第3話

「うげー……課題だるー」

 くにゃんと身体を折り曲げて、夏葉が机上に突っ伏した。もう、またこの子は……半ば呆れた表情を浮かべながら、私は彼女に一瞥もくれずに課題と向き合う。

「ナツハ、もう少しシャキッとして」

「えー……だってさ、数学だよ、数学」

「知ってる。今やっといたら、後から楽だよ」

「分かってるよー。でもー、どうにもやる気が出ないー」

 そう口にして、夏葉がゆっくりと上体を起こす。

 そこに悲鳴が重なったのは、ほとんど同時だった。

 階下から響き渡る耳を劈くかのような金切声に、弛んだ空気が一瞬で凍り付く。張り詰めた緊張が走って、はっと顔をあげた夏葉と目が合うけれど、二人ともすぐには動けなくて。

 そうしているうちにまた悲鳴、今度はすぐに、開いた窓の外からだって分かった。どちらが言い出すでもなく、二人ともゆっくりと近付いて下を見る。

 眼下には校庭。そこに、一人の女生徒が倒れてた。それに覆いかぶさるようにして、別の女生徒がうずくまっているのが見える。

 何かあったんだ。事故? 病気? いや、どっちにしたってまずは先生に――

「……なに、あれ」

 あまりに切迫した夏葉の声に、一瞬思考が止まる。聞いたことないほど真剣味を帯びた彼女の声音、それが耳の奥で反響したとき、私もやっと気が付いた。

 倒れた女生徒に覆いかぶさった別の女生徒。最初彼女は、倒れた人を心配して寄り添っているのかと思った。

 でも違う。倒れた生徒はもうぐったりしているが、そんな彼女の身体を激しく揺さぶりながら、執拗にその首元へと顔を近付けている。

 だってあれじゃ、まるで、食べ――

「やめてえぇっ!!」

 逆方向から響いた別の悲鳴に、二人で一斉に振り向いた。少し開いた部室の扉、それがゆっくり、弱々しく開いていく。でも、誰もいない。

 違う、下だ。地を這うように伸びた手が、扉の接地面に掛けられて、きゅるきゅると音を立てながらそれを開いていく。そうして半分くらい開いたところで、そこから見知らぬ女生徒の顔が覗く。

「たす、け――」

 でもその言葉が、最後まで発されることはなかった。助けを求めた声は悲鳴に代わり、彼女の顔は一瞬にして廊下の向こうへと消えていく。何かに引きずられるようにして、ほんの一瞬で。

「あ……あぁ……」

 夏葉が恐怖を漏らしながら、がくがくと震えてる。

 今もまだ、廊下からの悲鳴は鳴りやまない。その度にびくんと肩を震わせて、彼女は強張った表情を崩さないまま、焦点の合わない視点でただただ扉の先を見つめていた。


「カットーー!! お疲れ様さまでしたー!」

 黄色く元気なその声に、現場の緊張が一気に解れた。はぁと大きく息を吐いて、夏葉はぐにぐにと頬を揉み、硬く張った表情筋を戻している。

 私もうーんと背伸びをして、曲がった背骨をぐいっと伸ばす。

 よし、今日の練習はこれで終わり。夏葉と合わせる大事な冒頭シーン、三回目にしていい感じにタイミングも合ってきた。それがつい嬉しくって、私は柄にもなく自分から夏葉に声をかける。

「お疲れ。結構良かったよ」

「ほんと? ありがとう!」

 夏葉は相変わらず、気持ち良いくらいよく笑う。彼女の笑顔を向けられたら、なんだかこっちまで嬉しくなるんだよね。さすが、演劇部のムードメーカーだ。本当にそう呼ばれているかは知らないけど。

 そういえば、愛美。ちらっと目を向けると、彼女はまず真っ先に上級生のところを回ってた。廊下で張ってたゾンビ役、被害者役の先輩たちへと頭を下げながら、労いの言葉を述べている。そんなことをするもんだから当然そのまま捕まって、トレードマークのぴょこんとはみ出たワンサイドアップをなでなでされたり、監督が板についてきたとか言われて小突かれたりしてる。

 やっぱり、愛美は世渡りが上手い。それになんてったって愛嬌がある。演劇部時代もああやって、いつも先輩たちから可愛がられてた。

 絡みがひと段落した彼女は、今度は窓から顔を出して、校庭で頑張ってくれた役者たちへと手を振りながら感謝を叫んだ。

 彼女が私たちのところへ来たのは、そうして全員への挨拶が終わってから。

「やあやあ、二人ともお疲れ! 最後、すっごく良かったんじゃない?」

「えへへ……それはそれは」

 おじさんみたいな照れ方をする夏葉に、愛美がふざけてお腹を突っつく。「ひゃんっ!」と乙女な声をあげ、すかさず反撃に出た夏葉が愛美に抱き着いて……いや、私、何見せられてるの?

