第5話
素晴らしき大家族に囲まれてはいるものの、その中での私の立場はただの出戻りだ。寝たきりの「大きいばあば」がいるので、どこへも出掛けられない。「大きいばあば」は自分の部屋で転んで大腿骨を骨折して以来、寝付いてしまったのだ。心臓が弱いし、高齢だから、麻酔に耐えられないかもしれないと医者から言われて手術はしなかった。だから骨がくっつくまでに時間がかかる。しかし病気ではないので元気だ。何時「おむつ」を汚すか判らないし、何時呼び出し鈴で呼ばれるか判らないので、外出が出来ない。「大きいばあば」が呼び鈴を押して私を呼んだ時、直ぐに階段を駆け上がって行かないと烈火のごとく怒り出す。でかい女と同じ「辰年」である。私は「八十六歳の寝たきりあばあさん」とよく喧嘩をする。それが元気の秘訣だ。枕元にあるタオルを投げつけてきたこともある。とても八十六歳の寝たきりおばあさんとは思えないファイトである。寝たきりではあるけれど、手は動くし頭はしっかりしていて何でも良く判る。だから尚更退屈で淋しいらしく、何も用がなくても何度も呼び鈴を押す。その度に私はバタバタ階段を駆け上がる。なぜ二階に居るのかと言うと、本人の気に入っている日当たりの一番良い部屋だし、下には「ひいばあば」がいるから、並んでおむつを替えるわけにはいかない。気を使ってゆっくり寝てはいられないのである。それに人が来ている時に、おむつを代えるのも臭いし可哀相だ。だから二階しか無い。ひどい時には、一日中呼び鈴が鳴っている。用が済んで私が階段を降りる、その途中でもう次の呼び鈴が鳴るのだ。「暑い」「寒い」「窓を開けて」「窓を閉めて」「窓を半分開けて」「窓から虫が入った」「背中をかいて」「向きを変えて」「もう一度反対向きにして」「おなかが痛い」「苦しい」「おなかを揉んで」「あなかがすいた」「足が痛い」「薬を塗って」「うんちが出た」「肩を揉んで」「お水をちょうだい」「お水をこぼした」「テレビをつけて」「テレビの音を大きくして」「チャンネルを変えて」「着替えたい」「髪の毛を切って」「あかあさんは、まだ帰らないか」「U太くんはどこにいる」「電話を掛けたい」「爪を切って」の繰り返してである。一度に言ってほしい。あんまり何回も鳴るので、知らんふりをしていると、「ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン、ピンコン」と私が行くまで鳴らしている。よくまあ、指が動くなと感心する。まだまだ元気だ。
しかし時々心臓の発作を起こして苦しむので、あまり無視も出来ない。そういう時は、冷蔵庫に忍ばせてあるニトロを口に含ませたりもしなければならない。こういう「ピンコン、ピンコンの日」の翌日は、呼び鈴が鳴ってもいないのに聞こえるような気がする。空耳で、私は階段を駆け上がってしまう。部屋に入ってみると「大きいばあば」はすやすやと良く眠っている。前の日にあまり、あれやこれやと言うものだから自分がくたびててしまっているのだ。時間にも厳しくて、食事は五分遅れるともう呼び鈴で催促である。台所で食事の用意をしている時の呼び鈴が一番困る。一旦ご馳走の火を消してから、飛んで行かなければならないからだ。味やおかずの種類にもうるさくて、本当に食事には気を使う。同じおかずが、二食続くと絶対に食べない。だから続けて同じ物は出せない。そしてたまには「スーパー等の出来合いのおかずでも」と思って、それを暖めて出す。しかしすぐバレてしまって、「まずくて食べられない」とわがままを言う。母が家に帰ってくると、途端に聞き分けが良くなるので私の苦労が理解して貰えない。それに大事と言えばやはり、おむつの取替えである。堅便の時は馴れればそれ程でもないが、おなかの具合が悪い時は大変だ。特に「おおきいばあば」は、便ぴ症で一度にたくさんするから尚さらである。この日も私は呼び鈴で呼ばれ、何時のようにおむつを取り替えようと寝間着を開いた。ギョッとした。おむつから大量に軟便が洩れてしまっている。あーどーしよう…。寝間着までべっとりだ。目が痛くなるほど臭う。「お、おばあちゃん…随分いっぱい出たね…ハハハ…」と言いながら生唾を飲んだ。軟便だと言うと、自分の体調を心配してまた大変だから「いいうんちだよ」と嘘を言う。どうやったらこれ以上周りを汚さずに替えられるだろうかと、立ちすくんでしまった。考えても仕方がない。やるっきゃないのだ。
