第2話

 卒業式の午後。その日、愛美はいつもより少しだけ大人びて見えた。

 多分、式典用に髪型を変えているせいだ。いつものワンサイドアップを崩して、結い上げた髪をポニーテールにしているから、なんとなくお姉さんみたいに見えるんだと思う。

 もしそうじゃないとしたら――やっぱり、演劇部室で十数人を前にしても、全く動じた様子を見せないからかも。

「それでは、映研部・演劇部共同制作映画についての合同説明会を始めます」

 演劇部長と並んで登壇した愛美は、目の前に座る私たちの列へと向けて、いつもより数段張り上げた声とハキハキとした口調でそう宣言した。

 昨日、突然映画を作るなんて言われた時は、まだ半信半疑だった。実は愛美の悪い冗談なんじゃないかって思って、もらった台本を家に帰ってから読んでいてもまだ実感が湧かなくて。

 でも今、こうして大所帯の演劇部と並んで彼女の説明を聞かされたら、流石に嫌でも実感する。

「それでは、お手元の用紙をご覧ください」

 いつになく真面目な口調の愛美。それに釣られるようにして、みんなは手元の概要紙へと視線を落とした。

 そうして始まった彼女の説明は、実に簡潔で的を射ていた。制作目的、公開日、それに合わせたスケジュール、各自の役割分担など、最低限必要な事項だけをすらすらと澱みなく説明していく。

 向日葵みたいな笑顔と早口で黄色い声がデフォの愛美が、眉を平行にして目を開き、少し低い落ち着いた声で立ち振る舞う姿は、やっぱりちょっとだけカッコいい。ちょっと、ほんのちょっとだけ。本人には絶対に言ってやんないけど。調子に乗るのが目に見えてるから。

 そうしてひととおり説明をし終えた愛美は、一度ぐるりとみんなを見渡してから、すっと正面に向き直る。

「改めまして、今回監督を務めさせていただきます。映研部の叢雨 愛美です。先輩方も多い中、一年生の私が監督だなんて大変恐縮ですが、素晴らしい作品の完成に向けて精一杯頑張ります。よろしくお願いします!」

 キビキビとした動作でばっと頭を下げる愛美に、温かい拍手が送られる。挨拶としてはスタンダードで捻りがないけど、真っ直ぐな愛美にはすごく合ってると思う。

 そのあとは演劇部長も挨拶をして、それから質疑応答。スケジュールや脚本、撮影場所のことなんかは愛美が、演技に関することは演劇部長がすらすらと答える。二人とも自分たちの中にしっかりとした完成形が見えているからか、詰まることなくはっきりとした受け答えだった。

 でも一つだけ面白かったのは、「何でゾンビ映画なんですか?」っていう質問に対して、愛美が

「はい! 普通の映画じゃつまんないからです!」

 って答えてたことかな。

「新歓用の映画ですから、やっぱりインパクトが大事だと思って!」

 いや、それ答えになってるか? ってみんな思ったかもしれないけれど、愛美があんまりにも自信満々に言い切るものだから、それ以上は何も言われなかった。こういう時の愛美は、やっぱり強い。

「練習は春休みからの予定ですので、それまでに各自台本を読んで、大まかな動きのイメージを付けておいてください。演劇部の皆さんにはご負担おかけしますが、よろしくお願いします」

 最後は監督が、その言葉で締め括った。

 春休みってことは、来週か。ゆっくり過ごす予定だったけど、なんだか忙しくなりそうだな。

 そう思ったのに、いつのまにか少しだけ目尻が下がっているのに気が付いて、私はぱんぱんと頬を張った。


 ***

 

 一週間なんてあっという間だなって、久しぶりに思ったかもしれない。卒業式が終わって学校全体にどこか気の抜けた雰囲気が漂う中、愛美は本当に忙しそうにしていた。部室にほとんど顔を出さないどころか、昼休みだってゆっくりご飯を食べている姿を見かけない。ずっと台本と睨めっこして何やら書き込んでいるか、演劇部との調整のために席にいないかのどちらか。たまに何やら読書しているようだったけど、あんまりにも真剣な顔で読んでるものだから、ちょっと話しかける勇気は出なかった。

 忙しいといえば、夏葉も結構すごかった。穴が開くほど見るっていうのは、たぶんああいうことを言うんだろうなと思わせるほど、彼女は一日中ずっと台本ばかり眺めてる。あれだけ読み込んでたら、セリフどころかそれが書かれてるページ数まで言い当てられそうなほど。

