第6話
映研部室って、意外と広いんだ。
初めてそう思ったのは確か、愛美とここを立ち上げてすぐ、この部屋を片付け終わったとき。最初ここは半分倉庫みたいになってて、使わなくなったであろう本の束とか、いつのかも知れない文化祭の小道具とか、壊れた体育用品とか、それはもう様々なガラクタで溢れてた。都合が悪くなったもの、でも捨てるのもなんだか忍びないものを、とりあえず隠しておくための場所って感じで、まるで学校の中でここだけ時が止まったみたいに。
だから愛美が先生に交渉して、ここを部室にしますって強引に。
ほとんど不法占拠に近い形で始まった私たちの部活だったけれど、少なくともこの部屋にとっては嬉しかったんじゃないかな。見違えるくらい綺麗になったし。
そして半年間、私は愛美と二人だけでこの場所を使ってきた。もちろん、ここで一人だけの時間を過ごすこともあったけど、でもその時だって別に寂しいと思ったことはない。
だから、今日が初めてかもしれない。ここにいて、寂しいって思ったのは。
中央に置かれた長机でひとり、頬杖をついてぼんやりと空を眺める。
窓枠が、空の一部だけを切り取ったみたいだった。まるで世界の余計なものを全部取り除いて、綺麗な部分だけを見せてくれているようで、なんだかちょっぴり心地良かった。
雲が流れて、白と青の面積が刻一刻と変わっていく。同じ瞬間なんて一度もなくて、そこをたまに鳥が横切ったりするから結構面白い。だからこうして、いつまでも眺めていられそうだったけど――でも、すぐに飽きた。やっぱり綺麗なだけのものなんて、ずっと見ていてもつまらない。
「……なにが、体調不良だよ」
ぼそっと呟いてみるけれど、その声はすぐに霧散して消える。誰に言ったのでもないから、別にいいけど。
愛美が落とした全体チャットへのメッセージには、その後すぐにたくさんの返信が付いた。「お大事にしてね」とか「元気になるの待ってるよ」とか「撮影は予備日もあるから、治るまで気にせず休んでね」とか。何の反応も返さなかったのは、結局私ひとりだけ。
「帰るか」
時計が十六時を差したのを見て、私は重い腰を上げる。意味もなく十三時に登校して、結局何をするでもなくただぼーっとしてただけ。これなら、家で課題でもしてた方がマシだった。ほんと、何しに来たんだろ。来ても何の意味もないって、分かってたくせに。
部室の電気を消して、ドアの前に立って振り返る。がらんとした教室が見つめ返してくるような気がしたから、私は小さくため息を吐いてその場を後にした。
***
「おかえり」
玄関を開けると、すぐそこにお母さんがいた。靴箱の整理でもしていたのか、普段はしまってある靴が散乱している。「もうすぐ四月でしょ。新年度、心機一転と思って」とか言いながら、空になった靴箱に雑巾をかけていた。いやまあいいんだけど、夕方にやることかな、それ。
「手伝う?」
「いいのいいの、朱音はお部屋で休んでて。これ終わったらご飯、作るから」
まあ、そう言うならお言葉に甘えて。正直、ちょっと疲れたし。何にもしてないのに。
はーい、と言いながらお母さんの隣を通り過ぎようとしたとき。
「そういえば愛美ちゃん、大丈夫なの?」
その言葉に、足が止まった。
「……何で知ってるの?」
「なんでって、お昼に藍(あい)先輩から連絡があって」
藍先輩、というのは、愛美のお母さんのことだ。二人は高校の時に知り合ってから仲良くなったようで、以降うちのお母さんはずっとそう呼んでる。
「それで、熱あるんでしょう? 今日もずっと寝てるって」
へえ、仮病じゃなかったんだ。私は、てっきり――
「朱音、知ってたんならちゃんと教えておいてよ」
「だって知らなかったし。熱あるのは」
これは本当。でもそう答えたら、お母さんは少し眉を顰めた。