 そうして十数秒。やっと満足したのか、二人はやっと身体を離した。はあはあと息をあげて笑いながら、意味もなく一回ハイタッチ。なんかこういう時、変に息ピッタリなんだよね、この二人。

「朱音もおっつかれー! 相変わらず安定感があって助かるよ!」

 暑苦しいくらいに顔を寄せた彼女に「それはどうも」とだけ返して、手にした水筒から水分補給。乾いた喉には、ぬるいお茶さえも美味しく感じる。

 そうして皆で撤収作業をして、ちょっと早いけど今日のところは解散になる。早いって言っても、朝からお昼休憩を挟んでずっと練習してて、今はもう三時前。みんな疲れも溜まってるだろうし、ちょうどいい。

「それでは、お疲れ様でした!」


 ***


「いただきまーす!」

 言い終わるが早いか、愛美は目の前のパフェにドリルみたいなスプーンを突き刺すと、バカみたいな量を器用に掬い取ってそれを口へと突っ込んだ。シリアル、パイン、あんこにクリーム、てっぺんに乗ってたイチゴも全部、まとめてガバッと開いた口の中へと消えていく。

 まるでリスみたいに頬を膨らませながら、あぁ幸せという吐息が漏れ聞こえてきそうなほどに表情を緩めた愛美。そんな彼女に一瞥くれて、私と夏葉はくすりと笑い、自分のパフェにスプーンを入れる。口をすぼめても入るくらいの量だけ掬ったら、二人一緒にハムっと頬張った。

 練習終わり、愛美たっての希望で訪れたいつもの喫茶店。今日の反省会という名目で集まったはず……なんだけど。運ばれてきたデラックスフルーツパフェを前にしたら、監督の興味はすっかりそちらへと向いてしまい、反省どころではなくなった。ま、分かってたけど。

 そんなこんなで、真っ先に食べ終わったのはやはり愛美。私と夏葉が頼んだのはミニパフェ、それを半分も掘り進めてないっていうのに、愛美はその倍はあろうかという器をピッカピカにした上で、優雅に食後のコーヒーまで嗜んでいる始末。

「パフェの後にエスプレッソ……やっぱりこれに限るねぇ……」

 おばあちゃんみたいな口調で満足げに呟く愛美は、心から幸せそうに見えた。

 

 そうして私達も食べ終わり、みんなでお茶しながら色々と話した。今の話題は、クラス委員のこと。

「いやぁ、ほんと一年間長かったね。やっと最後、入学式の準備して終わりだよ」

「ほんと。軽い気持ちで引き受けちゃったけど、結構大変だったよね。運動会とか」

「そうそう。あと、文化祭ね! 文化祭実行委員より働いてたよ、私たち」

「模擬店の手配から申請から、何から何までやらされたもんね。片付けくらい実行委員でやってよ~って!」

「ほんとにね! あっ、それに合唱コンクールの時も――」

 一年も活動すればそれなりに鬱憤も溜まるのか、愚痴りながらコーヒーを啜る二人。でもその口ぶりとは裏腹に、全然嫌そうな感じはしない。むしろ、そういうのも全部まとめて楽しんでますって感じがする。まあそういう人でもないと、クラス委員なんて立候補しないんだろうけど。

 同じ演劇部だったってこともあるけれど、この二人はクラス委員っていう接点でも結構密接に繋がっている。何気に一年通して活動が多いから、クラス内でもいつも一緒にいるイメージがあるし。なんかもう、ずっと昔からの友達ってくらい馴染んでる。