そして、大きな黒いゴミ箱をたくさん用意して「おおきいばあば」のお尻の下に拡げた。バケツにお湯を汲み、ボロ切れをたくさん絞った。汚物を捨てるゴミ袋もなるべく近くに置いたし、消毒液も脱脂綿も近くに置いた。うむ…これでよしっ、戦闘開始である。紙おむつに手を掛けて、粘着テープを剥がした途端、おむつに溜まっている軟便が見えた。凄い量だ。こぼれないように、そーっと…「おおきいばあば」はちょっと顔をしかめて足を痛がっている。…わーっ…わーっ動かないで…だ、だめだー。悲しくも私の努力は実らず、あれよあれよとそれはこぼれて行った。ついには私の顔にまで跳ねって返ってきた。そして寝間着もドロドロが着いてしまうし背中の方まで汚れていて、見るとシーツにもいっぱいくっついていた。この際だ、寝間着もシーツもどうでもいい、捨ててしまえ…。とにかく風邪をひかない内に終わらせなくては…。ベットによじ登ったり「おおきいばあば」を物のように跨いだして、一時間半程奮闘して、やっとすっきり片付いた。あー腰がおかしくなった。そして私もシャワーを浴びて爽やかになり、大の字になって大きく大きく深呼吸した。突然シャワーなんか浴びてる母を見て、U太はポカンとしていた。夜、でかい女が私に「あんた…ネックレスどうしたの?」「えっ…。」自分で自分の首を確かめた。あっ…でかい女からもらったダイヤのネックレスが無いっ。あちこち見回しても見付からない。やな予感がした。私は「おおきいばあば」の部屋で飛んで行って捜した。あったー…よかったー…アレ?鎖しかない…。石が無い…ダイヤが無いっ。目を畳やベットに摺り寄せて捜した。…きっと…美しきダイヤは…うんちまみれてしまったのだ。でかい女に告白した。「捜しなさいよ」と言った。弱った…彼女に貰ったダイヤ…。私の肩は何時になく垂れ下がった。あぁー、とてもとても自分では買えないダイヤ…。「別にいいわよ…。もうあんたにあげた物だから…。私のもんじゃないから…。でもせっかくあげたのに…あんたってどーしてそんなに、おっちょこちよいなの?」彼女のその目は、軽蔑の眼差しのようだった。けれど、どうしてももう一度あの黒いゴミ袋を開いて中を捜してみる気になれなかった。「何も家の中に居るだけなのにそんなネックレスしてなくても良かったのに…」と彼女。そうかもしれない…そのダイヤで気持ち豊だったのに、それも無くしてしまった。でも今あのダイヤモンドは、何処のどのダイヤよりも美しく輝いている…と信じよう。
もう一人の「ひいばあば」の身体には癌があり、何時死んでもおかしくないと医者に言われている。九十二という高齢だから癌の進行は遅いらしい。少し耄碌しているので同じ事を何度も言うし、耳も遠い。「大きいばあば」とは、また違った気を使う。家の中だけの生活が続いた。ストレスが増しているのが自分で判る。何だか不健康だ。みんなに協力を求める意味で「少しは家の事を手伝って欲しい」と言うと…。「外で働いている人が、どれだけ大変かが解っていない」「生活(金銭的)の面倒を見てもらっているんだから、家事ぐらいやって当たり前よ」「家にいられる人が、うらやましいわ、疲れたら横になって休めるじゃない」「自分の立場をよく考えてみなさい」「感謝の気持ちがあるなら、そんな事は言えるはずない」「自分で選んで離婚したんでしょう」と家族の攻撃を受ける。私も大変なんだけどなー。一週間に一日か二日「大きいばあば」にヘルパーをつけて貰えないかと頼んでみた。「家にはそんなお金は無い」金銭的なことを理由にされたら、どうすることも出来ない。ついにはヒステリックに「別居したい」ともがいてみた。「U太をおいて一人で出ていけ」とやっぱり家中の総攻撃だ。実際言われてみれば、その通り…。収入も無いのに生活出来るわきゃーない。もがくだけ無駄だ。母が定年を迎えて家に入る迄の辛抱だ。しかしでかい女は「月に一度」美味しいご馳走を食べに私を外に連れ出してくれるようになった。そして「毎月一万円」のお小遣いをくれる。「洋服」もくれる。U太の事は、家中で団子の子のように可愛がってくれる。ありがたい…。身勝手で申し訳ないとは思うけれど、がんじがらめにされた気落ちには変わりなかった。働きのない出戻りの辛さは、ひとしおである。しかし世の中にはもっと辛い生活をしている人が沢山いる訳だから、贅沢は言えない。「衣・食・住」が親子共々与えられていることを感謝しなくては…。だけど自力で生活を守らなければならなくなった時、全くお金がないのも困る。寝たきりの「大きいばあば」は、年金から毎月二万円を私にくれた。