 それと夏葉に聞いた話だけど、演劇部の方でも結構気合い入れてやっているらしい。みんな演技経験こそあれど、流石にゾンビ役なんてやったことある人は一人もいなかったから、放課後はみんなでゾンビ映画の鑑賞会をしてるんだとか。もちろん、面白いかどうかは二の次で、演技の参考として。

 とにかく、この一週間はみんな各々が自分に出来ることを探して努力してたようだ。

 そうなったら当然、(無理矢理決められたとはいえ)主演の私がサボるわけにはいかない。

 ショート映画だからセリフ数自体は少ないけれど、全て頭に叩き込んではおいた。セリフよりも問題なのはむしろ動きの方だけど、これは実際の撮影現場で調整かな。そっちも大まかには頭に入れてあるけど。

 

 そうして臨んだ制作初日。愛美が再び挨拶をして、本日からお願いしますということで、まずは夏葉と私、それぞれが単独でゾンビに襲われるシーンから練習がスタートする。映画の順番的にはこのシーンは中盤にあたるけれど、練習しやすいシーンからやろうってことでこうなった。

「それでは、スタンバイお願いしまーす!」

 撮影場所の多目的室、その角っこの方に夏葉が立つ。その場でぴょんぴょんと跳ねながら深呼吸し、その後は手足をぐりぐりと動かして準備運動。少し声を出してみたりと、色々やってる。そういえば半年前、地区大会の日もあんなふうにして緊張をほぐしてたなって思い出して、ちょっとだけ懐かしさが込み上げてきた。

 それから夏葉たちは、愛美の指示に従ってゆっくりと動作確認を始める。この作品はセリフ数が少ない分、動きで見せる場面が多い。すなわち、他の役者とのタイミング調整が何よりも肝心であると言える。

 まあ、流石に主役がゾンビに捕まっちゃったら、そこで作品が終わっちゃうからね。ゾンビが露骨に襲うのを遠慮するのも興醒めだし。

 だから練習前にも、まずはタイミングの確認。そうやって、愛美が頭の中で組み立てた脚本と現実の動きに乖離や無理がないかを丁寧に探していく。

 それを何回かやりながら細かい調整をした後。

「では、練習開始します!」

 その言葉に、愛美が自前の一眼レフカメラを構える。テレビカメラほどではないけれど、スマホやデジカメなんかよりは断然デカい。望遠レンズ? みたいなやつが先端から突き出てて、カメラ本体にはグニグニと入り組んだ構造のグリップがセットされている。本番じゃないから血糊も舞台セットもないけれど、自分も役者も早く慣れるようにと、常にカメラは回すつもりらしい。というか、あの子があんないいカメラ持ってたなんて知らなかった。結構高いでしょ、あれ。

「それでは、ヨーイ、スタート!」

 

 その声と同時に、練習が始まった。私はその様子を、室内の邪魔にならないスペースから見つめる。

 まず動き出したのは二体のゾンビ役。片足を引きずって腕を突き出し、前のめりな姿勢でずるずると捕食対象に迫る。呻き声とも叫び声とも取れないゾンビ独特のあのゔーゔーした発声も結構決まってる。メイクしてないのに、なんだか本物みたい。やるじゃん、演劇部。

「いやああぁぁ! こ、来ないでっ!」

 それを受ける夏葉は、わなわなと身体を震わせながら後ずさる。今にも泣き出しそうな顔を左右に振って上体を大きく反らし、少しでも距離を取ろうとするけれど――後ろはもう壁。背中がどしんとぶつかって、もう逃げ場はないと悟る。

「…………っ!」

 その瞬間、夏葉は無謀にも前へ出た。左右の斜め前方から迫り来るゾンビの、そのちょうど隙間を縫うようにして前へ。決して勝算があっての行動じゃない。生き延びるにはもう、そこしか道がなかったからだ。

 恐怖から目を逸らすように身体を丸めて、叫び声を上げながら、それでも生へと縋り付くように前へ。その無謀さと臨場感を表現するように、ここで彼女の背中にゾンビの手が掠ればなお良しだが――いいじゃん。絶妙なタイミング。

