第7話
湯船に浸かるのは、一日の中で一番気持ちが良い時間だ。これをシャワーだけで済ませようなんて、ありえないってつくづく思う。
身体中に散在する疲労が肌から染み出して、お湯の中へと溶け出していく。柑橘系の入浴剤の香りが鼻腔をくすぐって、ふわふわと身体が軽くなって、もう幸せの絶頂って感じで吐息が漏れた。
愛美の家のお風呂は広い。頭から足の先までを真っ直ぐ伸ばしても、まだまだお釣りが来るくらいだ。昔はよくここに二人で、遊びながら入った。最後に入ったのはもう、いつだっけ。
愛美、怒ってるかな。いや怒ってるよな、きっと。
なんか流れで泊まることになっちゃったけど、愛美に会ったらなんて言おう。私は自分の選択を、間違っているとは思わないけれど――でもやっぱり、謝ったほうがいいんだろうか。少なくとも相談もせずに勝手に決めたことについては、確かに私に非があるわけだし……。
「なるように、なるかな……」
ほんのりと膨らんだ胸に手を当てて、か細い声でそう呟いてみる。毎日嫌ほど顔を突き合わせている幼馴染に会うのが、今は何だかちょっと、怖かった。
よし、とりあえず第一声は謝ろう。その後は――流れを見て、何とかする!
そう胸に決意を刻んだら、私は心地良いお湯の中から身体を出した。
軽く身体を拭いて脱衣所に上がり、バスタオルで全身をしっかりと拭く。当然、替えの下着なんて持って来てないから、仕方なくさっき着てたやつをもう一度着ることにした。まあ少し気持ち悪いけど、今日は殆ど汗かいてないし、一日くらいなら我慢出来るかな。
だけど、流石に制服を着て寝るわけにはいかない。藍さんはパジャマ用意しておくって言ってたけど、脱衣所を見渡した感じそんなものは見当たらない。
まあいいや。とにかく、先に下着だけでも履こう。そう思って畳んでおいたブラとパンツに手を伸ばそうとした、まさにその時だった。
脱衣所のドアが、がちゃりと音を立てて開いて、
「お母さーん? 替えのパジャマ持って来たけど、こんなもん何に使――」
ぶつくさとそう言いながらいきなり入って来た愛美と、目が合った。
「へ?」
バスタオル片手に固まる私。それを、皿みたいに丸い目で見つめる愛美。
一瞬の沈黙。
のち、
「のわあああぁぁぁ?!」
自分でも驚くほど間抜けな声が出た。
「きゅ、急に入って来るなバカ! ノックくらいしろアホ!」
「ええぇ?! だ、だって自分の家だし――っていうかなんで朱音?!」
「うっさいバカ! そ、それ置いて早く出てけアホ! バカ! バカバカ!」
「な、なに? 何が起きてるんだよ?!」
私の語彙力は完全に吹き飛んでた。愛美は、もうわけ分かんないって感じでそのまま出て行ってしまう。
謝るつもり……だったはずなんだけど――でも、今のは愛美が悪い!
愛美に借りたパジャマは、少しサイズが大きかった。ちょっとだぼだぼするし、そのままだと袖が指の付け根まで来てしまう。
あと、なぜか胸の辺りがスカスカな気がする。もちろんパジャマにバストサイズなんてあるわけないけど……気持ちの問題か、それとも持ち主の体型のクセでも残ってるのか。
その後は三人、リビングで晩御飯を食べた。鰤の照り焼きをメインにして、副菜が何種類も並ぶとっても豪勢な食卓だった。それと、私が持って来たケーキ。
藍さんは「ちょうど一人分余ってたから良かった」って言ってたけど……いや、副菜はまだしも、焼き魚が一匹余ることってある?
だからそう聞いたら、
「……ちょうど、私だけ二匹食べるつもりだったの」
っていう変な言い訳が返って来た。いや、藍さん。旅行に行った結衣ちゃんの分だとか、明日のお弁当用だとか、もう少しマシな言い分があるでしょ。
そうそう、お母さんに持たされた謎のショルダーバッグだけど、中身は完全にお泊まりセットだった。開けてみると下着やらパジャマ、歯ブラシ、いつも使ってる保湿剤とかの化粧品が入ってて、もう完全に仕組まれてたんだって判明した。どおりでなんか様子がおかしかったわけだ。
とりあえず下着は替えて、パジャマは――一回袖を通しちゃったから、愛美のをそのまま借りることにした。無駄に洗濯物増やすのも、よくないし。
そうして脱衣所を出たら、二階から愛美の声が響いて来る。
「おかあさーん! 布団どこー?」
「え? ベッドでくっ付いて寝ればいいじゃない。昔みたいに」
「狭いっつーの! いいから布団!」
その後は布団運ぶのを手伝ったり、歯磨きなんかの寝支度を整えたり。そうこうしてたら、愛美の部屋で落ち着いた頃には、もう二十一時半を回ってた。
愛美の部屋に入ったのはもう数年ぶりくらいになると思う。昔はよくここでゲームだのアニメだの映画だの、好きなことして遊んでた。自室にテレビがあるっていうのがすごく羨ましくて、小学校の時なんて殆ど毎日通い詰めてた。
中学に上がって部活が始まったら遊びに来る機会もめっきり減って、高校では学校内に自分たち二人だけの部室を手に入れたから、来るのは本当に久々。だからだろうか。
「ここ、こんな狭かったっけ?」
「布団まで敷いたら、さすがにねー」
そうか。うん、そのせいかも。
ベッドとテレビの間を埋めるように敷かれた布団。私はその上にちょこんと座って、ベッドに座る愛美を見る。
お風呂上り、パジャマに着替えて髪を下ろした愛美は、何て言うか……うちの幼馴染、こんなに可愛かったっけ?
