1 不思議な女の子

大学に、夏休みがやってきた。

テスト週間、レポート提出週間が終わった8月初旬から9月末まで、長い2ヶ月の閑散期である。

8月5日、月曜日。

果林澄臣(カリンスオミ)は聴講生故提出期限のないレポートを提出し、受ける必要のないテストを受け、大変満足した心持ちで本職たる学内調剤士の仕事をこなしていた。

「『マーリン(頭痛薬)』の200、500セットですー。」

こじんまりとした調剤室から出て、広い事務室との出入り口付近から呼びかけた。

200=200グラム錠、500セット=20錠入り包装シート500枚、である。

つまり、1000錠の「マーリン」を製造、梱包した、ということだ。ちなみに、一度で15錠作れる装置を使って、である。2時間かかった。

「あ、ありがとーございまーす!」

バイトの大学1年生・小宮かなでがいつも通り、ミモレ丈のエンパイアワンピースの裾を揺らし、すごく楽しそうな笑顔で回収していった。

ちなみにこの後薬は、この時のスオミから見て一番向こう側、建物出入り口に面した「健康センター」受付の薬品棚に収納される。

小宮は自慢のアルトボイスで鼻歌を披露しつつ、手際良くシート枚数を数え、棚に入れていった。

「果林薬士(かりんやくし)ありがとうね。…続けてで悪いんだけど、午後イチから『トゥー(インフルエンザB型用抗生物質)』の500、300セットお願いできる?」

主任の大内さんが、一番手前の机から立ち上がり、手を合わせてきた。

「承知しました。…では、お昼休み失礼します。」

会釈して、調剤室に戻る。

室内の壁掛け時計によれば、現在時刻は午前11時30分である。スオミは夏休み中、水曜日以外の平日週4日、午前7時半から午後6時までの9時間働く契約であるため、労働法に基づき午後1時まで1時間半の休憩を取ることになっている。

作業机の下、小さな冷蔵庫の中から買い溜めしておいた栄養バー(チーズ味)と朝家で作った弁当を取り出し、壁のフックにかけてあるカバンに入れた。

フックからカバンを下ろし、肩にたすき掛けする。

調剤室は建物一階のどん詰まりにあり、一応事務室との出入り口とは反対側、建物の一番裏手側に換気用の小窓一つと非常脱出用の大きな掃き出し窓が一つだけ付いているのだが、掃き出し窓はなんといっても非常用のものなので、普段出かける際には事務室を抜けていくことが普通だった。

しかしこの日、スオミは気まぐれで掃き出し窓から外に出た。

この大窓は換気がしやすいように日中は開錠されているので、取っ手を右に引けば抵抗なく開けることができた。

室内での土足が認められた職場なので、リノリウムの床からそのままコンクリート打ちっぱなしの外廊下に降りる。

50センチほどの段差があるのだ。

窓を閉め、すぐ目の前にそびえる急な階段を見上げる。

階段の左右はコンクリート製のタイルが急坂をおおっており、タイル同士の隙間に苔や背の低い草木が繁茂していた。

階段自体もヒメツルソバが各段の半分くらいを覆っていて、正直ちょっと靴を接触させたくなかった。

ただ、今更事務室の方に引き返すのも面倒だったので、できるだけ足下を見ないようにして駆け上がった。

25段上り切ると、そこは堤防の上だった。

横幅1.6メートルくらいのアスファルト舗装された道が、左右恐らく数百メートル先まで伸びている。

スオミは道の上から、眼下に映るものを眺めた。

道の向こうは、階段も何もない、緩やかな草っ原の下り坂になっていた。

下り切ったところにはポプラの木がまばらに立ち並び、その向こうにはコンクリートで固められた中くらいの川が流れている。流れと並木との間にはアスファルト製の道が、流れを隔てて向こう側にはコンクリート打ちっぱなしの細い通路が左右にのび、通路のさらに向こうには住宅街が広がっていた。

尚、川には堤防上の道と同じくらいの幅の小さい橋がかかっていたのだが、子供の背丈くらいの高さの欄干が遠目に見てもボロボロで、渡る時は真ん中を通らなければな、とスオミは思った。

