第5話

 春休みは、やっぱり短い。たった一週間過ぎただけで、もう折り返しに差し掛かってしまった。

 あれから練習は順調に進んで、一通り全部のシーンはやり終えた。そして昨日をもって、練習期間は終わり。今日の午後からは、いよいよ撮影が始まる。

 そんな大切な日の午前を、私はひとり、喫茶店で過ごしてた。

 コーヒーを運んできてくれた店員さんに小さくお礼を述べて、スマホをタップする。表示されたデジタル時刻は、約束のちょうど五分前。

 ちょっと早く来すぎたかな。そう思い、とりあえずミルクと砂糖をカップに落としてスプーンでぐるりと混ぜ始めた時、入り口の鈴が鳴る。

 レジ前で店員さんに話しかけられ、あわただしく両手をぶんぶんと振りながら、少し不安そうにきょろきょろと店内を見回す彼女。その視線を引くように手を上げると、彼女はぱぁっと顔に花を咲かせて、透き通る栗色の髪をとんとんと揺らしながら狭い通路を進んで来る。

「お待たせ!」

「ううん、さっき来たところ。ごめんね、急に呼び出して」

 向かいに腰かけた夏葉にそう声を掛けたら、返事の代わりに微笑みが返ってきた。

 この喫茶店には、前に三人で来たことがある。愛美お気に入りのパフェがあるとこ。でも、今日は夏葉と二人だけだからパフェはなし。ここには何度も来ているけれど、思えばここに入ってパフェを頼まなかったの、今日が初めてな気がする。

 夏葉が頼んだコーヒーが来るまでは、当たり障りのない話をしていた。愛美抜きでここに来たのは初めてだって言ったら、夏葉はちょっとだけ嬉しそうにしてた。

 同じクラス、なんなら半年間は同じ部活だったはずなのに、こうして夏葉と二人だけで話すのは初めてだ。

「朱音ちゃんと二人でゆっくり話すの、初めてかも」

 そう思ったタイミングで夏葉も同じことを言ったもんだから、ちょっと可笑しくて笑っちゃった。

 そうこうしているうちに、夏葉のコーヒーも到着する。届いたブレンドにミルクと砂糖をたっぷり入れているのを眺めながら、ふと「ん? 夏葉ブラックじゃなかった?」って聞いたら、「あれ、ちょっとカッコつけてるだけ。本当は甘いの大好きなんだ」って言うから、二人で顔を突き合わせてまた笑った。

「それで、話って?」

 スプーンをくるくるしながら、夏葉が小首を傾げる。

「その、別に畏まった話じゃないんだ」

 私も意味もなくスプーンを回しながら、続ける。

「夏葉のこと、聞かせてほしくって」

 そう言った瞬間、彼女はちょっと目を丸くしてた。ごめん、いきなりそんなこと言われても分からないよね。そう思ったから、あわてて、

「夏葉はどうして、演劇部に入ろうと思ったの?」

 って言い直した。

「どうして、かぁ……」

 そう呟いて、夏葉はカフェオレみたいになったコーヒーへと口をつける。

「……笑わない?」

「もちろん」

「うん、そう。じゃあ……」

 左右に目線を振ってから、恥ずかしそうに口を開く。

「その、もともとね、お芝居にちょっとだけ興味あったの。興味っていうか、俳優さんってかっこいいなぁってぼんやり思ってたくらい。私、あんまり自分を表現したりだとか、自己主張するのって得意じゃなくて」