細く透き通る青い髪はいつにも増してさらさらで、優しい電灯の光を受けてつやつやと輝いていて。童顔なくせにちょっと膨らんだ柔らかそうな紅い唇がなんだか少し色っぽくて、それに緩んだボタンの隙間から覗く、白い胸元――もう! なに変なこと考えてんの!
私はきゅっと太ももをつねって平静を呼び戻すと、泳ぐ視線を誤魔化すように
「藍さんのごはん、やっぱりおいしいね」
って言った。
「ああ、あれ違うよ、今日が特別。普段、あんなにたくさんおかず用意しないもん」
「そうなの?」
「そうだよ。今日は結衣もいないから、総菜か弁当だろうなって思ってたくらい。なのに、昼過ぎからなんか張り切ってずっと台所に立ってるし」
「……なるほど」
やはりか。
「はぁ……いきなりケーキ持ってお見舞い行けとか言うから、変だなとは思ったんだよ。お泊りセットだって用意されてたし」
「いや、じゃあその時点で気付こうよ」
「だって、ここ着くまで開けるなって言われたんだもの。中、見えなかったし」
「そっか」
そこまで聞いて、愛美はキラリと目を光らせると
「ハメられたね、私たち」
「まったく」
真剣な顔でそう言い合って、でもすぐになんだか可笑しくなって、どちらからともなく笑った。
「てか、藍さん演技下手過ぎ」
「そりゃ、お母さん役者じゃないですから」
「それにしてもよ。なにあれ」
そう言ったらまた愛美が笑う。
「ね、なんか映画でも見ない? まだ寝るには早いでしょ?」
「いいじゃん。何見る?」
「うーん、そうだねぇ……」
愛美は腕を組んで唸る。そうしてしばらくしたら、
「よし! じゃあ、気になってたあれ見よう!」
そう言うなり、手元のスマホをとんとんと触って、とある作品のサムネイルを表示させた。
「『悪魔の毒毒シャーク』……サメ映画?」
「そう! 前から見よう見ようとは思ってたんだけどねー」
愛美はベッドからぴょんと立ち上がると、テレビにスマホを接続し始める。
「しかもほら、平均評価★4.5!」
「え、ほぼ満点じゃん」
「これは期待大ですな~」
画面が映ったのを確認した愛美は、そのまま私の隣にちょこんと座る。そうして、肩と肩が触れ合うくらいの距離まで近付いた彼女は、
「というわけで、お部屋デート映画鑑賞編。あーゆーれでぃー?」
「ふふっ……いつでもどうぞ」
頷いた愛美が、さっそく映画をスタートさせる。
そうして彼女と二人だけ、いつも通りの幸せな時間の幕が上がった。
「いやー……」
暗転した画面を前に、愛美の声が室内を埋める。
「この映画さ」
「うん」
「くっっっっっそつまんなかったね!!」
そう口にする彼女は、満面の笑みだった。
「いやもう、ここまでつまらないとすごいね! もう笑うしかないじゃん!」
「……確かにね」
私は半笑いで精いっぱいだけど。話の構成もめちゃくちゃだし、ワンカットが無駄に長くてテンポが悪いし、そもそもサメ全然出ないし。まさかサメが登場する総計時間より、狂った大人がサメの人形で遊ぶだけのワンシーンの方が長いなんてね。
なんでこれが評価4.5なのって思ったけど、中身を覗いてみたら『ちゃんとサメが出る! ★5』とか『ここまで酷いと逆に良い ★5』とか『たくさん笑って元気を貰えました ★5』とかの、頭のおかしい感想ばっかりだった。
「やっぱり他人の評価なんて、当てにならないね!」
「……そうだね」
「よっしゃ! じゃあ口直しにもう一本――と、言いたいところだけど」
愛美の視線が、テレビの上の壁掛け時計へと向く。
「さすがにそろそろ、寝なくちゃ」
時刻はもう二十三時過ぎ。普段ならまだ、全然起きてられるけど、
「明日、撮影だもんね」
そう言ったら、愛美がこくんと頷く。
「……明日、行けそう?」
「うん。ごめんね、二日も休んで」
小刻みに震えた肩の振動が、パジャマ越しに伝わってくる。
「大丈夫だよ。そのための予備日でしょ?」
「そうだね」
そう答えた愛美の笑顔は、なんだか少し、力なく見えた。
「……さっ! じゃあ、もう寝よっか! 寝よー寝よー!」
へんてこなリズムで口ずさみながら、愛美が部屋の電気を消してベッドに潜り込む。
私も布団に転がって、毛布にくるまった。
先ほどまで賑やかな音に溢れていた部屋が、一転して静寂に包まれる。外から響いてくる夜の街の声が煩いくらいに耳に残って、私はぎゅっと目を閉じた。
喧噪の後の静けさって、どうしてこんなに寂しいんだろう。映画見ながら愛美とたくさん話して、くだらない冗談言って笑って、そんないつもと変わらないさっきまでの声が、今はすごく恋しい。
「愛美。まだ起きてる?」
背を向けたまま、そう声をかける。
もしかしたら、返事なんてないかもって思った。でもベッドからはちゃんと「うん」って、返ってくる。