 なんとかピンチを切り抜けた彼女は、自分が生きている実感を得るかのように振り返り、ゾンビへと一瞥をくれる。でも、奴らはまだ諦めちゃいない。本能に突き動かされるままに再び前進を始める彼ら、その虚ろで生気のない不気味な瞳と目があったのか、夏葉は詰まった息を吐き出すかのようにきゅっと喉元を掴む。一瞬だけぎゅっと目を閉じて身体に力を込めると、彼女は全てを振り切るかのように教室の扉へ向けて駆け出し、廊下へと飛び出した。

 

「カーット!」

 その声と同時に、ゾンビ役の二人がその場に座り込んだ。ほんの少しだけ遅れて、ドアから夏葉がひょこっと顔を出す。

「すごいです、練習一回目とは思えない完成度!」

 カメラを床へと置いて、愛美がぱちぱちと手を叩く。見学していた演劇部員たちからも拍手が上がり、私もそれに続いておいた。

 賞賛を浴びた夏葉は少し照れたように頭を掻きながら、すぐにゾンビ役の二人へと駆け寄って頭を下げている。先ほどまで自分を食べようとしていた二人にお礼を言って回る姿は、なんだかちょっとだけ可笑しかった。

 その後、もう何回か同じシーンを練習。完璧だったように見えて、それでも改善点はやる度に見つかった。

一回だけ夏葉が転んで失敗しちゃったけど、色々試している中での失敗は失敗じゃない。みんなそれを分かっているようで、夏葉も全く気にしていない様子だった。だからこそ、次からも失敗を恐れずに堂々と挑戦できる。すごく、いい雰囲気だと思う。

「お疲れ様でしたー! じゃあ、次のシーン行きます!」

 愛美の声に、夏葉たちは頭を下げてその場から退いた。急に役者を失ってぽっかりと空いた多目的室に、今度は私が立つ。

 次は私の単独シーンfeat.ゾンビ。さっきの夏葉の場面は動きがメインだったけれど、私のシーンはそれとは対照的。黒板前にぽつんと置かれた教壇の下に隠れてゾンビをやり過ごす、言わば静の場面。

 動作確認は程々に、早速愛美がカメラを構える。

「じゃあ、行きましょうか! 朱音、準備いい?」

「ちょっと待って」

 潜り込んだ教壇の下から、すっと手を上げて合図する。こういう時、役者は遠慮したらダメ。自分の準備が整うまでは絶対に始めさせないってくらい図々しい方がいい。

 身体を丸めたままで、まずはゆっくり深呼吸。目を閉じて、お腹が引っ込んだり膨らんだりする感覚を意識しながら、時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり。

 そうしながら、次は自分の演技のイメージをする。

 私は今、ゾンビ蔓延る校舎内を必死で駆け抜けてこの教室に逃げ込んできたところ。急な運動と死への恐怖で心拍数は異様に上昇し、身体にも様々な反応が現れる。手足の震え、乱れた呼吸、痙攣する眉、増える瞬き、目尻に溜まった涙。

 恐怖を感じるとはどういうことか、どう身体反応として現れるのか。じっくりとイメージしながら、それを一つ一つ自分の身体に貼り付け、時間をかけてでも忠実に再現していく。恐怖を表現するのに、何も実際に恐怖を覚える必要はない。人が恐怖を感じた時の身体反応、それを忠実に再現出来れば――それはもう、本物にしか見えないんだから。

 感情に決して左右されず、感情がもたらす結果だけを再現する。本物と見紛うほどリアルに、忠実に。

 よし、こんなもんかな。身体は震えて表情は歪んでるけど、反面思考はちゃんと冷静でクリアになってる。うん、行けそう。

 私は震える手をすっと下げた。

「では! ヨーイ、スタート!」

 

 愛美の合図に合わせて、教壇からゆっくりと顔を出す。すると、さっきまでいなかったはずの歩く死者の姿を室内に認めたことで、恐怖による身体反応は一段と激しくなった。

 ばっと教壇下へ顔を戻して、震える両手で口を塞ぐ。肩に自然と力がこもって、漏れる吐息を必死で抑えて。

 そうしていると、カメラを持った愛美が回り込んできた。ぐーっと顔の近くまで寄ってくるけど、気にしないように。

 数秒。その間を置いて、今度は反対側にふらついた足取りの下半身が見えた。目を見開いて、そちらにはしっかりと視線を合わせる。

 今バレたら、逃げ場がない。吐息の一つだって漏らしちゃダメだ。そう決意するかのように、口を塞ぐ手にぎゅっと力を込めた。

 それからは、ゾンビが目の前を通り過ぎるまでひたすらに息を潜めて待つ時間。でもその間だって、演技が止まることはない。身体を動かさない間だって、やるべきことはたくさんある。