「そう? でも夏葉、クラス委員してるじゃない。立候補して」

「あれはちょっと違うよ」

 冗談とでも思ったのか、口の端からふっと息を漏らして笑う。本気で言ったつもりだったんだけど、そうか、ちょっと違うのか。難しいな。

「それでさ。一年前の、それこそちょうど新歓時期。演劇部が、新入生向けのミニ公演会やってたじゃない?」

「やってたね。あの、なんかオリジナルのやつ」

「そう。青春ものの」

「主人公が確か、バレー部だっけ?」

「あれ、バスケじゃなかった? それでなんか、友達が転校することになって」

「あぁ、そんなんだったね」

 正直言われるまで、劇の存在そのものを忘れてた。そのくらいあの劇は影が薄くて、ありきたりで、中身がなかったから。

「それで、その劇がどうかしたの?」

「うん、だからね」

 三度あたりをきょろきょろと見渡して、夏葉はそっと囁くように言う。

「あれなら、私でも出来そうだなって」

 その瞬間、きっと私はコーヒーカップよりも目を丸くしてたと思う。

「……つまり、演劇部のレベルが低かったから、未経験でもいけそうだって思ったの?」

「ちょ、朱音ちゃん! 言い方……」

 誰が聞いているわけでもないのに、夏葉は顔の前で必死に手を交差させてあたふたしている。大丈夫だって、そんなに慌てなくても。

「まあ確かに。つまんなかったもんね、あの劇」

 だんだんと思い出してきた記憶が、どれもこれも辛辣なものしか思い浮かばない。その事実に思わず苦笑して、私はコーヒーをそっと啜る。

「……今から言うこと、聞かなかったことにしてくれる?」

 そう前置いた夏葉は、耳打ちするかのようにこっちへちょっとだけ顔を寄せて、

「――ぶっちゃけ、ひどかったよね」

 小さくそう言って悪戯っぽく笑った。

 へえ、言うじゃん。それ聞いたら先輩たち凹むよ、きっと。

「じゃあ、さっそく今の発言をグループチャットに……」

「だ、だめぇ! それだけは……」

「うそうそ、冗談だよ」

 スマホから手を放してホールドアップすると、夏葉はほっと息を吐いた。「本気かと思った」って、いやいや、私もそこまで鬼じゃないよ。

「そういう朱音ちゃんはどうなの? お芝居始めた理由」

 まあ、そうなるよね。「あんまり面白い話じゃないけど」そう言ってから、夏葉には全部話した。

 親が昔演劇をやっていて、地元の小さな劇団に付き合いがあったこと。小学二年の時に成り行きで入団して、そこで演技の基礎を学んだこと。子役として結構重宝してもらって、何度も舞台に立たせてもらったこと。そうして、小学校卒業までその劇団を続けたこと。

 つまらない話だったと思うけど、その間夏葉はコーヒーに手もつけず、じっと目を逸らさずに聞いてくれた。

「それで中学に上がったときに、劇団を辞めて演劇部に入ったってわけ」

 そこまで話して、やっと自分の唇がカサカサになっているのに気が付いた。もう残り少なくなったコーヒーを一気に飲み干して、カップを少し通路側に寄せて置く。

「朱音ちゃん、てっきり中学から始めたんだと思ってた」

「愛美しか知らないからね、このこと。別に隠してたわけじゃないけど」

 演劇部にいた時、自然とそういう話になることはあった。でもその度に「中学でも演劇部でした」しか言ったことなかったから、夏葉が知らないのも無理はない。

「だってさ、劇団にいましたなんて言ったら、なんかカッコつけてるみたいじゃない?」

「そんなことないよ! ていうか、実際カッコいいし!」

「だから、そんな大した劇団じゃないんだってば。地元の小さなアマチュアのやつ」

「それでも十分カッコいい!」

 なんだか、夏葉と話しているとよく喉が渇く。だから、薄く火照る頬を隠すように頬杖をついて、追加でアイスコーヒーを頼んだ。

「じゃあもう、十年くらいお芝居してるんだ」

「まあ、そうなるかな」

「すご、大先輩だ!」

 年数なんて意味ないよ。そう思ったけど、夏葉があんまりにもキラキラした視線を向けてくるからそうも言いにくくて。「半年、ブランクあるけどね」とだけ呟いたら、夏葉はちょっと笑ってくれた。

「あれ? じゃあもしかして、愛美ちゃんも一緒の劇団だったの?」

「うん? ああ、愛美は中学から。あの子最初、演劇とか興味なさそうだったし」

「え、そうなの?」

「だって、私の公演見に来たのなんて一回だけだよ。小六卒業前の最後の公演に、親に無理矢理連れられて」

 そう言ったら、夏葉は今日一番驚いた顔をしてた。

 あのときは面白かった。公演が始まる前に愛美が挨拶に来てくれたんだけど、演劇なんて微塵も興味ないもんだから、第一声「早く帰ってゲームしよう」って。それで親に怒られて、むすーっとした顔で客席に消えていったんだ。

 その話をしたら、やっぱり夏葉も笑ってた。

「じゃあ、愛美ちゃんどうして演劇部に?」

「さあ。なんか急に、入部届出してた」

「理由とか、聞いたことないの?」

「ないことないけど……なんか、いっつもはぐらかすんだよね。『はい? 私、昔から演劇好きでしたけど?』みたいな顔するし」

「あぁ……なんか、ちょっと思い浮かぶかも……」

 そこでちょうどアイスコーヒーが届いたから、一旦会話がそこで途切れた。

 そこからはちょっとした世間話。夏葉、どんなキラキラした話題を話すんだろうって思ったけど、これがまた意外にも普通だった。春休みの課題のこととか、休日の過ごし方とか。

 

 そうこうしているともう電車の時間になって、私たちは慌ててコーヒーを飲み干して店を出る。

「ごめん、ゆっくりしすぎた。夏葉、ちょっと走れる?」

「うん! 撮影前の準備運動にちょうどいいかも!」

 その場でぐりぐりと足首をほぐしたら、どちらからともなく走り出した。お昼前の商店街、そのアーケードの中を私たちは駆けていく。

「ねえ、夏葉!」

 スカートを靡かせながら一歩前を走る彼女を、少し張り上げた声で呼ぶ。

「今日二人で会ったこと……愛美には内緒にしてくれる?」

 一瞬「え?」って返ってきたけど、すぐに

「そっか! 朱音ちゃん独り占めしてたってばれたら、嫉妬されちゃうもんね!」

「こら、そんなんじゃないってば!」

 逃げる夏葉を追うようにスピードをあげたら、駅のすぐ手前の信号で路面電車が引っかかっているのが見えた。

「やばっ! 朱音ちゃん、急いで!」

 私たちは走った。さっきよりもっともっと速く、陸上部も顔負けってくらい。そうして全力で走りながら、私は思う。

 やっぱり今日、夏葉に会って良かった。


 ***


 学校に着いたら、メンバーはもう半分以上揃ってた。今日から撮影だってことで張り切ってるのか、演劇部室に置かせてもらってた小道具やメイク用品を運び出している人や、数人組で台本を開きながら最終チェックしている人など色々。

