第4話

「あめんぼあかいな あいうえお うきもにこえびも およいでる」

 お腹の奥から出した声が、日の傾いた水平線、その向こう側へと消えていく。中学の演劇部で嫌というほど口にしたそのフレーズを、静かに揺れる水面に向かってただひたすらに、全力で前へ前へと飛ばす。

 県立海浜記念公園。私のお気に入りだった場所。だったというのは、もうずいぶん来ていなかったからだ。最後に来たのはもう半年以上前になる。

 港近くに作られた大きなコンクリートの広場を中心として、その近くにはアスレチックの遊具やら売店の入った休憩施設やらが立ち並んでいる。名前のとおり海に面していて、長い堤防がずっと奥まで続いているため、釣り人にも人気のスポットらしい。そのため家族連れやカップル、ご近所のお年寄りなど客層は実に幅広く、結構混んでいることもある。でもまだまだ寒さが残る三月の平日、しかも夕方ということもあってか、人影は疎らにしか見えなかった。私にとっては、その方が都合良いけど。

「かきのきくりのき かきくけこ きつつきこつこつ かれけやき」

 少しかじかむ指先を太腿に擦りながら、一音一音丁寧にしっかりと、海に向かって地道に発声練習を続ける。

 こうしていると、どうしたって演劇部時代のことを思い出す。ここは中高と、私が自主練のために使っていた場所だ。家から電車一本で来られて、大声を出せて、何よりも風が気持ちいい。同じような考えなのか、ギターや歌の練習をしている人もちらほらといるから、他の利用者からあまり変な目で見られないのも好都合。あの頃はほとんど毎日この場所に通っては、ひたすら練習に明け暮れたものだった。

 演劇部を辞めてからはすっかりご無沙汰だったけれど、久しぶりに訪れたこの場所は、遊具のネットが新しく貼り直されたこと以外は前と何にも変わっていない。それがなんだか寂しくて、私はいちだんと声を張り上げる。

「ささげにすをかけ さしすせそ そのうおあさせで さしました」 

 しばらく練習なんてしていなかったはずなのに、現役の頃とほとんど変わらない声が出せたのは何気に嬉しかった。そしてそれは、演技も同じ。

 愛美に巻き込まれる形で始まったこの映画。最初は正直、あの頃と同じパフォーマンスを発揮できるか少し不安だったけれど、数日の練習で私はすっかり演技の勘を取り戻していた。今日のクライマックスも、自分的には百点の出来栄えだったと思う。

 でも、だからこそ思うんだ。


私はやっぱり、役者には向いていないって。

 

「たちましょらっぱで たちつてと とてとてたったと とびたった」

 役者に最も必要なものは何か。半年前までの私なら、真っ先に『演技力』って答えてた。それを疑ったことすらもなかった。だから私は、どんな役柄でも出来る様に努力してきた。笑えと言われたら頬が引き攣るまで笑って、泣けと言われたら目が真っ赤に染まるまで涙を流す。自分の感情なんて置き去りにして、求められた事だけをひたすらにやる。そのためだけに時間を費やしてきた。

 私は将来、役者になろう。本気でそう思っていた。

 でも演劇を離れて半年。自分を見つめ直す時間が出来たら、ある時急に、そうじゃないって思った。自分の演技には何かが足りないって思い始めた。

 それがきっと『華』ってやつなんだ。夏葉の演技を見ていたら、そう思わずにはいられなかった。

 華がある。言うのは簡単だけど、じゃあその華って何なのか。

 分かりやすく言い換えるなら、その人にしかない魅力だ。「この役には、もうこの人しかいない!」って直感的に思える様な、その人だけが持っている魅力。

 そんなものどうすれば出せるのかって、それが分かれば役者は苦労しない。でも夏葉に限って言うのなら、彼女の『華』の正体は、今日少しだけ分かった気がする。

「なめくじのろのろ なにぬねの なんどにぬめって なにねばる」

 夏葉はすごい。そう言うと彼女は謙遜するし、いや、もしかしたら自分でも気が付いていないのかもしれないけれど。

 彼女には華がある。

 彼女はきっと、キャラクターの気持ちを分かってる。だって夏葉はスタートがかかったとき、本当にナツハにしか見えなくなるから。

 キャラクターがその場面で感じる気持ちを理解して、それを反映した演技が出来る。キャラクターになりきるなんて生優しいものじゃない。キャラクターのことを本当に生きている人間として理解して、その声を聞いて、通じ合って寄り添って、それを自分の演技に落とし込むことが出来る。