 例えば視線。迫る死から逃れるように視線を逸らしてしまいたくなる、きゅっと目を瞑って自分の中に閉じこもりたくなるけれど、でもきっとそうすることなんてできない。激しく瞬きを繰り返し、涙で視界が滲んできたとしても、見開いた目はゾンビから離せないはず。生きるか死ぬか、その瀬戸際に立たされたらきっと、目を逸らすなんてあり得ない。

 極端に浅くなる呼吸、ぴくぴく震える表情筋、無意識に収縮運動を繰り返す手足の指先。それら全部をカメラに見せつけるように大胆に、でも決してやりすぎないように。些細な変化も上手く使って、これが私の演技なんだって、叫ぶように。

 叫ぶように――

 

「カットー!」

 その声に、全身の力がすっと抜けた。ふう、と息をついたら、手足の震えがだんだんと治まっていく。視界を歪ませる鬱陶しい涙を拭ってみれば、そこにはグッと拳を突き出した愛美が見えた。

「朱音、いいじゃん」

「どうも」

 そこにコツンと拳をぶつける。一体何がそんなに嬉しいのか、愛美は握った手を開いてふへへと笑った。

 私の演技は、みんなの目にどう映っただろう。カメラにどう収まったんだろう。物足りなかっただろうか、それともオーバーだったか。それは映像を確認してみないと分からないけれど。

 でも少なくとも、愛美はオッケーだって言ってくれた。今は、それで充分かな。


 ***


「はあぁぁ、緊張したぁ……」

 お腹の空気を全部吐き出しながら、机に上体を投げ出した愛美が溶けていく。さっきまでカメラを持って駆けずり回り、しゃきっと背筋を伸ばして指示を飛ばしていた映画監督の姿はもう見当たらない。今はただ、浜に打ち上げられたクラゲのように、べとーっと机に引っ付いてはでろんと伸びる、エネルギー切れのだらしない生物がいるだけだった。その触手は私の目の前のスペースを侵食し、開いた台本の一部を覆い隠している。

「愛美、邪魔。どいて」

「むぅーりぃー……」

 言いながら、さっきよりもさらにこちらへと手を伸ばす。その指先が私のセーラー服の端に触れたから、思わずちょっと椅子を引いた。

「ちょ、逃げるなぁ……触らせろぉ……」

 そう呻きながら、獲物を探すように指先をくいくいと動かす愛美。意味が分からない、誰かこいつを止めてほしい。

「愛美ちゃん、コーヒー入ったよ。飲む?」

 その願いが叶ったのか、助け舟を出してくれたのは夏葉。本人は助けたつもりなんてないだろうけど、

「飲むっ!」

 結果、助かった。コーヒーというワードに反応した愛美は、がばっと上体を起こしてぴんと背筋を張る。そうして夏葉がコーヒーカップを運んでくるのを、目をキラッキラさせて今か今かと待っていた。

「愛美ちゃん、お疲れさま」

「ありがとー、夏葉だいすきー! いただきまーす!」

 言い終わるが早いか、湯気の上がるブラックコーヒーをそそくさと口に運んでゴクゴクと飲み始める。ほんと、こいつの口には神経が通ってないんだろうか? どう見ても熱そうだけど、それ。

「朱音ちゃんも、コーヒーでいい?」

「うん、ありがと。ごめんなさい、夏葉にやらせて」

「いいのいいの!」

 部屋の隅のテーブルに置かれた映研部の備品(愛美持参)のコーヒーメーカー、そこへ歩を進める夏葉が、振り返ってにこりと微笑む。しばらくしたら、お盆に二人分のカップを乗せて戻って来た。うん、これで三人分。

