠物語と言われる構造を取っているからだ。
『サラゴサ手稿』では、登場人物のアルフォンスが、スペインのある山中で迷い込み山中で出会う人物の話を聞くというスタイルで話が進む。要するに
・「「「Xとの恋愛を語るAの話」を語るBの話」を語る族長の話」を聞くアルフォンスの話
といった物語の構造が取られる。
ちなみに、族長が以上のような入れ子構造で語る一方、彷徨えるユダヤ人も同じ構造でアルフォンスに物語る。読んでいると、自分は今、誰が語るどの話を聞いているのか次第にぼやけてくる。物語と物語が組みなす迷宮に迷い込んだ感覚になる、といわれるが確かにそういう読み心地になる。
それはともかく。
採用された入れ子構造によって語られる、第2節から第6節前段(「夢に湖を見た」から「湖の中で溶けてしまった人がいるのだと思った」まで)までに現れる物語の構造は、概ね以下の通りと考えられる。
A:「「「湖の夢での出来事を語る『自殺志願者』の話」を語る『銀の仮面』の話」を語るアルヴィラの話」を語る『僕』の話
この枠組み自体も「一読後振り返ってみれば」であって、読んでる最中は、語り手の情報が常に後段に回されることもあり、誰が語っているのか不明のまま語りに耳を傾けることになる。とは言え、ここまでにおいては、真の語り手は、「僕」だと認識して読者は読むことになる。
ただし、このように整理される枠構造は、第6節後段(「ここで目醒めると、私は、青年の身体と、そして彼の記憶を持って、エルバニアの都市フラフスの中心街へと向かうバスの中にいた」以降とする)が始まると修正を迫られる。
「銀の仮面」の語る物語中の人物だった「自殺志願者」が真の語り手と目していた「僕」の地位を簒奪し、この後は第6節自体が「僕」の身体に残った記憶を「僕」となった「自殺志願者」が回想する話となる。とにかく「僕」の名前さえも明らかになるのは「自殺志願者」が地位を簒奪してからなのだ。
B:「「「「湖の夢での出来事を語る『自殺志願者』の話」を語る『銀の仮面』の話」を語るアルヴィラの話」を語る『僕』の話」を回想する、意識が「僕(ウォルディグ)」から「自殺志願者」になった青年の話
この変化は入れ子が一層増えただけ、とはならない。新たに真の語り手の座を得た「自殺志願者」はそもそも「銀の仮面」が語る物語の登場人物に過ぎなかった。ここで物語の構造は、物語られる客体が語る主体を脅かす。
また、第7節に入ると、第6節までの一切が「わたし」が「自殺志願者」として見た夢だったことが明らかになる。
C:「「「「「湖の夢での出来事を語る『自殺志願者』の話」を語る『銀の仮面』の話」を語るアルヴィラの話」を語る『僕』の話」を回想する、意識が「僕(ウォルディグ)」から「自殺志願者」になった青年の話」の夢を見た「わたし」の話
真の語り手の地位は「自殺志願者」から「わたし」へと移る。
この「わたし」は「私」という一人称を使う「自殺志願者」「銀の仮面」ではなく、「僕」という一人称を使うウォルディグでもない、無名の新人物だ。
しかし夢で見た物語以外の自己を見失った「わたし」は(なぜ自己喪失したのか。これは「わたし」もまた湖の中で解体され混じり合った意識であるためとも理解できるが確定的ではないとしか言えない)、
「仮面のわたしは語る、遠い、白銀と闇の街。自殺しようとした男性の記憶。亡命しようとした若い女性の記憶。必死に助けようとする、隣国の青年の記憶」
と語り、この「ラサンドーハ手稿」という文を残し、「わたし」という真の語り手の地位から、物語の中で語る「銀の仮面」という客体の一つへと転落してしまう。
なおここで「わたし」が転落した「仮面」が「銀の仮面」かどうかという疑義も生じうるが、この「仮面」が語るのがラサンドーハの記憶であることから、私は「銀の仮面」であろうと考えた。
D:「「「「「「湖の夢での出来事を語る『自殺志願者』の話」を語る『銀の仮面』の話」を語るアルヴィラの話」を語る『僕』の話」を回想する、意識が「僕(ウォルディグ)」から「自殺志願者」になった青年の話」の夢を見た『わたし』の話」を文に残し、かつラサンドーハについてヴォフロ街で語る「銀の仮面」の話
これもまた入れ子構造の層が一層増えただけとはならない。増えた層の語り手は既に物語られている話の客体であり、語る主体が語られる客体へと後退・転落している。そして「銀の仮面」はアルヴィラに語り、アルヴィラはウォルディグに語り…と物語は円環を描き、真の語り手という存在自体がこの円環に飲み込まれてしまう。
◯語り手とは何か
ところで、物語においては、物語の構造中での主客転倒などはあっても、最終的には「読者(真の聴き手)ー真の語り手」(読者ー作者、読者ー一人称の語り手)に収束するものと考えられれる。たとえ真の語り手がいわゆる「信頼できない語り手」であっても、その虚実入り混じった語りからしか読者は物語を知り得ない。ということでこの「読者ー真の語り手」は入れ子構造の物語中で「聴き手ー語り手」の関係が相対的なものに過ぎないのに比べれば絶対的・特権的な地位を有することになる、ととりあえず考えることにする。