「朱音もさ、来年やらない?」

「え?」

 そんなことをぼんやりと考えてたから、愛美からの思わぬキラーパスに対応できなかった。

「結構楽しいよ? ほら、私も一緒にやるから」

 愛美がご丁寧に振り直してくれるけど、

「無理。向いてない」

 おあいにくさま。というか、私がそういうタイプじゃないのはあなたが一番知ってるでしょ。

 いや、そもそも。

「だいたい一緒にって言うけど、来年またクラスが一緒かは分かんないでしょ?」

「え? なんで?」

「なんでって……クラス替えあるでしょ、二年になったら」

「いやぁ? 一緒でしょ、朱音とは」

「え、何その自信?」

「だってさ、私たちずーっと一緒じゃん、今まで」

「え、どういうこと?」

 夏葉が小首を傾げる。そっか、言ってなかったか。いや、取り立てて言うほどのことでもないから言わなかったんだけど。

 それに答えようと口を開いたけど、先に声を上げたのは愛美だった。

「朱音とはね、クラスがずっと一緒なんだ! 小一の時からずーっと!」

「そうなの?」

「ええ。何の因果か、見事にずーっと」

「なんなら保育園も一緒だったもん。お母さんたちが仲良くてねー」

「そうね。ほんと、立派な腐れ縁」

「もう、運命って言おうよ! デリカシーないなぁ」

 愛美はぷくーっと頬を膨らませるけれど、だから、それされても面白いだけなんだって。

 私がその頬を突っついて遊んでいたら、夏葉がぽろっと溢すように「いやぁ、運命だね」って呟いた。

「じゃあきっと、来年も一緒だね」

「ええ、多分ね。不本意だけど」

「私は嬉しいよ? 朱音と一緒なの」

 恥ずかしげもなくそう言ってみせるのが愛美のずるいところだ。そんなストレートに言われたら、茶化す気もなくなるよ。

「また三人で、同じクラスだといいね!」

 そう言って笑った夏葉に、「確かにね」って返した。

 


「さて、それじゃそろそろ、始めますか!」

 突然そう言い出した愛美に、私たち二人は首を傾げる。

「え、何を?」

「何って、反省会でしょ」

 やれやれ、とでも言いたげに、監督さんはわざとらしく肩をすくめる。

 なんだ、ちゃんと覚えてたんだ。てっきり、パフェを貪る愛美を眺める会にシフトしたのかと思ってた。

「というわけで、反省あるひとー!」

 右手を天へと元気に掲げた愛美。

「……あれ?」

 でもそれに声が続かないのを見るや、私たちの顔を交互にきょろきょろ。

「あの……反省とかは……?」

 あのね。そんな急に聞かれても、ぽんと答えられるわけ

「はいっ!」

 あったみたい。

 発言した夏葉は驚くほど真顔で、上から糸で釣られてるんじゃないかってくらいに背筋と腕をピンと伸ばしている。そしてもごもごと唇を揉み合わせてから、満を持したように一言。

「朱音ちゃんのお芝居が、素晴らしかったと思います!」

 ……

 …………

 ……………………あ、それだけ?

 普通こういう時って「素晴らしかったと思うけど、ここの部分は何たらかんたら」って本命の指摘に続くもんじゃないの?

 でもどれだけ待っても続きがないから、多分何もないんだろう。なんだか肩透かしを食らった様で、思わずため息が漏れた。

「いいねー! ナイス反省!」

 対して監督はご満悦。グーサインを作って突き出すと、夏葉に向けてにこっと笑う。いや、これ反省か?

「確かに朱音、すごいよね。安定感があるっていうかさぁ」

「そうなの! 何回リテイクもらっても、毎回毎回おんなじように出来てブレないし! 改善点があってもすぐに取り込んで直しちゃうし!」

「……どうも」

 なんだかもぞもぞとする胸の奥を宥める様に、コーヒーを一口含む。

「それを言うなら夏葉だって、愛美の指示にちゃんと対応できてるじゃない」

「ううん、私なんて全然! どうしてもカット毎にタイミングとかがブレちゃって、表情の作り込みだって毎回は……演劇部見渡しても朱音ちゃんくらいだよ、あんなに正確なお芝居が出来るのは!」

「……褒めても何も出ないよ」

 そう言いつつも、頭がなんだかふわふわとする感覚に襲われた。

 多分同じ言葉を、夏葉以外の人に言われたとしたら「はいはい、わざわざお世辞をどうも」って思うだろう。でも夏葉は多分、それが本心なんだろうって伝わってくる。ほんと、うちのクラス委員はどっちも、分かりやすいんだから。

 それからは結局、夏葉の演技も上手だとか、愛美の監督っぷりが良いとか、反省どころかお互いを褒め合う会みたいになって。流れで私もまた褒められて、しょうがないから褒め返して。そんな感じ。

