最終章
翌朝、というよりもうお昼前くらいになって、私たちは藍さんに起こされた。昼から撮影に行くって言っていたのに、いつまでたっても起きてこないから心配したらしい。
当たり前だけど、起こしにやってきた藍さんには、ベッドの上で二人抱き合いながら爆睡している姿を見られた。
「ほら。やっぱり布団、いらなかったじゃない」
勝ち誇ったようにそう述べた藍さんに返す言葉がなくて、私たちはお互い真っ赤な顔を伏せたまま黙ってた。ああ、最悪。これ絶対うちのお母さんに告げ口される。
とにかく、グループチャットに今日は撮影がある旨を慌てて連絡して、それから二人で急いで身支度。藍さんが用意してくれたブランチを掻き込むように食べて、着替えて家を出たのはもう撮影開始ギリギリだった。
路面電車一本逃したら遅刻する。そんな緊迫感の中、私たちは全力で走った。
何とか間に合って学校に着いたんだけど、まあ当たり前のように私たち二人が最下位。そもそも撮影の有る無しに関わらず、演劇部は今日集まって部活するつもりだったらしい。だからグループチャットに連絡があったころには、もうほとんどみんな揃ってたって夏葉から聞いた。
「二日も休んで、本当に申し訳ありませんでした」
撮影開始前に、愛美がみんなの前で頭を下げる。
「残り三日間しかありませんが、遅れは全力で取り戻します。みなさんにはご負担おかけしますが、もうしばらくお力を貸してください。よろしくお願いします」
その挨拶の後、現場は温かい拍手に包まれた。
みんな、愛美の帰りを待っていたんだ。それが今は、なんだか自分のことのように嬉しかった。
二日を無駄にした私たちだったけど、でも逆にそれが良かったのかも。そう思うくらい、残りの撮影は怒涛のペースで、しかも最高の雰囲気で進んだ。予備日を食い潰したことで後がなくなって、どのシーンを撮るときも『今日、なんとしてもこの場面を撮り終えないといけない』って緊張感が生まれる。けど愛美はそんなカツカツのスケジュールの中でも容赦なくリテイクを要求したから、それに応えるためにみんなの動きが洗練されていく。やり方を間違えればみんなのやる気が削がれそうなものだけど、愛美の謙虚な態度と作品に対する妥協しない熱意に、みんなの心は動かされたようだった。
もちろん私も、愛美の期待に全力で応えた。柄にもなく、他の役者が悩んでいればアドバイスをしたりもした。
ありがとうって感謝されるのは、やっぱりちょっと照れくさい。でも自分が踏み出した一歩で作品が良い方向に向かっている実感が持てたから、それはやっぱり嬉しかった。まあ、そんな私を見て夏葉がにやにやしてたのには、ちょっとだけ小突いてやったけど。
そうして、いよいよ最終日。
「カット―! オッケーでーす、おつかれさまでしたー!」
愛美の口からその言葉が出たとき、誰からともなく歓声が上がった。
愛美は舞い上がった演劇部の先輩たちに揉みくちゃにされていて、なんでかそれに私も巻き込まれて、もう本当に酷い目にあった。
でも――悪い気は、しなかったかな。
こうして、私たちの映画は無事に撮影修了、クランクアップを迎える。
ただ一つ、クライマックスを残して。
***
「かんぱーい!」
叫ぶように声を張り上げた監督に続いて、私たちはかちんとコーヒーカップを打ち鳴らす。少し零れたコーヒーが机上に染みを作ったけれど、そんなことは気にもせずに愛美は一口目を啜る。
「ぷはぁー! やっぱり撮影後のコーヒーは染み渡るねぇ!」