坂を下り、川に向かって、橋の真ん前に生えたポプラの木の影に腰を下ろす。

緑の覆った木の根がところどころ地中から隆起しており、椅子の代わりになった。

外で食事をとるのはスオミの趣味の一つだが、流石に8月の炎天下は厳しかった。

カバンから弁当を取り出して、木綿の布包みを紐解く。

「いただきます。」

蓋を開けると、中身は一見、真っ黒だった。

けれども、箸で掘り返してやると、途端に色とりどりのおかずが現れ、白米を飾った。

桃色のでんぶ、黄色い卵焼き、枯葉色のおかか、橙の焼き鮭、赤い梅干し、塩昆布と揉んだ若草色のきゅうり。落し蓋式にそれらを隠していた黒い帳は、何を隠そう醤油と牡蠣味が染み込んだ海の幸。

のり弁である。

スオミは一人でニヤニヤしながら、左手に持った箸でなんとかきゅうりのかけらを掘り出した。

あとに残った白米にできた穴が、ちょっと汚い。

しかしもしも右手で同じことをやっていたら、白米はこぼれていただろう。

力加減が下手なのだ。

構わずぽりぽり噛み締めていると、左側の視界の端にチラリと小さな影が映った。

おや、と見ると、側頭部を刈り込んだおかっぱに、襟付きシャツ&サスペンダー付きの光沢ある半ズボンを履いた幼い女の子が、ふらふらと近寄って来ていた。

まるでどこかのお坊ちゃんのような格好のその子をなぜ女の子だと思ったのかは…なぜか、そう思ったのである。

目。

ただ木の葉のような緑色の目が、涙を湛えて今にも溢れ出しそうだった。

スオミは弁当の蓋を閉め、布でくるみ、肩にかけたままだったカバンの中に仕舞う。

女の子の目線に合わせ、座っていた姿勢から中腰になった。

「きみ、どうしたの。親御さんとはぐれちゃった?」

話しかけている間も、女の子は足を止めなかった。

泣きそうな緑の双眸が、スオミの瞳の赤色と重なる。

「…あ、まって、まって…うおぉ、」

スオミは気圧されて尻餅をついた。

女の子が自分の左足に右足を引っ掛けたのも、それと同時だった。

スオミの上に、被さるように倒れ込んでくる。

「お、おおっ、と。」

腹と胸と両腕で受け止める。

−…dwdじゅgdしうhscd.hcdしゅhdcx…−

薄い胸に顔を押し付けた女の子がもごもご言った。

−ほんとにスオミだ。わたしのイチノコだ−

なぜか、そう聞き取れた。

いや、それよりも。

「きみ熱いね。おれ病院、みたいなところで働いてるから、良ければ連れて行かせてくれないかな。」

女の子は白い顔をノロノロとあげると、スオミの目を見てゆっくり頷いた。

「よし。」

スオミは腹に力を込め、腕で女の子を支えつつ起き上がる。

背負って行こうかとも思ったが、登り坂と階段を降ることを考えると、この真夏日にやられてしまうのではないかとも思えた。

周囲を見回す。

幸いなことに、長く伸びる川端の道のどこにも人影は見当たらなかった。

女の子は軽く、スオミの力でも簡単に持ち上げることができた。

頭を左手側にして、横抱きにする。

そこで初めて、彼女が裸足であることに気づいた。

両足ともべったりと泥がついているためわかりにくかったが、あちこちに切り傷や刺し傷があり、ちょっと赤いものも見えた。

スオミは自分の鈍感さを恥じつつ、堤防の方に向かって立ち上がり、目を瞑った。暑い空気をひと吸い、


−それはつばさ 背より生まれ、ひらき、とじる 風をつかみ、雨を撫でる それは、つばさ−


ふくふくっ。

肩甲骨のあたりから湧き上がる感覚。

それは肉も、肌も、白ポロシャツの後ろ身頃もすり抜けて、スオミの細い背中へ柔らかく飛び出した。

日光を吸う、漆黒の翼。

背中が熱くならないうちにと羽ばたいて、直立した姿勢のまま並木の上に飛び上がる。

体を前に傾け、川の流れから横にそれた風を捕まえて、あっという間に草っ原を越え階段を越えた。

出る時もこう(飛行)すれば良かったかな、と思いつつ、掃き出し窓の前、外廊下のコンクリート上に着地する。

と。

「あのう、すみません」

ちょっと離れた後方から声をかけられた。

振り返ると、黒いツナギに身を包み、サングラスをかけた長身の男性が、階段の上から降りて来ていた。

女の子が、スオミのポロシャツの胸あたりを両手で掴み、顔を押し付けてくる。

その手は小刻みに震えていた。

男性はスオミのすぐ前まで降りてくると、口角を上げ、手のひらで女の子を指した。

「私、この方の世話役でして。失礼ですが、どちら様でしょうか。」

スオミは、女の子と男性とを見比べて、口を開いた。

「ここは阿見尾総合大学の健康センターです。ワタシはここの職員で、昼食中にこの子と出会いまして。足を怪我していますし、発熱もしているようですので、ひとまずここのベッドで休んで貰おうかと。」