「愛美ちゃんと連絡とかしていないの?」
「朝、調子悪いってだけ言ってたけど。それしか知らない」
「でもあなた、今日部活行ったんでしょう?」
「行ったよ、一人で。愛美いなくても、活動できるし」
もういいかな、疲れてるから。そう言い捨てて、私は脱いだ靴もそのままに廊下を進む。
「朱音、なにかあったの?」
背中に刺さったその声に、肩がぴくっと跳ねた。
「別に。何も」
「本当に? あなた、愛美ちゃんと――」
「だから、なんもないってば!」
そのまま振り切るように進んで、リビングに続くドアへ手をかける。いつもより強く扉を閉めて、私はそのまま二階の自室へと逃げ込んだ。
やり場のない苛立ちを細かく千切るように、しばらく意味もなく部屋を歩き回る。そうしていたらちょっとずつ落ち着いてきて、お母さんに当たっちゃったことを、少し反省した。
でも。だって、愛美、愛美って、うるさいから、つい……。
良い加減歩き回るのにも疲れて、私はベッドに身体を投げた。突然重みを受け止めて軋むベッドを虐めるみたいに、ぐりぐりと頬を押し付ける。
私、何をイラついてるんだろ。あのことで、愛美に何を言われたわけでもないのに。
それに、イラつきたいのは多分、あっちなのにさ。
もう寝ちゃおうかな、このまま。ご飯もお風呂も課題も、どうでもいいや。
そう思ってぎゅっと目を閉じてみたけど、何だか胸の辺りがつかえた感じがして、全然上手く眠れなかった。
***
次の日も、全体チャットには愛美が休む旨の連絡が入ってた。これが役者の誰かとかなら、別のシーンを撮ろうとか代役を立てようとかなるんだろうけど、愛美は監督兼カメラマンだ。彼女の代わりなんていない。当然、今日も撮影は延期になった。
だから今日は、自室にこもって課題でもやろう。ちょうど外、雨降ってるし。そう思っていたんだけど――気付いたらやっぱり、私は今日もここに来ていた。
黒板前に陣取った真っ暗なテレビ画面を眺めたまま、ぼーっと時間が過ぎるのを待つ。映研部らしく何か映画でも見ようかと思ったけれど、愛美がいないんじゃ見る気にもならない。
こんなんで、愛美が抜けた後やっていけるのかね。愛美が抜けて、私ひとりになって、そしたらこの映研部は――どうなるんだろう。
正直そこまで考えてなかった。自分でも、浅いと思う。
やっぱり帰ろうかな。ここにいても、なんかネガティブな気分になるだけだし。大人しく家にこもってた方が――
「朱音ちゃん」
不意にかけられた声に、思わず顔を上げる。
いつの間に入ってきたのか、机を挟んで目の前には夏葉の姿があった。
「夏葉、なんで……?」
「た、たまたま、通りかかったんだ! そしたらドア開いてて、朱音ちゃんが見えたから」
夏葉は明らかに泳いだ目線でそう答える。演技は滅茶苦茶上手いくせに、嘘をつくのは何でこんなに下手なのか。この部室は三階の奥だから、断じてたまたま通りかかるようなところじゃないんだけど――でも、まあいいや。そういうことにしておいてあげよう。
「朱音ちゃん、ひとり?」
「まあ、部長がああなってるからね。夏葉は?」
「私は演劇部の練習で。撮影は中断してるけど、じゃあ代わりに部活しよっかって、部長が」
さすが、うちと違って演劇部は真面目だね。
「それでさっき解散して、帰るところなんだけど――朱音ちゃんは?」
「……まあ、どっちでもってところ。別に帰ってもいいし、帰らなくてもいいし」
そう返した瞬間。
「じゃ、じゃあさ!」
夏葉は突然身を乗り出して、ぶつかるくらいの距離まで顔を近づける。それから大きく息を吸って
「パフェ、行こうよ!」
***
「お待たせしました」