 私たちは部室の隅で、コンビニで買ってきたおにぎりを急いで食べてから、二人で台本の読み合わせをする。もう動きもセリフも全部頭に入ってるけど、本番前にこれやると、なんだか落ち着くんだ。

 そうこうしてるうちに他のメンバーや愛美も来て、五分前にはもう全員が揃った。

 監督が挨拶と、簡単に意気込みを話し始める。そうしたらなんだか、いよいよだなって空気になった。

 今日撮るのは冒頭シーンと、それに続けて校舎内を逃げ回るシーンをいくつか。三十分のショート映画だからといって撮影が三十分で終わるわけはなく、スケジュール上は予備日を含めて今日から一週間を丸々使うことになっている。

 まあ、本当は一気に詰め込めば一日か二日もあれば撮れちゃうんだけど、さすがにみんなへの負担が大きいってことで日程は余裕めに取ってあるみたい。それと後は、他の部活との兼ね合い。だってゾンビに襲われてるシーンで、吹部のサックスとか野球部の雄叫びとかが聞こえてきたら最悪だからね。そのへんの調整は愛美と演劇部長でやってくれて、その結果がこのスケジュールらしい。きっと、これが一番大変だったろうな。

「それではみなさん、よろしくお願いします!」

 その一言で締めくくり、愛美は一同の拍手を受けながら降壇する。

 さあ、始まる。


 冒頭。ナツハと一緒に部室で過ごしてたら悲鳴が聞こえて来て、校舎内にゾンビが発生するシーン。その準備のために、私たちは椅子を向かい合わせて、机上に広げたノートを意味もなく眺めてた。ちらと視線を向ければ、愛美はご自慢の一眼レフカメラにグニグニしたグリップを取り付けて、難しそうな顔でそれをいじくりまわしている。

 練習の時はそこまで気が回らなかったけれど、愛美の映像に対するこだわりは結構すごい。

 予算の都合もあって大げさな機材は使えないから、映像も音声もほとんどカメラとそれに取り付けるアタッチメント頼みになってしまって、映画撮影の環境としてはかなり心もとない。だけど愛美は不満一つ漏らさずに、その中でやれることをちゃんと見つけて、工夫して撮影に当たってる。

「よし! それじゃあ、始めたいと思います!」

 その言葉で、空気がキュッと引き締まる。愛美は廊下、それから窓の外にスタンバイする部員たちへと声をかけ、準備が完了していることを確認する。そして最後に私たち二人のところに来て、

「お二人さん、よろしくね」

 って声をかけた。

 夏葉が力強く頷いて、私も少し顎を引く。

「失敗しちゃってもいいから、リラックスだよ、リラックス」

 指で頬をくいっと上げて、笑って笑ってと合図する愛美。

 ほんと、無理しちゃって。自分だって唇、震えてるくせに。

「じゃあ、いきまーす!」

 走りながら定位置へと戻った愛美は、いよいよカメラを構える。

「それでは、よーい、スタート!」


「うげー……課題だる―」

 夏葉の第一声。彼女は本当に心の底から怠そうな声を出すと、ふにゃふにゃと机に突っ伏して頬を押し当てる。緊張がみじんも見えないあまりにも自然体な演技に、私も力を抜きつつ気を引き締める。

 大丈夫、自然に、いつもどおり。

「ナツハ、もう少しシャキッとしなさい」

 目を机上のノートに向けたまま、私の第一声。うん、大丈夫そう。

 そこからはしばらく日常会話。その間に気持ちを落ち着かせながら、次のシーンへと備える。愛美のレンズがじっと見つめてくるけれど、絶対に気にしないように。だってここには、アカネとナツハしかいないんだから。

 悲鳴。澄んだ空気を引き裂くような金切声。

 夏葉の表情が変わる。二人で窓の方へ駆けよって下を覗いたら、アスファルトにじわりと広がる血糊と倒れた女子生徒、それに縋り付いて身体を揺する、制服に身を包んだ異形。

「な、に。あれ……」

 緩んだ唇の端から漏れ出す、緊迫した夏葉の声音。映像なんて見なくても、その声音だけで全部伝わってしまうんじゃないかって心配になるくらいに、完璧な。その声に私は震えた。ちょっと夏葉、そんなの上手すぎるよ。

 悲鳴、次は背後から。

 振り返れば、廊下に面した扉がゆっくりと開いていく。その隙間から這いずるように顔を出した血まみれの女子生徒。

 助けを求めた声はすぐに悲鳴へと変わり、彼女は引きずられるようにして廊下の奥へと消えて行く。

 夏葉が呻いた。不安が恐怖へと変わっていく間の絶妙な声音を溢れさせて、小さく半歩後ずさる。

 対して私は、まだ状況を飲み込めていない。一見冷静なようでいて、理解が追い付かないこの状況に固まったままで立ち尽くす。そんな中でも確実に動揺だけは覚えるから、わずかに振動する視線と早まる瞬き、凝固した表情筋、半開きの唇の震え、その緊張を肩へ、腕へ、手と足へ。

 今、私が持てる全てを使って、レンズに動揺を見せる。見せつける。

 愛美に見せつける。

 見せつけ続ける。

 

