あおの肖像

守宮 泉

あおの肖像

 ――ねえ、いいよ。

 本当に?

 ――あの子のそばで生きて。

 わたしでいいのか?

 ――私のために。お願い。

 それじゃあ。

 いただきます。

 

 そうしてわたしは、大田静になった。


 静の住むアパートは通りから少し外れたところにある。塀や垣に守られた住宅をほの青い街灯が照らす道を、フラットシューズで軽やかに歩く。電車の乗客を見たところ、彼女は人より少し大きめな体型をしている。力もそこそこあるようで、振り向きざまにすぐ後ろにいた男性を吹き飛ばしそうになった。あまり急な動きはしない方が賢明だろう。

 記憶整理は大方終わり、彼女がどういった感情を持ち、どういう原理で動いてきたのかを理解した。自分がどう思うかよりも、他人がどう思うかを尊重し、どれだけ迷惑をかけずにいられるかを基準にしているようだった。わたしの提案に乗ってきた理由も今なら分かる。大田静はいつも誰かのために生きてきたのだ。

 地球人は自己中心的な存在だと聞かされてきたわたしにとって、彼女は不可解な人間だった。彼女になれたことは大きな収穫だ。侵略するにしろ、友好を結ぶにしろ、まずは相手のことを知らなければならない。そのためには、地球人の言葉で、地球人として思考しなければ。そうでなければ彼らの優位には立てない。

 街灯を五本ほど通り過ぎた先で曲がった突き当たり、公園の隣に四階建てのアパートがある。エントランスに入ろうとして、背中にやわらかな衝撃を感じた。

「静! おかえり!」

 ぴよぴよ跳ねた毛先が腕をくすぐる。静とは反対に小柄な体躯を持つ人間が後ろから飛びついてきたのだ。

「もう、遅くなるんだったら連絡してよね」

「あ、忘れてた……」 

 わたしとしたことが、彼女の人間関係に目を配るのを忘れていた。初めて人間になれたことによる高揚感が思った以上にあったらしい。気をつけていたつもりだったが、確かに今の時刻は静の帰宅時間をかなり過ぎている。携帯式の連絡媒体、スマートフォンを確認すると、何件も連絡が来ていた。

「ずっと未読で……心配してたんだから」

「うん。ごめんね、穂乃佳」

「とりあえず入って。お腹空いてるでしょ」

 先を行く人間は、ルームメイトの目崎穂乃佳である。心配性で、静とは大学で知り合っている。静のことを誰よりも大切にしており、生活をも共にしている彼女の信用を崩してはならない。疑いの目は早めに摘んでおかねば。脳内にある類型を探したものの、帰りが遅くなったことは一度もなさそうだ。わたしは頭を巡らせる。

「静さん? 入らないの?」

「ごめん、私ったら、ぼーっとしちゃった。ただいま」

「ふうん」

 深い思考に入ると動きが鈍くなる。不便な身体だが、慣れるしかないだろう。靴を脱いでいる間も、食事の用意がされたテーブルについたときも、ずっと穂乃佳に見られている。怪しまれているのは間違いない。

「えっと、穂乃佳。先にお風呂入ってきていいかな?」

「どうして? 先に食べればいいのに。それとも何、やましいことでも?」

「そういうことはないよ! 断じて!」

 ああ、なぜわたしはこんな無駄な会話をしているのだろうか。それもこれも、静の気を遣いすぎる性格がいけない。持って回った言い方をして、相手から聞かせようとする。言っていいよ、という許可がほしいのだ。彼女もその性格に慣れっこなのだろう。結局は入浴を許してくれた。

「ふう……」

 大田静の痕跡をすべて消し、一息つく。あたたかなお湯につかりながら、わたしは手足の指を開いたり閉じたりしてほぐした。末端への指令も滞りなくできている。コピーはうまくいったようだ。