そんなおっさんみたいなことを言って、湯気の出る熱々のコーヒーをごくごく飲む愛美。ほんと、この子の身体どうなってんの。
「朱音ちゃん、お砂糖とミルクは?」
「うん、ありがとう」
夏葉に微笑み返して、私は差し出されたスティックシュガーとフレッシュを受け取った。
クランクアップの後、私たち三人は映研部室に集まって、プチ打ち上げと称した細やかなお疲れ様会を開いていた。全体での打ち上げは別にあるんだけど、それは映画の上映が終わる一週間後に企画してる。
そもそも愛美にはまだ編集作業が残ってるから、これで終わったわけじゃない。彼女にとっては、まだまだ正念場が続いてる。
でも愛美はそんなことを思わせないくらい、私たちの前ではちゃんと肩の力を抜いていた。
「ほんと、二人がしっかりしてるおかげで、なんとか撮り終わったよ! いやー、さすが映研部と演劇部のエースだね!」
「エースって……夏葉は確かにそうだけど、映研部は私しかいないでしょ」
「あの、私もまだまだエースってほどじゃ……」
「いや、夏葉はエースだよ! ね、朱音?」
「異議なし」
そう返したら、軽く頬を染めた夏葉は伏し目がちになって固まってた。
それからしばらくは撮影の話題が続く。あのシーンの出来は良かったとか、あそこはもう少し上手くやれたかもとか、ちょっとしたトラブルのこととか、そんな話。
そして話題がひと段落したころ。
「残すはいよいよ、クライマックスですな」
愛美がそう呟く。夏葉も私も、それに頷いた。
「夏葉、ごめんね。急に撮り直したいとか言っちゃって」
「ううん、全然大丈夫。初めての映画、絶対に悔いは残したくないから。納得いくまで、みんなで何回でもやろうよ!」
そう言った夏葉の笑顔は、本当に眩しかった。
あの後、彼女には全部話した。クライマックスの出来栄えに納得いっていないこと、セリフを追加して撮り直したいこと。
普通に考えたら「何をいまさら」って嫌な顔の一つもするところだけど、彼女はむしろ嬉しそうに了承してくれた。ほんと、人間が出来過ぎてるよ。
そんな彼女をなんとなく見つめていたら、ふと目が合った。
「朱音ちゃん。最後のセリフ、書き上げられそう?」
「うん。ごめんなさい、遅れてて」
「だいじょーぶだいじょーぶ! まだ最後の土日が残ってるし!」
「私たち三人だけいれば、撮影できるもんね!」
力強くそう言ってくれる二人の言葉が、焦る心に染みこんでいく。それを後押しするように甘いコーヒーを身体に送り込んだら、気持ちがゆっくりと落ち着いてきた。
「なんとなくね。こんな感じのセリフで行きたいな、っていうところまでは進んだんだけど……でも、心配しないで。土曜までには、絶対にまとめるから」
そう言ってみたけど、本当はまだ自信なかった。その迷いが伝わったのだろうか。
「よかったら、手伝おうか?」
「え?」
「悩んでることあったら、話してほしいな。一緒に考えたり、出来るかもだし!」
私が遠慮しないようにだろう、夏葉は少し軽めのトーンでそう言った。
「ありがとう。とっても嬉しい」
それは本心だ。その気持ちが本当に嬉しかったから、私はじっと彼女を見つめ返す。
「でも、ごめん。この場面だけは、ひとりの力で考えてみたいんだ」
「――そっか、分かった! じゃあ私は、蔭からこっそり応援してるね!」
「え、なんで。正面から堂々応援してよ」
「いや、気が散るかなと思って、前からだと」
夏葉が真顔でそう返してくる。それがどうにも可笑しくて、私は少し笑っちゃった。
そこで一瞬、会話が途切れる。
「ね、上映会しない?」