「よかったら、これも」

 さらに気が利くことに、ミルクと砂糖まで持ってきてくれたんだから驚いた。愛美なんて、言わないと絶対に持ってこないのに。やっぱり夏葉って、ほんとしっかりしてる。

「朱音はおこちゃまだからね、ミルクと砂糖なしじゃ飲めないんだ」

「愛美の味覚がバグってるだけでしょ」

 バカを適当にいなして、私も一口コーヒーを含んだ。苦いけど、優しい甘さもふわっと口の中で広がって、こくんと喉を鳴らせば温かさと一緒にするんとお腹へ落ちていく。

「とにかく、二人とも、今日は練習お疲れ様でしたー!」

 やっと監督らしいことを言った。と思ったら、いきなりコーヒーカップを高々と掲げるものだから、私と夏葉はつい顔を見合わせる。

 やれやれ、愛美らしいや。結局二人でそう目配せして、私たちも掲げたカップで乾杯をした。遅いだろ、乾杯。いや、そもそも普通はしないでしょ、ホットコーヒーで乾杯は。

 それからちょっとだけ世間話をしたけれど、話題はすぐに今日の練習のことへと移った。

 夏葉の瑞々しさ溢れる演技を愛美が褒める。ちょっと恥ずかしそうに頬を紅潮させて、誤魔化すように笑った彼女は、やっぱり可愛かった。

「すごく良かったと思う」

 私も素直に、思ったままを口にした。

 夏葉は確か、中学の時は合唱部だったはず。それが演劇に興味を持って、高校から演劇を始めた。最初はもちろんへたっぴで、セリフを入れるのが精一杯っていう感じだったけど――半年ぶりに見た彼女の成長は、まさしく目を見張るものがあった。演技のレベルも高かったし、失敗してでも気にせず挑戦してみようっていう心意気もある。

 それに。

「夏葉の演技はさ、なんていうか、こう――華があるんだよね!」

 へえ、たまにはいいこと言うじゃん、監督。

 そう、彼女の一番の持ち味は私もそれだと思う。動きはまだちょっと固い時があるし、カットの度に多少ブレがあるけれど、何よりも彼女には華がある。なんていうんだろう、夏葉にしかない魅力っていうか、人を引き付ける力っていうか。上手い下手とは別の次元で、なんだかこの子から目を離せなくなる、魔法みたいなもの。

 その正体が分からなくて、掴みたくても掴めなくって役者はみんな苦労するんだけど、たまにいるんだよね。生まれながらにして華がある子。演劇部時代、もしかしたら夏葉はって思ってたけれど、やっぱり私の感は当たってたみたい。だからきっと、もっと伸びると思う、この子は。

「そんな……褒めすぎだよっ」

 少しおどけたように、夏葉は愛美を小突く。そうやってくすくすと笑う二人を見ながら、私はひとりコーヒーを啜った。

 彼女がこの映画の主演に選ばれたのは、新人に経験を積ませてやりたいという演劇部先輩方の心意気だとばかり思っていた。もちろんそういう側面もないとは言わないし、監督と同じ一年生同士の方が遠慮なく話しやすかろうという配慮もあると思う。でも何よりもそれ以上に、彼女の役者としての実力は、純粋に主演を張るにふさわしいものだと思えた。

「朱音ちゃんのお芝居も、最高だったよ!」

 夏葉からの突然のパス。一瞬だけ戸惑ったけれど、でもなんとか「ありがと」って返せた。ちょっと不愛想だったかな。

「朱音ちゃんの役作り、すっごく好きなんだ。入部した頃からの、私の目標!」

「……やめてよ」

 そう言いながら、少しだけ頬が熱を帯びる。心がぴょんと跳ねそうになる自分の単純さが嫌になる、ほんと。

 それからは、愛美が撮った先ほどの映像を確認しながら、演技の改善点なんかを話し合う。(半年のブランクがあるけど)演技の経験年数だけなら私が先輩だから、夏葉には色々と教えてあげた。

「カメラ越しだと、自分の演技がちょっと大げさに見えない?」

「見える。ここまで派手にやったつもりないんだけど……」

「カメラに撮られるときは、普段よりもっと抑えめにした方がいいよ。演劇は客席が遠いから大きく動かないといけないけど、カメラは目の前、小さい動きで十分伝わるから」

「そっか、演劇過ぎたんだ」

「その分、表情とかまで細かく伝わっちゃうから、そっちは普段より気を使った方がいい。視線は特に重要かな」

「なるほど……」

 ふんふんと首をふりながら、真剣に話を聞く夏葉。口ごたえや言い訳なんてせず、真摯に話を聞いてくれる。分からないことや疑問があれば、全部聞き終わってから質問。それに答えてあげたら、目を輝かせながらお礼を言う。多分、演劇部でもこんな感じなんだろう。やっぱりこの子、まだまだ伸びる。

 でも、人に指摘するのはまだ苦手みたい。私の演技の映像を見ても「すごくいい」しか言ってくれなかった。それはちょっとだけ不満かな。私は自分で見てて、自分の演技に対する明らかに重大な欠点を一つ見つけたけれど――でもこればっかりは、今に始まったことじゃない。それに直そうと思って直るもんじゃないしな。

 

「いやはや……私から見たら、二人ともすごいよ、ほんと」

 そんな中、ぽつり、と愛美が呟くように言った。

 あれ? もしかしてこれ、チャンス?