ここ医療機関の一種ですので、薬を処方したりもできますし。

会釈しつつ、調剤室の方に向き直り、右手を窓の取っ手にかけた。

利き腕(ひだりうで)一本で簡単に支えられるほど、女の子は軽かった。

ぐん。

いきなり、階段の方(まうしろ)へ強く引っ張られる。

「わ。」

落とさないように右手で女の子の足を支える。

後ろを見ると、男性に左の翼を掴まれていた。

「素敵なファッションですね。しかも、実際飛べるなんて。」

にやついた声が、すぐ耳元を這っていく。

スオミの背を冷たいものが流れた。

が。

―スオミ、スオミ―

ぬめりつく耳たぶを、小川のせせらぎが濯ぐ。

―にげて―

爽やかになった鼓膜が、明確に聞き取った。

囁いた女の子の顔は、白を通り越して真っ青だった。

―そのつばさ、ひらく―

スオミは思わず口走っていた。

途端、漆黒がぶわりと広がる。

男性は見事に弾き飛ばされ、階段の角に背中が激突した。

例のツル植物はクッションの役目をまるで果たさなかったらしく、段へ被さるようにかがみ込み、いたいいたいぞ、と悶絶している。

スオミは女の子を左腕一本で抱えなおし、空いた右手ですぐ目の前にあったガラス戸を開け放った。

50㎝の段差を上がり、冷静に身を返して窓を閉め、鍵をかける。

調剤室に人の入れる大きさの窓は一つしかないため、これで一応不審者を隔離できたことになる。

鈍器などを持っていた場合に備え、普段は端に纏められている分厚いカーテンを閉めたところで、スオミはまずいことに気付いた。

「羽、出しっぱなしだ…」

急いで呪文を唱える。

―そのつばさ、背より生まれ、その内に帰る−

漆黒はたちまち引っ込んだ。

ため息を吐く。翼を不審者(わるそうなひと)に見られてしまった。

これまでもこんなことが無かった訳ではないが、今回は特に厄介そうな相手だと感じた。

「あんなに笑顔が怖い人、初めてだなぁ…」

カーテンの向こうからは、まだガラスを叩く音と怒鳴り声が聞こえる。

うつらうつらしていた女の子を本日三度目の横抱きにして、調剤用机の横を通り事務室に入った。

が、同僚たちにどう声をかけていいものか悩み、結果出入り口付近に無言で突っ立っているだけになってしまった。

主任の机周りを掃き清めていた小宮が一番に存在をみとめ、声をかけてくれた。

「果林(かりん)くん、どうしたのその子。…うわあ、足。ひどい。ぐったりしてるね、近所の子かな。」

気づいてもらえたことに安堵し、スオミの口角が上がる。

「裏手の川沿いで出会いまして。足の怪我と、発熱しているので、こちらで一度様子を見ていただけないかな、と。」

「なるほど。」

小宮は黄金色の薄い瞳をきらめかせてスオミを見ると、すぐ近くの席でパソコンを操作していた学内医の樋野さんを振り返った。

「樋野医士、すみません。この子果林(かりん)くんが見つけてくれたんですけど、発熱してて、診ていただけませんか。」

スオミに抱かれた女の子を指す。

その小さな体を見た樋野さんはもちろん、と立ち上がり、椅子の背に掛けていた白衣を羽織りながら、スオミへ向き直った。

「果林薬士(かりんやくし)…じゃなかった果林(かりん)君、あっちの…『C』まで連れてってあげて。」

受付を出て右手に見える並びのうち、左から数えて三つ目の部屋を指し、休憩中だったね、と舌を出す。

スオミの口元が緩む。

部屋の入口はスイングドアだったが開け放たれていて、手を使わずに入ることができそうだった。

「はい。お二人ともありがとうございます。」

軽く頭を下げると、同僚たちのデスクの並びを抜けて、受付カウンター右端の小さなスイングドアを膝で押し開ける。

そのまま廊下を横断し、目の高さに「治療室C」のタイルが張られた部屋へ入った。

一番奥にガラス窓へ沿ってベッドが置かれていたので、そこへ女の子を寝かせる。

その際汚れている足がシーツに触らないようベッドの向きと交差するように寝かせ、膝から下だけを脇に垂らしておいた。

「おぉ、賢い。」

後ろから、スチール製の三段ワゴンを押しつつ、樋野さんが入って来る。

スオミが場所を譲ると、ワゴンの一番上の段からぬるま湯を張った洗面器とタオルを取り上げ、ベッド横のスツールの上に置いた。

タオルを湯につけ、絞り、女の子の足を清めていく。

スオミはそれを傍目で確認しつつ、ワゴンの二段目から体温計を取り出した。

脇や口に挟むタイプではなく、額にかざすタイプなので、不必要に服を弄る必要がない。

ベッドの上に右膝と右手を置いて自重を支えつつ、青白い顔に向けて構えた。

「…高いなあ。」

ワゴンの一番下から包帯と消毒液をしみ込ませたガーゼを取り出しつつ、樋野さんが眉をしかめる。

けれどもスオミが「40.1℃」の表示を見つめ、眉間にしわを寄せているのを見ると、眼鏡の向こうの丸い目を細めた。

「この子、咳やくしゃみはしてた?出会ったとき、息はぜーぜーしてなかったかな。」

細い足にガーゼを当て、上から包帯を巻くという作業をこなしつつ訊いてくる。

「いいえ。鼻が詰まっている感じはなくて、呼吸も穏やかでした。痰が固まっているようにも見えませんでしたし。」

答えると、オッケー、と微笑んだ。

「『スリー』を打って、様子を見よう。この子の体格なら100ミリだね。」

「はい。」

スオミは頷いて、受付へ点滴式の解熱鎮痛薬-通称「スリー」-を取りに立つ。

これじゃ時間外労働だけど、と自身の腕時計の表示を示す医師に、えへへ、とはにかみで返し部屋を出た。

現在、時刻はちょうど正午。

普段のスオミならば、弁当を食べ終わり、腹ごなしの散歩を始めている頃である。

きゅうりひとかけら分でも結構動けるものだ、と思いつつ、廊下を渡って腰丈のスイングドアに手をかけた。

「あの方、返してもらいますよ。」

右後ろを這う声。

はっとそちらを振り向くと、すぐ1メートル程先に、先ほどの黒ツナギの男性が立っていた。

彼はサングラスを外し、きりりとした黒い双眸を細める。

「あの子供です。返してください、カリン・スオミくん。本当に、あなた方は…」

眉間にしわを寄せ、近寄ってくる。

スオミは彼を事務室に入らせないよう、その場に立ちはだかった。

「あの子、裸足でした。靴をなくしても歩き続けるほど、あなたの所へ戻ることを嫌がっているのではありませんか。それに、己(おれ)へあなたから逃げるように、とも言いました。あの怯え方は尋常じゃない。」

直接あの子へ迫るよりも、一度第三者を挟んでご相談なさってはいかがですか。

途端、男性に両肩を掴まれた。腕の付け根の骨がぎりりと軋み、痛い。

この職場に来て、ここまで人に生意気な口をきいたことは無く、ここまで人に怒りを向けられたこともなかった。

見開かれた血走る目が、正面から突き刺さる。

「あの!」

スオミの背後、事務室の中から声が上がった。

首だけ左にまわして見ると、座敷ぼうきを左肩に担いだ小宮が、右手で髪紐をほどくところだった。

紺色の花柄スカートと肩まで伸びた栗色の小滝を揺らしやってきた彼女は、青い紐の巻き付いた薄橙の右手をスオミの右肩に置き、男性の角張った手をつねりながら咳払いする。

切れ長な瞳を刮目し、両肩からそそくさと手を離す男の顔をまっすぐ見返した。

唸るようなセカンドテナーが、辺りに響く。

「小さい子を、足があんなになるまで放っておいた人に、返せとか言われたくありません。」

それと同時に、それまで静観していた事務室最奥の大内さんが立ち上がった。

受付まで出てくると、スオミと小宮に耳打ちする。

「かなでちゃん、果林(かりん)くん、あとは私が。」

小宮がほうきを下ろしスオミがスイングドアの中へ引きさがると、自らは外に出る。

当健康センター主任の大内と申します、と首にかけた名札を見せつつ、肩をいからせている男性に告げた。

「件の子供さんですが、傍目ながら拝見したところ衰弱が激しい様子でしたので、現在こちらで保護させていただいております。当センターは国立阿見尾総合大学所属の正式な医療機関となるため原則違法行為は行いませんので、ご安心ください。」