「あの、ね。えっと……」
上手く言葉が見つからなくて、私は声を詰まらせた。どうしよう、何を話せばいいんだろう。
そもそも私、今日ここに何しに来たんだっけ。
お見舞いのケーキを持ってきて、強引に藍さんに連れ込まれて、いつの間にか泊まることになって。
それで、喧嘩中の愛美と――
「――あの話、なんだけど」
「どの話?」
そう聞き返した愛美の声は、いつもよりずっと低かった。
いや、喧嘩中じゃないか。私が一方的に、愛美を怒らせただけだ。
そのことを謝ろうって、決めたんじゃなかったっけ。
「……ごめん。怒ってるよね」
「まあね」
明らかに不機嫌そうな声に、心臓がぎゅっと萎縮する。
ほんの少し、後悔した。この話題に触れなかったら、今日は楽しいままで終われたかもしれないのに。
でもそんなの、逃げてるだけだから。
だから私は背を向けたまま、たどたどしい声で、手探りに言葉を紡ぐ。
「私、いろいろ悩んで、たくさん考えて……えっと、それで……」
固まった唇が、声を発するのを拒んでいるようだった。
それでも。
喉の奥につっかえた塊を押し下すように、ごくんと唾を飲む。そうして出来た空気の通り道に、私は無理やり声を流した。
「それでやっぱり、どうしても……役者はもう、辞めようって」
「違う」
言葉が、止まった。
「そっちじゃない」
冷たく刺すような愛美の声。それが背中から心臓を貫いて来たようで、私はもう、指先一つ動かせなかった。
再び訪れた静寂。
「私、映研部のこと。絶対に辞めないから」
その静寂に、愛美が唸りを投げ入れる。力強く決意を込めたような、その奥に苛立ちを隠しているかのような。
「もちろん、演劇部にだって入んない。朱音と一緒じゃなきゃ、どこにも行かない」
「でも……」
何か、言わなきゃと思った。今それを受け入れたら、私は何も変われない。半年前の最低な自分のまま、なにも――
だけど、だってどう伝えれば……。
「……そっか」
私が何も言わないから、愛美が切り出す。彼女はどこか諦めたような声音でそう言って、そして
「朱音、そんなに私と一緒にいるのが嫌なんだ」
「ち、違う……っ!」
思わず飛び起きた私は、振り向いて愛美のベッドを見た。
窓から差し込む微かな光だけが照らす中、愛美はもう身体を起こしてこちらへと向き直っていた。冷たい視線だけを向けて、ただそこに座っていた。
「そんなわけ、ないじゃん……」
力なく項垂れる私に、愛美は何も言ってくれない。
「私だって……でも、だめなんだよ」
「どうして?」
「だって……愛美が演劇部辞めちゃったのは、私のせいで、でもそれって間違いで……愛美はみんなに必要とされてるし、それに、才能あるから、だから……」
どんな言葉を選んだらいいのか、もう分からなかった。でも、ちゃんと気持ちを伝えなくちゃ。その一心で、私はとにかく言葉を捕まえては、その端から想いを口にする。
そうして、私の言葉が途切れた時。
「は? 間違い? 才能?」
今までに、聞いたことのない声音だった。怒りを秘めた、低く唸るような声。それが愛美の口から発されたってこと、すぐには信じられなかったくらい。
でも顔をあげたら、太ももの上で握った拳をわなわなと震わせながら、私を睨む愛美が見えて――疑いようもなくなった。
「あ、み……?」
「……朱音さ。そんなくっだらない理由で、私を映研部から追い出そうとしたわけ?」
「別に、追い出そうとしたわけじゃ……それに、くだらなくなんて」
「いや、くだらないよ。本当にくっだらない。さっきの映画の方が千倍はマシ。くだらなさすぎて笑える」
低く這うような声音、ぴくりとも動かない眉、鋭く細まった視線、硬く結ばれた唇。そのどれを崩す気配すら感じられなくて、私はもう、彼女に目を合わせていられなくなった。
だけど、でも私は――
「だって……わたし、だって、一生懸命考えて……演劇部に、愛美のためにって」
「そんなの、誰が頼んだんだよ」
押し殺したような怒声。それに気圧されて、一瞬息すらも出来なくなった。
だけど愛美は、やめない。
「いつ頼んだんだよ。私、本当は演劇部辞めたくなかったのに、朱音のせいで辞めることになったんだよって。だから責任取って部長に掛け合ってくださいって。そんなこと言ったのかよ」
「そんな、そうじゃ……」
「でもそうでしょ、朱音のしたことは……頼んでもないのにさ、自分で勝手に! ふざけるなよ、何が演劇部に戻れだよ!」
もうそれは、叫び声になっていた。隠した怒りを曝け出すように愛美は声を張り上げて、弱った私を痛めつけるみたいに言葉を吐き捨てていく。
そして、
「私のことを、あんたが勝手に決めるなよ!」
だって愛美が、そう言うから。
そんなこと、言うから……!