「カットーーー!!! みなさん、お疲れ様です!」

 監督の声に、現場の空気が一気に緩んだ。

 すぐに夏葉がその場で尻もちをつく。ふぅと息を吐いて、手の震えを隠すみたいにきゅっと胸の前でそれを組む。

「き、緊張した……」

 またまた、ご謙遜を。そうは見えなかったよ、全然。一瞬そう思ったけど、いやそうじゃないかもってすぐに思い直した。

 夏葉はきっと、緊張をパワーに変えちゃうんだ。焦りとか心配とか不安とか、そういうネガティブな感情を全部、演技の中に落とし込める。彼女にとっては緊張だって立派な材料の一つで、それを推進剤にして自分の演技を推し進めてるんだろう。

 ほんと、これで演技経験一年以下だなんて。やっぱり演技は年数じゃないって、改めて思い知った。

 それからはしばらく、夏葉と今の演技について話した。まあ映像を見てみないと何とも言えないから、中身はそんなに膨らまなかったけど。でもこうして二人で反省する時間は、やっぱり楽しいなって思った。

「はーい、じゃあみなさん一度集まってくださーい!」

 しばらくしたら愛美からの指示があって、屋外にいた人たちも含めて全員が集まる。何が始まるのかと思ったら、愛美はいつの間に用意したのか、部室のテレビにつないだカメラからさっき撮った映像を流し始めた。

 いやいや、上映会するならせめて今日の最後でしょ。今のシーンだって、まだオッケーも出してないのに。なんでいきなりこのタイミングで――そう思った。

だけど、愛美が正しかった。

 編集もしていない生の映像だから、やっぱり少し味気ない。メイクや血糊のおかげでそれっぽくは見えるけど、これだけじゃまだまだ素材のままって感じがする。

 でも、いま自分たちが動いた結果どんな画が撮れたのか。レンズ越しに、自分たちはどう見えるのか。それをみんながはっきりと映像として認識し、自分の心に刻み込む。

「窓から最初のゾンビを見下ろすシーンさ、あれもうちょっと長く見せたほうが良くない?」

 画面が止まった後、最初にそう声を上げたのは演劇部の二年生。そこからはもう、すごかった。

「それもだし、もう少しズームしてもいいかも」

「ゾンビが振り向くっていうのはどうですか?」

「おっ、いいじゃん! 次やってみる?」

「あの……冬美先輩が引きずられて消えて行くシーンですけど、あそこのタイミング、もう少し遅らせてみるのも……」

 次から次へと、みんなから意見が出てくる。役者として出演した人も裏方をやってくれた人も関係なく、本当に次々と声が上がる。

 今日までに何回か、こうして上映会みたいなことをしたことはあった。でもやっぱり、練習と本番は空気が違う。

 この映像が、このまま採用されるかも。そう思ったらみんな、悔いがないものに仕上げたいって思いがこみ上げてきたんだと思う。愛美は出た意見を嬉しそうに取りまとめて、

「じゃあ早速、やってみましょう!」

 と声をかける。

 そこからの撮影は、明らかにみんなの動きが良くなった。さっき出た意見をもとに自分の演技を見直して、それを反映していく。

 もちろん、毎回みんなで映像を確認して反省会する時間はないから、それ以降の演出は監督の愛美に一任される。彼女はカットのたびに映像を黙々と確認し、ときに演劇部長に声をかけて意見を聞いていた。でもみんなに指示を出す時は、必ず愛美からだった。

 彼女は撮影のこの雰囲気を崩さないよう、細心の注意を払っているように見えた。遠慮なく何度もリテイクを要求したけど、その度にどこをどうして欲しいのか、具体的にハッキリと言ってくれる。だから役者はすごく動きやすい。さっきと同じでいいのか、変えたほうがいいのか。そこを迷わなくていい。

 あと愛美は、どんな映像が撮れた時も、絶対にダメだとか没だとか言わなかった。

「今のカット、良かったです! 次、もう少しタイミング遅いパターンも欲しいです、お願いします!」

 今のも良かったけど、こっちのパターンも見せて欲しい。そのニュアンスをすごく大事にしていて、役者や演技を絶対に否定しない。だから何度リテイクになっても、雰囲気が悪くならない。

 どれもこれも言い回しとか態度とか、技術に関係のない本当に些細なこと。でもそういうところを大事に出来る彼女だからこそ、みんなから信頼されるんだろう。

 結局その日の撮影は、何の滞りもなくスケジュールどおり進んだ。雰囲気もすごく心地良くて、私たちはもちろんゾンビ役のみんなだって、萎縮せずにのびのびと演技できていたように思う。特に良かったのが一年生。練習の時は控えめだった子も、今日は全然物怖じせずに自分の動きが出来ていた。

 それも全部、あの子のおかげ。

「それでは、今日はここまでにします! みなさん、本当にお疲れ様です! 明日もまた、よろしくお願いします!」

 彼女が締めの挨拶をしたとき、誰からともなく拍手が上がる。やらされているって感じの人は誰もいなくて、みんな自分から手を叩きたくて叩いてるのが伝わってくる。

 拍手って、こんなに温かい音だったんだ。


 ***


 赤みを帯び始めた寒空の下を、私たちは影を伸ばしながら歩いていく。私の隣に並んだ愛美は実に軽やかな足取りで、ご機嫌に『巣立ちの歌』を口ずさんでいた。いや、いくら卒業を祝う会で歌ったからって、こんな時に口ずさむ曲じゃないだろ、それ。