差し支えなければ、別室にて貴方様と子供さんとのご関係など、詳しいお話をお聞かせいただけますでしょうか。

口角は上がっているが、その糸目は笑っていない。

「別室って…」

憮然とした様子の男性をこちらになります、と女の子のいる治療室とは反対方向のスペースへ案内する。

ほうきを下ろし、髪をポニーテールに結いなおした小宮が、スオミに向き直って頬を赤らめた。

スオミはやや小柄で150㎝もないのだが、小宮はスオミより頭一つ分弱くらい上背があった。

必然、向き合うときはいつもスオミがちょっと見上げる形になる。

加えて、いつも向き合うときよりも近い距離に二人は立っていた。

故に、いつもは見えなかった「彼女」のとがった喉笛が、スオミからはよく見えた。

「彼女」もそのことを分かっていたのだが、スオミと目が合うと、動きを止めたまま、もっと頬を赤らめた。

「ごめん。さっきは。汚い声出しちゃった。」

立てたほうきの柄のてっぺんを両手でいじりながら、いつもよりも高い声で言い、俯く。

「人前であの声出したの、初めてなんだ…」

「ありがとうございます、小宮さん。とても助かりました。」

スオミは礼を言った。

「いやいやそんな。」

謙遜する小宮に、頭を上げて畳みかける。

「小宮さんの声は、素敵だと思います。心から。ヒーローみたいな声でも、今みたいな可愛らしい声でも話せるなんてすごいです。」

小宮が耳まで赤くなる。紺色のスカートがまた大いに波打った。

「…ありがと…」

ほうきの柄を両手で握りしめ、絞り出された声はいつにも増して高く、ソプラノも夢じゃないのでは、とスオミは思った。

もじもじしたままの小宮に会釈し、薬品棚の一番下の段から点滴パックと注射針を取り出す。

そのまま廊下へ出て、治療室へ戻った。

一瞬、自分の赤目がとうとう悪さをしたか、と思った。

―あ、スオミ。ごめんなさい、迷惑かけて。―

女の子が起き上がり、聴診器を首にかけ、手には「かざす」型の体温計を持った樋野さんと共に、ベッドへ腰かけていた。

「え、熱は。」

どちらへ訊くでもなく飛び出した疑問。

途端、樋野さんが青ざめた。ベッドから立ち上がり、体温計の表示を見せてくる。

「…平常も、平常…」

スオミがこれまで聞いた中で一番低い声で言った。

スオミも目を見開いた。

「36℃ちょうど…平熱ですし、さっきから一気に4度も下がってる…」

―ごめんね、やっぱり無菌室の外は慣れなくて。でも、わたしの体はもう改造されてるから、用意してもらう薬は切り傷とか擦り傷につける軟膏だけでいいんだ。―

女の子が二人の間へ滑り込むように言った。

「え。改造?」

スオミが女の子に訊くと、樋野さんはもっと青ざめて座り込んでしまった。

「大丈夫ですか?」

スオミは樋野さんに合わせてしゃがもうとしたが、樋野さん自身がグッドサインを掲げたので、放っておくことにした。

取り敢えず点滴セットをワゴンの最上段に置いておく。

室内へ入った時に見た樋野さんと同じように、女の子の左隣へ座り、再度訊いてみた。

「改造ってどういうこと?」

女の子は微笑んだ。窓に背を向けているため、自然光に照らされて顔に影が差す。

―わたしね、今朝までさっき追ってきた男が居る組織に捕まっていたんだけど、逃げてきたの。11歳の時から今まで7年間、ずっと体を改造されてきて。そのせいで、体の成長が止まっちゃった。わたし元から歳の割に小さかったけど…スオミよりも小さかったよね。―