しかしでかい女からの一万円と合わせても、収入が三万円では幾ら何でも足りない。苦労が目に見えている。U太にも当然養育費が必要だ。別れた亭主は、養育費を一円だって送ってきたためしが無い。子供の誕生日にさえ、なしの礫だ。貰おうという気は始めから無い。私が離婚したいと言い彼はしたくないと言い調停で裁判した時の事を時々思い出す。離婚が成立するまで、八カ月かかった。調停裁判中、親権が私と決まった時にU太の養育費を彼に請求した。いつも仕事が続かず職場を転々とする彼は、きっとろくに所得もないだろうから、そう多額は望めないと思った。だから私は一ヶ月に二~三万ぐらいが妥当かなと思い、息子の養育費としてそれを彼に請求した。これくらい貰うのは当然だと思っていたし、彼にはその義務があると思っていた。ところが彼の答えは、一ヶ月に「五千円」ならば払っても良いと言うのだ。その時、離婚を決心したのが「正しかった」と思ったと同時に、慰謝料だろうが養育費だろうが、お金なんか一銭も貰うもんかと思った。例え、彼から何か子供に送って来ても、突っ返すつもりになった。でもそんな心配もまったくいらなかった。離婚成立以来、何一つ送られては来なかった。それに息子の様子を聞くために、電話をかけて来る訳でもないし、ましてや手紙もない。だから今、彼がどんな生活をしているのかまったく判らない。もう再婚して他に子供がいるのかもしれない。しかしこの人はたった五千円で、父親づらが出来ると本気で思っていたのだろうか。私が離婚を考えだしたのには色々な理由があるけれど、これ程、「こんな男を選んだ自分が情けない」と感じたことは無かった。自分の息子U太が可愛くないのだろうか…。心配ではないのだろうか…?離婚はしても、我が子は我が子だろうに…。何しろ私が選んだ人は、冷たい人だったのである。彼は以前、単独で車の事故を起こし、自分の車を配車にした。彼は愛車を亡くしたことでかなり気落ちしていた。すかさずでかい女は「この車乗れば?」とスプリンタークーペを彼に贈呈したのだ。「もう五年以上も乗ったし、古い型だし、そろそろ買い代えたかった」と言う。それにしても車を人にポンとあげてしまうなんて、でかい女はなんて気前が良いのだろう。そして彼女は新たにスカイラインを愛車として迎えたのだ。ところが彼は、一年も乗らぬ内にそのスプリンターを姉に一言もなく売り払ってしまったのである。ガクッ!でかい女は、口では言わなかったけれどかなりの衝撃を受けていた。彼は新しく買ったスカーレットが、また気に入らなくなって、また買い替えた。今度は新型スプリンタークーペである。これも直ぐに飽きてしまった。そして今度は、グロリアに乗ってふんぞりかえっている。だが、彼は車ばかりでなく仕事にも直ぐ飽きてしまって続かない。ひどい時は、三カ月もたなかった。職を転々として生活が成り立たない。生活費を四万円しか入れてくれない。幾ら話し合っても空回りするばかりだ。私が外で働く事も嫌がり、かと言って自分の仕事も落ち着かない。赤ん坊だったU太の前で、私達はしょっちゅう言い争いをしていた。もう駄目だ、付いていけない、別れようと決心した。それを告げると、彼は怒って家を飛び出して実家へ戻った。翌日なんと、私名義の銀行預金の改印届けが出されていた。銀行から、確認の電話があって解ったことである。その上、定期預金の証書まで取りに来た。幾らでもないが渡してたまるか。そして自分の荷物を「実家へ送れ」と言うので、私は早速着払いで送ってやった。その日の夜彼から電話があり「荷物の中にオレの買った電気の傘がないぞ」もう情けないやら悔しいやら…私は返す言葉が無かった。そんな行動に出るものだから、私はてっきり離婚に同意しているものと思い込んでいた。しかし一ヶ月程して、家庭裁判所から私宛に出廷命令の通知が舞い込んで来て驚いた。何と「離婚には応じられない」という意味合いのものだったからだ。いったい彼は何を考えているのだろう。もし離婚する意思が無いのなら、なぜ銀行の改印届を出したりするのだろう。やり直しをしようとする人が、こんな事をするだろうか?両親もでかい女も、さすがに呆れ果てていた。私は家庭裁判所という所に、まさか自分が行くことになるなんて思いもよらなかった。彼の実家には「秘密」が多かった。仕事が続かず職場を転々とする事も、私の実家にどれ程援助してもらっているかという事も、彼の両親は知らない。ひよっとしたら、本人にも解っていなかったのかもしれない。