 でも自由人の愛美は、そんな些細なこと気にしない。勝手にリズムをアップテンポにして、自分のステップに強引に合わせている。

「いやー、初日から大っ成功だったね!」

 右手でVを作りながら、白い歯を覗かせて向日葵みたいな笑み。ちょっとテンションがバグってる気がするけど、まあ今日くらいは大目に見てあげよう。

「それもこれも、うちの主演二人がしっかりしてるおかげですよ」

「別に私、何もしてないけど」

「なーに言ってんの! 今日も今日とてミス、ゼロだったじゃん!」

 そう言うと、今度はVにした指を◯に組み直す。

「おかげさまで撮影もスムーズに進んだし! ほんっと、うちの幼馴染は頼りになりますなぁ」

 そこまで言い終えたら満足したのか、愛美は再び前を向いて、巣立ちの歌を口ずさみ始めた。

 その少し後ろを、私は黙ってついていく。

 

 なに言ってんの。全部、あなたのおかげでしょ。

 

 愛美はすごいよ。

 だって、限られた時間の中で少しでも良いものをっていう気概が全員に共有されて、みんなが一つの目標に向かって進んでいこうとする最高の空気。そんなとんでもないものを、撮影初日にしていとも簡単に作りあげてしまったんだから。

 そんなのとても無理だよ、私なんかにはさ。

「愛美こそ」

 だから今日くらいは、ちょっとだけ素直になってやろう。

「すっごく、カッコよかったよ」

 巣立ちの歌が止まる。愛美が振り返る。

 夕焼けに照らされて、きらきらと輝いた艶やかな青髪を風がさらう。さざ波のように靡いたそれは、まるであの日の水面のように、どこまでも綺麗で。

 そうして私がほんの少し微笑んだら、彼女は。

「…………」

「…………なに?」

「……いや、朱音。頭でも打った?」

「は? なんで?」

「だって、いきなり褒めてくるから。なんか素直だし」

「あっそ。じゃあやっぱ今のなし。愛美のバカ。アホ。おっぱいオバケ」

「そ、そこまで言わなくてもいいじゃん! てか、おっぱいオバケってなんだよ?!」

 突沸したようにぷんすかと湯気を上げる愛美を適当にあしらって、私は彼女の前を行く。ちらっと後ろを見たら、頬を膨らませて大股でずんずんと迫ってくる幼馴染が見えたから、私は少しだけ歩くスピードを上げた。


 

 路面電車に乗り込んだ頃には、空はもう夜へと駆け出し始めていた。向かい合って座ったいつもの席で、台本と睨めっこしている愛美をぼんやりと眺めながら、私はただ電車の揺れに身を任せる。

「ねえ、今日も自主練行くの?」

「うん、少しだけ。撮影終わるまでは毎日行くつもり。愛美も来る?」

「もっちろん――って、言いたいところだけど。ごめんね、帰って編集作業しなくちゃ」

 疲れが残る顔をそっと隠すように、愛美は頬骨を持ち上げる。監督、脚本、撮影に編集まで――発案者で責任者だからって、愛美はちょっと頑張り過ぎだ。

「頑張るじゃん、監督」

「お互い様だね、主演さん」

 そう声を掛けあったら、ちょうど電車が駅に着く。車内に残った愛美を見送って、私はひとり歩き始めた。この映画が完成するまでは、絶対に止まらないんだ。そう宣言するように強く地面を踏みしめながら、潮の匂いが濃くなる方へ。

 今日、話を聞かせてくれて、役者としてメキメキと成長して行く夏葉。

 今日、撮影の中で新たな一面を見せてくれて、みんなから信頼される愛美。

 そんな二人の大切な友人の姿を間近で見たから。私はこの半年間、心のどこかにずっと棲みつかせ続けていた迷いを、ついに断ち切れるような気がしていた。

 いや、今度こそ断ち切るんだ。

 悩むのはもう、終わりにしよう。

 もう、やめよう。


 ***


 撮影二日目。この日はスケジュールの都合上、いきなりクライマックスから入った。撮影順が前後することなんて当たり前だけど、とはいえクライマックスは特別だ。

「うぅ……」

 夏葉がそわそわしてる。台本に目を落としてるけど、多分読んでないな、あれは。

 まあ無理もないか。今までクライマックスは三人でしかしたことなかったけど、今日は見学者がいるから。「三人だけで撮れるので、他の方は自由参加で」って指示だったのに、やっぱりみんな気になるんだろうね、気付けば全員揃ってた。