本作では、読者である私はまず少年とともに「僕」の話に耳を傾ける。その後「僕」の地位を簒奪した自殺志願者の説明で登場人物を理解する。それら一切を夢に見た「わたし」に寄り添いヴォフロ街を彷徨い、最終的に真の語り手と目した「わたし」は「銀の仮面」へと転落し円環に飲み込まれるのを見送り、途方に暮れる。語り手の揺らぎ、簒奪、転落は、関係の直結している聴き手の地位をもまた揺さぶる。取り残された不安。あるいは語り手とともに物語中へ転落する不安。強固な土台だと思っていた立ち位置が、意外にも簡単に消え去りかねない不安。
ここに私は、「聴き手=読者」への作者の警告、忠告、宣告を見る。
物語の聴き手という安全な地位にいると思っている読者へ、物語の語り手を見失っていないと思っていますか?聴き手としての地位は脅かされない・物語に飲み込まれない立場だと安心していて大丈夫ですか?というメッセージ。
私たちは現実世界で、自分という物語、家族、親、子であるという物語、共同体という物語、さらに国という物語を体験し、語り、あるいは見聞きする。そこであなたは、時に語り手として、時に聴き手として、そこに安定を見出していて大丈夫ですか、飲み込まれてませんか、見失ってませんか、という警告である。
物語はいとも簡単に語り手の地位を簒奪する。また、語り手は自ら物語中へ転落しうる。
「場所、時間、自分と他人、全ての輪郭が曖昧になる」という本作の感想を引用していたが、ここではただ境界が曖昧になるだけではなく、互いに相手の立場を奪い奪われ、あるいは自ら転落していくという、危険な曖昧さを生じてもいる、と考られる。
ここから先は、小説の感想の枠を越えた、私的な思い入れ、妄想、牽強付会な話になるかもしれない。それでも述べておきたい。
本作を読み終えた直後の混乱からしばらくして、次のように考えた。
まず連想したのは『帰ってきたヒトラー』という映画だ。この映画では、第二次世界大戦当時から現代へタイムスリップしたA.ヒトラーが、初めは現代の「ヒトラー・コメディアン」としてヒトラーの時代錯誤な言動がコミカルとして人気を博していく。しかし次第にその言説はコメディではなく真面目な政治主張として(特に実際のヒトラーをよく知らない層に)受け入れられていき、その人気の危険さにようやく気がついた売り出し人が何とかしようとするが時既に遅く、逆に売り出し人の方がA.ヒトラーやその現代の取り巻きによって排除されてしまう。映画ではその先には触れていないが、先行きが明るいものでないことは明白だった。
あるいは、本邦のオウム真理教事件。選挙に立候補し奇怪な選挙活動を行う彼らを、多くの人は冷ややかに、あれはあくまで一部の人たちの閉鎖的世界と見ていた。しかし実際には、オウム真理教という物語には理知的であって然るべき人たちが多く取り込まれていたし(一部知識人も当時は彼らの教祖の人物像を持ち上げていた)、彼らはサリン事件において閉鎖的な物語から現実世界へと凶悪な形で抜け出してきた。
あるいはアメリカのトランプ前大統領。彼は選挙活動中に良識的なアメリカマスコミからは酷く叩かれ、彼の物語は荒唐無稽であると断じた良識的なアメリカ人の判断とは裏腹に、選挙という現実はトランプを大統領としたし、今般、改めて出馬している大統領選でも、当選の可能性が高いという現実がある。
「ラサンドーハ手稿」。このような幻想的で美しい物語について、作者がそのような社会的・政治的メッセージを込めているとは考えにくい、あるいはそのように考えることは物語の美しさを損なう、という意見もあるかもしれない。私もそうかもなと思う。
しかし、物語が、語り手の地位を簒奪しかねない力を持ち、語り手とはふとしたことで(それこそ一瞬の夢で)その地位から物語の中へと自ら転げ落ちかねない。聴き手もまたそのような語り手の揺らぎから完全に独立していることはあり得ない。そのことに無自覚でいると、ある日あなたは突然に、凶悪な物語に自身が既に飲み込まれていることに気付く羽目に陥るかもしれない。
××論を嘲笑っていた人がいつの間にか××論を語っているかもしれない。自分には無関係だと思っていた△△論が、いつの間にか世の趨勢になっているかもしれない。物語には良くも悪くもそのような力があり、我々はそのような力に無自覚のままではいられない事態は起こりうる、と本作が語っていないと言い切れるだろうか。
◯分からなかったこと
備忘に。
・第7節の「少し前まで、何かに懸命になっていた。過去? だが遠い先に、そこに、誰かがいる。先に、そこはわたしの消滅した先だ、ならそれは他人の過去だ。他人の記憶。それが今は慕わしい」の意味するところは何か。
・第7節の「ラサンドーハ、そこにあるすべての記憶を誰かに伝えたいと思った。「聞いてくれ」と寄りすがる、仮面たち。仮面のわたしは語る、遠い、白銀と闇の街」において、寄りすがる仮面たちを見ているのは「わたし」で直ちにその仮面の一人に「わたし」もなったと解釈して良いか。寄りすがる仮面を「わたし」は見、かつ寄りすがる仮面も「わたし」であるという語り手・聴き手の一瞬の重複からの「わたし」の仮面への転落と見て良いか。
最後までお読みいただきありがとうございました。ご意見お待ちしてます。
『ラサンドーハ手稿』雑感 金魚術 @kingyojyutsu-mi
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