店員さんの声とともに、机の上にやたらとどでかいパフェが二つ並ぶ。愛美がいつも食べてる、デラックスフルーツパフェ。いつもミニパフェで満足な私からすると、信じられない大きさだ。どう考えても二人、いや三人分の量がある。上に乗ってるクリームだけで胸焼けしそう。
だから私は、コーヒーだけでいいって言ったのに――夏葉が「今日は私の奢りだから、ご遠慮なく!」って、勝手に二人分注文したんだ。そしてその本人は今、向かいの席で「やっぱりミニにしておけば良かった」と言わんばかりに頬の筋肉を引き攣らせている。
二人して真顔でドリルみたいなスプーンを突き刺して、掘削作業みたいに少しずつパフェを崩していく。崩しても崩してもまるで量が減った気がしないモンスターを前にして、それでも食べ始めたらやっぱり美味しくて、私たちの顔には自然と笑みが戻っていった。やっぱり、糖分ってすごい。
それから夏葉とはしばらく、なんでもない話をした。多分、気を遣ってくれてるんだと思う。でも私たちの間にそんなに話題なんてないから、途切れ途切れになりながら、今は最近読んだ本の話になった。
夏葉は小説なんて全然読まなくて、漫画が大好きだっていうのには少し驚いた。しかも、少年誌に載ってるようなバトル物とか冒険譚とか、そういうのが好きっていうからひっくり返りそうになった。だって、そんなイメージ全然なかったもん。てっきり、青春ものとか恋愛ものとか、そういうキラキラしてるのばっかり読んでるんだと思ってた。それもかなり偏見だけど。
「朱音ちゃんは、どんな本読むの?」
当然話題はこちらにも回ってくる。だから私はとりあえず、大好きな小説の話をした。あの、演劇部の高校生たちが全国大会目指して頑張る青春小説。
「主人公たちがね、『銀河鉄道の夜』を題材にした劇を自分たちで作るの」
「そっかぁ……私、『銀河鉄道の夜』ってどんな話か全然知らないんだけど、読めるかな?」
「まあ、知らなくてもついてはいけるけど……読むなら、あらすじくらいは知っておいた方がいいよ。その方が面白いから」
「そうだよね……いやぁ、古典ってどうも苦手で」
「『銀河鉄道の夜』は古典じゃないと思うけど……宮沢賢治だし」
「でも、私たちが生まれるよりも前の人だよね?」
「当たり前じゃない」
「じゃあ古典だよ!」
「いや、どういう判断基準だよ」
そう突っ込んだら、夏葉がくすくす笑った。なんだか私もおかしくなって、釣られるように口元から吐息を漏らす。
「でも古典っていうけど、演劇部だって最近、チェーホフやってたでしょ?」
そう聞いたら「何で知ってるの?」って質問が返ってきたから、前に演劇部室を通りかかった時に聞こえてきたことを話した。
「部長がね、勉強になるからちゃんと古い劇も練習しようって言って、定期的にやってるんだ。そればっかりだと白けちゃうから、たまにだけどね」
「そっか。三年生がいた時とは全然違うね」
「そうだよ、って、あんまりはっきり言うのも気が引けるけど――うん。でも、そうなの」
夏葉は少し言葉を詰まらせながらも、ちゃんとそう言い切った。
「みんな、それまで古典劇とか全然興味ない人ばっかりだったけど――でもやっぱり、やってみるとすごいね。勉強になるし、演技の幅も広がる気がするし!」
「ふふ……今さら気付いたの?」
「うん! もっと早く気づけば良かった!」
目をキラキラさせながら語る夏葉が眩しくて、思わず目を逸らしそうになる。だからそれを誤魔化すように、生クリームまみれになったパイナップルを口に詰め込んだ。
「ね。演劇部のさ、咲良ちゃんいるでしょ?」
「咲良? 二組の?」
「そう。あの子ね、最近、古典劇の勉強始めたんだよ」
「そうなの」
「うん。それにね、優里ちゃんもちょっとハマってるみたい。シェイクスピア、読み始めたって。それから二年の香織先輩とか、紗香先輩とか、あっ、もちろん部長も! それから、えっと――」