稼ぎが無くても友達は結構いて、毎日のように狭いアパートに遊びに来ては、夕食を食べ、お風呂にも入り、泊まって翌朝朝食も食べて行く。一週間に六日は誰かしら連れて来る。そして食べて飲んで、そして泊まって行った。一人ではない、必ず二人~三人は一緒に来る。ある時、私の友人が五人遊びに来た。急だったのでお寿司の出前を頼んだら、彼は彼女達から「代金をもらうように」とほざいた。恥ずかしいったらない。U太の哺乳瓶を煮沸消毒する為に、少し大きめの鍋を千七百円で買った。無駄遣いだと言われて面食らった。月末になってお金が無くなると、私の実家や親戚の家に夕食を食べに行ったりもした。特に失業中の時は、完全におんぶに抱っこであった。私の実家は黙って助けてくれていたし、私も絶えてきたつもりである。彼は、これまでも仕事の事やら息子の事やらで、でかい女に相談に乗って貰っていたらしい。だから今回の離婚騒動も相談を持ち掛けて来ると、でかい女は内心思っていたそうだ。だが彼は口を閉ざしたまま、調停に持ち込んだのである。調停員は初の内、私が彼に歩み寄るべきであり「何とかやり直しをするように」と離婚に反対していた。でも私は今までの生活や、彼の行動を我慢出来ずに事細かに話をして離婚を訴え続けた。彼もまだ離婚には応じない。なぜだろう…?でかい女は「尽くし過ぎたんじゃない?彼に気を使って甘やかし過ぎたのよ」等と言う。私には良くわからない。八カ月、水掛け論が続いた。しかし調停員がびっくりしたのには、この裁判中に事もあろうに彼はまた、車を買い替えたのである。ついには調停員も呆れて、私に別れるべきだと勧めてくれるようになった。そしてU太の親権も勝ち取り、離婚が認められたのである。まあ今更どうでもいい。過ぎたことだ。B型の私は、立ち直りが早い。そんな事よりこの先、先立つ物が無いとU太は学校へも行かれない…。子供の将来も私自身の生活や老後も真っ暗だ。「U太一人の面倒ぐらい見てあげるわよ」と家族が言ってくれるけれど…。そうもいかない。それに、負い目があるまま過ごすのもつらいものがある。U太から父親を取り上げてしまった私は、何とかしなくちゃと気ばかりあせってしまう。自分で「こーしたい、あーしたい」の意思がいつも中途半端のままで終わる。甘いなーと言われるのは目に見えているが、貧乏暮らしでも良いから、自分らしい自分なりのスタイルで、過ごしてみたいなーという気持ちがある。小さくても私だけの台所が欲しいと思う。ある時私は家族の反対をよそに、一週間の内に二日間、叔父と叔母の経営する店でアルバイトをさせてもらうことにした。今の所、昼間は家に居なければならないから夜しか働けない。
学生時代、喫茶店でのアルバイトも許してくれなかった両親は、当然気にいらないに決まっている。しかし少しでもお金が欲しい。欲しいとなったら、何がなんでも欲しくなる。叔父は四十年もの間、横須賀で料亭を営んでいる。彼の店は夕方から翌朝九時頃まで営業している。明け方近くなると恐ろしく瞼が重くなって来る。徹夜に馴れるまで、かなり時間がかかった。だが叔父は、私の「全力投球のやる気」を信頼してくれていた。そして料理の基本から、客の扱い、酒を注ぐ手つきに至るまで仕込んでくれた。渋谷で店を長年に渡って経営している叔母の店でも、手際よく仕事をした。そこで私は「ししゃも」と呼ばれていた。子持ちだからだ。私はもしかすると、こういう商売に向いているかもしれない。少ないバイト料ではあったが、私には久々の収入である。私は見栄を張った。父親のいないU太を保育園ではなく、幼稚園へ三年保育で入れたのだ。最大の見栄である。しかしそれが案外働く原動力になった。私が外に週二日出るだけで、家の中も前より平和になって来た気がする。私のストレスが、家の中をひっかき回していたのかもしれない。
強引にマイウェイ こてまり ししゃも @JA6690172
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。強引にマイウェイの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
あー坊たん/野苺スケスケ
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 6話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます