青の円環
神崎あきら
第1話
四角く切り取られた窓の向こうに紺碧の珊瑚礁が迫ってくる。まるで異国の青い絨毯のような海の色は、私に清明な郷愁を思い起こさせた。飛行機の乗客のほとんどは島外からの観光客だ。眼下に広がる途方もない海の青さに感激し、これから始まるバカンスを待ちきれず歓声を上げている。
三年ぶりの帰郷だった。故郷の美しい青は太陽を受けて鮮やかに輝き、変わらず私を迎えてくれた。
私は島で生まれて島に育った。看護師だった母の背中を追いかけて、同じ職についた。若い好奇心から島外の暮らしに憧れ、二十四歳でひとり島を出て、関西地方の中核都市に生活の拠点を移した。思い返すとその土地を選んだのは、島を離れても海が見える場所に暮らしたいという望郷にも似た気持ちが根強くあったからだ。港街の基幹病院に勤務して十年が過ぎようとしている。
此度の帰郷は惨めな現実からの逃避行だった。上席看護師に相談し、一週間の休暇をもらった。過酷な救急病棟のギリギリのシフト編成で、休みを取る暇など皆無だ。働き詰めで有給休暇は有り余っていたが、上席の渋い顔にこれ以上の無理は言えなかった。
飛行機のタラップを降りた途端、南国の極彩色と熱気の洗礼を受けた。モノトーンに沈んだ心に色が戻ってくるような気がした。
六月半ばだが島は梅雨空けを迎えており、太陽の日差しは肌を刺すほどに降り注いでいた。駐車場脇で待っていると、アスファルトに揺らぐ蜃気楼の向こうから白い軽トラが近付いてきた。
「ねーねー」
野太い声が聞こえた。弟の浩志だ。結婚して家業の畑を継いでいる。この秋には二人目が生まれる予定だ。順当な人生を歩んでいる、と思う。私がしがらみなく島を出ていけたのも堅実な性格の浩志が両親を安心させてくれたおかげだった。
「乗ってよ」
軽トラの助手席に座ると、マットにこびりついた赤土の濃厚な匂いが鼻腔をくすぐる。子供の頃、サトウキビ畑を駆けた記憶を呼び覚ます温かい匂いだ。鼻を刺激するアルコール消毒の匂いが掻き消される気がした。伸びきったシートベルトを装着すると、浩志はアクセルを踏み込んだ。
年代ものの軽トラはエンジン音を唸らせてヤシの並木通りを走る。熱気と湿気を含んだ空気、真っ青な空を焦がすような太陽の光。
島を出て初めて、ここは日本とはかけ離れた環境なのだと知った。
春植えのサトウキビの葉がゆらゆら風に揺れている。空に向かって一直線に伸びる県道を海岸線に沿ってひた走る。レトロな警察官人形の立つ曲がり角に差し掛かったとき、浩志がブレーキを踏んだ。窓から身を乗り出して大声で叫ぶ。
「おばぁ、こんなところまで一人で来たんか」
サトウキビの間にまるで精霊のようにおばぁが佇んでいた。
「ここ数年でだいずボケが進んでよ」
浩志が困った顔で溜息をつく。齢八十六歳になるおばぁは認知症だが若い頃に畑で鍛えた足腰は健康そのもの、気まぐれに徘徊しては家族を走らせているという。
「おばぁ、うちに帰ろ」
「おお、光子さんかあ」
おばぁは私の顔を見て、母の名を呼んだ。三年の月日は私の顔を忘れるには充分だったようだ。病院でもよく見る光景だ。数日の入院で身内の顔を忘れ、「あんたは誰だ」と言われてショックを受ける家族は多い。当事者になってみると、やるせない気持ちがよく分かる。
「違う、私は真帆よ」
「おお、真帆かぁ。お前どこに行っとったか」
私が家を出てどのくらい経ったか、時間の概念も欠落している。私は軽トラから降り立って、しゃがみこんでおばぁと目線を合わせた。間近に顔を見てようやく私が孫娘だと思い出してくれたようだ。
「一緒に帰ろう」
ここから実家まで歩けない距離ではない。私はおばぁとの関係を再構築するために一緒に歩いて帰ることにした。
「じゃあ、後でな」
軽トラはコンクリートで固めた埃っぽい道を砂煙を立てながら走り去って行く。
「おばぁは元気だったか」
「龍神様はどこだったかの」
辻褄が合わない。龍神様、とは池のことだ。おばぁは龍神池に行きたかったのだろうが、池は真逆の、海岸の方向だ。
「一緒に行こう」
認知症患者は彼らの意思を尊重することが大事だ。看護師になりたての頃、彼らの支離滅裂な言動に戸惑ったものだ。しかし、否定せず寄り添うことで気持ちが落ち着き、当初の目的を忘れて穏便になる。今は嘘も方便、おばぁを家に連れて帰らなければ。
おばぁの皺くちゃな手を取り、歩幅を合わせて歩き出す。思いのほか足が速くて驚いた。幼い頃、おばぁに手を引かれて夕暮れのサトウキビ畑を歩いたことを思い出した。畑で鎌を振るうおじぃを迎えに行くのが日課だった。
「おかえり、真帆。おばぁ、お茶が入りましたよ」
家に着くと、縁側から母が出迎えてくれた。おばぁは好物の黒砂糖の茶菓子に誘われて縁側に腰掛け、茶を飲み始める。
「あんた、痩せたかね」
「うん、そうかも」
母の言葉には心配の色があった。私はよほど憂いを纏っていたのだろう。久方ぶりに会う家族を心配させまいと思っていたが、故郷の空気に緊張の糸が解けてしまったようだ。
夜は母が郷土料理を振る舞ってくれた。職場近くの沖縄料理を出す居酒屋に行ったことがあるが、素朴な家庭の味には敵わない。ちゃぶ台を囲むのは両親と、橋を渡った本島に住む弟の浩志、おばぁと私。おじぃは私が大学生のときに亡くなった。
「おばぁ、大丈夫なん」
両親は三年のうちにやや老け込んでいるものの元気そうだ。気がかりはおばぁだ。
「普段は縁側で大人しくしとるが、何を思い立ったか突然徘徊するようになったんや」
徘徊といっても足で行ける距離は限られているし、この辺は車も少ない。近所の知り合いが見つけて連れてくることもある。さほど心配はしてない、と父は言う。
「それならええけど」
茶を啜るおばぁはどこ吹く風で、涼しい顔でテレビを観ながらカッカッと笑っている。
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