「ねぇ、夏葉? いきなりどうしたの?」
「えっと、その……だからね?」
夏葉は言葉を選ぶようにもごもごと口を動かしながら、それでもついに観念したように、ゆっくりと口を開く。
「きっと楽しいよ。朱音ちゃんも、戻ってきたら」
「え……」
「朱音ちゃんみたいに、知識も技術もある人がいてくれたら。多分、演劇部はもっと良くなると思うんだ。だから――」
身を乗り出した夏葉が、はっとした表情に変わった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
すぐに身を引いて、パフェの陰に口元を隠す。伏目がちな視線が一瞬こちらを向いたけど、すぐに机へと引き寄せられた。
「いいよ、気にしなくて」
口ではそう答えられた。でもスプーンを持つ右手は、少し震えてた。
だから、その続きを言うかは迷った。ほんの一瞬だったけど、私の中では葛藤があって――でもやっぱり、言おうと思った。
「夏葉はさ。演劇、頑張りなよ」
夏葉がゆっくりと視線を上げる。それが合った瞬間、私は柄にもなく努めて微笑んでみせる。
「夏葉、才能あるからさ。頑張って続けてたら、きっとなれるよ。本物の役者に」
「え……?」
大きく目を見開いて、夏葉が息を呑む。
「そんな。私、役者なんて――お芝居だって全然、朱音ちゃんの方が上手だし……」
「それは、夏葉がそう思い込んでるだけだよ」
「そんなこと」
「ううん、違う」
被せるようにそう否定したら、彼女はもう何も言えなくなってしまって。固まったまま視線だけを向ける彼女に、私は。
「役者はね、上手いだけじゃダメなんだよ」
その言葉は、夏葉に言ったのか、それとも自分自身に言い聞かせたのか。どっちなのかなんて、もう私には分からなかった。
***
喫茶店を出た後、夏葉にお礼を言って私たちは別れた。奢りなんて気を遣わなくていいって言ったんだけど、「一度言ったことは絶対に守り抜く」なんて仁義溢れることを言うから、今日のところはお言葉に甘えておくことにした。私も今度、何か奢ってあげよう。
夏葉とはあの後、少し気まずい空気になったけど――でもそこから彼女が上手に話題を変えてくれて、最終的には悪くない雰囲気で食べ終わった。夏葉と音楽の趣味が合うなんてちょっと意外。今日は意外なことがたくさんだ。
帰りには少し雨足が強まっていたから、傘を差していても跳ね返りの水で靴が濡れる。途中、車が跳ねた水が靴下まで濡らしたのがもう最悪だった。やっぱり学校なんて行くんじゃなかった、家にいればよかったって思ったけど――でも、そのおかげで夏葉と話せたんだよな。だったら必要経費だ、靴下が濡れるくらいは。
「ただいまー」
玄関の戸を開けて、すぐに靴と靴下を脱ぐ。タオル持ってないから、悪いけどこのままお風呂場まで――いややっぱり、お母さんに持ってきてもらおうかな。
「おかえり」
そう思ってたらタイミングよく、リビングの扉からお母さんが顔を出す。タオルと靴下を持ってくるよう頼んだら、お母さんは一度部屋の奥へと消えて行く。そして戻ってきた時、その手にはタオルと一緒に、白い菓子箱が握られてた。
気になったけど、とりあえず足を拭いて新しい靴下に履き替える。そしたら。
「朱音、ちょうどよかった。悪いけどこれ、届けてきて。愛美ちゃんの家に」
「え?」
その箱をよく見ると、近所の美味しいケーキ屋さんのシールが貼ってある。
「ケーキ、お見舞いの。持って行って」
「はぁ?」
思わず生意気な声が漏れたけど、でもそんなの、しょうがないって。
「今から? 外、土砂降りなんだけど」
「しょうがないでしょ。賞味期限、今日までなんだから」
そんな足の早いもの、お見舞いに買ってこないでよ。
「はぁ……じゃあせめて、車出してよ」
「ダメ。おかあさん、今から晩御飯の準備だから」
「準備って……愛美の家までなんてすぐじゃん」
「そう。だから行けるでしょ、歩いて」
ああ言えばこう言う。押し問答をしばらく繰り返して抵抗してみたけど、今日に限ってお母さんの決意は固いらしく、一歩も譲ろうとしない。
「いいから、行きなさい」
挙句、そう言われてしまう始末。
大人ってずるい。怒りたいのは、こっちだってのに。
「……分かったよ」
不満たらたらな雰囲気を隠しもせずにそう言って、せっかく履き替えた靴下を濡れた靴の中に突っ込むと、中身が崩れない程度に乱暴に菓子箱を掴む。
「あ、ちょっと待った」
そうして再び雨の中へと身を投じようとした背中を、お母さんの声に撫でられる。
「なに、まだなんかあるの?」
「これ、一緒に持っていって」
ぶっきらぼうな表情の前に差し出されたのは、黒いショルダーバッグ。
「なにこれ?」
訝しげな眼を向けた私に、お母さんは「いいから」とだけ言ってそれを私の肩に掛けた。チャックが閉まってて中は見えないけど、そんなに重くはない。
「何入ってるの、これ」
「必要なもの。向こう着くまで開けないでよ」
なんだそりゃ。説明もなく意味分からない物持たされて、この雨の中を行けとおっしゃる。
「失礼のないようにね」
「はいはい」
友達のお見舞いに行くのに、失礼も何もないよ。それに、届けたらすぐ帰るっての。
そんなわけで、右手に傘、左手に菓子箱を装備させられた私は、こうして雨の中へと放り出された。今日ほど、友達の親同士が仲良しなことを恨んだことはないかもしれない。
「……なんだよ。どいつもこいつも」
せめてもの抵抗と言わんばかりにそう吐き捨てて、私は強めの一歩でアスファルトを蹴った。
ほんの数分しか経ってないけど、ありがたいことに雨足はさっきより弱まっていて、もともと濡れてた足元以外は無事に済みそうだ。今日は三月にしては少し暖かいとはいえ、やっぱり濡れた足先は悴んだように冷たく痛い。辺りも薄暗くなってきたし、とっとと帰って、温かいお風呂に入りたい。
そんなことを考えていたら、やっと愛美の家に着いた。五分くらいの距離なのに、気を遣ってケーキを運んできたからか、今日はやけに遠く感じた。
いいや、とにかく渡して帰ろう。そう思い、インターホンを押す。
「あれ、朱音ちゃん?」
出てきたのは藍(あい)さん、つまり、愛美のお母さんだった。私はぺこりと頭を下げて「これ、母からです。お見舞いに」と述べ、手にした箱を引き渡す。
「まあ、わざわざありがとう。大変だったでしょう、雨の中」
「いえ、全然。じゃあ、私はこれで」
よし、これでミッションコンプリートだ。さあ、帰ろう。何かの間違いで、愛美と鉢合わせする前に。
そう思ってくるっと踵を返そうと、したんだけど。
「とりあえず、上がっていって。お茶でも入れるから」
やっぱり引き留められた。でもそんなの、想定内。
「いえ、お構いなく。帰って母の手伝いがあるので」
本当はそんなものないんだけど、まあこう言っておけば引き留められはしないだろう。
「それじゃあ、愛美によろしくお伝え――」
「ほら、いいからいいから。身体濡れちゃってるし、冷えたら大変」
「え? いや、もう小雨ですし、別にどこも濡れて――」
「まあまあ、そう言わずに」
いつもからは考えられない強引な勧誘に、思わず困惑した視線を向ける。なんか、藍さんが浮かべる貼り付けたような笑顔が少し怖くなってきて、私は一段と強めに声を上げた。
「いやだから、私、家の手伝いが――」
「い・い・か・ら!」
「え? や、ちょ、藍さん、待っ……」
そのまま私は、ほとんど強引に屋内へと引きずり込まれた。
え? 私、もしかして誘拐される?
「はい、ココア」
「……ありがとうございます」
リビングに通された後、藍さんの様子はいつもと変わらないように見えた。
まさかこのココア、睡眠薬とか……そんな妄想が一瞬頭をよぎったけれど、すぐに振り払って口をつける。ちょっと、変な映画の見過ぎかも。
冷えた身体に、やっぱりココアの甘さは染み渡った。向かいでコーヒーを飲む藍さんと目が合うと、彼女はいつもどおり優しそうな笑みを向けてくれる。
少し広めのリビングに、藍さんと二人きり。ちょっと奇妙な状況に、私はとりあえず声をあげてみることにした。
「あの、愛美は?」
「部屋にいるけど。呼んでくる?」
「あ、いえ。そういうわけじゃ。それに、熱あるって」
「ああ、それね。実は仮病なの」
思わぬ言葉に顔を上げると、藍さんは少し慌てて答える。
「あ、いえ、確かに昨日は微熱あったんだけどね。夜にはもう下がって、今朝はケロっと全快って感じで。ごはん、三杯食べてたし」
なるほど、それは確かに全快だ。
「じゃあ、なんで……」
「なんかね、行きたくなかったんだって」
藍さんはコーヒーを一口含んで「ま、そういう日もあるわよね。部活、私もよくサボってたし」って付け加えた。
行きたくない。愛美が、そう言ったんだ。そう考えたら、どうしてか胸の奥がきゅっと締め付けられるような感じがする。あんなに撮影を大事にしていた愛美が、行きたくないって。それって、やっぱり――
「喧嘩でもした?」
「…………」
すぐには、答えられなかった。
「……別に、喧嘩とかじゃないです」
「そう? 顔に図星って書いてあるけど?」
「いや、でも……本当に、そうじゃなくって。ただ……」
「ただ?」
「……愛美。怒ってるだろうな、って」
「怒らせるようなことしたの?」
「怒らせたくてしたわけじゃ……ただ私、愛美のために……」
言葉が続かなくて、私は逃げるようにココアへと口を付けた。
「私でよければ、話聞こうか? 大丈夫、お母さんには黙ってておいてあげるから」
すごく、優し気な口調だった。全部包み込んでくれるような、大人の余裕って感じの声音。
でも。
「……信用できません」
私はじとーっと疑いの視線を向ける。
知ってるんだ私は。お母さんホットラインの恐ろしさを。内緒にするから話してと言われた約束、今まで何度反故にされたことか。そしたら藍さんは、
「あははっ、そうだよね。ごめんごめん。うん、やっぱぽろっと言っちゃうわ」
となんの悪びれもなく言う。
「まあ、でもさ。話してみなよ。よかったらだけど」
頬杖をついて微笑する藍さんは、本当に綺麗だった。愛美も大人になったら、こんな風になるのかな……。
そう思ったからだろうか。それかやっぱり、誰かに聞いてほしかったのか。よく分からないけど、いつの間にか私はぽつぽつと雨音のように言葉を漏らしながら、藍さんにあの事を話した。愛美のために演劇部に掛け合って、彼女を戻らせてもらえるよう頼んだ、あの事を。
藍さんは黙ったまま、口を挟まないで話を聞いてくれた。
そして、全部聞き終えた後。
「それで、うちの子はなんて?」
「……まだ、何も。そのあとすぐ、体調崩しちゃったから」
「そっか」
藍さんは少しだけ黙った。ちょっとだけ沈んだ表情で黙って、それで。
「私なら、一発くらいぶん殴っちゃうかな。朱音ちゃんのこと」
真剣な顔でそう言った藍さんに、つい身構える。
でもそんな私を見て、藍さんははっとした表情を浮かべると、
「あ、いや。別に私が怒ってるわけじゃなくてね。もし私が愛美の立場だったら、ってこと。殴らない殴らない、娘の友達のこと」
そう言って、顔の前でぶんぶんと手を振る。
とりあえず、鉄拳制裁が飛んでくることはなさそうだ。警戒を解いた私に、でも藍さんは少し張り詰めた声音で語り掛ける。
「でも、相談もなしに自分のこと、勝手に決められたわけでしょう? それってどんな事情があっても、嫌なことじゃない?」
その言葉に、唇をきゅっと結ぶ。そう、その通りだ。でも、だって……
「……けど、それを言うなら愛美だって、いっつも勝手に私のこと巻き込むし」