 問題の彼女への対処は、正攻法に決めた。疑り深いタイプに噓をつくのはよろしくない。さらに深掘りされて穴を突かれたら終わりだ。今日のことは素直に話そう。

 寝間着を身につけ、ぺたぺたと裸足でリビングに向かう。静は家では気を抜きたい人間のようだ。おざなりにタオルで髪をまとめ、食卓につく。なんだかふらふらしていると思ったら、お腹が空いていたようだ。事故に遭ったのが四時間前。一日三回エネルギーを補給すると考えると、遅すぎる食事だ。少し冷めていたが、静が毎日食べていたものと変わらない味だった。

 穂乃佳の姿はなかった。部屋の中はしんと静まりかえっている。どこかを走るバイクのエンジン音が長く尾を引いているだけだ。わたしはこの隙に部屋を大きく見回した。大田静の記憶と同じ配置で、家具と観葉植物たちが並んでいる。だが、わたしにとっては初めての景色だ。白米を一粒一粒並べてみたり、椀の底に残った味噌の欠片を集めてみたり。そんなことをしているうちに、視線を感じて振り返る。

 細く開いた引き戸の間から、穂乃佳がのぞいていた。わたしは目をぱちぱちさせ、声をかける。

「穂乃佳、何をしてるの?」

「……なんでもない」

 引き戸を全開にして、彼女は向かいに座る。怪しまれる行動しかしていない。わたしは内心びくびくしながらも、静お得意の曖昧な笑みを浮かべた。

「ね、今日は本当にごめんね。実は事故を目撃しちゃって、その証言をしに警察署に行ってたの。もう早く家に帰りたくて……連絡もしなかったから、心配したよね」

「事故? 怪我したの?」

 ガタンと音を立てて椅子をのけ、彼女は静の身体を横向きにする。あまりの勢いに、箸を取り落としてしまった。

「わあ、びっくりした。なになに?」

「怪我ないかだけ確認させてよ」

「私は遠くから見てただけだから、大丈夫」

 静の微笑みは彼女の鋭い瞳には勝てなかった。

「でも静さん、そういうの隠すときあるし。怪我ないかだけ見せてくれる?」

 手首を摑まれて、拒めるはずがない。わたしは彼女に圧倒されていた。一体この二人はどういう関係だったんだ。記憶を探れども見つからない。お互いに大切に思っているということ以外は。

「ちょっと穂乃佳?」

 がばりと寝間着をめくり上げられる。静は寝るとき下着は最低限しかつけない。むき出しの腹が外気に触れてこそばゆい。穂乃佳の視線はまるで肉食獣のように爛々と輝いている。わたしの心に恐怖が飛来した。静はこの視線を知っていたのだ。下着に伸びる手を振り払う。

「やめて!」

 右頬にぴりっとした痛みが走るが、気にしない。とにかく、視線から逃れたい。その一心でわたしはめちゃくちゃに腕を振り回した。

「やめてやめてやめて!」

「――っ静さん! 落ち着いて」

「私のことそんな目で見ないで! あなたは、あなたはそんなことしないと思ってた!」

 涙がぽろぽろこぼれ出す。わたしは静の記憶のままに言葉を紡いだ。何度も口に出した拒絶を同性に向けたのは初めてだった。彼女は本当に穂乃佳に心を許していたのだろう。きりきりとした痛みは記憶のものより強かった。

「そんなつもりじゃなくて、ただあたしは、あたしは」穂乃佳はずるずると床に座り込む。「静のことが心配で。心配なのは、でも、あたしが」

 俯いた顔はこちらからは見えない。穂乃佳も傷ついているのだろうが、それ以上に静の身体が動かなかった。震えているのはエアコンの風のせいだけではないだろう。心臓は大きく振動し、呼吸も浅かった。深呼吸、別のことを考える、目をつむる、どれも効果がない。静が発作を起こしたときの記憶は途切れ途切れで、回復方法が見つからない。わたしは穂乃佳に助けを求めていた。唯一頼れる人間は彼女しかいないからだ。だが、静は彼女を恐れ、憎み、拒否していた。どうしようもない。

