懐疑主義のすゝめ

松田習

懐疑主義のすゝめ

 乱気流に揺られた機内で私は目を覚ました。窓の外を見ようとしたが叶わず、代わりに自分の顔がこちらを見つめていた。夜である。

 私の座席は窓際三列の中央列に位置する。右隣の男は和風の着物にシルクハットという奇妙な組み合わせのファッションに身を包んでおり、その容貌から年齢の判定は難しい。大学生のようにも見えるが三十代だと言われても違和感を抱かないだろう。いずれにせよ言いしれぬ異様なオーラを垂れ流す彼を一語で表すならば、”怪人”であった。

「やあやあよく眠れたかね、学生くん」

 突如怪人の口から発された声の宛先は私である。

「はあ… あなたは寝ないんですか?」

 辺りの乗客の多くは眠っておりどこからか唸るようないびき声が聞こえる。

「ムフフフフ… 睡眠時間は人生の四分の一以上を占めると言うが拙者にはそれが耐えられない」

 そう言う怪人の目の下には浅黒いクマが目立っている。

 彼の主張を要約するならばこうだった。我々は起きて活動しているときにのみまともに頭を働かせて実世界に干渉することが出来る。眠りの中に救いは無くむしろ時間の無駄である。ゆえに寝る間も惜しんで己の生涯を俯瞰し綿密な計画を立て一歩ずつ前進していくことこそが人生を充実したものとする唯一の方法であり自分は今まさにそれを実行しているところなのだと言う。くわえて一日あたりの平均睡眠時間は四十分だと自負していたが真偽の程は定かでない。しかしこの男の万年眠たそうな顔にはそれなりの説得力があった。

「ところで学生くんはこの機内をどう捉える?」

「…といいますと?」

 うん、と目を細めながら怪人は続けた。

「学生くんは先程まで眠っていた、そして目を覚ました。つまり飛行機に乗り込んだときの意識と今現在の意識は連続しておらず、眠りによって分断されてしまった訳だ」

 怪人が私の方に顔を向ける。

「どういうことか、分かるね?」

 私の返答を待たずして怪人は自答した。

「学生くんは初めに自分が乗った飛行機と同じ飛行機の中にいると思っているかもしれないがその保証は全く無い、ということだ」

「……しかし私は今、あなたの左隣の席に座っていますよ。これは眠る前と同じです」

「無論。ではこの飛行機が現在航空中であることは如何様にして言えるだろうか。これが初めに乗った飛行機ならば今も空を飛んでいるはずだが、君にはそのことが証明できるかね」

 怪人の言うことは一応筋が通っている。滑走路から飛び立ち、機体がだんだんと高度を上げていく様子を、私は窓越しではっきりと確認していた。離陸を見届けた後は一時間ほど映画を眺め、眠ったのはその後である。つまり私が眠る前に乗っていた飛行機は確実に飛行していた。

「ご覧なさい。この通り外は闇に包まれていて何も見えない。時折の揺れが飛行中であることを感じさせるがそれも十分な徴証にはなり得ないだろう」

「つまりあなたは何を言いたいんです?」

「ムフフフフ… これは仮説に過ぎないが…例えばこんなのはどうだろう。この飛行機は空を飛んでなどいない。暗いガレージにしまわれたままの機体に我々は何時間も取り残されている。 しかし乗客は誰もそのことに気付かない。また、外部から何らかの影響を受けて時折機体が揺れている…」

「そんなの、まるで屁理屈じゃあないですか」

「うむ、だからあくまで仮説だよ」

 怪人は見た目の通りやはり怪人なのであった。彼の説は突飛だがあながち馬鹿にできないある種の訴求力を併せ持っており、そこに私は多少の魅力を感じざるを得なかった。

「なあなあ何の話しとんの? ねえ!」

 私と怪人の会話を横で聞いていたのだろう。左隣に座っていた女性がいつの間にか目を覚ましていた。美人だ。実は搭乗した時から私はこの女性のことが気掛かりで仕方がない。不純異性交遊に縁のない生き方をしていた私には多少刺激の強い恰好をしていたが、決して色気に引かれた訳ではないことが言うまでもないことは言うまでもない。ギャルという少々前時代的な語を使うことに抵抗を感じるが然るに彼女はまさしくギャルである。左右の後頭部に束ね分けられたツインテールは可愛らしくその色艶は桃色珊瑚の如く輝きを放ち、シフォン・オーガンを用いたシースルールックの向こう側には清新でみずみずしい白い肌が不透明度四〇%に見て取れた。その姿に一目合焦した刹那ハートを鷲掴みにされながらも、異性間コミュニケーションに億劫であるが故に彼女に話しかける言葉をなかなか見つけ出すことが出来ず参考までにと某ラブロマンス大作を眺めていたが劇中頻繁に登場するくさい台詞は無限連鎖講さながらのうさん臭さでありそれらを採用するには至らなかった。やはり人との会話は己の言葉で交わされるべきと一念発起、しかしどうやら考え込んでいるうちに眠りに落ちてしまったらしく目を覚ましたのはつい先程のことである。