「そうなの、だから不思議なのよ!」
捻くれた言い訳をしたつもりだったけど、藍さんは何が響いたのか、ぱんっと手を叩いて私をじっと見る。
「あなたたち、あれだけ仲良しなくせに、ぜんっぜん喧嘩しないんですもの!」
「いけませんか……?」
「別にいけなくはないけど……だって朱音ちゃん、ムカつかないの? 今の部活だって、あの子が勝手に立ち上げて、了承もなしに朱音ちゃんのこと巻き込んだんでしょう? 勝手に決めるなーって、一発くらいくれてやればよかったのに」
「いや、そんな乱暴な……」
ジャブの要領でスッと腕を突き出した藍さんをなだめて、私は思わずため息を吐く。
そうして腕を胸元まで戻した藍さんは、コーヒーカップに指をかけると、一転優しそうな視線を私へと向けた。
「まあ確かに、朱音ちゃんの気持ちも分かるよ。きっと、朱音ちゃんなりにたくさんたくさん考えて、これしかないって思って、そんなことしたんでしょう?」
「……はい」
「うん。でも、その想いってさ。ちゃんとあの子に伝わってるのかな?」
「…………」
それは、核心を突かれたように思えた。
愛美は何も言って来ないけど、きっとこの話を知っている。このことを知ったとき――彼女はどんな気持ちだったんだろう。
だけど。
「愛美に言ったら……あの子きっと、演劇部には戻らないって言うから」
「どうして?」
「だって愛美、優しいから……私がまたひとりになるって知ったら、きっと放っておけないって思うだろうし――」
半年前の、あの日みたいに。
「でも、それで愛美を縛るのは嫌なんです! 私のせいであの子が演劇を辞めちゃうようなこと、絶対に……ダメなんです! だから――」
私は言葉を詰まらせる。でもそれで良かった。だってそれ以上言ったら、もう自分がどうにかなってしまいそうだったから。
「なるほど」
藍さんはそうとだけ呟くと、カップに残ったコーヒーをくいっと飲み干す。そして、小さく肩を震わせた私に、
「よし、朱音ちゃん! 今日、久しぶりに泊まっていきなさい!」
本当にいきなり、そう言い放った。
「……え?」
「ちょうど今日、結衣も卒業旅行でいないし! 生意気だよねー、中学生のくせに旅行なんて」
「え、いや、急に何を……」
「というわけで、お母さんには私から連絡しておきます! そうと決まればご飯の準備! あ、でもその前に、まずお風呂か」
「いえ、あの、いきなり泊まれって言われても……だって、そんな用意なんてなにも」
「大丈夫、ご飯も着替えも用意するから」
「いえ、そういうことではなくて……」
またしても強引に話を進めようとする藍さんに、困惑させられっぱなしの私。やっぱ今日の藍さん、なんかおかしいよ。
でもそんなのお構いなしって感じで、藍さんはバシッとトドメの言葉を走らせる。
「いいからいいから! それに大人として、こんな夜遅く、こんな豪雨の中を、か弱い女子高生一人で帰すわけにはいかないわ!」
そうして彼女が、ビシッと指を突き立てた窓の先。
そこにはもう雨粒一つ降っていない、雲も疎らな午後六時三十二分の空が映っていた。
「…………」
「……いい、朱音ちゃん」
「…………?」
「あと十分で、バケツをひっくり返したような豪雨になるの。本当よ。空を見れば分かるわ」
「あの、じゃあ家まで五分なので、すぐに――」
「嘘。やっぱ五分。いや三分ね、どう、もう間に合わないでしょう?」
「走れば、なんとか……」
「なら三十秒」
うん、それはさすがに無理だ。
「というわけで、さっさとお風呂に入りなさい。すぐに沸かすから、脱衣所で待ってて」
「あの、でも……」
「つべこべ言わない! 早くしないと愛美が入りに――あ、それとも二人で一緒に入る? 昔みたいに」
「いえ、すぐ入ります」
問答無用な藍さんに気圧されて、私はすたすたと脱衣所に向かう。
向かいながら思う。やっぱり、大人ってずるい。
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