 でもま、そんなのも良いんじゃないかな。私たちはプロでもなんでもない、まだまだ青い学生だから。


 ***


 九時に起きて自室を出たら、廊下ですれ違ったお母さんに「およそう」って言われた。

「おそようございます」

 そう返したらお母さんは笑って「朝ごはん、食べる?」って。

 ラップがかかった目玉焼きとハムをレンジで温めて、その間にケトルでお湯を沸かしつつインスタント味噌汁を用意する。完璧なタイミングでチンが終わったお皿を出して、ご飯をよそってゆっくり食べた。

 それからは春休みの課題をしたり、音楽を聴いたり動画を見たり。そしたらすぐにお昼になって、お母さんと二人できつねうどんを食べた。

 身だしなみを整えて家を出たのは、大体十二時半を回ったくらい。制服だけでもまあ耐えられる寒さだったけど、一応コートも来ておいた。セーラー服の下には、当然体操服。可愛いより機能性重視なんだ、私は。

 そうして路面電車の駅に向けて歩き始めること数分、愛美の家の前を通りすぎる。もう出たかな? 道路に面する二階の正面、愛美の部屋の電気は消えてるみたいだった。もう出たか、ぐうたらまだ寝ているか。

 いや寝てるな、多分。あの子、夜更かしだから。

 でもその読みが外れたのはすぐに分かった。路面電車の駅に着いたら、見知った青いワンサイドアップが見えたから。

「おはよ、遅いじゃん」

「間に合ったんだから同着でしょ」

 道路の真ん中にぽつんと佇む停留所、そこに申し訳程度に置かれた狭いベンチに二人で座って、路面電車が来るのを待つ。私たちの他には、待っている人はいなかった。

 電車に乗っている間、愛美はずっと脚本と睨めっこしながら、うーんうーんと唸ってた。セリフを覚えなきゃいけないわけでもないのに、ずいぶんと熱心なことで。話しかけるのも気が引けたから、私も台本を取り出して目を流しておく。

 改めて読むと、やっぱりこの映画はすごくシンプルだ。

 基本的なストーリーラインは、学校に突如ゾンビが現れて、主役を演じる私と夏葉が協力して校舎内を逃げ回る。途中ではぐれちゃうんだけど最終的には合流して、そこでの会話シーンでクライマックス、っていうもの。いささかスタンダードが過ぎる気もするけれど、新歓用だからあえて分かりやすいものをってコンセプトなんだと思う。

 というか、愛美の書く脚本は中学の頃からいつも、あんまり捻らない内容が多い。本人曰く「小難しいのは性に合わない」んだとか。だから、ちょっと物足りないって言われることもある。

 でもその分愛美は、話をすっきりコンパクトにまとめるのがすごく上手い。彼女が手がけた中学最後の地区大会の脚本なんか、たったこれだけの上演時間で、これだけの内容を伝えられるんだって驚かされた。

 余計な展開とか長ったらしい部分はズバズバ削っていって、全体のストーリーはシンプルに、でも見所だけは的確に埋め込んでくる。だから愛美の劇は、見ていても全然飽きない。

 そう思って読み返すと、この一見何でもないシンプルな脚本にも、彼女なりの工夫があちこちから滲み出ている。説明や日常会話は最低限に抑えてゾンビとの攻防だけを主軸に据えた潔い構成。激しく逃げ回る場面と静かに息を潜めるシーンを使い分けた緩急の付け方。「ゾンビから逃げるだけ」という単調な展開の中にもしっかりと盛り上がりを散りばめて、見る人を飽きさせない様にっていう配慮がある、真っ直ぐな愛美らしい脚本。

 そうして、ちょうど台本を一周し終えたあたりで、電車は目的の駅に着いた。

「ほら、降りるよ」

 私がそう言わなかったら、愛美はきっと終電まで乗っていたに違いない。慌てて荷物をしまった彼女は躓きそうになりながら、降車口に定期券をかざして電車を降りる。私もそれに続いたら、二人並んで晴れた寒空の下をいつものように歩いてく。

 寒い日の方が、青空って綺麗な気がする。そんなことをぼんやりと考えてたら、すぐに学校に着いた。

「おっつかれー!」

 中で誰が待っているわけでもないのに、愛美は掛け声を出しながら映研部室の扉を全力で開いた。ガタガタになったレールの上を悲鳴を上げて滑りながら、反対側の枠にぶつかった扉が爆発音を打ち鳴らす。この子はいつもどうしてか、部室の扉を開ける時だけフルパワーになる。教室とかの扉は普通に開けられるくせに、ここだけなぜか全力全開。何か恨みでもあるんだろうか。

「ごめん、遅れて」

 そうして数分、夏葉がやって来たのをもって、今日の活動は始まった。


「じゃあ、台本開いて。最後から二ページ」

 監督の指示に従って、長机にかけた私と夏葉が指定の個所を開く。

 今日練習するのはクライマックス。ここは私たち二人だけいれば大丈夫だから、他の人たちは全員お休み。この企画で初めて気の知れた三人だけでの練習に、ちょっとだけ空気が緩むのを感じる。

 でも、少人数だろうと練習は練習だ。ほんのり膨らんだ胸の上、鎖骨の下あたりをきゅっとつねって、私は気合を入れなおす。そうして視線を台本へと落とした。

「じゃあ早速、一回通しでやってみようか!」

 カメラをセットし終えた愛美が定位置へ。このクライマックスは、それぞれ校舎内を逃げ回っていた私たち二人が合流して、体育倉庫に逃げ込むところから始まる。今日は練習だから、部室でやるんだけど。

「じゃあ行こう! よーい、スタート!」

 ドアを開けて室内に飛び込んできた私たち、すかさず扉を閉めると、夏葉がその場に座り込む。ぷつんと緊張の糸が切れて全身に力が入らないって感じで、ただ突然に呆然と。

 息が整うのを待ってから、彼女の肩をそっと抱き寄せる。そしたら夏葉は声を震わせて、ほんとに小さく「ありがとう」って言う。消え入りそうなくらいか細い声で、弱々しく。

 息つく暇もなく、すぐ隣に死を感じ続けた私たち。疲弊し切った精神で、それでも与えられた束の間の安全。それに安堵したからか、お互いの口数はほんの少しずつ増えていく。

 そしていよいよ、私の重要なセリフ。

「このままここで助けを待とう。鍵もかかるし、ここなら安全だよ」

 夏葉の手を取ってそう言うと、私はやっと唇から微笑を漏らした。張り詰めた神経の線がようやく緩んで、ほんの少し余裕を取り戻せたんだと表明するように、やっと。

 それに対して夏葉は、震える唇を擦り合わせて何か言おうとするだけで、何も返してはくれない。

「どうかした?」

「…………」

 視線を泳がせたまま、夏葉は答えない。愛美の脚本に従って、私は不安の色を徐々に前面へと押し出す。

「……ごめん」

 たっぷりと間を取って、ついに夏葉がそう囁く。制服で隠れた二の腕、彼女がその袖をゆっくりと捲ったら、そこにはハッキリとした噛み跡――のメイクがされることになっている。

「そん、な……」

 夏葉が噛まれた。その事実を目の当たりにした瞬間、私は一歩も動けなくなる。だってそれは、彼女はもう助からなくて、幾ばくかの時間が経てば歩く屍の仲間になることを意味しているから。

 お互いに一言も話せないまま、ただ時間だけが過ぎていく。その間も、不安に裏打ちされた様々な身体反応を表出させながら、私は夏葉のセリフを待った。

「ごめん」

 今度はもっと、ハッキリそう言った。「だからもう、一緒にはいられない」、続けてそうも言い放ち、夏葉は静かに扉の方へと向かう。

「ナツハ、待ってよ! まっ……」

「来ないで」

 伸ばしかけた手が、その言葉で止まる。彼女の声とは思えない凄みを含んだ低音に気圧されて、私はもう動けない。

「ごめんね」

 それでも出ていく寸前に、夏葉はいつもの和かい笑みを浮かべて振り向いた。

 私は何も言わない。何も言えない。

 そのまま彼女は立ち去って、私は一人呆然と立ち尽くす。そのうち涙が垂れて来て、震えた吐息が嗚咽に変わっても、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。


「……カット!」

 数分ぶりの愛美の声に、私はふうと息を吐いて、霞む視界を戻そうと指で涙を拭う。夏葉もすぐに入って来て、三人で今の映像を見返す。

「結構いい感じじゃない?」

 夏葉の言葉に「うん」と返す。いま映像ではちょうど、夏葉が腕を捲って噛み傷を見せるシーン。

 セリフこそほとんどないけれど、ここの緊張感もかなり良い。夏葉は黙ったまま、だけれどもその表情には複雑な色が垣間見える。自分が迎えるであろう死への恐怖と、一人残される友人を想う罪悪感。刻一刻と微妙に変化する表情と、逸らせてはすぐに私へと戻ってくる視線が、言葉で説明するよりもはるかに雄弁にそれを物語っている。ここ数日で、夏葉は本当に視線の使い方が上手くなった。

 夏葉の間の取り方と、それを受けて不安が広がる私の演技。自分で言うのもなんだけど、悪くないじゃん。まあ、私は脚本の指示を忠実に再現しているだけだから、つまるところ愛美の手腕なんだけど。

『来ないで』

 夏葉のセリフに、思わず背筋がぞくっとする。

 やっぱり彼女には華がある。演技なんかじゃなくって、この人は本当に画面の中を生きているんじゃないかと錯覚させられるようなリアルな魅力。

 そうして映像を見終えた時、夏葉は「やっぱり、結構いいじゃん!」って声を弾ませた。私も彼女と概ね同意見。

「そう、だね……」

 だからこの場で愛美だけが、珍しく浮かない顔をしていた。

「お芝居、どこか悪かった?」

 夏葉がそう声を掛けたら、愛美はぶんぶんと首を横に振る。

「違うの、二人の演技は完璧! ただ、その、何ていうか……」

 迷ったように口をまごつかせながら、それでも愛美は声を発した。

「その、本当にこれでいいのかな、って思って」

「というと?」

「うん……どうもこのクライマックス、何となくしっくり来ない気がしてて……」

 愛美は台本を開いて、指でセリフをなぞっていく。

「上手く、言葉に出来ないんだけど……やっぱりもう少し、喋らせた方がいいのかな、とか」

「確かにセリフは少ないけど、でも私は、こういう静かな感じもいいと思うけどな。お互いにショックで口数が少なくなっちゃうのも、なんだかリアルな感じがするし」

「そう。そう思って私も書いたんだけど……でも、なんだろう。なんかこう、その意図、観客にちゃんと伝わるのかなって。もっと分かりやすくした方がいいんじゃないかとか、色々考えちゃってさ」

 見れば愛美の台本には、鉛筆を走らせてはそれを消した跡が何重にも付いている。

「二人の演技はすごいけど、やっぱりセリフにしないと伝わらない部分ってあると思うんだ。みんながみんな、演出意図に気付いてくれるとは思えないし……でもなんか、喋らせたら喋らせたで不自然になっちゃう感じもするんだ。どうしても蛇足に思えちゃって」

「そうだねぇ……確かに、どっちも一理あるんだよね。現実的には、こっちの方が自然には思えるんだけど……うーん……」

 あの夏葉が珍しく、顔を顰めて難しく唸っている。

「ねえ、朱音はどう思う?」

「え?」

 愛美は困ったらいつも、とりあえず私に振ってくる。

 だけど、

「……さあ。よく分かんない」

 別に、ムカついたとか適当に流してやろうとか、そう思ったわけじゃない。ただ本当に、私には分からなかった。

 だって、セリフを入れるか否かなんて、そんなの判断付かないよ。演技のことならまだしも、演出のことなんて私には、とてもじゃないけど。

「――じゃあさ」

 助け舟を出してくれたのは夏葉だった。彼女は鞄から方眼ノートを取り出すと、一枚千切って机上に置く。

「この脚本だと、二人とも何となく自分たちの運命を受け入れている感じだけど、例えばそれを、こう――」

 横に台本を並べながら、丸みのある綺麗な字を升目の上にさらさらと載せていく。

「こんな感じに、しちゃうとか?」

 愛美はそれを、目を真ん丸にして眺めてた。

「ごめん、ちょっと加筆してもいい?」

「うん、どうぞ」

 差し出されたシャーペンを受け取った愛美は、カリカリと音を立てながら芯を走らせる。少しばかり眉を顰めて、きゅっと唇を結んだ愛美の横顔。それがなんだか大人っぽく見えて、ほんのちょっとだけ見とれた。

「夏葉、どうかな?」

「……うん。さっきより良いよ、これ」

 じっくりと嚙みしめるように目を通して、夏葉はうんうんと頷く。

「朱音も、どう思う?」

「…………」

 促されて、読んでみた。読んでみたけど――やっぱり私に、紙上のセリフの良し悪しは判断できない。だから感想なんて述べずに、ただ「やってみればいい?」と口にする。

「あ……うん。悪いけど、お願いできる?」

 一瞬だけ視線を落とした愛美は、すぐに微笑み直してそう言った。

 

