第4話 徐々に変化する小学校生活
小学校2年生になり、お世話になった人たちが次々といなくなりました。
登校班でいつも私を見守ってくれたお姉さんは卒業していき、中学生になりました。
沢山お世話になった担任の先生も変わり、また別の先生が担任になったのです。
その担任の先生もベテランの女性の先生でした。
確か、他の小学校から転任して来てすぐだったと思います。
だから、どんな先生なのか情報がほとんどありませんでした。
ベテランらしく厳しい先生でしたが、そのほかに縄跳びに力を入れるという教育方針がありました。
運動神経をどこかへおいて来てしまった私にとって、最初は縄跳びもほとんど出来ませんでした。
でも、何故か暫く練習すると、縄跳びだけはそこそこ出来るようになったのです。
逆上がりは相変わらずできなかったけど、縄跳びの二重飛びは出来たのです。
これは一体全体どうしたものか。
私は不思議に思いながらも、縄跳びだけは好きになっていったのです。
体育で好きな競技が出来るだなんて思いもよりませんでした。
苦手な体育で少し自信がつくと勉強にもいい影響が出ていきました。
少しずつ少しずつ皆に追いついていき、テストで100点も取れるようになっていったのです。
母は、幼稚園でひらがなくらい練習させておけば良かったと私の下手くそな字を見て思ったのでしょう。
私を習字に通わせてくれるようになりました。
習字を習う事で、字が上手くなるとノートを取るのが好きになっていったのです。
すると、勉強にも身が入っていき、落ちこぼれから脱する事が出来たのだと思います。
そして、習字に通うにあたり、友人も出来ました。
同じクラスで同じ習字教室に通う友人です。
学校が終わった後も遊ぶような友人が出来るだなんて、本当に嬉しかったです。
勉強や運動が少しずつ出来るようになっていったものの、小学2年生になった私には大きな心配事がありました。
それは、登校班です。
私が入っていた登校班は、中学校に行ってしまったお姉さんと私しか女子がいませんでした。
お姉さんがいなくなった登校班には、私だけが女子1人になってしまったのです。
弟が入学して来て同じ登校班に入ったものの、女子1人と言うのは心細かったです。
しかも、同じ登校班の男子はお調子者と言うか、私をからかって面白がるような子達でした。
登校班は1年間変わる事はありません。
翌年にはもしかしたら編成が変わるかもしれないと期待しつつ、1年間を過ごしました。
ですが、小学4年生になるまでは、女子1人と言う登校班が続いたのです。
まぁ、その頃には諦めもついていたのですが。
しかし、この登校班で男子にからかわれるような日々が続いた事は、私の性格を少しずつ変えていったのです。
小学3年生になると、また担任の先生が変わりました。
今度は、30代の男性の先生です。
今の時代では考えられませんが、この担任の先生は私達生徒を叱る時に、手をあげる先生でした。
私も怒られた理由は忘れてしまったのですが、1度だけげんこつで殴られたのを覚えています。
よく怒られていた男子などは頻繁にげんこつで殴られていたと思います。
これが今の時代なら体罰として絶対に許される事ではないでしょうが、今から30年も前だと当たり前にあった風景でした。
それに、この学年には私の担任の先生よりも厳しい先生がいて、もっときつい体罰があったと話に聞いたことがあります。
選択ミスだらけの私の人生ですが、この時この担任で、まだマシだったと言わざるを得ません。
さて、体罰を振るうからと言って、私はこの先生が嫌いではありませんでした。
基本的には穏やかで、授業も分かりやすい先生でした。
男性の先生らしく体育に力を入れていましたが、私もこの学年くらいからはそれなりに苦手な体育をこなす能力を身につけていったのです。
勉強は、習字のおかげもあり、ノートを綺麗に取るのが好きになり成績もアップしていきました。
小学校はテストが頻繁に行われていたので、100点を取る機会もとても多かったです。
そして、とても仲の良い友人も出来ました。
この時代、交換日記がとても流行っていました。
交換日記専用のノートがあってそれを2人で回して毎日交換し合い、楽しんでいたのです。
スマホも携帯電話も持っていない時代。
学校から帰って、友人の事を思いながら書く交換日記は本当にかけがえのない楽しいものでした。
大嫌いなマラソンもこの友人となら頑張れたのを覚えています。
マラソンはこの年の校長先生の教育方針で、取り入れられていたものでした。
グラウンドを何周走ったかによって決められたマスを塗りつぶしていくと言う、マラソン激推しの教育方針でした。
確か、全てのマスを塗りつぶし終えると、校長先生と握手が出来たのです。
正直、校長先生との握手など興味もなかったので、マラソンを休みたかったのですが、この時の私達はすっかり洗脳させられていて、マラソンを頑張る他なかったのです。
雨の中、傘をさして走った記憶もあるので、それだけマラソンに学校中で力を入れていたのでしょう。
友人は私よりも体育が出来たので、私に付き合ってマラソンをしてくれたので、本当にありがたい存在でした。
そんな友人に恵まれた小学3年生、私にとって劇的な変化がありました。
それは、学級委員長になった事です。
学級委員長だなんて、あの人見知りで内向的な私に出来るはずがない、そう思うでしょうが、本当に学級委員長になったのです。
勉強が出来るようになり、友人も出来て、運動もそれなりにこなせるようになって、登校班で男子からのからかいにも対応できるようになった事から、自分の中で自信がついたのでしょう。
私は、先生からの信頼も得て、学級委員長を3学期制の内の1学期務める事が出来たのです。
登校拒否をしていた小学1年生の自分からは想像が出来ない程の成長ぶりだと思えます。
何もかもが順調だと思えた小学3年生。
ですが、私はこの年に人生で1番の選択ミスを犯すのです。
それは、将来の夢についてです。
将来何になりたいかを考えた時に、小さい時にお世話になった病院の看護師に憧れていました。
また、自分の中で看護師がとても格好いい職業に思えていたのです。
なので、何の迷いもなく、将来の夢は看護師になる事だと決めていました。
もっと周りをよく見れば良かったと、この時の私に言って聞かせたい。
私はこの夢に縛られる形で、これからの人生の半分以上を苦しむことになるのです。
小学3年生の私には全く考えもつかない事なのですが。
そして、小学4年生になった私。
担任の先生は変わり、年配の女性の先生になりました。
この先生は体罰を振るう事はありませんでしたが、とにかく細かいことまで厳しい先生でした。
勉強、運動、生活態度などなど。
でもこの細かさが、私には心地よかったのです。
担任の先生を嫌う子もいた中で、私はこの先生の事が好きでした。
この先生が細かく勉強を教えてくれていたからこそ、更に勉強が出来るようになったのです。
クラスで1人だけ算数のテストで100点を取る事もあるくらい、勉強が得意になっていったのです。
4年生でも、学級委員長を経験し、幼少期からは考えられない程、はきはきとした性格になっていきました。
3年生の頃に仲の良かった友人とはクラスが別れてしまったので、新しい友人を作ることにしたのですが、去年の友人を越える友人を作る事は出来ませんでした。
きっと、学級委員長を務める事が出来るようになったとは言え、根本的な人見知りの性格は直っていなかったのだと思います。
それでも、楽しく小学校生活を送れていた私にとって、去年犯した選択ミスに気付くことは全くできませんでした。
選択ミスを繰り返す人生とは たかまつ瑞帆 @mizuho_11
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