「……愛美だって、そうじゃん」
「はぁ?」
「愛美だってそうじゃん!」
私ももう、限界だった。
「いつもいつも、勝手に決めるのは愛美の方でしょ! 映研部立ち上げた時だって、この映画作る時だって、私に何も相談せずに全部勝手に決めたくせに!」
「そうだよ、全部朱音のためにやったことでしょ!」
「そんなの、私だって同じだろ! 愛美のためを思ってやったことじゃん!」
「朱音とは違う! 一緒にしないでよ!」
「はぁ? そうやって自分のこと棚に上げてさ! いつもいつも、説明もなしに振り回されるこっちの身にもなれよ!」
もう自分でも抑えられなかった。こんなことやめよう。頭の片隅でそう思っても、胸から湧き上がってくる強い感情を、どうしたって止められなくて。
「愛美のバカ! 私がどんな気持ちで半年過ごして来たか、何にも分かんないくせに!」
そう言ってしまった時。愛美の中で、何かが切れた気がした。
「じゃあもういいよ! 昔みたいにずっとそうやって、ひとりでうじうじ悩んでろよ!」
「なんだよ、その言い方……!」
「うっさい! ひとりじゃ何もできないくせに! 弱虫で、怖くてなんも出来なくて、閉じこもることしか出来ないくせに!」
「なにが……!」
「そうだろ! 本当は私に引っ張ってもらえること、満更でもないくせに!」
「そんなわけないでしょ! 迷惑なのよ、愛美の自分勝手は、いつもいつも!」
「ああそう、分かったよ――分かったよ……っ!」
愛美の声音が震える。肩に入った力が少し抜けて、でも代わりに小刻みに震え始めて。
そして私を睨むその瞳が、いつの間にか潤んでた。
「じゃああの時、私が映研部立ち上げたのも迷惑だったんだ!」
「なに、そんなの……!」
「仕方なく付き合ってくれただけで、本当はひとりで放っておいて欲しかったんだ!」
「だって、それは……!」
「映画やるって言ったのだって、主演に抜擢したのだって! 演劇部にお願いしたのも、夏葉と組ませたのも、朱音を――朱音のことを、信じたのも! 全部全部、迷惑だったんだ!」
愛美の叫びがこだまして、幾重にも耳の奥で鳴り響いた。
でもその残響が消えたら、部屋にはもう、肩を震わせる愛美の乱れた呼吸音だけが残る。
静寂と呼ぶにはあまりにもうるさくて、でも喧騒と呼ぶにはあまりにも寂しすぎて。
愛美は唇を小刻みに動かしながら、何か続けようとして、でも結局何も言わなくて。
だから、私は。
「……し、かった」
唇から、想いが溢れる。
「うれし、かったよ」
もう、嘘は付けないって思った。
愛美の前で、嘘なんか。
「……うれしかったよ。ひとりで勝手に孤立して、行き場所もなくて……でも、愛美だけはそばにいてくれて……嬉しくないわけ、ないじゃん……」
声の震えが、抑えられない。
「でも、だから辛いんだよ……辞めなくてよかった愛美まで、巻き込んで……だから、愛美だけは……」
「……バカじゃないの」
「え……」
「だから、バカって言ってんの!」
「でも、だって……愛美は私と違って、才能が」
「才能がなかったら、一緒にいちゃいけないのかよ!!!」
愛美は叫んだ。声を張り上げて怒鳴った。
でも今度のその声音は、どこか訴えるようだった。
怒りよりむしろ悲しさが溢れ出るようで、苛立ちの奥に優しさを隠したようで。
そして掴んで、離したくないって願うようで。
だって彼女は、泣いていたから。
「いいよ。役者なんて、辞めたきゃ辞めなよ。朱音が悩んで悩んで、それでもどうしても辞めるって決めたんなら、好きにしなよ」
「…………」
「だって私、分かんないもん。役者の苦しみとか、悩みとか、そんなの何にも分かんない!」
目から溢れた滴が頬に垂れて、それがぽろぽろと零れてベッドに染みていく。でも愛美はそんなこと気にもせず、ひたすらじっと、私を見つめる。
「だから、辞めたきゃ辞めなよ。演技に真剣に向き合ってない私が、それを止める権利なんてない。
でも、だから朱音にだって、私のことを決める権利なんてない。朱音と一緒にいたいって私の気持ち、止める権利なんてないじゃん!」
「それ、は……」
何も言えなかった。愛美の感情が押し寄せて、心を攫っていくようで、だから私は、何も言えなかった。
何も、言えなかった。
「……だってさ、今だけなんだよ」
ひどく優しい声。
声の震えを必死に抑えて、でもどうしても抑えきれなくて、溢れだすような愛美の感情が全部乗ってしまったかのような声。
それが私の肩を揺する。
私に気付かせようとする。
「生まれてから今まで、当たり前だった。朱音とこうやって毎日、一緒に会って、話して、部活して、笑って……でもそんなこと出来るの、高校が、最後かもしれないんだよ? 大学生になって、社会人になって……そしたらもう、朱音と会える機会なんて、全然なくなっちゃうかもしれないんだよ……?」
「…………」
「だから、私はいま、全力で朱音といたい。演劇も映画も、そんなのどうだっていい! 朱音と毎日一緒に過ごせるんだったら、そんなもの、どうだって……!」
「愛美……」
「朱音は……それじゃ、嫌なの……?」
愛美の切実なその声が、心の中にすっと入り込む。余計なものを全部壊して、身体中に染みわたって、私の全部を包み込むようで。
「……そんな、わけ」
だからもう、私も限界だった。
「そんなわけ、ないよ……!」
そう口にしてしまったら、もう最後だった。意地を張っていた心が溶けて、強がっていた気持ちが崩れて、私の全部が曝け出されてしまったようで。
溢れた涙が止められなくて、でもそれを止めたくもなくて、私はもうただ、叫ぶように声をあげる。