わたしたち、双子じゃないのにね。

目を細め、スオミに笑いかけてくる。

「…己(おれ)達は、きょうだいだったの?」

泣きそうな笑顔に気圧されつつ、スオミは訊いた。

女の子の両目が静かに閉じられる。彼女はふいっと顔を背け、スオミが困惑しているところで、ポツリと呟いた。

―弟だよ、イ…あなたは。―

今17歳と3か月半でしょ。わたしは18歳と2か月と2日だから。

声にちょっと棘が入っている。

スオミはかえって冷静になり、自分の右隣へちょこんと腰かける女の子を見つめた。

「…己(おれ)も、7年前より前のことを覚えてないんだ。実は。」

7年前、一緒だね。

どう見ても8歳くらいにしか見えない女の子へ、あやすように笑いかける。

途端に、女の子の瞳が見開かれる。

はっ、とスオミを振り向き、歯を食いしばった。

そのまま何秒間も見つめあった末に、ようやく口を開く。

―わたしは、カリン・セーマ。あなたと同じ、母カリン・キーマと、父ナハン・ナトヤとの間に生まれた。あなたの名前も、―

「カリン、スオミだね。」

スオミは彼女の言葉尻に被せて言った。

―そう。―

女の子…セーマは頷いた。

―あなたが10歳の時までのことを覚えてないのは、わたしのせいだよ。姉なのに、わた、しが、何も知らなかった、から゛っ…―

緑色の瞳が、木の葉の雫のように揺れる。

「君はっ。」

スオミは焦って言った。

「最初から己(おれ)の名前を知ってたよね。本当に、きょうだいなのかも知れないね。」

ここまで、これほど人に気を使ったことはなかった。ぽろぽろ涙を零すセーマに呼びかける。

「セーマさん。セーマお姉さん。大丈夫だよ。ね。」

自分の口角が不自然に吊り上がっているのを感じたが、構ってはいられない。

―…「お姉(ねえ)」って、呼んでくれる?―

涙を拭いもせず、セーマは言った。

―7年前まで、あなたずっとそう呼んでた。―

「分かった。お姉。」

スオミは素直に頷いた。

「あのう。」

樋野さんが床からすっくと立ち上がり、手を挙げる。

それまでずっと存在感が無かったので、スオミもセーマも驚いた。

「果林(かりん)君は、この子の話す外国語を理解できるのね。」

眼鏡の位置を直しつつ、訊いてくる。

スオミの瞳がもっと見開かれる。

「…そうですね。そういえば。」

「ダイジョーブ。日乃出ゴガ話セマスッ。」

セーマが焦って、ベッドから立ち上がろうとした。

「すわってすわって!足ケガしてるから!」

樋野さんが押しとどめる。

「さっきおしゃべりしたときもちゃんと日乃出語として聞き取れたから、落ち着いて。」

セーマはちょこんと座りなおした。

「さっきって、己(おれ)が『スリー』をとってきたときですよね。何をお話しされたんですか。」

スオミは樋野さんに訊いてみた。

「果林(かりん)君が出てったあとすぐに、この子の熱が下がったの。だから、腹部の音とか聞きつつ自己(おれ)紹介しあってたんだけど…」

彼女はセーマをちらりと見て苦笑した。

当人は眉根をひそめ、俯いた。

「ドコカラ来タカハ、ヒノサンハ聞カナイホウガヨイデス。」

「…己(おれ)には言ってくれたのに。」

スオミは思わず呟いた。すると、猫のような目付きで睨まれる。

―一般人に聞かせられる話じゃないでしょ。人体実験の話なんて。―

「己(おれ)も一般人じゃないの?」

セーマが刮目した。

−全然一般人じゃないよ!イジェ、あなたは多分、アリルではものすごく珍しい呪文の使い手なの!言ってたでしょ、〈それはつばさ〉って!−

また立ち上がりそうになったので、樋野さんが半泣きになって止めている。

「そうだったんだ…」

スオミはちょっとわくわくしていたが、突然聞こえた地響きのような音に固まってしまった。

ぐるるるるるる。

ぐるるるるるるるるるるるるるるるる。

