明日からは友達
ヤスダトモキ
本文
今日、私たちは別れた。
なんてのはかっこつけで、みじめな見栄張りでしかなくて。
今日、私はフラれたのだ。
どうやって家に帰ったか覚えてない。が、とりあえず私は帰って、舞台のために散る黒い白鳥のようにベッドに身体を投げ出す。
こんな時ぐらい傷心の私を優しく包み込むように受け止めてくれてもいいというのに、安物のマットレスは私の体重を無慈悲に拒み、バネのゴリゴリした感触を私にめり込ませる。
作用反作用の法則――たしか一般教養の授業に聞いた言葉だ。この世界の物理法則を形作る未来永劫不変の法則のひとつ。押せば、押し返される、どんなときも、どんな場面でも。こんな気分の時ぐらい、少し融通してくれればよいものを。
指先からほんのりしびれた感触がする。そして、昨日まで絡め合っていた指先の先に何もないことを思い出して涙がこみ上げる。
虚空に投げ出された拳をグー、パー、グー、パーと泳がせる。
いつも傍にある割にまじまじと眺める機会なんてそうそうないが、改めて観察すると白くて細くて丸っこくて、なんとも弱っちそうな手だ。
私がいつも見ていた手のひらは、全ての指が私より一関節分ぐらい大きくて、関節のあたりがゴツゴツと出っ張っていて、そして何より分厚かった。
ひょろりと伸びた細長い背中に、申し訳なさそうにくしゃりと乗った黒髪と自信なく所在なさげな両目を繋ぎ止める黒縁眼鏡。その頼りない風貌に似合わない、男性らしさを香らせる手が大好きだった。
その明らかに不器用な右手が恐る恐るカメラをいじる様子をながめて、握って感触を確かめて、表面の温度が私の中に流れ込んで――そんな過ぎた時間を想う。
――明日からまた友達になってくれないか?
別れ際に彼の放った一言が反芻される。
――ともだち?
こいびとと、ともだち。
四文字中、四文字も違う。
その距離はとても近いようにも思えるし、隣の宇宙の出来事のようにも思える。
どちらの言葉も、お互いに宣言すると価値が薄れてしまいそうな、角砂糖のように甘くて脆い概念のように思える。
それでも、私たちはもともと友達だったと言ってよいと思う。
「隣の席は空いているかい?」
「ご勝手に」
大学入学したてのオリエンテーションでの、何の変哲も面白味もない言葉が私たちのファーストコンタクト。
山崎京介という男は、つまるところそんな男だった。
文学のぶの字もないような出会いの台詞を、それでも私は昨日のことのように覚えている。
その後、お互い映画が趣味ということが発覚し、なんとなく気が合っていつも一緒に行動していた――これも特別なきっかけではない。隣に座ったやつがオリエンテーションの自己紹介で、一言二言映画の話を始めたというそれだけの話だ。
おんぼろなサークル棟の、その更に隅っこを陣取る些末で小さな映画サークルに入ると、数少ない同期の一人として何かにつけ一緒に行動するようになった。使い古されてふにゃふにゃなったガムテープだらけの小道具のダンボールを運んで、足りないセットを買い足しに二人でドンキをさまよい歩いた。
そして、へとへとになった後は、安い缶チューハイを片手に彼の下宿先に転がり込んで夜通しヒッチコックだのキューブリックだのについて語り明かした。
時には、深夜の公園に繰り出して、カメラを片手に有名なシーンの再現をしたり、あるいは簡潔な映画もどきを作って笑いあった。
京介も私も、映画監督になりたいだとか、立派な評論を書いて注目されたいだとか、そんな大それた目標があったわけではない。ただ、カメラとそれが切り取る断続した映像の織り成す連続した物語が好きだったというだけだ。
フィルムの一コマにも入らないような名前のないちっぽけな物語に、私の心は間違いなく踊っていた。
私たちは友達だったと思う。
それでも、私は友達という言葉を受け入れることはできなかった。
この唯一無二の関係には名前なんてつけられないと、私たちは無邪気に信じていたと思う。
人生でこんなにも同じ気持ちを共有できる人間に出会えるなんてと感動したものだ。
それを最初に自覚したのはいつのことだろう。
居酒屋で見たばかりの映画――確か、アバウト・タイムだった――の演出について舌戦を交わしていたら、ついお酒が進みすぎて、仲良くトイレに駆け込んだ時だろうか。
真面目な議論の情けない結末に苦笑しあって、私は目の前の頼りない男となら、この名前のない日々が永遠に続くのではないか――そんなことを願い始めた。