「や、やっぱり緊張する……」

 体育倉庫の扉前、集まった演劇部員たちの視線を一身に受けた夏葉が小さく震える。

 撮影の邪魔にならないようみんなは外で待機だから、倉庫内に入っちゃえば練習通り三人だけ。でもそう分かっていても、外にみんながいるって思ったら緊張するんだろう。

 でもきっと大丈夫。夏葉は多分、緊張してるくらいでちょうどいい。

「じゃあ一回目! よーい、スタート!」

 夏葉と二人で倉庫に飛び込んで、急いで鍵を閉める。そうして、私たちのクライマックスが始まった。

 夏葉の演技は正直、今日も抜群に冴え渡っていた。やっぱり適度な緊張がいいスパイスになるんだろう、感情表現の幅が練習の時よりかなり広がっていた。

 練習の時は、自身の死に対する恐怖と親友を残して去る罪悪感、その二つが入り混じった感情を押し出していた感じだった。でも今日はそこに、無力な自分に対する怒りとか、絶望的な未来を生きる親友への心配とか、でもそれでも親友の無事を喜ぶ安堵とか、本当に様々な色を見え隠れさせていた。複雑に入り組んだその感情を、表情、声音、視線、身振りをすべて使って、夏葉は巧みに表現を広げていく。

「来ないで」

 その一言で、私の身体は本当に動かなくなったくらいだ。止まる演技をしたんじゃない、夏葉の言葉が本当に私を止めたんだ。一体どうやったら、感情の色をここまで声に乗せられるんだろう。

 夏葉は本当にその世界に生きているようで、だけれども自分は役者であるって冷静さもちゃんと持ちあわせていて。

 だからもう自分は絶対に、この子には適わないんだなって思い知った。

 私は、夏葉みたいになれない。

 台本をどれだけ読んだって、どんなに想像を巡らせたって、この場面でアカネがどんな気持ちでナツハを見送るのか、それが全然分からない。大切な友人が死にゆく背中を、どう見つめていればいいのか分からない。

きっと悲しいだろう、辛いだろうってことくらいは分かるけど――でも本当に、それだけなのかな。そんな簡単な言葉で、終わらせちゃっていいのかな。

 きっと、ナツハみたいに複雑な感情が渦巻くはずだ。だって二人は親友で、でも運命に引き裂かれて、もう会えなくなって。そんな気持ちを、悲しいだけで片付けていいわけない。

 でも私には、それが分からない。それがどんな気持ちなのかも、その気持ちを表現する方法も。

 だけど、それでもいい。

夏葉みたいになれないのなら、私なりの方法で少しでも近付くしかない。精緻に、精密に外見を取り繕って、本物と紛うくらいにまで演技の精度を上げて、対抗するしかない。

 だからお願い、ばれないで。

今だけ、この作品の間だけでいい。

 私の中身が、本当は空っぽだってこと。私はアカネにはなれないってこと。

 せめて、この間だけは。

 誰にも、ばれないでください。


「カット―!」


 その声が響いた瞬間、全身の力が抜けた。膝ががくんと崩れて、立っていられなくなった。こんな事初めてだったから、自分が一番驚いたけど――そっか。きっと私、そのくらい頑張ったんだ。

 夏葉に肩を借りて、やっとのことで立ち上がる。そうしたら、すごく嬉しそうにぐっと右手を突き出した愛美が、

「最高じゃん」

 って言うから。

「当たり前でしょ」

 そう強がって、まだ震えてる右手をこつんと合わせる。

 一発オッケーが出たシーンは、後にも先にもここだけだった。


 ***


 撮影は続く。一発オッケーのクライマックス、その勢いを受け継ぐように、今日の撮影は怒涛の勢いで進んだ。

「カットーー!!」

 愛美の声が響き渡るたびに、雰囲気がどんどん高まっていく。何度リテイクが出ても誰一人嫌な顔をせず、全員が真剣に向き合っている。昨日の時点ですごく良い雰囲気だったけど、今日のそれはもっとすごかった。

 指示を待つわずかな間や五分程度の小休憩にも、誰に言われるまでもなく自分に出来ることを見つけて、みんながそれをやっている。台本の読み合わせ、動きの確認、タイミングのチェック。一人で集中している人や複数人で楽しそうにやっている人、各自やり方は様々だったけど、みんな全力だってことだけはすごく伝わってきた。

 その中で一番頑張っていたのは、やっぱり愛美だ。

 愛美は撮影の合間中、ずっと映像を確認していた。それでいて役者とのコミュニケーションをすごく大事にしていて、頑張ってくれるみんなへの感謝を常に言葉にする。休憩の時間には自分から率先して動いて、常に撮影がスムーズに回るよう、役者が演技のことだけを考えていられるように環境を整えてくれた。

「愛美ちゃん、すごいね」

 隣の夏葉がぽつりと呟く。

「うん」

 そのとおりだよ。愛美はすごいんだ。

 いつだって全力で、一生懸命で、自分の苦労なんて顧みずみんなのために動いて。だからみんなからすごく信頼されていて、その場にいるだけで雰囲気が明るくなって。

 そしていつだって、彼女が中心になっていく。

 だから――

「ねえ、夏葉」

 畏まった声音で、彼女に向き直る。

「お願いが、あるんだけど」

 愛美はいつだって、私に与えてくれた。

 だから今度は、私の番だ。

 私が愛美のために、一歩を踏み出す番だ。


 ***


「失礼します」

 するすると動くドアを開いて、私は大きく頭を下げる。終業式ぶりに訪れた私の教室。思えばこことも、もうすぐお別れか。別にこの場所に想い入れなんてないけれど……でもやっぱり意識してしまうと、なんだか少し寂しい気がした。