「私だって、愛美と一緒に……一緒にいたいよ! 部活もしたい、一緒に帰りたい、パフェだって、また行きたい! もっともっとたくさん話して、ふざけて、笑って……そうしたいよ! 愛美とずっとずっと、一緒にいたいよ!」
最後の方は、もうほとんど聞き取れなかったと思う。しゃくり上げるようで、信じられないくらいぐちゃぐちゃで、醜く震えた声音で、溢れ出る言葉をそのまま全部吐き出して。
だけど。
「朱音」
気付いたら、愛美がベッドを降りて、目の前にいた。掠れて歪んだ視界だったけど、その笑顔はいつもよりはっきりと見えた。
「あ、み……ごめ、ごめんな、さ……わた、し……あみと、いっしょに……」
愛美は泣きじゃくる私に顔を寄せて、そのままぎゅっと抱きしめる。優しい力で肩を抱いて、涙でぐちゃぐちゃになった頬に躊躇いもなく自分の頬をくっ付けて。それでもまだ泣き止まない私に、
「最初からそう言えよ。ばか」
そう言って、肩を抱く華奢な腕に、きゅっと力を込めた。
***
こんなに泣いたのは、久しぶりだと思う。久しぶりというか、初めてかもしれない。そのくらい私は泣いた。幼馴染の目の前で、恥ずかしげもなくわんわんと声をあげて泣いて、泣いて、泣き疲れるまで泣いて。
そうして、やっと落ち着いて。
私はいま、愛美と並んでベッドに腰掛けている。
「本当はね、ずっと自信なかったんだ」
愛美と肩をくっ付けて、ぽつりとそう呟く。
「それって、演技のこと?」
「うん。この撮影で、夏葉の演技に圧倒されて――それがきっかけで辞めようと、思ったんだけど……でも、きっとね。本当はもっと前から、自分でも知らないうちに、気付いてたんだと思う」
本当はきっと、半年前に演劇部を辞めたあの日から気付いていたんだ。自分でも知らないうちに、でも心のどこかできっと分かってた。
自分の演技じゃ、人の心は動かせないって。
演技に感情を乗せられなくて、だから私は外的反応を真似て外面を埋めた。でもそんな偽りの演技なんかじゃ、人の心は動かない。
そう、本当は半年前から分かってた。だってそうじゃなきゃ、いずれ引退する三年生なんかに気を遣って、大好きな演劇を辞めたりするはずない。仮に部活は辞めたとしても、地域の劇団に入るとかして、演劇を続ける道なんていくらでもあった。演劇自体を辞める必要なんてどこにもなかった。
でも、私はそうしなかった。
三年生との衝突っていうもっともらしい理由をもらって、仕方ないって自分に言い訳して、私は演劇から逃げた。
だから、夏葉に負けたなんて言い訳だ。私はただずっと、役者を辞めるためのもっともらしい理由を探していただけなんだ。自分を、周りを納得させるだけの理由を探して、うじうじと自分の殻に引きこもって。
そんな卑怯者の話を、愛美はただ黙って聞いてくれた。肩を寄せてただじっと、一言も喋らずに聞き終えて。そして、
「朱音の演技、そんなにダメなのかな」
澄んだ声音で、そう言った。
「ダメだよ、こんな演技じゃ。夏葉の足元にも及ばない」
「確かに、夏葉の演技はすごいよ。感情が凄く乗ってるし、成長も早いし。私もすっごく驚いた」
「そうでしょ。だから」
「じゃあ、朱音って夏葉みたいになりたいの?」
「いや、そういうわけじゃ……ただ技量というか、上手さと言うか、演技のレベル的な意味の話で」
「朱音は朱音の演技じゃ、ダメなの?」
愛美の声音は、本当に純粋だった。嫌味や皮肉じゃなくて、純粋で無邪気で。ねえねえ、どうしてだめなのって、小さい子供に聞かれてるみたいな。
だから私は諭すように、もう一度はっきりと言う。
「ダメだよ。だってこんな演技じゃ、人の心は動かない」
「でも、私の心は動いたよ?」
「え……?」
思わず、愛美を見た。
そうしたらどこまでも真っ直ぐな青い瞳が、じっと見つめ返してきた。
「だって私、朱音の演技に出会わなかったら、演劇なんてやってなかったし」
「それって――小学生の時の、卒業公演のこと?」
愛美は頷く。
「あの時ね。本当に、すごいって思った」
頭の片隅に、古い記憶が浮かび上がる。小学生の時に、お母さんの付き合いのあった劇団に入れてもらって演劇を勉強していたこと。その劇団の公演に何度か出させてもらったこと。そして最後の公演の時、愛美が初めて、私の劇を見に来たこと。
確かに愛美は、あの劇を見た後から少し変わった。演劇に興味なんてなかったくせに色々聞いてくるようになったし、それに中学の時はいきなり演劇部に入るなんて言い出して。
だから愛美の中で、あの劇には何か心惹かれるものがあったんだろう。
だけど。
「……そりゃ、小学生にしては少しはマシな演技だったかもしれないけどさ。でもあのレベルじゃ」
「ううん、違うよ。私が言ってるのは、その後のこと」
「その後?」
「うん。朱音さ、あの劇の後、舞台裏で泣いてたでしょ」
「泣いてた? そうだっけ?」
思い当たる記憶がなくて、私は首を傾げる。
でも愛美ははっきりと言う。
「うん。もうびっくりするほど涙こぼしてさ、ボロ泣きだったよ。さっきくらい泣いてた」
「そんなこと…………あっ」
その時、本当に不意にあの日のことを思い出した。それも、なんで今まで忘れていたんだろうってくらい鮮明に。
あの日の演題は『銀河鉄道の夜』。もちろん私は脇役で、全体から見たらほんの一部しか出番がなかったけれど、この劇団での最後の公演だからとすごく張り切ってた。練習もたくさんしたし、ミスなんて絶対にしない。そう思っていたのに。
あの日、私はミスをした。
「確か、セリフが一つ、飛んで……」
幸いなことに、それは重要なセリフではなかった。主演のカバーで難なく自然に乗り切れたし、多分観客もほとんどが分かってなかったと思う。