昔から永遠という言葉が嫌いだった。
一秒先のことだって予想できない、明日大災害で滅びるかもしれないこの世界で、無邪気に永遠を語り合う言葉が全て上っ面に聞こえた。
中学時代、ずっと親友だよと宣言した同級生は、別の高校に進学してから疎遠になった。久しぶりに再会した彼女との会話は、お互いの変わってしまった部分を披露しあうだけのもので、昔のそれではなかった。
結婚式で永遠の愛を誓い合ったはずの八つ齢の離れた兄は、二年の歳月を過ごした後――それが長いのか短いのか、私には見当もつかない――結婚記念日に離婚をした。私が社交辞令で放った末永くお幸せにという言葉は、霧となって消えた。
そして、兄は新しく永遠の愛を誓う相手に出会って、新しい終わることのない愛を歩み始めている。
映画という閉じた時間の世界に惹かれたのもそういった動機だったかもしれない。
わずか二三時間程度の映像の中に切り取られた、その瞬間の集合の中だけに真実が宿る、閉じた永遠の世界に私は居心地の良さを感じた。
だから、私の目の前にふとぶら下がった永遠への欲望は、ガラス細工のようで、星空のように遠くまで光を届けそうに、すぐに壊れてしまいそうなもので。
学年が変わり、私が抽選に落ちて京介とは違うゼミに配属された時、透明なガラス細工の内側に見えないヒビが入った。
ある時から手にする世界全てを共有していると思っていた私たちに、互いが知らない世界の根が、別々の方向へと伸びていく。
やはり、永遠なんてものはない。残酷な現実が私の胸を刺す。
普段ならそこで諦めてしまうのに、今回ばかりは譲れなかった。
まだ、あの日々を続けていたかった。
永遠でなくてもいいから、少しでも長くと祈りながら。
その日、私たちはいつものように京介の部屋で酒を片手に映画を見ていた。
40年以上前の作品でやや画質の荒い、ぷっくりとした唇が印象的なダークブラウンの髪のハリウッド女優が激しい濡れ場を見せる映画だった。
そんな類のものは何作も二人で見てきたから、そんなもので今更動揺はしないけれど、40ミリフィルムが時を超えて、デジタルな液晶テレビの中で求めあっているこの一組の男女はこころなしか私たちに似ていた気がした。
さらに、この日は京介の古い友人が旅行のお土産で買ってきたという、いつもコンビニで雑談しながら適当に買い込む缶チューハイより何倍も強いウイスキーを飲んでいた。
何重にも張り巡らされた免罪符が私の理性を向こう見ずな方向へと押しやった。
一線を超えないことによって守られていた静かなそれを、私は指を立てて壊した。
私は友情を人質に京介を誘惑した。
酔いを言い訳に彼にもたれかかり、先ほど見ていた女優――のようにできたかはわからないが物欲しそうに唇を尖らせ、彼の瞳を覗き込む。
普段まじまじと見ることのなかった彼のやや色素の薄い瞳は、天井の照明を反射して琥珀のような光を放ちつつ、所在なさげにゆれていた。
その瞳が逃げないよう、彼の頬を両手で抑え込んで、正面から見つめ合う形となる。初めて触れる異性の頬の感触が思ったよりも柔らかくて、激しい愛しさが私を突き上げる。
ここで拒絶して、私のプライドを傷つけたら、二人の関係はどうなるだろうか。
これは夢だから大丈夫、二人ならすぐに元の関係に戻れる――そうささやいた時の私の影は、果たして天使のようだったのか悪魔だったのか、今となってはわからない。
最初はほんの火遊びだったのかもしれない。
それでも、一度ついた小火はただちに燃え上がり、私たちを焦がしていく。
築いてきた信頼関係を燃料に燃え盛る、愛のような何かのもたらす甘美な刺激は私の思考を鈍らせた。
炎はいつか燃え尽きる。その不安が私を更なる充足へと導いた。
私が黙ってもたれかかると、京介も一言も発さずに応じる。
こうして始まった二人の関係は、互いに名前を付けることを躊躇したまま数ヶ月続いた。
ただ、それはもう友達ではないことだけは確かだった。
――明日からまた友達になってくれないか?
再び京介の言葉が脳内でこだまする。
私たちの関係はある時点から変わったのではなく、グラデーションのように溶けあって姿形を変えてきた。
でも――きっと彼は気付いていないけれど――私が関係を壊すずっと前から、既に友達という関係は綻んでいたと思う。
果たして、京介はどの時点までのことを友達と言っているのだろう?