それに割り込んできたのは、やっぱり愛美だった。
「ここにせっかく、今日撮れたての映像もあることですし」
彼女が両手を広げる。その机上にはいつの間に用意したのか、カメラとHDMIケーブルが置かれていた。
「あっ、いいね! 見よう見よう」
夏葉が無邪気にそう返すから、愛美がすかさず用意を始める。まあ、話題も落ち着いたところだし、ちょうどいいかな。
「前から思ってたんだけどさ」
テレビ画面いっぱいに大きく映ったゾンビを見ながら、私は呟く。
「愛美、カメラワーク上手くない?」
「へ?」
完全に不意打ちだったのか、愛美が素っ頓狂な声をあげて間抜け面を晒す。
「うん。私も思ってた」
夏葉もすかさず同意する。そうやって両サイドから不意に褒められたからか、彼女は誤魔化すように頬を掻きながら視線を泳がせていた。
画面には今、教室でゾンビに襲われる夏葉が映っている。彼女を正面から捉えながら、その動きに合わせてカメラが大きく動く。ときに引いたりときに寄ったりしながら、絶妙な具合に彼女とゾンビを映し続ける。
それはまるで、本当に今この瞬間に自分の目と鼻の先で起きているかのような迫力が感じられて、思わず息をのんでしまう。
「やっぱり、カメラワークで迫力出せるのが映画の強みね」
「ほんと。演劇じゃ絶対無理だもんね、こういう迫力の出し方って」
夏葉とそう言いあって、うんうんと頷く私たち。
「でもさ」
そこに愛美が、一石を投じる。
「やっぱり映像だと、全部は伝えられないよ」
「全部って?」
「なんて言うのかな……生で演技を見た時の、こう肌を刺すような、ひりつくみたいな、なんかドキドキする感じ」
「あっ、分かる分かる。現場にしかない空気とか雰囲気みたいなの、あるよね」
「あるある! やっぱり映像だと、そのへんがどうしてもさー」
今度は愛美と夏葉、二人でうんうんと頷きあっている。
まあ確かに、二人の言うことは分かる。確かに映像で見るのと生で見るのとでは、演技から受ける印象は全く違う。生で見る演技っていうのは、やっぱりそれだけでものすごい臨場感があって、それはやっぱりその場にいないと体験できないもので。
だけどさ、
「それって一長一短ってやつでしょ? カメラを使ってしか出来ない表現もあれば、演劇にしか出せない味もあるっていうだけで」
「そうなんだよねー」
どこか諦めたような声音で、愛美はうーんと背伸びしながら呟く。
「でも、そういうのもぜんぶぜーんぶ切り取ってさ。生の演技の感動、届けられたらいいのにね」
まあね。
愛美の気持ちは、私にもすごく分かる。
例えば私が今悩んでいるクライマックスだって、それが出来たらどんなにいいか。長いセリフを入れることでどうしても薄れてしまう臨場感を、生の演技特有のパワーで打ち消せたら。
それが出来たら、どれだ、け……
「…………あ」
間抜けな声が出た。
出すつもりなんて全くなかったのに、他のことに気を取られて無意識に漏れ出してしまったかのような、緩んだ滑稽な声が出た。
だけど今、そんなことは至極どうでもよかった。
「朱音?」
愛美が、怪訝そうな顔をして覗き込んでくる。虚空に浮かばせた視線をゆっくりと彼女に向けて、
「……あのさ」
「どしたの?」
「いま、わたし…………めっっっっちゃくちゃにバカげたこと、思いついた」
そう言ったら、愛美はもちろんぽかんとしてた。
でも。
「ごめん、朱音ちゃん。私も」
「えっ?」
突然そう言った夏葉に、愛美が困惑した声を上げる。
でも私たちは、愛美に構ってる場合じゃなかった。