音の主を探して周りを見回すと、すぐ隣に座る小さな女の子に行き着いた。

ぐるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる

小さなお腹から、野獣のような咆哮が上がっている。

「昼だもんね。」

スオミは頷き、カバンから栄養バーを取り出した。

「治療室(ここ)で食事って、できましたっけ。」

タオルと洗面器とをワゴンへ戻していた樋野さんに尋ねる。

「匂いとかがこもらないようにしてもらえれば。」

グッドサインを頂いたので、ベッド奥の窓を開け、バーを包んだビニール袋を開ける。

チーズの香りがぶわりと広がったが、窓から流れ込む風ですぐに霧散した。

「口に合うかわからないけど、良かったらどうぞ。チーズケーキみたいな感じだよ。」

―ありがとう。でも「チーズケーキ」は、食べたことないよ!―

頬を赤らめて笑うセーマ。

スオミはここで、彼女が本当に7年間も別世界へ閉じ込められていたのだと確信した。

「じゃあ、良ければ今日、勤務が終わったらケーキ屋さんに行かない?」

カバンから弁当を取り出しつつ、提案する。

「いいねえ、『景喜屋(けいきや)』とかおすすめだよ。友達の店ー」

樋野さんが笑って、これ返しておくから、と点滴セットを掲げる。

それから、ワゴンを押しつつ部屋を出ていこうとした。

スオミは弁当を横に置き、立ち上がって頭を下げた。

「ありがとうございました、樋野医士。」

「いえいえー。ごゆっくりね!」

ひらひらと手を振り、彼女は出ていった。

スオミが姿勢を戻して座ると、腰かけたまま頭を下げていたセーマも起き上がり、バーにかじりついた。

とたん、丸い頬がばら色に染まる。

―おいひい。やはらはい、ね。―

「それならよかった。」

スオミも、口角が緩む。

弁当の蓋を開け、崩れたのり弁を再び箸でつつき始めた。

まずは野菜から、ときゅうりやら梅干しやらをぽりぽりやっていると、セーマがバーをかじりながら手元を覗いてきた。

「…いる?」

緊張で動きがカクカクになりつつ訊くと、首を横に振られる。

―スオミ、変わってないね。食べるの得意じゃないこと。―

薄―く目を細めた女の子に、そう言われてしまう。

「己(おれ)、手先の扱いがあんまりうまくないんだ。だから、正直お姉の前で食べるのも緊張する。」

項垂れつつ思ったことを言うと、安心してるのよ、と微笑まれる。

―こんなにおっきくなっちゃったけど、やっぱりわたしの弟なんだなって思えるから。―

スオミは先ほど見た川端の草っ原のような瞳が伏せられ、より深い緑に変わるのを、見逃せずに見ていた。

「…弟、ってはァ。己(おれ)、体は女なほに、どうひて分はっはの。」

照れ隠しに放り込んでしまった卵焼きを咀嚼しつつ繋いだ会話は、少し的外れな方向へ進んでしまっているようにも感じられた。

セーマは無言でバーにがっつき、3分の2くらい食べると答えた。

―あなたは女の子だけど、男がいいって3歳の時言ってたから。あなたがあなたを男だと思ってるんだったら、わたしも弟だと思った方がいいかなって。―

スオミの赤目が、まん丸になった。

「…ありがとう。その気遣い、嬉しい。」

セーマの黒いおかっぱを、右手で撫でつける。

―えへへ。さすがお姉(ねえ)、って言って。―

宣うちびっ子を可愛らしく思いつつ、左手の箸で鮭を突き刺す。

「さすがお姉。」

バーの残りを全て口に入れ、冬眠前のリスのようになった自称姉は、ほくほくと笑っていた。

と。

「館内ノ皆サマ、午後0時半、午後0時半ヲオ知ラセシマス」

廊下の方から館内放送が聞こえてきた。

この「健康センター」では1日9時間勤務のスオミとは異なり、8時間勤務の契約で働く職員が大多数を占めるのだが、労働法に基づく彼らの1時間の昼休みがこれから始まるのだ。