 それに、夏葉にはきっと、アカネの声も聞こえてる。だから今日みたいに、クライマックスのセリフを自然に書き換えたり出来るんだ。ナツハとアカネがどういう人間でどんな感情を胸に抱いているか、それが分かるから躊躇なく違和感ないセリフを足せるんだ。だから愛美の指示にない演技プランを試しても、すんなりと馴染むんだ。

「はとぽっぽほろほろ はひふへほ ひなたのおへやにゃ ふえをふく」

 ナツハとアカネというただの記号でしかない単なるキャラクターが、夏葉にかかれば本当にそこに生きている様に思える。

 それが多分、彼女の『華』の正体。 

 そんなこと私には無理だ。

 私にはキャラクターの声は聞こえない。だって私は、言われたとおりの演技しか出来ない。

 感情に伴う外的反応を真似することで、演技をとおして怖がっているように、悲しんでいるように見せることは出来ても、キャラクターの気持ちを理解することが出来ない。指示があればそのとおりに出来る、でも指示がないと何も出来ない。私の演じるキャラクターはこの場面ではどんな気持ちなのか、それが自分じゃ分からないから、演技プランだって組み立てられない。

 だから私の演技は、外から見ると空っぽに見えるんだ。

『朱音さ、すっごく上手いんだけど……なんていうかな、なんかこう、あんまり惹きこまれないって言うか』

 演劇部にいた時、三年の先輩からそう言われたことがあった。あの時の私は「私より下手なくせに、負け惜しみ?」としか思わなかったけど。でも多分、違ったんだ。

「まいまいねじまき まみむめも うめのみおちても みもしまい」

 私の演技には、魅力がない。

 それでも多分、今だけは通じるだろう。なんとなく空っぽに見えても、学生のうちはなんとか通用する。指示のとおり泣ける役者は高校生には多くない。夏葉だってまだそこまで上手く出来てないんだから。

 だから私のこの技は、今ならまだ武器になる。

 でもそれは学生のうちだけだ。こんなことが出来たって、大人の世界じゃ絶対に通用しない。そりゃ、指示したことは即座にやれる、便利な脇役くらいには使われるかもしれないけれど、きっとせいぜいそれ止まり。華々しい主演みたいな役をやれるのは、きっと夏葉みたいな子だ。「絶対にこの役には、この子しかいない」って思えるような、演技力だけじゃ説明のつかない強い魅力を持っている人。

 私は多分、一生かかったってそうはなれない。

「やきぐりゆでぐり やいゆえよ やまだにひのつく よいのいえ」

 でもだからこそ私は、全力で今の自分を磨くしかないんだ。空っぽな私が夏葉の隣に立つには、今持っている武器を必死になって磨くしかない。

 夏葉はどんどん腕を上げている。まだ演技を初めて一年も経っていないのに、主演を任せたって違和感ないような出来栄えに到達してる。それどころか彼女は、この映画の撮影を通してさらに日々成長してて、今日のクライマックスはもう完全に負けたって思った。

 でも愛美は、私を信じてくれた。

 私を信じてこの映画の主演を、任せてくれたんだ。

「らいちょうさむかろ らりるれろ れんげがさいたら るりのとり」

 だったらもう、やれることを全力でやるしかない。私の演技は所詮ただの紛い物。本物にはどうやったって勝てない。

 でもだったら、せめてこの瞬間だけは。この映画、アカネの役に関してだけは、本物と分からないくらいに演技の精度を上げるしかない。本物に並びたてるくらいに、観客の目を欺けるくらいに、演技の質を上げるしかない。

 たった今、この瞬間だけでいい。

 この一本だけでいいんだ。

 だから――


「やっぱり、ここだった」


 あまりにも聞き覚えのある声が背中に刺さって、思わず振り向いた。赤味がかった空をバックに微笑を湛えた幼馴染は、とたとたと駆け寄って来ながら頬骨をくいっと持ち上げる。

「あなた、帰ったんじゃ……」

「うん? 帰るなんて言った?」

「だってさっき、電車に乗ったまま見送って――」

「あぁ、隣の駅で降りたんだよ。それで、歩いてきた!」

 理解不能な返答に目をぱちくりさせていると、そんなこと知らないと言わんばかりに愛美が右手を突き出す。

「ほら、差し入れ!」

 その手に揺れるレジ袋、彼女はそこから缶コーヒーと鯛焼きの紙包を取り出すと、

「というわけで、あーゆーコーヒーブレイク?」

「なにそれ」

 そう声を発した口の端が、知らないうちに釣り上がっていた。

「悪いけど」

 それでも、差し出されたお土産を右手でくっと押し返して、

「トレーニング終わるまでは、休憩はしないって決めてるの」

 誘惑を突っぱねた私は、自分の掟を貫いた。

 愛美は不満げに頬をぷーっと膨らませると、目を細めてじとーっとした視線を向ける。

「相変わらずガンコだな。じゃあ、残ってるメニューは?」

「クライマックスの練習するつもりだったけど……愛美がいるから辞めた」

「えー、なんでだよぅ」

「辞めたったら辞めたの。だから後は発声練習をもう少しして、最後にランニング。それで終わり」

「ふーん」

 唇は少し尖がっていたが、それでもやっと納得したのか、愛美は手に持った差し入れを雑にレジ袋へと戻す。

「まったく、仕方ないなぁ」

 そうしてリュックをその場に降ろし、

「じゃあ、付き合ってやるか!」

 偉そうに腕を組んで、自信満々に言い放った。



「うーん、きっもちーい!」

 両手を大きく広げながら、愛美は全身で潮風を受け止めて走る。雰囲気だけなら、まるでゴール直前のマラソンランナーみたいに堂々としてる。走り始めてから、まだ三十秒も経ってないけど。

 でも気持ちは分かる。私がここを自主練場所に選んだ理由は、確かにこれもあるから。

 晴れた海沿いの道を走るのは本当に気持ちいい。三月の風は冷たいけれど、火照った身体にはちょうどいいくらいだ。

 長袖の体操服が二つ、誰もいない広場を進む。空はすっかり夕焼けに染まって、隣を走る愛美の頬が赤く照らされている。真っ直ぐに前を向いてリズムよく呼吸を刻みながら、愛美はほんの少しだけスピードを上げた。

「この後は?」

 跳ねるような声でそう聞いてきた愛美に、私はすっと指を差す。その方向に視線を向けた時、きらきらと輝くような笑みを浮かべていた彼女の顔が、分かりやすいほど曇った。

「……え、あそこ?」

 見間違い? そう言いたげに顔を向けた愛美に「そう」とだけ返したら、彼女の表情はもう海の底に沈んだみたいになっていた。

 私が指差したのは、広場の奥にそびえ立つ二十メートルくらいの高さの展望台だ。まあ展望台とはいっても建物ではなくて、小高い丘みたいに土が盛られたてっぺんに、ベンチや双眼鏡などちょっとしたものが置かれているだけのスペースだから、展望広場とかの方が正しいのかな。

 そこに続く道は急な階段と、その隣に敷設された長い長い坂道の二つ。でも階段だとすぐに着いちゃってつまらないから、私はいつも坂道を走っていた。

 幾重にも折り重なるようにして伸びた坂道を登り始めたら、さっきまで余裕の表情ではしゃいでいた愛美の様子が変わる。最初の折り返し地点に到達する頃には、それがもっとはっきりとしてきた。人の感情に疎い私でも、今の愛美の気持ちは手に取るように分かる。「ランニング付き合ってやるなんて言わなきゃよかった」だ、絶対。露骨に減った口数が、それを物語っている。

「これ、いつ、も、のぼって、た、の」

 だからって、そんな死にそうな声でわざわざ聞かなくても。

「うん。自主練してた時はね、ゴールはあそこって決めてたの。言ったことなかったっけ?」

「そ、だっけ、か。わす、れ、たよ、そん、な前の、こと」

 ひいひいはあはあ息を吐く合間合間に挟まれた返答は、およそ人間の発する声のリズムとは思えない。それがなんだか可笑しくて、私の唇はぴくぴくと震えた。

 そうして坂道を登って折り返し、また折り返しを二回ほど繰り返したら、坂の直線の先にやっとゴールが見えてくる。

 流石に私も、ちょっと苦しくなってきた。それを誤魔化すようにして、私は隣へ声を飛ばす。

「ほら、もう少しだよ。頑張って」

「…………」

 虚ろな目で走る愛美は、もう答える元気もないようだ。感情を殺してただ足を動かすマシーンと化した彼女を横目に、私は思い切って腕を伸ばす。

「うーん、きもちい!」

 風を受け止めるように胸を張って、わざとらしくそう言うと「こいつ、正気か?」って言いたげな目の愛美が見えた。よかった、感情戻ったじゃん。

 ゴール手前でスピードを落とした愛美に並走して、そのまま一緒に展望台の地面を踏む。絶対に途中でバテるって思ってたのに、彼女はちゃんと走り切った。偉いね、今にも死にそうだけど。

「も、むり……」

 登った者だけが見られる絶景には目もくれず、愛美は近くのベンチへと倒れこむ。少し顔を上げれば夕焼けの海が見えるのに、ベンチに貼り付くようにしてうつ伏せになった愛美は、もうピクリとも動かなかった。

 仕方ないなぁ。私は彼女のそばを離れると、脇に置かれた自販機へと向かう。

「はい、差し入れ」

 戻ってきてそう声を掛けたら、彼女はやっと頭だけをほんの少し動かした。しかしその視線にスポーツドリンクのペットボトルを捉えるや否や、しゅばっと起き上がって私の手からそれをもぎ取り、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干す。

「はあぁぁ~っ! い、生き返ったぁ!」

 そのままCMにでも使えそうなくらいにコッテコテの反応に、私は思わず吹き出した。それが恥ずかしかったのか「朱音の体力バカ!」って叫んでたけど、これっぽっちも響かない。残念だけど、むしろ誉め言葉だよ、それ。

 もう一言くらい何か言ってくるかと思ったけれど、もうそれで終わりだった。

 だって愛美の視線はもう、私から外れていたから。

 彼女の目線が向いたのは、今自分たちが走ってきた道と広場、そしてその先に大きく広がる海原だった。太陽が落ちた水平線と空の境目は真っ赤に染まり、海が空の赤を、空が海の赤をお互いに反射しあって、どこまでもどこまでも透き通るような赤が視界いっぱいに広がっていく。

「……マジックアワーだ」

 うっとりと呟いた愛美の言葉が、海風に乗って消えていく。

「本当に、魔法みたいだね」

 そう続けた愛美に頷いて、ゆっくりと隣に腰を下ろす。

 ベンチは二人で座ったら、少し狭かった。でもこの圧倒的な景色の前ではそんなこと、どっちも言い出すわけがなくて。

私たちは少しだけ肩をくっつけあって、フィクションみたいな赤の風景を、ただじっと見つめてた。

 

「ねえ、朱音」

 赤が支配する二人の間を、愛美の声が走る。

「将来の夢ってさ、ある?」

「え? なに、急に?」

「なんか話したくなっちゃって。なんたって、マジックアワーですから」

 どこまで本気か分からない、いたずらっぽい愛美の声。

 ふぅと小さく息を吐いて、私は返す。

「そうだね、とりあえず大学行きたいかな」

「それから?」

「卒業する」

「その後は?」

「その後って、大学出たんだから社会人でしょ。普通に」

「普通って、会社員とか?」

「それは……」

 無邪気すぎるくらい真っ直ぐな愛美の言葉が、胸の奥にすっと刺さる。だから私は、返答に詰まる。

 そうだよって、返してしまえばよかった。そんな先のことなんてまだ分からないんだから、適当に話を合わせておけばそれでよかった。

 でも今そう言ってしまったら、もう本当に、そうとしかならない気がして。

 あの頃の私なら。

 この幻想的な赤の背景に背中を押されて「役者とか」って、答えてたのかな。

「そういう愛美はどうなの」

 不意にそう聞いたら、愛美は少しきょとんとしてた。そしてしばらく「うーん、そうだねぇ」とか唸ってる。人に聞いたくせに、自分は考えてなかったのか。でも、

「私はやっぱり、朱音と一緒に部活することかな」

 いきなりそう返してくるから、今度は私が面食らった。

「……あのさ、将来の話じゃなかったの? 部活なんて、今してるじゃない」

「だから、今も将来も、ずっとってこと」

「ずっとって、いつまで?」

「そんなの、ずっとだよ」

 ……この子はまさか、一生高校生でいるつもりなんだろうか。もう二年したら卒業ってこと、分かってる?

 そしたら私たちは、きっと別々の大学に進んで、一人暮らしだって始めるかもしれない。お互いに自分のことで忙しくなって、今みたいに気軽には会えなくなって、それで――

 それで。


「――ずっと、か」

「うん。ずっと」

 なんとなく呟いたら、愛美が同じ言葉を返した。

 ずっと。

 なるほど、確かに。

「まあ、悪くないかもね」

「でしょ?」

 空の色が、だんだんと黒に近付いて行く。でも微笑んだ愛美の頬の朱は、さっきまでと変わらないように見えた。



 帰りの電車を降りた頃には、あたりはすっかり夜だった。もう空には赤なんてどこにもなくて、さっき見た光景は幻だったんじゃないかとさえ思う。でもきっと、だからマジックアワーって言うんだろうなって、どうでもいいことを考えた。

「……おいしくない」

 隣をとぼとぼ歩く愛美が呟く。手にはさっき持ってきた鯛焼き。すっかり冷めて固くなってしまったそれを、彼女は渋い顔で不満げに頬張っていた。

「だから、帰って温めてから食べなって」

「だって、お腹すいたんだもん」

「帰ったらすぐご飯だろ。我慢しなさい」

「やだー!」

 そう声を張り上げるなり、彼女はまた一口頭から齧り付くと、すぐに「ぼっそぼそ……」と呟いていた。この子、やっぱりアホだ。

「あっ!」

 すると突然、愛美が足を止める。

「見てよ、朱音!」

 すっと腕を伸ばして指差した先には、満月。

「うん、見た」

「もう、そうじゃなくて! きれい〜とか、なんかないの?」

「別に」

 はあぁぁ、と愛美はでかいため息を吐く。いや、マジックアワーとかならまだしもさ。だって月じゃん、ただの。

「じゃあ、お月見しよっか」

「いや、なんでそうなる」

「だってー、朱音と満月見るのなんて久しぶりじゃん。ほら、お団子――じゃないけど、ちょうど鯛焼きもあるし!」

「鯛焼きって、その冷えてぼっそぼそのやつ?」

「そんなことないよ! これはこれで結構美味しいよ!」

 ムキになってそう言うと、愛美はまた一口鯛焼きを頬張る。直後に「まっず……」と呟いていたことは、言うまでもない。

「ほら、バカしてないで帰るよ」

 ひらひらと手を振って、私は一歩進む。

「ねえ、朱音」

「はいはい、今度は何?」

 いつまでも立ち止まって動かない愛美に、ちらっと視線を向ける。

 でもすぐに、目が離せなくなった。

 

「あの日もさ。こんな満月だったよね」


 街灯と月明かりに照らされて、彼女の艶やかな青い髪がしっとりと、鈍く光る。吹き抜けた風がその髪を触って、するすると通り抜けていくように儚く揺らす。そうしてほんの少しだけ微笑んだ愛美の瞳が、私の心をそっと掴んだ。

 

 あの日。

 あの日も確か、満月だった。

 月明りと街灯の中を、ひとり帰ったあの日。

 演劇部のみんなの輪を離れて、私の高校生活が終わりを迎えるはずだったあの日。

 もう二度と演劇は出来ないんだろうなって思って、愛美と一緒に歩むのもここまでだって覚悟したあの日。

 その弱気な哀愁を愛美が全部ぶち壊して、私の手を強引に引っぱってくれたあの日。

 愛美の言うとおり。

あの日も確かに、こんな満月だった。

 

「演劇部、戻ろうよ」

 ぽつりと呟いた愛美の声が、耳の奥で響く。うるさいくらいに鳴り響いて、でもすぐに消えていった。

「そりゃ、三年生はちょっと意地悪だったけどさ、もう卒業しちゃったし。残ったみんなは、すごく優しいよ」

「……そんなの」

 知ってるよ。

 そんなこと、知ってるよ。

 私の視線が、どんどんと足元に吸い込まれていく。さっきまで視界の端に映っていた愛美の顔も、もう見えなくなった。

「みんなさ。朱音が帰ってくるの、待ってるんじゃないかな」

「そんなわけ」

「そうだよ」

 優しいくせして、でも確かな力強さを含んだその声に、何も言えなくて。

「朱音。この映画、撮り終わったらさ――」

「ごめん」

 愛美の言葉を遮ってまで、私は声をあげて。

「もう、帰らなきゃ」

 そう返すので、本当にもう精一杯で。

「うん。ごめんね、引き留めて」

 目を向けなくたって、控えめな笑みでそう口にした愛美の顔が浮かんだ。単純なくせに素直じゃなくて、強引なくせに繊細な、幼馴染の顔が。

 愛美はいつも、私に与えてくれる。一人じゃすぐ殻にこもって動けなくなっちゃう私を、これでもかとぐいぐい引っ張って、そして連れ出していってくれる。

 そんな愛美に、私は何か一つでも、与えてあげられているんだろうか。

 満月の照らす夜道を、そのまま二人で黙って歩いた。愛美の家に着くまでお互いに一言も話さなかったけど、気まずさなんて微塵もない。

「ばいばい」

「じゃあね」

 別れ際のその一言だけで十分で、私は再び歩き出す。

 でも足音が一つ減ると、やっぱり少し寂しくなった。

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