「朱音ちゃん、クライマックス?」
「そう。クライマックス」
もう、絶対に同じことを考えてるって確信した。やっぱり夏葉って、役者だ。
「なに? 二人とも、急になに?」
「あれ? もしかして愛美ちゃん、分かってない?」
「いやー、無理でしょ、監督には。役者じゃないし」
「え? え?」
きょろきょろと狼狽える愛美を差し置いて、私は夏葉に言う。
「夏葉、これしかないよね」
「うん、絶対これしかないよ」
「「ねっ」」
声を合わせて、私たちは笑いあう。
「ちょ、ちょっと! 禁止だよ、仲間外れ禁止っ! 監督にもちゃんと説明しろぉー!」
本気で焦る愛美がすごく可笑しくって、私たちはちょっとだけ、意地悪なノリを続けた。
愛美にその計画を話したら、彼女は誰よりも興奮してた。
「面白いじゃん、やろうやろう!」
一も二もなしにそう言って、演劇部との調整は愛美と夏葉の二人でやってくれることになった。
私がその役割から外された理由は分かってる。きっと私に、時間を作ってくれたんだ。余計なことを考えずに、集中して考える時間。
だから二人の期待に、ちゃんと応えてみせる。
その日の夜。私は自室でひとり、机に向かっていた。シャーペンを右手に、じっと台本と向き合う。セリフの上に指を置いて、ゆっくりと目を閉じる。
『ごめんね』
ナツハはそうとだけ言い残して、アカネの前から姿を消す。自分の死を覚悟して、アカネを守るためだけに。
そのときアカネは、一体どう感じるんだろう。立ち去ろうとする大切な友人の背中を見て、なにを思うんだろう。
きっと、辛かっただろう。苦しかっただろう。悲しかっただろう。
……でも。
ゆっくりと目を開ける。
やっぱり私には、その先が分からない。
もっともっと深いところまで、どうしても入っていけない。アカネの複雑な感情を、うまくセリフに出来ない。
握ったペンに力がこもるだけで、それが一向に動こうとしない。
でも私は、やるって決めた。アカネに向き合うって決めたんだ。だから……
そんな時だった。
脇に置いていたスマホがピコッと音を立てる。見れば、撮影隊の全体チャットにメッセージが入っている。
『みなさん、本日までの撮影、本当にお疲れ様でした!』
愛美からだった。その一文に始まり、以下数行にわたって彼女からみんなへと向けた感謝のメッセージが簡潔に、だけれども熱意をもって続いている。
そしてその文の最後は、撮影中に撮った写真などをまとめたアルバムデータを作成したので、欲しいものがあればご自由にどうぞ、という旨の連絡で締めくくられていた。
さすが愛美、粋なことするじゃん。
すぐにアルバムへのリンクをタップする。すると中には、愛美が今日までに撮り溜めた写真がそれはもう大量に入っていた。これでも厳選したらしいが、優に百枚は超えている。
どんだけ気合い入れて撮ったんだよ。そう苦笑しながら、私はとりあえず一枚目の写真をタップし、そのままスライドして中身を眺めていく。
撮影初日、全員で撮った集合写真に始まり、撮影の合間合間の様々な写真が並ぶ。演劇部のやつが多かったけど、中には私と夏葉で撮ったやつとかもあった。
すでに懐かしさすら覚えるその光景に、ついつい口元が綻んでしまう。
そしてある写真に差し掛かった時、私の手が止まった。
そこに映っていたのは、私と愛美とのツーショット。
なんでこんなものが……そう思ったけど、そういえばいつだったか、夏葉が撮ってくれたんだっけ。「監督と主演で一枚!」とか言って。