 そうして、セリフを変えての練習二回目。

 最初の方の流れは一緒。夏葉が腕をめくったら、そこには噛み傷。変わったのはここからだ。

「……これ、違うよね」

 一歩だけ後ずさってから、私は震えた声を出す。

「これさ、引っかけちゃったんだよ、さっき逃げる時に。割れたガラスとか、あったし。うん、そう。だってほら、ここ、そんな傷」

 夏葉の腕を指しながら、無理に明るい声を出す。

「だって、見てないもん。ナツハが噛まれたところなんて! だから、違うよ」

「……一人で、逃げてた時に、あいつらに」

「違うって!」

 夏葉の言葉を遮って、私は一歩踏み出した。

「大丈夫、何でもないよ。絶対大丈夫、大丈夫だから。こんなの、なんでも……」

 うわ言みたいにそう繰り返す間に、目尻に薄っすらを涙を溜める。瞬きを増やして視線を左右へと動かして、現実を受け入れられないって感じを強くする。

「だからさ、ここにいようよ。助けが来るまでさ、ここで」

「ごめん」

 ずっとハッキリとそう言って、夏葉は踵を返す。

 そこからは、概ねさっきまでと一緒。去り行く夏葉に何も言えなくて、ただ立ち尽くすしか出来ない私。それをしばらく画角に収めたら、愛美からカットの声が響く。


「いいじゃん」

 撮れた映像を見終わって、やっぱり夏葉が最初に言った。

「うん、いいかも」

 それに愛美が続く。

 確かに、こっちの方がいい気がする。ぼんやりとだけどそう思ったから、私も黙って頷いた。

 それを見て、愛美がほっと息を吐いたように笑う。

「ちょっとオーバーな気もするけど、映画としてはこのくらいの方が分かりやすくていいかも! アカネの、ナツハの死を受け入れられないって感じがすごく出てて」

「うん、いいと思うよ! 後は、私と朱音ちゃんの調整次第かな。もう少し抑えてみてもいいし」

「そうだね、じゃあ次は少し抑えめでやってみてくれる? 朱音、いいかな?」

「了解」

 そう答えて、再び定位置へつく。

「よーい、スタート!」

 愛美の声、それに導かれるかのように、私は身体を動かした。

 私は求められれば、どんな演技だってこなす。愛美の指示は全部忠実に守って、一回のミスもすることなく、注文通りの演技をしてみせる。

 だって私には、それしかないから。



「夏葉、ばいばい!」

「うん、また明日ね!」

「さよなら」

 手を振る夏葉が遠のいて、だんだん見えなくなっていく。路面電車の駅のベンチでまた二人、私は愛美と並んで座った。時刻表の上に埋め込まれた丸時計は、もう四時半を差している。

 結局今日は、最初から最後までクライマックスだけをひたすら詰めた。あの後も細かい調整とセリフ直しを繰り返して、満足いく出来になったのが三時過ぎ。そこから何度か練習してたらこの時間、というわけ。

「朱音、今日もありがとうね。お疲れ様」

 電車が来る寸前だった。愛美の言葉にうんとだけ返して、私たちはそこへ乗り込む。

 帰りの車内でも、愛美は台本を眺めてた。たまにペンを取り出してはちょっとだけ動かして、ううむと唸りながら目を細める。そんなに眉間にしわ寄せて、戻らなくなっても知らないよ。

 彼女がやっと顔を上げたのは、私が降車ボタンを押した時だった。

「あれ? 降りるの?」

 愛美が首を傾げる。まあ、無理もない。私がボタンを押したのは、いつもより二つも早い駅だったから。

「ちょっと野暮用。愛美は帰ってて」

「ふぅん……」

 少しばかり口をすぼめて、愛美が怪訝な視線を向ける。私はそれを振り切るようにして、視線を手元のスマホへ向けた。

「じゃあね。おつかれ」

 そう言い残し、私はひとり電車を降りる。閉まった扉越しにじっと見つめてくる愛美を見送ってから、私はすぐに歩き始める。

 びゅんと吹いた夕の潮風は、やっぱりまだまだ冷たい。コートのチャックを首まで締めて、私は先を急いだ。

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