「我々が普段当たり前のように感じ気にも留めないようなことを一度立ち止まって全てを疑ってみる、という考え方についてこちらの学生くんと談義していたんだよ、お嬢さん」

 怪人の説明にふ~ん、と頷いてからふと思い出したようにギャルは言った。

「あ、エポケーゆうやつやな!」

 まさか彼女の口からそのような哲学用語が出てくるとは思っていなかった。人間見た目では判断できないところがあるというがまさにその通りである。これには怪人も驚いたらしく感嘆の声を上げた。

「ほう…! お嬢さん、現象学を心得ていらっしゃる」

「せやでー こう見えて大学では哲学科やさけな」

 まあ実のところそんなに興味があるんとちゃうけどね、とギャルは付け足す。

 その知性あふれる謙虚な態度と派手な外見とのギャップに、私の彼女に対する好意のバロメーターは上昇の一途を辿っていた。


                ◆ ◇ ◆


「お飲み物はいかがですか?」

 左の通路にワゴンを押すキャビンアテンダントの姿があった。声の主は彼女である。

「拙者はリンゴジュースを頂こう」

「私はコーラを」

「うちコーヒー!」

「かしこまりました」

 キャビンアテンダントが微笑む。彼女の目には我々が仲良し三人衆に見えたことだろう。実のところ赤の他人同士なのだが。

「さて先程の話だが、今我々がそれぞれ手にしている紙コップに論点を差し替えて考えてみよう」

 キャビンアテンダントが三列程前に進んだのを確認してから怪人が話し始めた。

「例えば自分の飲み物に毒が盛られているかもしれない、と疑ってみることにする。まず私のリンゴジュースは、CAがお嬢さんに渡し、それをお嬢さんが学生くんに渡し、そして学生くんが私に渡したものである。つまりこのジュースに毒が盛られていると仮定した場合、容疑者となるのはCA、お嬢さん、学生くんの三人だ。学生くんのコーラについても同様に仮定することが出来る。その場合容疑者となるのはCAとお嬢さんの二人。またお嬢さんのコーヒーに関しては容疑者はCA一人に限られる」

 我々三人はギャル、私、怪人の順に並んで座っており、左が通路側、右が窓側となっている。各人の飲み物は通路に立つCAから右側に座る我々に向かって順に回されそれぞれに配された訳である。

「では一旦情報を整理しよう。我々の中の一人もしくは複数人に毒が盛られていると仮定した場合、CAは加害者である可能性があるが被害者ではなく、拙者は被害者である可能性があるが加害者ではない。そして学生くんとお嬢さんはその両方の可能性がある。ここまでいいかね?」

 私とギャルが頷くのを見て満足そうに目を細めながら怪人は続けた。

「ということで今から検証していこうと思う。無論、実際に飲んでみる以外方法はない。然るに我々は今から毒が盛られている可能性のある飲み物を口にする、ということだ。しかし諸君はこのことに文句はないはずだ」

「ええ、いいですよ。もともと飲みたくて頼んだコーラですし」

「かもわへんやろ。どーせ毒なんか入ってへんのやから」

 そう、毒なんて入っている訳がない。しかし飲んでみないことには分からない。これが怪人の理論である。

「ムフフフフ… 結構。では右に座る者から順番に飲んでいくことにしよう。ということでまずは私だ」

 怪人が紙コップに口をつけ、そして一気に飲み込む。五秒程の静寂が流れた。

「ふう… どうやら拙者のリンゴジュースに毒は盛られていなかったようだ」

 よかったよかった、と怪人は怪人らしく奇怪な笑い声をあげた。

「たった今、拙者が被害者である可能性は消えた。そして同時に学生くんが加害者である可能性も無くなった訳だ」

 その通りである。もし私が加害者だった場合、私が毒を盛ることが出来た相手は自分よりも右側に座っていた人物、すなわち怪人だけである。ゆえに怪人のリンゴジュースに毒が盛られていなかった以上、私は晴れて容疑者から外されることになったのだ。

「ほな次はお兄ちゃんの番や」

 そう言ってギャルは私の顔を覗き込んだ。彼女と目を合わせたのはこのときが初めてである。手に持ったコップを口に運ぶ最中、私はギャルの笑みがやや悪意を含んでいることに気付いた。根拠はない。しかし脳内の警戒アラートは午前六時三十分の目覚まし時計の如く鳴り響き、私の身に危険が迫っていることが直感的にも脳内聴覚的にも感じられた。そうだ、このギャルは私のコーラに毒をもった容疑者なのだ。頭の中で幾多にも彼女の言葉が木霊する。お兄ちゃんの番や、お兄ちゃんの番や、お兄ちゃんの番や、お兄ちゃんの番や。毒なんて入っている訳がない。しかし飲んでみないことには――。

 時間にして僅か三秒、しかしとてつもなく長い三秒の間、私は無心に胃の中へとコーラを流し込んだ。それはまさしくコーラだった。誰が何と言おうと日光東照宮の眠り猫が目を覚まそうとそれはコーラ以外の何物でもなかった。体に異変はない。あっぱれ私は恐怖の大魔王に打ち勝ったのだ。

「ムフフフフ… どうやら学生くんも被害者ではなかったようだねえ」

 怪人はなんだか不吉な笑みを浮かべる。どこか悔しそうに見えたのは錯覚か。

「これでうちが加害者とちゃうことが証明された訳やな」

「その通り。では最後にお嬢さんがコーヒーを飲めば全てが終わる」

「任しとき!」

 ギャルは勢いよくコーヒーの入った紙コップを呷った。無論毒など入っているはずもなく、それは初めから何の罪もなかったキャビンアテンダントの虚構容疑を払拭するに立ち至った。


                ◆ ◇ ◆


 ここまでは私の予想通りだった。いや誰しもが思った結果だろう。というかこうなるのは当たり前ではないか。機内サービスの飲み物に毒を盛られた。そんな阿保があってたまるか。想像してみよ読者諸賢。何気なく頼んだ一杯の清涼飲料水を前にして被害妄想に被害妄想を重ねそれを飲むべきか否か思い悩み今一歩踏み出せない人間がそういるだろうか。あるいはそういった人たちを”怪人”と呼ぶべきではないのか。彼らの一面的な鼻元思案は所詮机上の空論、絵に描いた餅、実生活に一切の利益を生み出すことのない畳の上の水練ではないのか。かくいう私がそう疑わなかったのは今しがたまでのことである。

 怪人によって立案された例の検証が無血に幕を下ろし、不毛な行為をやり遂げたことへの充足感を三人で分かち合っていた頃、それはひっそりと始まった。初めはほんの微かな違和感だったが次第に程度を増していき七転八倒の苦痛へと姿を変えていった。我が人生二十年かつてこれ程の辛酸を感じたことはない。

「え、どないしたん、お兄ちゃん?」

 ギャルが私の異変に気付いたらしく心配そうな顔を向けている。

「大丈夫かね、学生くん。顔が悪いぞ」 あ、顔色か、とわざとらしく言い直す怪人。余計なお世話だ、とツッコミを入れたいところだが今はそんなことをしている場合ではない。

 吐き気、頭痛、めまい等が具体的な症状であり、中でも吐き気はことさら凄まじく早急にトイレへと駆け込む必要性がある。

「あの、ちょっとお手洗いに行ってきます… え、ちょっと」

 立ち上がろうとした私の腕を怪人が掴んでいた。

「待ちたまえ。今は行くべきではない」

「い、いや今行かないとほんとまずいんですってば」

「いいから向こうに座っている黒服の男を見ろ」

 私とギャルは通路を挟んで隣の席に座っている黒ずくめの男に目を向ける。

「あの男は先程からずっと懐に手を入れたままだ。様子がおかしいとは思わないか諸君」

 男は右手を左の懐に隠したままじっと何かを待ち構えるように静止している。たしかに怪人の言う通り少しばかり変な姿勢ではあったが、だから何だというのだ。

 怪人は私とギャルにだけ聞こえるように声を潜めて言った。

「ムフフフフ… 例えばの話だが… あの懐の中に拳銃を隠し持っている、と仮定することが出来る」

 半ば呆れかけたがしかし私がこうして体調不良を催している以上先程の毒の件も今もって完全にフィクションと断定するには至らないが故に怪人の変論が持つ恐るべき真実味を感じつつあったのもまた有り様である。だが最早そんなお遊びに付き合っている余裕はない。私の吐き気はさらにエスカレートしていた。そうだ、トイレへ急がねば。しかし、事実は小説よりも奇なり、まさに詩人バイロンの教えの如くここで予想外のことが起きる。凝固していた黒ずくめの男が突然立ち上がったかと思うと、その懐から拳銃を握った右手をあらわにした。

「いいかよく聞けえ! この機体は我々が乗っ取ったあ! その場で動くなあ! 今から席を立った奴は撃ち殺す!」

 男は銃口を床に向けた。機内に銃声が鳴り響く。それに続くように離れたところからも数発の銃声。そして乗客たちのざわめきを制するように機内放送が流れた。

「と、いう訳だ。状況は理解して頂けただろう。また、今発砲した者たちだけが我々の仲間ではない。他にも機内には多くの仲間を忍ばせている。お前たちに逃げ場はない。まあせいぜい無駄な抵抗はよしておくことだ。以上」

