青空を追った先
村崎沙貴
空に、二羽の、黒い鳥。どこに行くでもない。互いの距離を近づけ、すれ違い、遠ざかってはまた近づいてと、そればかり繰り返しながら舞っていた。
二羽は、互いを求めて戯れているのだろうか。それとも、一方が拒むのを、もう一方が追い回しているのだろうか。それが無性に気になって、差しのべるように手をかざす。
その先に広がる空は真っ青に塗り込められたようで、眺めているだけで鮮やかさに目が潰れそうだ。
山内さん。あなたは、こんなものが見たかったの? 毎日毎日、目が霞むまで文字の羅列を睨みつけて、朝から晩までシャープペンを握って、頭がくらくらするくらい問題を考えて。ずっと込み上げてくる不安と闘って、無力感を抑え込んで、仕上げに脳をひっくり返す思いをして解答欄を埋めて、それと交換で得られる未来。そんなにもだいじなものが、これで良いのだろうか。
見渡す限りの人波に押し流されて、狭い電車の中に詰め込まれて、さもなければ、誰とも会わずにぼろアパートの一室で日がな一日閉じこもっている生活。私は一足先に手に入れて、すでに嫌気が差し始めているというのに。
「東京の空は、もっと青いんだって」
ふうん、と気のない返事をする私に気分を害する様子もなく、いつか見てみたいなあと、山内さんは続けた。大学で東京に行きたいんだ、と目を輝かせ、そのまま滔々と夢を語る彼女。その姿がひどく物珍しくて、普段なら興味も湧かない他人の話に、いつしか聞き入っていた。
実際にその時の私達を抱く空は、ふんわりとした薄青だった。夏の日だったからいつもよりは鮮やかな色をしていたはずなのに、それでも、パステルの優しい色。映画で見る、力が湧き出す泉のような色とは程遠い。これが私にとっての『空色』だったし、映画の世界の空色なんて幻想だと信じ込んでいた。
彼女の笑顔は曇りがなかった。ヴェールを掛けたみたいな、私達が生まれ育った町の空には不釣り合いなほど映えていて。その瞳の奥に宿る仄かで、でも確かな存在感のある煌めきは、私が今でも恋い焦がれて、それでもずっと手に入れられないもののひとつだ。
果たして、東京の空は青かった。私が知っている空より、もっと、何倍も青かった。映画と同じ色をしていた。でも。映画の中ではただただ壮大で真っ直ぐな美しさだったのに、実際こうして見てみると、覆い被さる重苦しさを全身で受け止めてしまう。希望をくれる輝きはなく、弾ける元気に圧倒されて、呑み込まれそうな畏怖を覚えて、疲れ切ってしまうだけだ。
山内さん。私は一足先にここへ来たけど、本当に追いかけてきてくれるの?
私が少し前まで住んでいた町で、まだ、彼女は闘っている。白黒の細かい文字達を追って、ごたごたとそれらを頭に詰め込んで、目を回しながら努力していることだろう。他の人達にはなかなかできず、やる気にすらならないこと。私には決してできないこと。少し、羨ましくもあった。
私が成績表に並ぶAを無感動に眺めている時、CDEに悲鳴をあげながら、もっと頑張ろうと決意を新たにしていた同級生達。その殆どは私を嫌味な奴だと避けていたのに、他の子達よりもさらに追い詰められていたはずの山内さんだけが、屈託なく接してくれた。私の成績表を覗き込んですごいすごいとはしゃいでくれる姿を見ながら、気まずさからか羨望からか、胸が鈍く疼いていた。
私が春から東京に行くのだと告げた時も、彼女は無邪気に祝ってくれた。わたしは望みを叶えられなかった、もう一年頑張るんだと、残念そうに教えてくれながらも、笑っていた。笑ってくれていたのだ。
相応しくない。そんな言葉が不意に、心の中で湧いた。私は望みを叶えたのだろうか。山内さんと同じく、私にとってもこれが望みだったのか。否。不条理だ、と思った。彼女は切り捨てられた、という理不尽な怒り。でも同時に、お前も彼女を蹴落とした人間なのだと、自身の理性が冷ややかに私を詰っていた。私は無責任だ。人より多くのものを持っていても満足できず、際限なく人を羨むばかりの愚か者だ。山内さんは、私とは違う。