抱きしめるときの不安そうな顔を思い出す。
目の前にある体を穢していいのか――そう問いかけるような、不安げな顔が私を一層燃え上がらせた。
きっと、彼の中にはずっと罪悪感があった。
これでもスタイルや容貌には自信がある――それを見る周囲の下卑た視線を押しのけて、下卑た視線を自分だけが向ける優越感に浸っていたのかもしれない。
目先の幸福に溺れた私には、京介の中にあったであろう葛藤は窺い知れない。
否、わかっていた上でそれを壊す喜びに身を震わせていたのだろう。
私は永遠を欲する一方で、それが壊れていくさまを愛していた。
彼が葛藤すればするほど、それが私を大切に想う証のように思えて、もう一つの永遠を信じられそうになって、一筋の涙が頬を伝った。
「ねえ、デートしたい」
私がそう口にした時、既にもう後戻りなんてできなかった。
京介は黙って頷いた。
そして、私たちははじめてごく普通のデートをした。
前日に美容院に行ってパーマをかけなおし、この日のために降ろしたトレンド色のキャミソールワンピと、後輩から誕生日にもらったシックなデザインの星型のイヤリングを着けて、どちらの最寄りでもない駅で待ち合わせる。
ショッピングモールで陳列された小物を見て回りながら、小洒落たカフェで旬の栗をあしらったパフェを味わい、ゲームセンターでクレーンゲームに興じる。
そして、夕飯には予約しておいた人気のイタリアンレストランでワイングラスを鳴らす。
デザートとした出された洋梨の香りのするコンビニで売っているやつの半分もない小さなシャーベットを平らげて、あいつは困ったような、悲しそうな笑顔を浮かべた。
「楽しかったかい」
という京介の問いかけに、私は
「うん、嬉しかった」
と返した。
どこにもないはずだった私たちの物語は、どこにでもあるデートをもってその第一幕を閉じた。
その日から、京介は映画の話をしなくなった。
彼が寂しそうな顔をするたびに、私はありったけのキスでその不安を上書きする。
ほのかに桃の香りのするリップが彼の顔に塗りたくられると、困ったようにはにかみながら私の頭をくしゃりと撫でる。
そして、ありふれた永遠をうそぶく言葉をささやきながら、手のひらと手のひらを重ね合わせ、孤独な指たちをひとつひとつ、その感触を確かめながら絡め合う。
崩壊しつつある関係であることはわかっていても、湧き上がる情動が私たちの歩みを狂わせ、前進させる。
このまま、時が止まってフィルムの中に埋没してしまえばいいと、そんなことを想いながら、私は彼の体温を受け止めるのだった。
やがて、些細な理由から喧嘩をすることが増えた。
名前がついてしまった関係は、他人と比べることができるから、その常識から外れてしまうことですぐに壊れてしまうのではないかという不安が私を襲う。
壊すまいと必死に破片を拾い集めるたびに、その塔はいびつな形に変形していく。
前は映画の話で埋めていた膨大な時間を、間違えてはいけない綱渡りの空白が埋め尽くす。
就活が始まって、お互いの生活が否応なしに変化していくことも、そのほころびを助長させていった。
それでも彼は彼なりに懸命に答えようとしてくれた
だって――彼は優しかったから。
申し訳なさそうに、でも愛おし気に私の頭をへたくそになでるその手のぬくもりは、真綿の衣のように私を包み込んで、その感触に泣いたり笑ったりした。
「映画を見に行こう」
京介からこの提案があった時、私はその時が来たことを悟った。
崩壊を始めた塔は、もう手を付けられないがれきの山になっていた。
私は化粧をやめて、アクセサリーを外し、使い古したニットのセーターを着て、待ち合わせの場に臨んだ。
彼もまた、私の選んだ小洒落たジャケットではなく、出会った時と変わらない皺だらけのチェックシャツを身に着けていた。
この期に及んで同じことを考えたのがおかしくて、苦笑しながら二人で歩きだす。
それでも握った手を放すことはできなかった。
二人で選んだのはデートムービーとは程遠い、実親を殺す殺人者の物語だった。親を殺し、友を殺し、全てを失った男が血飛沫に見立てた水流の中で鼻歌を歌う、難解な、それでいて美しさを感じさせる作品だった。
私の好きな、映画の中でひとつの人生が開いて閉じる、孤独な物語だった。
かつてはあんなにも渇望していたのに、こういった種類の作品を見るのは久しぶりだった。
そして、映画を見た後は駅前の大手コーヒーショップに入って、映画の感想を語りあかした。
京介の感想も、おおむね私と似たようなものだった。
同じ内容が別の人間を通して語られるというだけで、なぜこんなにも心が躍るのだろう。
この瞬間が楽しいと思いたくないのに、心は水を得た魚のように活き活きとうたいだして止まらない。
ひとしきり笑った後、彼は切り出す。
「俺たち、終わりにしよう」
「……嫌だって言ったら?」
それは純粋な疑問だった。
「変わらないよ。いくらか日程が変わって同じ話をするだけだ」
「別にいいよ。私もそのたびに嫌だって言い続けるから」
そういうと、彼は答えに窮して、困ったように首をもたげる。
つくづく、愛おしいほどに愚かな男だと思う。
これしきの回答すら想定していなかったというのだろうか。
でも、その困り顔こそが、私の望んでいない結論を雄弁に語る。
「……わかった」
そう言って私は席を立つ。
これ以上、この場にいたら平静を保てそうになかった。
わかっていたはずのことなのに、準備していたはずのことなのに。
自分で言いつくろった永遠を誓う言葉に私の心は騙され続ける。
空虚なはずの愛を誓う言葉に縋りたくて仕方ない。
曖昧な抱擁で、手探りのキスで、もう少しだけ夢を見させてと願ってしまう。
「今日は楽しかったよ」
それでも、どうにか言葉を絞り出して、私は立ち去る。
ここで涙を見せてしまうことは、未練の上書きにしかならない気がしたから。
二人の間に決定的な証を刻んでしまうように思えたから。
だから、私は平静を装って二人の物語を終わらせる。
「なあ――永遠(とわ)」
その時、背後からガタンと椅子の揺れる音が聞こえた――京介だった。
振り返ることはできなかった。
もう一度彼を見たら、どんな感情が爆発するかわからなかったから。
「俺も、今日は楽しかった。本当に……楽しかった」
京介はたどたどしく言葉を紡ぐ。
そして、あの一言を放つのだった。
「だから――明日からまた友達になってくれないか?」
日も落ちて真っ暗になった室内。
窓から月明かりが差し込んで、テーブルの上に雑に投げ出されたトレンドカラーのコートが青白い光に包まれる。
無造作に積まれたつぶらな瞳をした猫のイラストがプリントされたチラシが、こちらを不安そうに覗き込んでくる。
心配せずとも、大丈夫ではないというのに。
――明日からまた友達になってくれないか?
京介の最後の言葉を声を出さずに何度も唱える。
私は、昔のように平気な顔をして彼の部屋に転がり込むことができるだろうか。
あそこには私たちが歩んだ痕跡が山ほどあるというのに。
少しくたびれた布団の匂いに、シャワーの熱。シェアしてコーヒーを飲んだマグカップの重量感。二つ並んだ赤と黄色の歯ブラシ。そのひとつひとつが私の細胞に刻まれている。
あれは全て夢だったとでもいうのだろうか。
友達ではありえない箇所に染み付いた私の残り香を、彼は捨てることができるのだろうか。
いや、できない。
京介はそんな器用な人間ではない。
だからこそ、今日、懇願したのだ。
昔のように気張らない格好で計画性の欠片もないスケジュールで、ぶらりと高尚そうな映画を見ていかにもな感想を述べあう。
京介と私が共に見ていたであろう永遠の景色は失われていないと、信じたいのだ。
彼の中でこれまでの日々は一つの映画だったと思い込もうとしているのだろう。
前も後もない一本のフィルムの中に隔絶された世界の一本のシナリオ。
そこに綴られるのは、友達だった私たちが道を間違えて元に戻るまでという、ひとつの物語。
私たちはそんな未来の出来事を封印して、過去へと戻っていく。
私たちは今度こそうまくやれるのだろうか。
二人で永遠を夢見ることができるのだろうか。
そんな折、古いアパート特有の隙間風が、開きっぱなしのカーテンを揺らした。
カーテンが揺らされ、これまで暗くなっていた机の一部分が月明かりに照らされる。
そこには一本の薄っぺらいDVDのパッケージが置かれていた。
嬉しいとも悲しいともつかない、金髪の男女の笑顔がプリントされている。細々としたフォントで記されたそのタイトルは――アバウト・タイム。
乾いた笑いがこみ上げる。
そうだ。私たちはどこかで間違ったわけではない――最初から間違っていたのだ。
きっかけなんてなんでもよかった。
ただ、ある時、その事実が明るみになっただけなのだ。
背を向けることは向き合うことと同じだ。
私はもう、私の嘘の正体を知っている。
それでも、過去に戻ろうというのなら。
壊れていないと言い張ったまま、時を止めようというのなら。
「いいよ。私たち――友達になろう」
明日からは友達 ヤスダトモキ @tmk_423
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