 わたしは動かぬ身体を少しずつソファまで近づけ、なんとかもたれかかった。一度意識を飛ばした方がいい。そう判断して目をつむったが、結局一睡もできなかった。眠ったと思ったら悪夢がやってくるのだ。人間というものは難儀な生き物だ。暗闇と戦っているうちに穂乃佳の気配は消え、代わりにタオルケットに包まれていた。カーテンから日が差し込む頃、ようやくわたしは眠りについた。


 ばたん、と扉が閉まる音で目が覚めた。隣人が重力のままにするせいでこちらにも衝撃が伝わってくる、ということは知っていた。緩慢に身体を起こすと、もう日差しは弱まっていた。幸い、静の仕事は週休二日。今日と明日はゆっくり休むことができる。ばきばき鳴る関節を回しながら頭のタオルを取れば、あちこちに暴れた髪が四方八方に伸びていた。痛む頭を抱えてふらふらと冷蔵庫を開ける。エアコンがつけっぱなしになっていたからか、喉が渇いてしょうがなかった。麦茶は静の記憶より多い。彼女の顔を思い浮かべて、腕に鳥肌を立てる。いけない、静からまだダメージが抜けていないようだ。慌てて冷蔵庫を閉め、洗面所に移動した。コップが見当たらなかったので、両手で水をすくい、うがいをする。ついでに顔も洗っておく。

 顔を上げて気づく。頬に一筋の線ができていた。入浴の時にはなかったものだ。そっとなぞると、肌から少し盛り上がっている。かさぶた、という言葉が思い浮かび、わたしはリビングへと走り出た。電気をつけ、目がくらむのも構わずテーブルの下をのぞく。砂色の絨毯には染み一つない。わたしは心から安堵した。静の心臓の音がゆっくりと通常の速さに戻る。黒っぽい傷の上には、ガーゼのパッドを貼っておいた。

 ふと空腹を覚えて端末に手を伸ばす。今の静に外出する気力はない。かといって、穂乃佳を当てにすることはできない。宅配を頼むのが得策だろう。静好みの薄味のおかずが見つかればいいのだが。ロック画面に通知が来ている。穂乃佳からだった。再び心臓がドクドク血を送り出す。震える手を抑えてまでメッセージを開いたのには理由がある。"わたし"にとって、興味を引く文面が底には記されていたからだ。


『あなたは誰?』


 目崎穂乃佳は朝起きてすぐに近所のファミリーレストランに向かった。昨日は不可解なことがありすぎた。静が男性不信になっていることは知っていた。ストーカー被害に遭ったときに引っ越すよう助言したのは穂乃佳だし、学生時代に教授からセクハラを受けたと聞いたときには誰よりも怒った。住居を共にしている理由も、彼女のことが何よりも心配だからである。そこに多少の下心がない、とは言えないが。少なくとも、彼女の嫌がることは絶対にしないと決めていた。それが破られたのは、そもそも彼女の行動がおかしかったからだ。

 昨夜、彼女は定時で会社を出た。途中で書店とケーキ店に寄り、駅への道を歩いていたことは把握できている。ストーカーに遭ってから、穂乃佳は静の端末のGPSを追えるようにしていた。もちろん、彼女の合意は取っている。信号が途切れたのはそのあとだ。静が帰宅するまでの記録がなかった。彼女が寝ている間にこっそり確認すると、機能が切れていた。端末の電源が切れるとリセットされる仕組みが働いたようだ。彼女が自発的に電源を切る理由が見当たらない。これが一つ目のおかしな点。

 二つ目は、彼女が夜道を歩いて帰ってきたことだ。様々な被害に遭っている彼女は、遅くなったら必ず連絡を寄越す。駅まで迎えに行くのも穂乃佳の楽しみだった。だが、昨夜は一人で帰ってきた。こちらが戦々恐々と帰りを待っていたにも関わらず。そして、ケーキ店の箱を持っていなかったことが三つ目。他にも食事の前に風呂に入ったり、部屋の中をきょろきょろ見渡したりとおかしなところはいくつもあった。