「朱音ちゃん」

 窓際の席に座った夏葉が、こっちこっちと手招きをする。それに誘われるように一歩を踏み出して、私は夏葉、そしてその隣に座る演劇部長の前へと進む。

「わざわざ来ていただいてすみません」

「いいっていいって。それに、そんなに畏まらなくても大丈夫だよ」

 部長は朗らかに笑う。私は二人に向き合う形で座って、夏葉にも小さくお礼を言った。

 今日の撮影もお疲れ様とか、そういう社交辞令をほどほどに済ませた頃。私は乾いた唇を開く。

「それで、お呼びした理由なんですけど――でも、その前に」

「うん?」

「――半年前のこと。本当に、申し訳ありませんでした」

 私はもう一度、大きく頭を下げた。

 半年前、地区大会、退部。

 あの頃の私は、本当に傲慢だった。自分の演技に絶対の自信があって、だから優越感に浸って、先輩たちを見下して。自分より演技が下手な人の話なんて聞かなくていいって決めつけて、三年生と衝突して、それで勝手に孤立した。

 私は本当に、バカだった。

 そんなことをぽつぽつと話したら、部長は

「まあ、あれはさ――三年生の態度も、良くなかったじゃない、あんまり。朱音だけのせいじゃないよ」

 そう口にして、私の肩を優しく叩く。

「ま、朱音もちょっとは、悪かったと思うけどね」そう悪戯っぽく付け加えてくれたことで、かえって心が軽くなった。

「――本当に、反省しています。私は自分勝手で、部内の空気を悪くして、それで、愛美まで巻き込んで――えっと、話って言うのは、そのことなんです」

「聞かせて?」

 一瞬、しんとした静寂が教室に流れる。

「退部の件、取り消して欲しいんです」

 その静けさの中に言葉を投げ入れたら、部長の表情が少しだけ動いた。

「取り消し、って?」

「私は、退部を自分の意志で決めました。でも愛美が退部したのは、私のせいです。私が辞めるとか言い出したから、私のこと、きっと放っておけなくて。だって愛美、優しいから」

 私はこんなに、言葉を紡ぐのが下手だっただろうか。ある程度、頭の中に言うことをまとめてきたはずなのに、それが全然思い出せない。

 でも、それでも、言葉を止めるわけにはいかない。

「だから少なくとも、愛美は退部すべきじゃなかったんです。演劇部に残るべきだったんです。あの子、演劇が大好きだから。演劇のこと、もっと勉強したいって言ってたから。でも、私が愛美の優しさに甘えて、映研部なんて立ち上げさせて、半年間も愛美を――」

「朱音ちゃん……」

「だから退部のこと、なかったことにしてほしいんです。演劇部に戻らせてほしいんです!」

 お願いします、って付け加えるように言って、私はまた頭を下げた。自分でも、話の要点が滅茶苦茶だって分かってる。でももう私には、こうするくらいしか出来ないから。

「顔、上げて」

 部長の言葉に、視線を机に落としたままで、ゆっくりと顔を持ち上げる。

「朱音の気持ちは分かった。もちろん、もう一度入部届を出してくれたら、いつだって歓迎だよ」

「……ありがとうございます」

 あまりにも自分が情けなくて、真っ直ぐに部長を見れなかった。

 それでもちゃんと、言えた。それに安堵したからか、ずっと鳴っていた心臓の音が、少しずつ治まっていく。

「じゃあ、演劇部の入部届、明日までに用意しておくから。夏葉、悪いんだけど二枚、用意しておいてくれる?」

「はいっ! じゃあ朱音ちゃん、明日の撮影前にでも――」

「……いえ、二枚もいりません」

 夏葉の言葉を遮って、私は今度こそ顔を上げる。

「愛美の分だけでいいんです」

「え……?」

 夏葉が目を丸くする。

「朱音ちゃん、何言ってるの……?」

「…………」

 静寂が痛かった。友人の困惑を映す瞳から、私は目を逸らしそうになる。

「朱音は、戻らないつもり?」

「……はい」

 部長の言葉にそう返したら、

「どうして」

 机を弱く叩いて、夏葉が身を乗り出してきた。

「どうして、そんなこと……だって、愛美ちゃんと一緒に、戻ってくるんじゃないの?」

「ううん、夏葉。もういいの」

 そう言ってしまったら、次の言葉は驚くほど簡単に出て来た。

「私はこの映画で、役者を辞めるから」

 

 ***


 夕暮れの坂道を、私は一気に駆け上がる。右手に広がる海が鬱陶しいくらいにきらきらと輝いていたから、すぐにその視線を正面へと戻した。

 こんな日に、自主練なんて――そうも思ったけど、この撮影が終わるまで私は役者だ。だからちゃんと毎日、自主練をする。自分で決めたそのルールだけは、せめて守りたいって思った。

 最後の直線、道の果てには展望スペースが見える。そこ目掛けて、意味もなくスピードを上げた。

 

 私は役者を辞める。

 その決心を固めたのは、喫茶店で夏葉と話した時。

 これまで私は自分の演技に、絶対の自信を持っていた。裏を返せばそれは私を支える唯一の個性で、それこそが私自身でもあった。でも十年間も大切に抱え続けてきたそれは、演技経験一年もしない夏葉の前にあっさりと敗れた。