満面の笑みでピースする愛美に、ちょっと恥ずかしそうにしながら目を逸らす自分。
「写真の時くらい、素直になれよ」
意味もなくそう呟いて、とりあえずその写真はすぐに保存しておいた。
その写真を、しばらくぼーっと眺める。
そうしながら、ふと考える。
もし、愛美だったらどうだろう。
もしナツハじゃなくて、愛美だったら。
愛美が自分を犠牲にして、私を守ってくれたとしたら。
そんな彼女と、もう二度と会えなくなるとしたら。
私はその最期、愛美に何て言うんだろう。
やっぱり、何も言えないんだろうか。愛美の言う通り、咄嗟に言葉なんて出てこなくて、ただ泣きながら去り行く彼女を、見送ることしか……
「……そんなわけ、ないよ」
そうとしか、思えなかった。
そんなわけない。
だってもう、最後なんだ。大切な幼馴染と言葉を交わせる最後の機会、それを棒に振るなんてこと、絶対にするわけない。
私だったらきっと何か言う。それはもうぐちゃぐちゃで、醜くて、みっともなくて、言葉にすらならないかもしれないけど。
それでも私は、絶対に愛美に伝える。
離れたくないって。
ずっと一緒にいたいって。
愛美のいない世界なんて考えられないって。
愛美に対する私の想いを、たとえぐちゃぐちゃな言葉だったとしても絶対に、伝えるはずだ。
知らないうちに、ペンを持つ右手が動いていた。昨日まで書いては消してを繰り返して凸凹になった紙上を、さっきまで頑なに動かなかった右手がすらすらと動き、どんどんと文字を載せていく。
滲んだ涙が視界を邪魔して、でもそれを拭く時間すらももったいなくて、私はただひたすらに、思うがままに言葉を紡いだ。
「できた」
思わずそう呟いた時、私の頬は瞳から幾重にも走った水痕で醜く光っていた。そこから垂れた滴が紙上にいくつもの染みを作り、しわが寄ってぐちゃぐちゃになってしまっている。
でもそんなこと、どうでもよかった。今はただ、伝えたい。
私は台本のページをスマホで撮ると、それを愛美に送る。
「どうかな」
震える指でそう打ったら、すぐに既読が付いた。私はその場で固まって、ただ祈るように反応を待つ。
愛美からの反応は、メッセージじゃなくて着信だった。
息を整えてから通話ボタンを押す。
「朱音!」
こっちのもしもしに被せるように、いきなりそう声を上げる愛美。そしてすかさず、
「さいっっっっこうじゃん!」
そう叫ぶものだから、私は飛び上がりそうになる気持ちを抑えて「でしょ」って返すのが精いっぱいだった。
***
一週間なんて、本当にあっという間だった。
始業式があって、入学式もあって、私たちは二年生になって。目まぐるしく周りを取り巻く環境が変化して、普通ならもうそれだけで疲れ切ってしまいそうなものなのに。
でも私たちの頭の中は、新歓に上映する映画のことでいっぱいだった。もう興奮しっぱなしで、それしか考えられなくて、他のことなんてどうでもいいっていう感覚。
そうそう、二年生に上がってのクラス分けだけど、当然愛美とは一緒のクラスになった。朝登校したら、クラス分けを貼り出した掲示板の隣で仁王立ちした愛美がにやにやしてたから、もう結果を見るまでもなかった。
でも、そんなの当たり前か。だって今の私たちの仲を引き裂くなんて、神様にだって出来るわけないから。
残念ながら、夏葉とは別のクラスになっちゃったけど――でもあっちはあっちで演劇部が多くいたから、楽しくやれてそうだ。
そして、運命の日。
入学式からちょうど一週間、部活見学の解禁日だ。