 中でも一番おかしかったのは、彼女が発作を起こしたときだ。抵抗の仕方が、男に対するものとまったく同じだったのだ。静の頭は悪くない。ネイルをしている手をあんなに乱暴にはねのければ怪我をする、ということをわかっていたはずだ。案の定、彼女の頬に傷がついた。幸いかすっただけで血は滲む程度だった。青っぽく見えたのは気のせいだろう。穂乃佳の目には一瞬しか映らなかった。

 今家にいる彼女は、本当に静なのか。穂乃佳が知りたいのはただその一点だった。静が気まぐれを起こしただけなら身を引こうと考えていた。同じ性別とはいえ、邪推な心の持ち主が共に暮らせるとは思えない。今までが幸運だっただけで、これから何かが起こる可能性はゼロではない。今回のことでわかったが、穂乃佳の方が限界を迎えそうなのだ。その前に離れた方がいい。だが、もし彼女が静ではないのだとしたら。また別の選択肢が生まれるだろう。

「いらっしゃいませ~! お一人様ですか?」

「えっと、待ち合わせをしていて」

 穂乃佳は声を聞いた瞬間、身体ごと入り口の方向へ振り返った。高い位置で結んだ黒髪を揺らし、ふわりとスカートをなびかせて。陽気な店内音楽とは裏腹に、ゆったりとした足取りで彼女はまっすぐ歩いてきた。格好も歩き方もしゃべり方も、静だった。穂乃佳に気づいて困ったように首を傾げて笑うその表情も。ただ、頬に貼られたガーゼだけが店の明かりを受けて、白く輝いていた。

 あと一歩というところで、彼女の歩みが止まる。足元を見れば、カタカタと小さく震えている。顔も血の気が引いて青白くなっていた。

「ごめんなさい。その、まだあなたのことが怖いみたいで」

「わかってる。ゆっくりで大丈夫だから。そのことについてはあたしに責任がある」

 彼女はぐっと唇に力を入れ、最後の一足を踏み出した。継いでボックス席のカウチに倒れ込む。フウ、と深い息をついてのろのろと体勢を整えた。

「おまたせ」

「何頼む? 紅茶でいい?」

 彼女は穂乃佳の提案に頷く。飲み物の好みも変わらないようだ。間もなくポットに入った紅茶とソーサー付きのカップが運ばれてくる。彼女が一口飲んだところで、穂乃佳は話を切り出した。

「それで、来たってことはそういうことであってる?」

「……そういうことって?」

「ふざけないで。あたしの言いたいことわかってるんでしょ?」

 彼女はカップを置き、おもむろに砂糖を入れ始めた。スプーンでくるくる混ぜながら、じっとうつむいている。

「黙ってないでなんとか言って」

 彼女の態度にいらつきを抑えられず、穂乃佳はテーブルを指先で弾く。

「……少し、待って」

 そう言って彼女の手は紙ナプキンに伸びる。鞄からボールペンを取り出し、「YES」と書いた。それをこちらに向けてくる。

「まどろっこしい。別に盗聴なんてしないから」

「そ、そういうわけじゃなくて」

 声に波がある。はっと気づいて穂乃佳は指を止めた。静に言われて直した癖だった。

「はは、そんなところまで同じなんだ」

 穂乃佳が思わず笑うと、彼女は紙ナプキンを押し出してきた。どうやらこれが彼女の意思表示のようだった。

「ほんと、何から何まで静そのもの。で、静はどこ?」

 彼女はしばらく思案したあと、ボールペンで「I」と書く。続くのかと思いきや、そのまま突きつけてきた。穂乃佳は叫び出しそうになるのをこらえ、じっとアルファベットを見つめる。しかし、いくら見つめたところで答えは出せそうにない。情報が足りなすぎる。

「……昨夜、静に何があったの」

 穂乃佳の目はボールペンの先を追う。彼女はさらさらと「CRASH」と書いた。

「『CRASH』……事故?」

 再び「YES」の文字を返されて穂乃佳は充電ケーブルに繫がった端末に飛びつく。静の職場の住所、そして信号が消えた時間を入力し、穂乃佳の手が固まる。早く調べなかった自分を恨んだ。すでに答えはあったのだ。