 だからあの時、夏葉に演劇を始めた理由を聞いたあの時。私はきっと夏葉から、とんでもないストーリーが飛び出してくるのを密かに期待してた。例えば、両親が超有名な俳優だとか、死別した友人と交わした約束のためだとか、とにかく何でもいいから「あぁ、この子には負けても仕方ないな」って思えるような、強いエピソード。それがあれば、「だって夏葉は特別だから」って、自分の敗北を無理矢理にでも納得させられたかもしれない。

 でも夏葉は、本当に普通の女の子だった。演劇に何となく興味があって、やってみたら楽しくて、頑張るぞって意気込む普通の女子高生。

 だからもう私は、自分に言い訳も出来なくなって。

 そして今日のクライマックスの撮影で、私は完全に理解させられた。認めざるを得なかった。

 私には単純に、才能がないんだって。

 本物を目にしてしまった瞬間、私の心は完全に音を上げてしまったんだ。役者ってこういうことなんだって理解してしまって、自分が今までやっていたのは所詮天才の真似事でしかないって分かってしまって。

そしてそれを、これから先もずっと続けるって思ったら、もう耐えられなくて。

 

 だから私は、演技を辞める。

 演劇部を辞めてからの半年間、ずっとずっとだらだらと保留にし続けていた悩み、それにやっと答えを出す覚悟が、固まったんだ。


 心臓の鼓動が速くなる。息が上がって苦しくなって、それでも一気に駆け抜ける。

 そうして辿り着いた展望台には、真っ赤な空が待っていた。海と空がどこまでも赤く染まる、あの日と全く同じ景色。

 マジックアワー。

 だけど、今日のそれはあまりにもちっぽけで、安い絵の具をただぶちまけたみたいに乱雑で、ちっとも綺麗なんかじゃない。

 あの日、愛美と見た光景は、そこにはなかった。

「……帰ろ」

 私は階段を降りていく。誰に言ったわけでもないけれど、そうでもしないといつまでも、ここから動けそうになかったから。


 帰りの電車でひとり、流れる夜景を見ながらぼんやりと考える。

 これでよかったんだ。私のことも、それに愛美のことも。愛美はこれで演劇部に帰れる。帰るべきだ。だって愛美は本来、辞める必要なんてなかったんだから。

 彼女には本当に、どれだけ謝っても謝り切れない。

 だって私は、愛美を道ずれにしようとした。

 彼女の優しさに付け込んで、演劇を辞めた私に付き合わせて、短い高校生活を半年も無駄にさせて。そうやって演劇が大好きな愛美を、私はゆっくりと殺そうとした。

 殺そうとしたんだ。

「私のことは良いから、愛美は演劇続けなよ」って、その一言すら言えなくて。

 幼馴染なら。親友なら、絶対に止めるべきだったのに。愛美まで辞めることないって、止めなきゃいけなかったのに。私の勝手な都合に巻き込んだことを謝って、愛美を送り出すべきだったのに――私は、何もしなかった。

 でもそんなの、卑怯だ。

 卑怯だよ。

 あんなことがなければ、本当なら今頃、愛美は演劇部で欠かせない存在になっていたはずだ。いつもみんなの中心にいて、良い脚本を書いて、きっと演出にまで本格的に手を伸ばしちゃうんだろう。三年生になるころには部長になって、全国なんか行っちゃったりして。みんなに慕われて、その期待にちゃんと応えて。

愛美にはきっと、それが出来る。 

 だって愛美には、華があるから。

 この人のもとで作品を作りたい、この人のために演技したいって思わせるような強い魅力が、愛美にはある。今日までの撮影をとおして、撮影に臨む愛美の態度を見て、きっとみんなそれを思い知ったはずだ。

 そんな彼女のことを映研部なんかに引き留めていたらダメだ。私が独り占めなんてしていたらダメだ。

 だから、これでよかったんだ。

 

 電車が降りる駅に差し掛かる。私は定期券を手に立ち上がり、電車から降りた。

 寒空に上った楕円の月が照らす中、私はひとり靴音を響かせながら夜の道を歩く。そうしてしばらく歩いて、愛美の家の前を通りかかったら、嫌でもその視線が彼女の部屋へと向いた。道路に面する二階の角、その窓にはカーテンがかかってたけど、隙間から明かりが漏れている。

 愛美。この話、もう聞いたかな。いやきっと、もう夏葉から聞いているだろう。だってあの子、黙っていられるようなタイプじゃないし。

 きっと、かんかんに怒ってるだろうな。まあ無理もないか。何の相談もしないで、勝手に役者を辞めるなんて言ったんだから。

 でもいいんだ。私は自分のやったこと、間違ってるなんて思わない。だから何か言ってきたら、言い返してやるんだ。「愛美だっていつも勝手に一人で決めて、私を振り回すじゃない。だから今度は、私の番だよ」って!

 そんな強がりを覚えながら、私は止まった足を動かして帰路を急いだ。

 その日。寝る時間になっても、結局愛美からの連絡はなかった。



 翌朝、起きてみると一件の通知があった。愛美からのメッセージ通知だったけど、でもそれが投稿されたのは私個人に対してじゃなくて、撮影隊に業務連絡をするための全体グループチャットの方。

 そこには飾り気のない文字で

『監督の叢雨です。体調不良のため、本日の撮影は延期させてください。本当に申し訳ありません』

 とだけ書かれていた。

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