第3話

 夕食後、おばぁが龍神池に飛び込んだ話をすると、父は何か思うところがあるようで、大音量でテレビの時代劇を観ているおばぁの背中を見やる。

「おじぃがまだ生きてた頃だ。二人は大喧嘩をして、頭に血が昇ったおばぁが結婚指輪を龍神池に投げ捨てたことがあった」


 父の話は初耳だった。私と母は顔を見合わせた。確かに、おばぁの薬指には結婚指輪が嵌まっていない。おじぃの指にも無かった。水仕事や畑仕事で邪魔だからつけないスタンスなのかと思っていたが、まさか夫婦喧嘩をして池に放り投げたとは。

「おじぃだけ指輪をつけているのも癪だと思ったのか、以来外してしまったと聞いた」


 ときに激しい喧嘩しながらも二人は添い遂げた。病院でおじぃが息を引き取ったとき、おばぁは涙を見せなかった。殊勝にも先頭に立ってテキパキと見送りの準備を始めたのを覚えている。七日焼香が済んだ後、父はおばぁがサトウキビ畑に身を潜めて嗚咽していたのを初めて見たそうだ。気の強いおばぁは誰にも弱みを見せたくなったのだ。


「おばぁは結婚指輪を取り戻したいの」

 私が問いかけると、おばぁはもう指輪の跡もないしわくちゃの左指をむず痒そうにさすっている。

 もしかしたら、記憶に残っているのは池への執着だけで、落とした指輪を探すという目的を忘れてしまったのかもしれない。おばぁはおじぃと喧嘩して指輪を池に投げたことを悔いているに違いない。


 開け放した窓からサトウキビ畑を渡る風が吹き込んでくる。今夜は星が陰るほど空が明るい。きっと満月が近いのだろう。

 ふとんに入ろうとして、スマートフォンの電源を立ち上げた。


 ―週末の予定はどう?返事が欲しい。

 ―休暇を取っていることを知らなかったよ。今どこにいるの?


 彼からのメッセージだ。返事をすれば、逃げられない現実が目の前に迫ってくる。今は何も考えたくなかった。

 家族に反対されたから婚約は無かったことにしよう、私は史生から引導を渡されるのが怖くて逃げているのかもしれない。

 結婚相手は同じ身分、つまり医者が良いと考える権威主義な母を温厚な史生が説得するのは至難の業だろう。思考の偏りはあれど息子を大事に想う母の姿に、史生と添い遂げる覚悟があると言い切ることが出来なかった自分の不甲斐なさを悔いている。

 身分や家柄が違っても本気で愛し合っているという美談に酔いしれていただけ、残酷な現実を突きつけられて太刀打ちできなかった私は自己嫌悪に陥った。


 私たちは試されたのだ。そして絆は案外脆かった。共通の職場で心ない中傷を受けたときも、史生に相談できなかった。何も知らない彼は仕事に没頭し、私たちは疎遠になっていた。休養のために実家に帰ったといえば、史生は安心するだろうか。それを言わずにやきもきさせる自分は姑息で卑怯だと思う。


 バッグの奥底にしまい込んだ青いベルベットの小箱を取り出した。箱を開けると、銀色のリングが薄闇に青白い光を放つ。私の薬指にぴったりの指輪だ。彼の家に挨拶に行ったあと、私は絶望のまま指輪を外して箱に押し込めた。冷たいリングに締め付けられた薬指が自分のものでない感覚に堪えられなかったからだ。


 箱にしまってからも指輪の存在は私を苦しめた。婚約を無かったことにして指輪を返してしまえばいいのに、それもできない。楽しかった日々は嘘じゃない、と信じたい気持ちから彼への未練が断ちきれない自分が情けなかった。

 おばぁも三十年も前に池に投げ棄てた指輪に取り憑かれている。婚約、結婚、指輪は人を契約という鎖で縛り付け、そして一生苛む。


 ふと、私は名案を思いついた。おばぁの指輪を龍神池から探し出そう。父に聞けば、指輪事件は三十年も前のことらしい。池の底に沈んでいるか、もしかしたら海に流されているかもしれない。見つかる確率は隕石が島に衝突する確率と同じだろうか。いや、北極星が流れ星になる確率と同じかもしれない。


 見つかるはずのない指輪を探すなんてまるでお伽噺のようだ。私はこのロマンチックなアイデアに思いのほか胸が踊った。

 負け惜しみでもいい、この帰郷はしみったれた傷心旅行にしたくない。故郷の友人たちにも帰郷を伝えていないので、何の予定もない。

 明日、龍神池でダイビングをしている和真に電話をしてみよう。ダイビングなど都会からやってきた若者たちのお遊びだと思って敬遠していた。しかし、池に潜るにはダイビングスキルを習得するしかない。

 私は逸る心を落ち着かせることに苦労した。その夜は目が冴えてなかなか眠ることができなかった。

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