でも、自分は本番でミスをした。それも、セリフを飛ばすなんていうあってはならないミスを。そのことがすごくショックで、頭が真っ白になって――
「私ね。あの日の朱音の演技、本当に完璧に見えたんだ。演劇に興味なんてなかったけど、朱音が上手なことはすぐ分かった。だから、終わったら褒めてあげようって思って」
「……そうだったんだ」
「うん。でもさ。朱音は裏でボロ泣きしてて。私、本当にびっくりしたんだよ。なんで泣いてんのか、全然分かんなくて。なんか言わなきゃ、でもなんて言ったらいいのか分かんなくて」
「…………」
「そうやってあたふたする私にさ。朱音、なんて言ったか覚えてる?」
愛美の言葉に、私は小さく頷く。
あの日、私はミスをした。それがすごく悲しくて、本当に情けなくて、どうしようもなく悔しくて。悔しくて、悔しくて、私は泣いた。
そして泣きながら、言ったんだ。
「「わたしやっぱり、演技が大好き」」
二人の声が、ぴったりと重なる。
演技の面白さに心を奪われて、自分の演技とだけ向き合って、ただひたすら純粋に演技が大好きだったあの頃のこと。
どうして今まで、忘れてたんだろう。
「私には、演技のことは分かんない」
愛美は続ける。
「でもさ。上手く行ったら本気で喜んで、納得いかなかったらボロボロ泣いて――それだけ真剣に演技と向き合って、情熱燃やして頑張ってる人間の演技がさ。誰の心も動かせないなんてこと、あり得ないでしょ」
「…………」
「もし仮に、たとえ今は無理でもさ。朱音なら出来るよ、絶対」
何の根拠もない言葉だった。
あり得ないとか、絶対とか、そんなの誰にも分かるわけない。
だけど。
「……うん」
私は頷く。
口元を綻ばせて、頬骨を釣り上げて、綺麗な愛美の瞳を見ながら力強く頷く。
朱音なら出来る。
愛美がそう言ってくれた。愛美が言ってくれたんだ。
私の大切な幼馴染が、私を信じてそう言ってくれた。
それだけでもう、私には充分だって気付いたから。
「だいたいさ。朱音、自分の演技に自信ないとか、人の心を動かせないとか言うけど! あんたの演技に心を打たれて、興味なかった演劇部に入部させられて、今はなぜか映画まで撮影させられてる人がここにいるんだけど?」
「え……じゃあ何? 愛美、この映画撮ろうって決めたのって――」
「朱音の演技がもう一回見たかったからに決まってんじゃん! そのためにカメラも買ったし、一から撮影と編集の勉強までした」
もう、返す言葉がなかった。だって、そんなに堂々と言われたらさ。
にやけ始めた顔を隠すように背けた私に、愛美は。
「とにかく、私は朱音の演技に心を――違う。朱音に人生狂わせられたんだから! むしろ朱音こそ、責任とってよね!」
「なにそれ」
そう返した声が、どうしたって上ずる。
だからそれを誤魔化すように、
「ほら、バカなこと言ってないで、もう寝るよ」
「はーい」
そう言ったら、愛美は元気に右手をあげて、そのままベッドへと潜り込んでいった。
ほんと、調子いいんだから。
少し吐息を漏らして微笑んで、私も自分の布団へ戻る。
「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみっ!」
上機嫌な愛美の声を耳に残して、私は大きく息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
静寂が二人の間を埋める。
暗闇が私たちを隔てる。
薄目を開けてみれば、窓から微かに差し込む光の向こう、背を向けて横になっている愛美が見えた。
愛美。
私の大切な幼馴染。
小さい時からずっと一緒で、何をするにも一緒にいて、気付けば高校まで一緒だなんて。もうこのまま一生一緒なんじゃないかって錯覚してしまうほど、私の中でその存在は当たり前になっている。
でも、そんなことないんだろうな。さっき愛美が言ったみたいに、いつかは離れ離れになって、会えない日が多くなって。そうなってから初めて私は、愛美の大切さに気付くのかな。
失うときになって初めて、当たり前の大切さに気付くのかな。
今はいつだって、手を伸ばせば届く距離にいるけど。いつかはどれだけ手を伸ばしたって、どれだけ追いつこうとしたって、もう追いつけなくなって。
そんな日がいつか、来ちゃうのかな。
そう思ったら急に、心に不安が押し寄せた。
だから。
「……起きてる?」
恐る恐る、そう声を発する。何も返って来ないかもって思った。でも小さく「どしたの?」って声が返って来たから、私は心から安堵してため息を漏らす。
あぁ、愛美の声だ。
明るくて、優しくて、耳にすっと馴染んでいくような、私の大好きな声。
「朱音?」
しばらく私が何も言わないから、愛美が心配そうに振り向いた。
愛美と目が合った。
ごめん、呼びたくなっただけなんだ。なんとなく愛美の声が、聞きたくなっただけ。
そう言っても良かったんだけど、でも――今日くらいは。
胸の前できゅっと手を組む。
大きく大きく息を吸う。
そうしてついに、意を決するように、
「……やっぱり、私もベッドが良い」
震える声でそう返した。
そしたら、愛美は。
「あ、いいよいいよ! ごめん、布団硬かった? 私どこでも寝られるからさ、朱音はベッドで」
「バカ、そうじゃなくて!」
「え? どゆこと?」
「だから……あぁもう!」
どうしたってこいつは、肝心なところで察しが悪いんだ。私は少しむっとした表情で立ち上がると、ぽかんとした表情を浮かべるバカのところまで寄って、ベッドの端に腰を下ろす。
「……詰めて」
「へ?」
「いいから、もっと壁寄ってよ! 狭いでしょ!」
「狭いって………………あっ」
やっと気付いたかよ、ばか!