今日の放課後は多分、一年で一番騒がしい。校門前には各部のユニフォームを着た運動部がずらりと並んで、校舎から出てくる一年生を狩ろうと目をギラつかせている。
校庭へと目を向ければ、そちらは文化部のスペース。普段は外に出て来ない様々な部が、今日だけは日光の下に集って各自声を上げている。合唱部や吹部なんかは一角で演奏を始めているし、弁論部みたいに実際の試合をやっているところもあれば、書道部や美術部に至ってはコンクリートの上で創作を始めてた。
各部入り乱れてお互いの活動を押し付け合う様を「お祭り騒ぎ」という言葉で片付けてしまうのはあまりにも生優しく、ああなるほど、カオスってこういうことなんだなって思った。
「どこも気合入ってるね」
背後から聞こえてきた声に振り返る。愛美は可愛く結んだワンサイドアップを揺らしながら、窓際に立つ私の隣へと並んだ。
私たちがいるのは、講堂の二階。二階と言っても客席も何もなく、大部分のスペースは一階からの吹き抜けになっていて、壁沿いにぐるりと走る回廊があるだけだ。その回廊の階段付近の窓から、二人して校庭の様子を眺める。
「朱音がいなかったら、合唱部入ってたかも」
「え、そうなの?」
「まあ、今となっちゃありえないけど」
そう言ってはにかんだ愛美は、なんだか少し大人びて見えた。
もう一度窓の外へ目を向ける。外の喧騒は、ここまで届いて来そうなくらいだけど……でもこの講堂内だって、全く負けちゃいない。
『みんな、ありがとー!』
その声に釣られるようにして起きた大歓声に、私たちは振り返る。前方下、講堂のステージで飛び跳ねている軽音部のギター兼ボーカルの子が、手を振り上げるたびに観客席が揺れていた。
「さっすが莉緒、もはやアイドルだね」
「ほんと。ファンクラブあるんでしょ?」
「可愛いからねーあの子」
客席を見れば、新入生向けの歓迎ライブだっていうのに、どう見ても二、三年生が大量に混じってる。というか、半分以上は上級生だと思う。客数はざっと二百人余りといったところか。
「あと何曲歌うの?」
「これで最後かな。次は私たちの番」
その言葉に、少し気が引き締まる。
いくつかの文化部が集まって合同で企画したこの新歓イベントも、これでちょうど折り返し。
次はいよいよ、私たちか。
「セリフ確認とか、大丈夫?」
「もう覚えたよ。自分で書いたやつだし」
「そっか。そうだよね」
愛美が笑う。そんな彼女を見てたら、やっぱり心が落ち着いた。
それからは二人で、回廊の手すりに身体を預けて軽音部の演奏を聞いた。基本は可愛らしいリズムなのに所々で情熱的に弾けて、ふわっとした雰囲気の中に真っすぐな芯が通ったような、すごく不思議な感じの曲だった。それだけ詰め込んでいるのに全体としてはちゃんとまとまっていて、耳に残ってつい口ずさみたくなるような、そんな曲。
後から聞いたら、これ書いたの一年のベースの子なんだって。まったくどうしてこう、私の周りは才能に溢れた人ばっかりなんだろう。
ギターとドラムの合わさった音が後を引くように響いて、演奏が終わる。
一瞬の静寂。そのあとに雷鳴のような歓声が湧き上がって、講堂内は今日一番の盛り上がりを見せた。
『みんなー、ありがとー!』
莉緒の声が負けちゃうくらいの大歓声に、ステージに上がったメンバーはみんな嬉しそうにしてる。
『というわけで、それじゃあ次が最後の曲――なんっ・ですっ・がっ! ごめん、ちょっとお預け!』
彼女がそう言ったとたん、会場内が少しざわつく。
莉緒、いきなりどうしたんだろう。なんかあったのかな?