そこまで考えて、天啓を得た心地になる。そうだ。私はなんて傲慢だったんだ。彼女を案じている振りをして、ただ見下していただけではないか。私と違って、彼女は自身の道を自分で切り開ける人だ。周りからは同じものを手に入れたように見えても、彼女が得るものはいつも、私なんかと大違いの、特別で、素晴らしい何かだった。
大丈夫だ。私から見ればくだらなくて、うんざりするような環境でも。彼女が欲しくてたまらないものなら、確実に、とても良いものなのだろう。だからせいぜい頑張って。山内さん。
彼女のような人の努力こそが報われる世の中に、できる限り早く、なりますように。
東京の「青空」はきっと、山内さんのキラキラ輝く瞳によく似合うから。
〜・〜・〜・〜・
ふ、と教材から顔を上げた。時計が正午を指している。ちょうど、正午。こんな小さな偶然ですら嬉しくなってしまう私は、つくづくお気楽な頭をしていると思う。こんなんだから、詰めが甘くて今もこんな場所に留まっているのかもしれない。
まだ、目指す未来が曖昧だった夏。空を見上げて思い出した、昔、お父さんが言っていたこと。
「東京の空は、もっと青いんだ。ここのより、もっともっと」
水色じゃなく紛れもない青で、映画の世界に迷い込んだみたいなんだ、と熱弁していた。映画なんか見たことがなかった幼いわたしは、上手く想像できなかった。いつも見ているのが違うなら、青い空ってなんだろう。純粋に疑問に思ったのを、覚えている。
昼食を摂りに行こうと、自習室をあとにする。自動ドアをくぐったところで、強烈な光に足を止めた。一秒も経たないうちに目が慣れるけれど、その間はいつもより時の流れが遅く感じられる。他の人々には煩わしいとしか感じられないのだろうけど、今日も良い天気だな、と感じられるこの瞬間が、わたしは割と好きだ。
綺麗な空、とため息をつく。ふわふわ浮かんでいる白い雲。薄青の空と境目が溶け合っている。一生懸命手を伸ばしても、届かない。見上げているうちに、たちまちどこか遠くへ流れ去っていく。
あの子みたいだな、と思った。成績優秀で、誰とも馴れ合わなかった同級生。あらゆることを涼しい顔でこなし、トントン拍子で受験もフィニッシュまで駆け抜けて行った。
東京の空の下で、今も変わらない顔をしているんだろう。周りがどんなに目まぐるしく変化しても、顔色一つ変えない子。
「東京の空の下で待ってる」
本当に『もっと青い』のか確かめるから、と言う声は、ボソボソしていた。何ヶ月も前に言ったことを覚えてくれているあたり、律儀な子だったんだと思う。私が残念な結果を報告すると、気まずそうな顔をした。私の方は必死に笑顔を取り繕っていたのに。不器用で、でも誠実な良い子。良い子だったんだ。
誰も、釣り合わなかった。隣にいても、いつもどこか遠くを見つめて。でもそれが、みんなが夢見ているような輝かしい未来というものでないことだけは、明らかだった。
あの子は疎まれていたんじゃない。まして、嫌われていた訳でも。憧れられていたんだ。わたしがあの子に近づいたのも、所詮、身勝手なエゴだったのかもしれない。どんなに分不相応でも、憧れに手を伸ばしたくなる。昔からの性だ。我ながら、損な性分だと思う。手に入らなかったものへの醜い執着。落胆は、重ねすぎて、もはや感じなくなりつつある。
泥臭く。最底辺から一歩ずつ這い上がっていく。わたしにはこれがお似合いだ。それでも、それではあの子に手が届かなかった。もう、順風満帆な風に乗って、この世界のどこかへ漂って行ってしまった。
もう一度。逢えたなら、今度は対等になりたい。だから今は、とにかく頑張ろう。
あの子はきっと、変わらない姿で待ってくれている。
〜・〜・〜・〜・
それぞれ、空を見上げて。
ただ、未来を待つ。
ただ、未来を追う。
東京の青空の下での、再会を夢見て。
青空を追った先 村崎沙貴 @murasakisaki
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