愛美は、ヘビに睨まれたカエルって感じでカチンと固まると、皿みたいに丸くした目で私を見る。
「はやく」
「は、はいっ!」
威勢良く返事した割に、のろのろもぞもぞと身体を捩らせた愛美は、時間をかけてゆっくりと壁に寄っていく。
「……どうぞ」
「ん」
そのままベッドに潜り込んだら、愛美の身体が背中に触れた。吐息が耳元で聞こえてきて、なんだかちょっとくすぐったい。
「……あの。朱音、さん?」
「なに」
「いや、えっと……これ、どういう」
「うっさい。黙って寝ろ」
ぴしゃりとそう言い捨てて、私はギュッと目を瞑る。
でも視界をふさいでしまったら、背中に感じた愛美の気配が、なんだか余計と鮮明に感じられる。私が少し身じろぎする度にいちいちぴくっと震えるし、なんかいつもより呼吸が浅い気がするし……
「……愛美、緊張してる?」
「へっ?!」
その場で飛び上がりそうなくらい、びくんと大きく跳ねた愛美は、
「しししししてるわけないじゃん! ほ、ほら、昔はよくさ、こここうやって寝てたし! そんないまさら、ききき緊張なんてするわけないでしょまったくもーははっはははっ」
……へぇ、そうなんだ。
自分で言っといてなんだけど、久しぶりの愛美のベッド、私はちょっとどきどき、してるってのに。
そうかそうか、ふーん。
だったら。
「ぎゅってしたい」
「どぅえっ??!」
およそ乙女の声とは思えない奇声がいきなり飛び出して、私の身体がびくっと跳ねる。
「ちょっと、いきなり変な声出さないでよ」
「だ、だだだって、あ、朱音が急に、変なこと、言うから!」
「は? 変じゃないし」
少しムカついて寝返りを打つ。
「…………っ」
そこには、暗闇でもはっきりと分かるくらい、耳まで真っ赤に染めた愛美がいた。
吐息が掛かるくらいの距離で、お互いに顔を突き合わせて固まる。合わせた目線も逸らせなくって、そのまま見つめあうみたいな形になって……
「……なん、だよ。じろじろ、見る、なよ……」
「だって愛美。顔、赤いから……」
「そ、そんな、こと……ないもん」
うそ。今にも湯気出そうなくらい真っ赤にしてるくせに。
「あ、朱音だって……赤いし」
「……うっさい」
そんなの、いちいち言われなくても分かってるよ。ばか。
「……ぎゅって、してもいい?」
「…………はい」
やっと素直になった愛美を捕まえるように、私はゆっくりと彼女の肩に腕を回す。ほんの少し力を込めて引き寄せようとしたら、愛美は一瞬ぴくっと跳ねて、でもすぐに観念したみたいに力を抜いた。
愛美の身体はびっくりするほど強張ってたけれど、でもやっぱり女の子だから、すごく柔らかくて。だから逃げちゃわないように、私はきゅっと彼女を抱き締めた。
「ぁ……」
愛美が、小さく声を漏らす。くっついた胸から伝わってくる心臓の鼓動がはっきりと伝わって来て、だからドキドキしてたのは自分だけじゃないって分かって安心した。でもこれ、きっと私のも――愛美に、伝わっちゃってるよね。
「愛美」
「……なに?」
愛美の声が、すぐ耳元でする。言葉を乗せた吐息がくすぐったく耳に響くから、自然と少し身じろいだ。
少しの沈黙すらも心地良くて、触れ合った肌から愛美の熱が伝わってきて、このまま溶けてしまいそうで。
でも私は、ちゃんと愛美に伝えたい。
「いつも、ありがとう」
囁くように、そう言った。
「私ね。愛美と幼馴染で、本当に良かった」
声に出したら急に恥ずかしくなって、誤魔化すように腕に力を込める。
「そんなの、私だって」
震えて消え入りそうだったけど、それは確かに愛美の声だった。そう言い終えたら、愛美は私の脇の下から腕を入れて、背中を優しく抱き寄せる。
もう、心臓が破裂しそうだった。今までに感じたことないくらいの熱を帯びて、胸の奥が苦しくなる。痛いくらいに脈打って、信じられないくらい鼓動が早くなって――
こんなにドキドキするのに。こんなに苦しいのに。
でもなんだか、すごく落ち着く。
愛美の吐息が、熱が、匂いが、触れあった肌が、鼓動が、緊張が、ドキドキが、喜びが。そんな愛美の全部が伝わって来て、私と一緒に溶け合うようで、すごく、すごく心地良くて。
「愛美」
「なに?」
優しい声。
「このまま、寝れそう?」
「どうかな」
すごく落ち着く声。
「じゃあ、もう離れよっか?」
「絶対だめ」
私の大好きな声で、愛美は
「ずっと、このままがいい」
そう言って、少し笑った。
「分かった」
ゆっくりと目を閉じる。
「おやすみ」
そっと、愛美の胸元に顔をうずめる。
愛美は何も言わずに、背中に回した手でただ優しく、私の頭を撫でてくれた。
ずっとこの時間が、続けばいいのになって思った。
***
「ん……」
ふと感じた眩しさに、顔を顰めて薄目を開く。もう朝? って思ったけど、それにしては暗すぎる気がする。
「んぅ……」
寝ぼけてぼやけるまなこを擦って何とか目を開けると、すぐ目の前に、うつぶせでこちらを覗き込む愛美の顔が見えた。
「ごめん、起こした?」
「あ、み……?」
瞬きを何回も繰り返したら、少しずつ視界が開けてきた。どうやら、愛美がベッドサイドに灯した小さなライトに起こされたらしい。
「いま、なんじ……?」
「ごめん、まだ全然深夜。なんか、さ……どうにも寝付けなくて」
ちょっと申し訳なさそうに、愛美はそう言った。そうして可愛らしくはにかんだ彼女の顔の下には、見覚えのある冊子が一冊。
「だいほん、よんでたの?」
「うん。明日の撮影前に、ちょっと読み直しておきたくて」
ぼやけてた視界がほとんど戻って、頭もちょっと冴えてくる。
「朱音はまだゆっくり寝てて。私、机の方行っ」
「やだ」
身体を起こそうとする愛美の胸に腕を回して、きゅっとしがみつく。