「愛美は演技、からっきしだもんね」

 あくまでもさりげなく、囁くようにそう言ったら、

「愛美ちゃん、お芝居してたの?」

 ほら、夏葉が食いついた。

 これは行けるな。そう思った私は、頬杖をついてじとーっとした視線を愛美へと送る。

「そう。もともと愛美、役者志望だったもんねー?」

「ちょ、朱音、そんな昔のこと……」

「そうだったの?!」

 愛美がすかさず話題を鎮火しようとするけれど、夏葉の興味の炎はむしろ燃え上がる。どれ、ここでもう一発。

「中学で一緒に演劇部入ったときにね、最初は役者で入ったんだよ。半年くらい、一緒に演技の練習してたんだ」

「そうだったの?!!?」

「ちょ、や、やめろー!」

 ふん、さっきおこちゃま呼ばわりしたお返しだ、ばーか。夏葉の質問攻めにあうがいい。

「愛美ちゃん、演技に興味あったの?!」

「う…………む、昔ね。ちょっと、だけ……」

 しわしわと窄んで勢いを失っていく愛美に対し、ひまわりのような喜色満面の輝きを放つ夏葉。

 それからの夏葉はもう止まらず、目標にしてた役者は誰だとか、どんな演題を練習してたんだとか、何で脚本に転向したんだとか、他にもあれこれ質問をぶつける。愛美はそれらをのらりくらりとした態度で躱し続けていたけれど、挙句の果てに夏葉が、この場で一緒にエチュード(即興劇)やろうとか言いだした時は流石に本気で焦ってた。

 そんな二人のやり取りを微笑ましく――いや、結構笑いをこらえながら、私は蚊帳の外から優雅にコーヒーを啜って眺めてた。

 よし、じゃあここらでトドメの一発。

「昔の愛美の演技、スマホに入ってるんだけど――見る?」

「見るっ!!!」

「だめええぇぇえぇ!!!!!」

 本気でスマホを奪おうとして来る愛美に抵抗しながら、いけないと思いつつニヤニヤが止まらない。

 そうして数秒、長机を挟んでの攻防の後。

「そ、そんなこと言うなら――」

 いち早くスマホ争奪戦に見切りをつけた彼女は、何を思ったか天高く右手を掲げる。その手には――自分のスマホ?

 この時の私は、完全に調子に乗っていた。だからすっかり忘れていたんだ。追い詰められたネズミは、猫にも噛み付くってことを。

「前に朱音が書いた脚本、この場で読み上げるからなっ!」

 その一言で、世界の空気が変わった。

「あっ、バカ! それは反則でしょ!」

 今度は私が、奪う側に回る。でも華奢な腕のどこにそんな力があるのか、愛美は握りしめたスマホを絶対に離そうとしない。 

「朱音ちゃん、脚本書けるの?!!??!」

 そうこうしているうちに、夏葉の興味の標的は自分へと変わっていた。

「どんなお話書いたの!?」

「う……」

 グイッと身を乗り出して迫る夏葉の、キラッキラした視線が痛い。それはもう真夏の太陽を瞳に埋め込んだみたいで、絶対に離さないっていう強い意志が垣間見えるようで、逃げ場なんてなくて。

「その……えっと……違うんだよ」

 そう、違うの。

あれは中二の秋に、愛美が新しい脚本に悩んでるって言うから。あの時の私は本当に無知で、バカで、何でも出来る気になっていて――だから本当にちょっとだけ魔が差して「これ、良かったら参考に」ってカッコつけながら、自作の学園青春ラブストーリーの脚本を送り付けただけなの。

 だから、本当に違うの。

 本当に違うの!

「夏葉。百聞は一見に如かずだよ――読む?」

「読むっ!!!!!」

「だめええぇぇえぇ!!!!!!!」

 この時の私は思い知った。争いなんて醜いだけで、何も生まないんだって。

 その後、慎重な話し合いの末、幼馴染との間には休戦協定が結ばれた。 

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