彼女はそんな観衆を鎮めるように、ばっと右手を振り上げる。
『実はですね、この後、映研部と演劇部の合同制作映画の上映があるの。だから、そっちが先! あ、先っていうより、その映画のエンディング、私たちが生演奏しちゃいまーすっ!』
「えっ?!」
多分、この講堂内で一番驚いたのは私だと思う。そんな話、一切聞いてない。
だから私は、確実に事情を知っているであろう人物へと視線を向ける。
「ちょっと愛美。あれ、どういう……」
「へへへ。莉緒にね、こっそり頼んでおいたんだ」
「こっそりって……」
「だってさ、軽音部目当てで来た人も、絶体逃がしたくないじゃん? せっかく上映するんだから、少しでもたくさんの人に見てもらいたいし」
「いや、それは分かるんだけどさ、なんでいちいち私に内緒にするの?」
「えー、そんなの決まってんじゃん」
愛美は呆れたようにそう言うと、
「朱音のびっくりした顔、大好きだから」
悪びれた様子もなく、満面の笑みを浮かべた。
「……ばか」
そうこうしていると、舞台脇から演劇部員たちが出てきて、スクリーンのセッティングや上映機器の調整を始める。
「愛美は行かなくていいの?」
「うん。夏葉がね、朱音のそばに居てやれって」
「なにそれ。私は子ども?」
咄嗟にそう返したけど。でもその気遣いはちょっぴり、嬉しかった。
遮光カーテンが閉められる。会場が暗闇に包まれる。そして正面の大きなスクリーンに光が灯り、とうとうその時が始まった。
『うげー……課題だる―』
夏葉の第一声。
『ナツハ、もう少しシャキッとしなさい』
続けて私の声。
そうして始まる日常シーン。当たり前だけど、画面には夏葉と私の姿が大きく映っている。
なんだか、急に照れくささを感じた。もちろん、このくらいの観客の前で演技したり、自分の演技を後から映像で見返したりすることは今までに何度もあったけど……でもこうしてスクリーンに映し出された自分を、観客と一緒に見ることなんて初めてだったから。だから少しだけ、頬が火照った。
そうして、突然響き渡る絶叫。ついに、ゾンビの初登場シーンだ。三階から見下ろした先の血だまり、倒れた女生徒、そしてそれを貪り食う異形の怪物。
正直、圧巻だった。大画面に大音量、それにこれだけの観客を前にした映画の迫力って、こんなにすごいんだと改めて思い知った。続けて入る、助けを求めた女生徒が廊下の奥へと引きずり込まれていくシーンは、本当に背筋が凍るかと思ったくらい。
恐怖に竦むナツハとアカネ。
悲鳴の残響が薄れたら、残ったのは静寂だった。先ほどまで歓声に包まれていた講堂が、今は怖いくらいの静寂に包まれている。観客の息をのむ音すら聞こえてきそうなくらいに、耳を刺すような静寂。
「やばいね、これ」
小さく囁くように愛美に言う。
「うん。すごくぞくぞくする」
彼女も気持ちは同じようだ。
手すりを持つ手が震える。
あまりに圧倒的な迫力に、そのすさまじい臨場感に。そして、私は今からここでクライマックスを演じるんだっていう、プレッシャーに。
そう、私たちは話し合って、クライマックスだけ演劇形式でやることにした。映像ではどうしても出せない、生の演技による臨場感を求めて。
でも、そんな必要なかったんじゃないか。この上映を見てしまった今、どうしたってそう思う。リハ上映の時は何とも思わなかったけど、実際に観客が入ったこの空気は、それ自体がもう最高の臨場感を醸し出していて。
やっぱり、映像のままで良かったんじゃないか。映画のクライマックスだけ演劇でやるなんて、余計な考えだったんじゃないか。
私の演技は、この映像の持つ迫力に勝てないんじゃないか。
手の震えが、肩まで伝わってくる。ゆっくり深呼吸してみるけど、どうしてもそれを抑えられなくて。足に力をこめて立つのがやっとで、一歩を踏み出すことすら出来そうにない。
私、やっぱり……
「大丈夫だよ」
震える手に、愛美の手がそっと重なる。
愛美は、いつもみたいに優しくて和かい笑みを湛えて、私のことをじっと見つめていた。
「朱音なら、絶対に大丈夫」
「……愛美」