「いかないで」
「……あまえんぼ」
「いいの、きょうは」
愛美は頬をかきながら、逸らした目線をこっちに向ける。さっき――って言っても、多分数時間前だけど――あれだけ恥ずかしい思いをしたんだ。今さらこのくらいどうってことない。
……いや、やっぱりちょっと恥ずかしいかも。けど、いいや。愛美を捕まえられたなら。
「隣で、気にならない?」
「いい。もう目が覚めちゃったから」
私がそう返すと、愛美はゆっくりと身体を沈め、うつ伏せになって台本を開く。私も愛美と同じ体勢になって、ぐっと身体を寄せた。
愛美は、明日撮影する部分を読み直していた。指で台本をなぞりながら、小さな声で中身を読み上げていく。私は邪魔しないように彼女の隣でじっと台本を見つめて、ときどきは愛美の真剣な横顔を盗み見たりしながら、隣で幸せな時間を過ごした。
「……うん、よし。ここまでにする」
「もういいの?」
「流石に寝なくちゃ」
そう微笑んで、ぱたんと台本を閉じる。そうしてベッドサイドのライトへと手を伸ばして――
「――ねえ、朱音」
電源のスイッチに触れたまま、愛美は手を止める。
「ちょっと、いいかな」
「どうしたの?」
「えっと、その……相談が、あって」
ずいぶんと歯切れ悪くそう言った。何やら迷いがあるのは明白で、そしてきっとそれは、台本のことだって直感的に思った。
だから。
「クライマックスでしょ」
「え?」
固まってた愛美が、ばっと顔を向ける。
「なんで分かったの?」
「分かるよ。納得行ってないんでしょ」
そう口にしたら、愛美は本当に心底驚いたって顔をしてた。「顔に出てた?」って聞かれたから「出てなくても分かる」って返しておいた。
「最後、ナツハを見送る場面?」
「まいったな……全部お見通しじゃん」
「まあね」
予想が的中して、私は満足げに口元を綻ばせる。
そして、愛美はその迷いをゆっくりと話し始めた。
この映画のクライマックス。体育倉庫にアカネとナツハが逃げ込んで、もう安全だと思ったところにナツハが噛まれているのが判明する。ゾンビに噛まれたんだから、当然ナツハはもう助からない。でもアカネはそれを受け入れられなくて、ナツハに一緒にいようとせがむ。でも、親友を危険に晒したくないナツハは、アカネをひとり残して安全圏を立ち去る。それを立ち尽くしたまま、呆然と見送るアカネ。
この時、アカネは何も言わない。親友の死を受け入れられなくて、自分の気持ちの整理が付かなくて、心の中がぐちゃぐちゃになって、ただゆっくりと咽び泣くだけ。
「多分、咄嗟に言葉なんて出てこないと思うんだ。しかも、本当に突然知ったことだから余計に。死を覚悟した親友を見送るときなんて、きっと黙り込んじゃうだろうなって思って」
「うん、一理あると思うよ」
「でもね、やっぱり何度読み返しても――それにこの前撮影した場面を、何回見返してみても――どうしても、何か足りない気がして」
「そっか」
「あ、もちろん、朱音と夏葉の演技が悪いって意味じゃないよ。二人の演技、本当に最高だった。一発オッケー出したのも本心だよ。だから何か足りないとすれば――やっぱり、脚本だと思うんだ」
手元に広げたクライマックスの台本、その最後の場面を指でなぞりながら、愛美は悩ましげな唸り声をあげる。
「だから、最後に何か一言アカネに言わせようと思ってずっと考えてたんだけど――どうしてもいいセリフが思いつかなくて。なんか、何を言わせてもしっくりこない気がするんだ。カッコつけたセリフだとすごく浮いて見えるし、逆に飾らないセリフは蛇足って感じがして」
台本の白紙の部分には、いくつかのセリフ候補と思われる文言が躍っている。でも確かに、愛美の言うとおりだと思った。この物語の最後を飾る大事なセリフ、うかつなものは選べない。最悪、作品全部が台無しになる可能性がある。
「一言でビシッと決めようとしないで、ちょっと長めのセリフを入れるのも考えたの。アカネのナツハに対する思いを、少し語らせるような感じの。だけどそれだと、今度はせっかく作った臨場感や緊迫感が欠けちゃう気がして……」
そのあたりのバランスは本当に難しいんだと思う。このたったワンシーンのためだけに、愛美はいったいどれほどの時間悩んだんだろう。そうして今も、答えが見えない闇の中を藻掻いて、それでもなんとか進もうと努力し続けている。
そんな愛美の力になりたい。そう思ったから。
「そのセリフ、私に書かせてくれない?」
気付いたら、そう口にしていた。
「え……?」
愛美は見開いた目をぱちくりさせながら、私をじっと見つめ返す。
「朱音、書けそうなの?」
「分かんないよ。でも、やってみたいの。それに――」
一瞬だけ目線を逸らした。
でもすぐに、もう一度愛美の目を見つめる。
「ちゃんと、向き合ってみたいんだ。アカネの気持ちに」
自分に言い聞かせるように、そう言った。
私には、キャラクターの気持ちは分からない。人の気持ちが分からない。
でもだからこそ向き合うんだ。向き合って、真剣に考えてみるんだ。
演技が大好きな自分のために。そしてこんな私を信じてくれている、大切な幼馴染のために。
「――分かった。お願いします」
ちょっと畏まったように、愛美はぺこりと頭を下げる。
そうして頭を上げたら、今度は握った右手を小さく掲げてきた。
「了解、監督」
そう返して、その右手にこつんと拳をぶつける。
先に愛美が笑った。だから私も笑い返した。
狭いシングルベッドの上で、私たちは肩を寄せ合いながら、その声を深夜の静寂へと溶け込ませていった。
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