第2話

「ゆっくりしな」

 母が和室にふとんを用意してくれた。

「自分でできるよ」

 そう言いながらも、母の優しさが沁みて密かに目頭が熱くなった。バッグに入れたままのスマートフォンを取り出すと、通知が入っている。


 ―ちゃんと話をしたい。週末会おう。


 ちゃんと話をしないからこじれたのに。私は苦々しい気持ちで冷たく光る画面を見つめる。少し考えたあと、電源を落とした。


 彼、坂本史生は二つ下の医師だった。大学から派遣され、野戦場のような救急センターでの仕事に寝る間も無く忙殺されていた。点滴指示のミスを私が指摘したことで感謝され、後日食事に誘われたのがきっかけだった。


 医者と看護師には深い溝がある。看護師に手を出すのは遊びと思って良いと同僚は口を揃える。付き合えない、と一度はきっぱり断ったが、彼は本気だと言った。

 誠実で、海が好きだという史生に好感を持った。都会の洗練された雰囲気と育ちの良さに引け目を感じることもあった。しかし、彼の優しさと熱意は本物だった。


 二年の付き合いを経て、結婚話を切り出された。史生の両親に会いに行くと、優雅な佇まいの母親に上品な口調で扱き下ろされた。つまりは、職業差別だ。彼は親を説得できていなかったのだ。これまで失敗の無い人生だった彼は戸惑い、私との間に溝ができた。


 よそよそしい空気から隠していた関係が職場で明るみに出た。上席に「調和を乱さないように」とお門違いの注意を受け、同僚は興味本気の噂話に花を咲かせた。

 私は職場に居づらくなり、退職を願い出た。人員が一人でも減れば病棟は閉鎖に追い込まれる。上席はやむなく私に有給を取らせることで妥協した。不本意だったが、一度冷静に考える時間があっても良いと思った。


 翌朝、誰にも行き先を告げず空港へ向かい、島への飛行機に乗り込んだ。

 枕元に置いたバッグの中には史生からもらった婚約指輪がある。アパートの部屋に置いたままにすれば、帰りたくなくなってしまう気がした。美しい輝きを放つリングは重苦しい鉛の塊のように思えた。


 翌朝、空は茫洋として青かった。庭の前に広がるサトウキビ畑がさわさわと風に揺られてなびいている。父は畑、総合病院をリタイアした母は介護施設のパートに出た。


 静かな家の中には私とおばぁだけだ。縁側に座るおばぁの背中は本当に小さくなった。肩でも揉んでやろうと近付いたとき、おばぁは縁側からストンと降り立った。そして、庭を抜けて歩き出す。


「おばぁ、どこにいく」

「龍神様」

 私は慌てて土間へ走って靴を履いた。力強い足取りで歩くおばぁはサトウキビ畑の中を分け入って進む。龍神池は逆方向だ。いつもこうして迷って、諦めてサトウキビ畑に立ち尽くしているところを発見されるのだ。池にそれほどに執着する何かがあるのだろうか。私はおばぁの願いを叶えてやりたいと思った。


「池はこっちだよ」

 おばぁの手を引くと一度は抵抗されたものの、ついてくる気になったようだ。

「おばぁ、なんで龍神池に行きたいの」

「おじぃが待ってる」

「おじぃはもういないよ」

 そう言うと、おばぁは黙り込んでしまった。亜熱帯植物の茂る獣道をくぐり抜けていく。腐りかけたあだんの実がごろごろ地面に転がっている。藪の中には大きなヤシガニが隠れているに違いない。


 緑のアーチを抜ける頃には潮騒が聞こえてきた。風は磯の匂いを運んでくる。古い東屋の向こうに丸い大きな池がある。龍神池だ。深さは五十メートルとも言われ、出口は海に繋がる。

 池は静謐な青い水を湛えている。神秘的な青は海の色、島ならではの特別な色だ。子供の頃に池の畔で遊んだ記憶が蘇る。落ちれば浮かんで来ないぞ、と父に脅されていた。


「おお、龍神様じゃ」

 おばぁは嬉しそうに海の底のような深い青色の池に手を合わせている。これで気が晴れたら、と思う。

「休憩しよう」

 私はおばぁと東屋の古びた椅子に座った。おばぁの好きな粒黒糖を包んできた。バッグの底を探っていると、ボチャン、と派手な水音が聞こえた。驚いて顔を上げるとついさっきまでそこにいたおばぁの姿がない。心臓がドクン、と跳ねた。


「あっ、おばぁ、おばぁ」

 おばぁが龍神池に落ちた。慌てふためいて辺りを見回すが、都合良くロープや木の枝は落ちていない。おばぁは池の中で手をばたばたさせている。飛び込んだところで引き上げる力はない。一緒に溺れるのが関の山。バッグの中を漁ってスマートフォンを取りだした。ああ、ここは圏外だ。私が池に連れて来たばかりに、とんでもないことになってしまった。


 ふと見ると、池の畔にご丁寧に靴が揃えてある。おばぁは誤って転落したのではない、自分の意思で飛び込んだのだ。

「おばぁ、大丈夫なんか」

「冷たいが気持ち良いぞ」

 悠々と泳ぐおばぁを私は唖然として見つめる。「おばぁは人魚のようじゃった」と酒に酔ったおじぃが惚気ていたのを思い出した。


 不意に、水面に気泡が生まれた。影が濃くなったと思うと、ダイバーが顔を出した。

「おい、大丈夫か」

 ダイバーは服のまま池で泳ぐおばぁに驚いて水中ゴーグルを外した。おばぁの身体を支えながら岩壁まで泳いできた。

「せーの」

「よいしょっ」

 青年がおばぁの脇を支え、私が腕を引っ張り上げる。おばぁは暴れもせず、おとなしくしていたおかげですんなり引き上げることができた。


「ありがとう、助かったわ」

 私は心底安堵し、大きな溜息をついた。

「あれ、真帆じゃん」

 名前を呼ばれて初めて気が付いた。褐色に日焼けした顔をよくよく見れば、高校まで一緒だった幼馴染みの男子の面影がある。

「島を出たって聞いたけど、戻ったのか。覚えてるかな、俺は仲地和真だよ」

 和真は龍神池に浮かびながらいたずらっぽい顔で笑う。

「帰省だよ。週末戻るんだ」

 戻る、だろうか。私は一瞬自分の言葉に引っかかりを覚えた。

「じゃあ、後でな」

 何が後で、なのだろう。私が尋ねる間も無く、和真は手を振って青い池の底に消えていった。

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