「……静は、死んだ?」

 ボールペンの筆記音はしない。紙がテーブルをすべる音だけ、穂乃佳の耳に届いた。

 これは夢ではないとわかっていた。だからこそ、現実味がない。こんなことがあるはずがないのだ。こんな、都合のいいことは。

 穂乃佳は顔を上げた。紅茶のカップ越しに彼女と目が合う。静の瞳だった。

 穂乃佳の右手が目の前の頬に伸びる。逃げようとする彼女の肩を左手で捕まえ、勢いよくガーゼを剥がした。

 そこには青黒いかさぶたが、一筋。穂乃佳はそのまま爪を突き立てた。柔らかい皮膚の感触と共に流れ出した血は、青かった。

 ガチャン、とカップが床に落ちる。彼女は紙ナプキンをひっつかみ、店員がやってくる前にトイレに逃げ込んだ。穂乃佳はぼんやりと彼女がいた空間を眺めた。カウチには、静の鞄が残されていた。


 わたしはいつになく焦っていた。失敗例は学んでいたが、ここまで深い付き合いの人間に証拠を摑まれた例はなかった。しかもこんなに早く。あれを見られてしまっては言い訳のしようがない。あと一週間もすれば中身も擬態できるのに。穂乃佳の記憶を消す? 駄目だ、昨夜の記憶までは消せない。穂乃佳本人を消す? 駄目だ、リスクが高すぎる。静には他に当てにできる人間がいない。このままどこかへ逃げる? 駄目だ、静は一人で生きていけない。彼女の動向が見えない方が不安だ。

 トイレの個室で鳴り止まない心臓を抱え、わたしは傷口を押さえる。まずは血を止めなければ。彼女のことはそれから考えよう。

 息をついた瞬間、トイレのドアが開いた。コツコツとヒールの音がする。隣の個室に入るのであろうその足音は、なぜか静が入っている個室の前で止まった。コンコン。軽やかに二回、ドアがノックされる。

「ねえあなた、静で静じゃない誰かさん、聞こえてる?」

 わたしは目を見開いた。背中に汗がつう、と垂れる。

「あたしに協力してくれたら、静として接してあげる。だから出てきてよ」

 どういうことだ? わたしは彼女の言葉の意味がまるでわからなかった。大切な人を失った人間はその深すぎる喪失に耐えられず、あとを追う者もいるという。彼女もそう考えているのだとしたら、わたしはここから出るわけにはいかない。静として生きるためには、彼女の存在が必要不可欠なのだ。

「……しょうがないから、ここで言うね。あたしは、大田静が好きなんだ。さっきも、震えてる姿を見て興奮してた」

 途端に静の身体が震え出す。恐怖で声も出なくなる。

「気持ち悪い? あなたには言われたくないけど、あたしも異常なんだよね。正直ラッキーって思ってる。だってあなた、静になりたいんでしょ? そのためにはあたしが必要。違う?」

 まったく人間は恐ろしい生き物だ。すっかりわたしの考えが読まれている。わたしは静に呼吸を促し、続きを待った。

「だから、静があたしのことを愛せるようにしてほしいの。どんな原理か知らないけどさ、あなたが静になってくれてほんとよかった。静にはこんなことできないけど、あなたは静じゃないんだもんね?」

 足の向きが変わり、彼女がもたれかかったのか、ドアが軋む。わたしの中ではもう答えが出ていた。だが、どうしても身体が動かない。

「ねえ、出てきてよ。あたしもちゃんと愛すから。ね」

 彼女の声には悲しみがこもっていた。やはり、静の死に思うところはあるのだろう。わたしはドアの錠を開け、ゆっくりと立ち上がった。

「穂乃佳、開けるよ」

 わたしはドアに体重をかける。キイ、と音を立てて開いた先には。うっとりとした表情でこちらを見る穂乃佳の姿があった。

「ありがとう、静」

 にいっと笑みを浮かべるその手には、わたしの鞄。わたしはとことんついていない。随分厄介な、厄介すぎる人間になってしまったようだった。

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