阿見尾の街の北側には、昼でも暗い森がある。
その森の入り口に、廃墟と化した旧網生教会が建っている。
ソウは靴を履かずにきていたことに気づき、自分以外は誰もいない聖堂の入り口でポッ、と頬を赤くした。
早く隠れてしまおう。
見かけ通り重たい麦茶色の扉を押し開け、埃舞う内へ入っていく。
途端、薄暗い大広間の、奥まで並んだベンチの影から何かが飛び出した。
硬い材質の座面を、背もたれのふちを蹴り、駆け寄ってくる。
多分女の子、だった。
ボロボロのワンピース一枚しか着ていない。
薄汚れた白い足が迫ってくる。
避ける間もなく、視界が真っ黒になった。
気付くと、埃っぽかった。
背中が硬い。
目を開けると、暗く高い十字の天井が見えた。
起きあがろうとしたが、頭がくらくらしてまた倒れ込んでしまう。
なんだか右肩も硬い。
右を見ると、ベンチの背もたれのようだった。
左を見る。
目。
くるんとした大きな赤い目。
“!hbcうふぇbrくwdybっdkすhbdcjsx¡ ”(おまえはこちらの住人か!)
鈴の鳴るような声。
薄暗い中でもわかる、鼻筋の通った綺麗な女の子だった。
「いいなあ…」
ソウは思わず呟いた。
「いいなあ。」
その糸目から、じわりと雫が滲んだ。
女の子はふわふわした短い黒髪を揺らし、手から錆びついた柄の黒いナイフを取り落とした。
衝撃で柄の黒が取れ、鮮やかな赤が現れる。
「ナ、ゼナク、デス?」
片言。
「あなたは女の子でしょ?」
目元を拭い、西方彫刻みたいな顔を見た。
「わたし…ぼくは、男の子だから。」
女の子は、額に拳を当ててうんうん唸り始めた。
「dsvf…オトコ、ダカla、ナク?」
「あなたは、体も女の子なんでしょ?」
女の子は唸り続ける。
「カラダ、オンナノコ…」
「わたしは、心しか女の子じゃないんだ。」
女の子は、そこで顔を上げた。
“hcづcっへう,jxっs.”(心身の性不一致、ということか。)
ソウに確かめたが、言語が違うので理解されなかった。
女の子はふん、と息を吐くと、スカートで右手を拭き、ソウの生え抜きの茶髪を撫ぜた。
「アナta、かワイイ。セiシキノオンナノコ。ナカナイクだsaイ。」
日の出のような色の瞳が細められる。
「ナカナイkuダサイ。」
白い手が熱いのを感じて、ソウはがばりと起き上がった。
まだ少しくらくらするが、構っている暇はない。
座面から足を下ろし、腰掛けた体勢になった。
女の子は飛びのこうとしたが、ベンチとベンチの間にしゃがみ込んでいたことが災し、背もたれで背中を打ってしまった。
“!U¡”
呻きつつ落ちていたナイフを拾い、震えながら逆手に構える。
“!hdすbc¡”(来るな!)
ナイフの柄が、汚れの落ちたことで光沢ある地色を発露させ、薄明かりを最大限反射している。
ソウは眉をひそめた。
「熱あるでしょ、あなた。」
しかもナイフなんて、あぶないよ。
一見冷静な指摘に、女の子は瞬きした後、しゅんと俯いてしまった。
「おでこ、さわってもいい?どれくらい熱があるか知りたいから。」
語りかけるソウの首筋を、先程とは異なる類の雫が滑り落ちる。
女の子は片膝を立てた姿勢から膝立ちになり、ナイフを握ったままソウのもとへ近寄ってきた。
「その包丁、きたないし、一回持つのやめた方がいいよ。」
ソウは赤茶けた刃の部分をちょっと揺らぐ指で指し、眉間に皺を寄せる。
「あとで洗おう。」
「…ウン。」
頷いた女の子がベンチの下にナイフを置くのを、一部始終目に焼き付ける。
サビの移ってしまった白い右手が、可哀想だと思った。
汚れに構わず左手で包み込む。
残った右手で、広い額に触れた。
「うわあ、熱いね。」
比喩ではなく、本当に熱かった。
ソウは右手を額から離し、宙ぶらりんになっていた女の子の左手をとって、ぎゅっと握った。
「あなた、わたしの家に来なよ。お洋服がぼろぼろだし、体も、かぜ引いちゃうよ。」
女の子は、小柄な男女の子の真剣な瞳を見た。
切れ長の黒い眼差しが、彼女の過敏な瞳の向こうを、ただ気遣っていた。
「ぼくは、ソウ。わたしは、まだわかんない。でも、わたし、あなたが心配、だよ。」
耳まで赤く染めながら宣う。
女の子もつられて、頬に火照りを感じた。
「キ、クル、デス。」
機械人形のように、がくがくと首を縦に振る。
「ソウ」の糸目がウワッと広がった。
濡羽色に瞳をきらつかせながら、女の子に笑いかける。
「やった!」
はしゃいだ勢いで立ち上がり、しかし、くらりときた眩暈にまた座ってしまった。
“!っsxぶ¡”(大丈夫か!)
女の子は慌てて、「ソウ」を再び横にならせた。両手は一旦離しておく。
「だいじょぶ、だいじょぶ。」
奇跡的に双方の意思が噛み合った。
“っすbふ(心配だ…)”
「気にしないで。」
「ソウ」は言うが、目の前で倒れられている以上、どうしようか考えなければなるまい。
「ワタshiハ、‘zckdjb’、デス。」
とりあえず、少ない語彙で自己(おれ)紹介した。
「ソウ」は、彼女の名前がなんとなく、自分のそれと似た響きだと感じた。
「…ありがとう。なんか、立てそうな気がする。」
肘をつき、手をつき、なんとか起き上がる。
「ダイジnaイ、デス?」
女の子…“zckdjb“が、眉間を顰めて覗き込んでくる。
「あなた、熱出てるのに、平気なの。」
訊くと、ウン、とのことだった。
「ネツ、ナイ。ナイ、スルデス。」
うんうん頷く女の子。
「それは、だめだよ。」
今度こそ「ソウ」は立ち上がった。
女の子を気遣って、なるべくゆっくりと。
ふらつきながらも、ほとんど同じ身長の女の子へ左手を差し伸べる。
「行こう。」
「…ウン。」
右手で取った女の子は目を細めて、赤が鮮やかになった。
ベンチの並びから抜け、濃茶色の扉のノブを片手づつ掴み、協力して引き開ける。
眩しい光に二人とも視線が下を向き、
「あ。」
“A...”
互いに相手が靴を履いていないことを認識した。
「…帰ったら、ちゃんとくつ、あるから。あなたのも、お母さんに頼んで買って貰う!」
また耳まで真っ赤になった「ソウ」が、泥だらけの靴下を見て口角を下げた女の子の足下を見て言う。
泥色のロングスカートからのぞく、それ。
「きれいな足なんだから、はだしのまんまじゃだめだよ。」
「ウン。Sxdhbjh.(ありがとう。)」
女の子は「ソウ」の光るマロン色の髪を、黒い双眸のダイヤを、目を細めて見つめた。
確実に礼を言われているような気がして、「ソウ」はますます赤くなった。
「いえいえ。いこ。いこ。」
日差しの下に女の子を引っ張り出す。
女の子は温かい土の感触を感じつつ一瞬聖堂の中を振り返ったが、暗闇の中に誰も居ないことを知ると、少しふらつきながら、今度こそ「ソウ」に笑いかけることができたのだった。
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