実際、事務室の方から何人かが、肩を回したりあくびしたりしつつ廊下を歩いて行くのが見えた。

ちなみに、小宮はスオミと同じ時間に始業するが、勤務時間は8時間勤務の職員たちの昼休みが始まるまでであるため、いつもスオミが腹ごなしの散歩から戻るころには既に退勤していることが多かった。

ただこの日は異なり、スオミのいる治療室前までやってきて、(これはいつも通りだが)頬を赤らめ、おつかれさま、と手を振り帰っていった。

「おつかれさまです、今日は本当ありがとうございました。」

振り返しつつ、頭を下げて見送った。

―あの人、あなたに恋してると思う。―

バーを全部腹に収めたセーマが、ぼそりと言う。

「え。あの人の、恋なの。己(おれ)に?」

スオミがびっくりしていると、思ってないのあなただけかも、とまたぼそり。

「…てっきり、己(おれ)のことが物珍しいんだと思ってた。己(おれ)、女だけど、ここの皆さんには君付けで呼ばれてるから。」

ぼやいたあと、ずっとつついていた鮭を口に放り込んだスオミだったが、次の瞬間耳まで真っ赤になって、でんぶと昆布と海苔・おかかの混ざった白米をかきこみ始めた。

「ごふ、ごふっ」

咳込み、吹き出しそうになる。

―お水は持ってないの?―

セーマがカバンに視線を送る。

たしかに。

むせながら頷き、弁当を横において中を探ると、ペットボトル入りのお茶があった。

蓋をねじり開け、喉に「玉露」をそそぎ込む。

「ぷは。けふ、けふ」

ふーっ、と息をつくと、ようやく呼吸が落ち着いた。

けれども、ほてった顔だけはどうにも冷めない上、弁当を胸の位置に持ち直したところで力が抜けてしまう。

のり弁の残骸は、あと3分の1くらい残っていた。

―ゆっくり食べなよ。おちついておちついて。―

自称姉の、やけに目の据わった横顔に眉をひそめながら、チノパンの上に何粒か落ちてしまった白米を拾い、一粒一粒ねぶっていく。

同時に、その長丈パンツの右ポケットには養祖父からもらった銀製の腕時計が入っていたことを思い出し、弁当をセーマから見えないよう自身の左側に置いた後、両手で丁重に取り出した。

この日の朝合わせたばかりの秒針が指すのは、午後12時32分。

半日で約5分遅れるので、実際は37分くらいということになる。

昼休みが終わるまで、あと20分くらいはあった。

スオミはため息をつくと、額の上で時計を握りしめ、程よい硬さのマットレスへ仰向けに倒れこんだ。

セーマも倣って倒れこみ、左隣から漏れるうめき声にくすくすと軽やかな笑い声を上げる。

「ゔ―…」

唸る若人の日の出のような色の頬に、モミジのような手を当て、ぺちぺちと軽くたたいた。

「あ゛―」

もはや言葉を発しなくなってしまった若人だったが、この13分後にごばっと起き上がり、弁当をゆっくりかきこんでから、自称姉にトイレと小図書室(「健康センター」のある建物の2~3階に入っている)の場所を教えた。

すると、わたし歩けないはずなんだけど、との至極尤もな指摘を頂いたので、ベッド下から折りたたみ式車椅子を引っ張り出し、座らせた。

それから、午後番バイトの猪川さん(お爺さん)以外誰もいない事務室を会釈しつつ足早に通り抜け、調剤室(しごと)へ戻ったのだった。


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ある友人たちの物語 クラタキトリ @kuratak

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