その名前を口にしたら、心が少し落ち着いた。愛美の手から伝わってくる温もりが私の手の震えをゆっくりと抑えて、それがじんわりと身体中に広がっていくようで。
「……あったかい」
「でしょ」
「うん」
白い歯を覗かせた愛美に釣られて、私の口元も自然と綻ぶ。すっと肩の力が抜けて行って、緊張や不安まで消えて行くようで。
そして心には、安堵と自信だけが残った。
愛美は黙ったまま、ただじっと映画の行く末を見守っている。でもその手だけはずっと、私に重ねてくれていた。
「ねえ、朱音」
そうして、しばらくがたった頃。
「今夜だけどさ、空いてる?」
「夜? なんで?」
「ちょっと付き合ってよ、お花見」
「お花見?」
「うん、夜桜」
この子はまた、大切な本番前に突然――いや。きっと本番前だからこそか。
「いいけど……ふふっ」
「なに?」
「いや。愛美がお花見なんて、珍しいなって」
「そ、そんなことないよ。ただちょっと――春ってやつをさ。感じたくなって」
「なにそれ。大方、屋台の買い食いとかが目的なんじゃないの?」
「うっ」
「あ、図星だ」
「ち、ちがうし。そんなんじゃないもん」
「じゃあベビーカステラは?」
「食べる」
「牛串」
「もちろん」
「どんどん焼き」
「絶対食べる」
食べ物の名前を出すたびに、愛美の口元がどんどんと緩んでいく。
「呆れた。やっぱりそっち目当てじゃん」
「ちゃ、ちゃんと花も見るよっ」
「どうだか」
頬を膨らませる愛美がなんだかいじらしくて、思わず笑ってしまう。
そうしてついに、映画は終盤に差し掛かった。
「そろそろ、行かなきゃ」
「うん」
私の手に重ねた手、一度だけきゅっと力を込めて、愛美は少し名残惜しそうにそれを引いた。
ずっとここにいたいな。
愛美の隣から、離れたくないな。
そんな想いを振り切るように、私はすっと踵を返す。
一歩を踏み出す。
「朱音」
背中に小さく響いた声に振り返る。
そうしたら愛美は、とびっきりの笑顔で
「夜桜、約束だぞっ」
そう言って、右手を突き出した。
「オッケー、監督」
それにこつんと拳をぶつける。
この手に残った温もりがあれば、もうなんだって出来そうな気がした。
***
舞台裏に降りたら、夏葉がこちらへ手を振っているのが見えた。
「朱音ちゃん、こっちこっち」
鳴り響く大音響の中、彼女の声に導かれるようにその隣へ並ぶ。
「出番までは?」
「二分切ったよ」
「オッケー。夏葉、調子は?」
「バッチリですっ」
そう言ってぱぁっと笑う。
この局面でそれが言えるなんて、ほんと役者になったよ、夏葉。
前を見る。舞台袖からは、キツく斜めに傾いた大きなスクリーンと、そこに映った走る私たちが見える。
もうすぐ、出番だ。
「朱音ちゃんさ」
そんな緊張感の中、夏葉が小さく言う。
「最近、変わったよね」
「え?」
「なんだか、すっごく大人っぽくなった」
「なに、いきなり」
「えへへ……ごめん、変なこと言って」
「ほら、集中」
「はーい」
夏葉がそう口にした瞬間、突然スクリーンに灯った映像が消えた。音響も全部止まって、あたりはただ純粋な暗闇に包まれる。
観客のざわめきが聞こえる。なにかトラブルかと、きっとみんながそう思っているだろう。
そうして数秒。空から突然、光が降り注ぐ。
さあ、出番だ。
「じゃあ、行こっか。朱音ちゃん」
夏葉が手を差し伸べる。
「オッケー、夏葉」
その手を取って、私たちは走り出す。
二階から向けられたスポットライト、その丸い光が照らす舞台の上へ。
愛美、見てて。
私、あなたに届けるから。
私の気持ち、覚悟、想い。
その全部をあなたに、きっと届けるから。
だから、見守ってて。
絶体にこのステージを大成功に終わらせて。
それで、夜桜。二人で行こうね!
彼女への想いを胸に、私は飛び出す。
スポットライトが眩く照らし出す、
スクリーン、その前へ!
スクリーン、その前へ! いっぱんねこめいと @yuri-sagan
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