 そのストーレトかつ簡潔な内容に私は感心した。つまるところこれがハイジャックというものなのだろう。

「どないすんのやー! えらいことんなってんねんねん!」

「どうやら拙者の仮定は正しかったようだねえ」

 さあ困った。何に困ったか。飛行機がハイジャックされたことにではない。トイレに行けないことが問題なのである。私の吐き気はとっくに我慢の限界へと達していた。席を立てば殺される。しかしこの場に留まれば胃の内容物を人前で晒すことになる。それも可憐なる女子大生の隣で。嗚呼、我死にたまふこと勿れ。天地万有の創造主よ、手前、小生、不肖、愚生に一体どうしろというのか。朦朧とした意識の中、私は今自分がすべきことを考えに考えた。そして意を決し、ゆっくりと立ち上がった。

「おい! お前、何してる! 撃たれたいか!」

 黒服が私に銃口を向ける。

「ちょい! 何しとん!」

「…学生くん?」

 ギャルと怪人の言葉を無視して私は黒服に向かって率直に要求した。

「あの…トイレに行ってもいいでしょうか?」

 瞬間、機内の空気が凍り付く。黒服は唖然としていた。

「……は?」

「いや、だから… トイレに行ってもいいでしょうか?」

「…てめっ、ふざけやがって! 今すぐ席に座れ! さもなくば撃ち殺すぞ!」

 しかし私は従わなかった。全力で黒服に突進し、そのままトイレをめがけて突っ走った。


                ◆ ◇ ◆


 これは私なりの選択であった。公衆の面前で、ましてや美しい女性の前で嘔吐するなど言語道断。それは人間としての尊厳を失うことに他ならず、死と同義である。かくして私は走った。人としてあり続けるために走ったのだ。…なんてことを言えば恰好がつくのだろうが無論嘘である。私は確信していた。黒服が私に向かって発砲することはないだろうと。その根拠はここが飛行機の中であることに由来する。この狭い機内で一発撃ち外しでもすれば弾丸の行き先など分かったものじゃない。彼らの仲間に当たるばかりか、窓を穿つ可能性すらある。それは彼らにとっても大変危険な状況を招く行為になりかねない。ゆえにそう簡単に引き金を引くことはないだろう。そう、確信していたのだ。予想は見事的中。黒服に撃ち殺されることなく私はトイレに辿りつき、無事用を足すことが出来た訳である。

「はぁ…はぁ… 何とか間に合った…」

 胃の中を空にした後で、ふと考える。そもそも何が原因でこうも気持ち悪くなったのか。まさかあのコーラに本当に毒が盛られていたのか。だとしたら犯人はギャルとキャビンアテンダントのどちらか。(後になって冷静に考えてみれば、それはただの乗り物酔いに過ぎなかったのだがこの時の私はそのような発想が出来ない程混乱していた。)

 しかしその件は一旦置いておくことにしよう。体調は回復しつつある。それよりこれからどうするかが問題だ。男たちは今も大声を上げてひっきりなしにドアを蹴とばし続けている。ここから出れば酷い目に遭うのは必至だった。だがこのままトイレに籠城しようと根本的な問題解決に繋がることはない。何か良策はないか。

「ぐへっ!」

「うっ!」

「うがっ!」

 俄然男たちが悲鳴をあげた。続けてギャルの声。

「お兄ちゃん、もう出てきてええで!」

 ドアを開くとそこにはギャルと怪人が立っていた。

「やあやあ学生くん。無事で何より」

 足元には三人の黒服が転がっている。

「あの… これは一体…」

「えへへ。うち空手で日本一位とってんねんねん。驚いたやろ」

 ギャルは自慢げに言ってから腕を伸ばしピースサインを作って見せた。

「お兄ちゃんが隙を作ってくれたおかげや~ 意外とガッツあるんやなあ。うち惚れてもうたわ」

 奥の通路には私が突き飛ばした黒服が倒れている。

「…いえいえ、助けられたのは僕の方ですよ」

 恐ろしい。この大男たちをその華奢な体でなぎ倒したというのか。まるで物理法則に反している。

「話は後だ。増援が来ているぞ」

 後方から男たちの群れが迫る。その姿はイノシシと見紛う程の気迫を持していた。

「ここはうちに任して!」

「うむ、よろしく頼んだぞ、お嬢さん。さ、我々も行かねば」

「え!? どこに?」

「操縦席に決まっているだろう。急ぐぞ」

 怪人の後ろを追って私は通路を疾走した。後にも先にも飛行機の中を息を切らして走るなどこれっきりなのだろう。それは小学生のころ先生に駄目だと言われながらも学校の廊下でかけっこをした時のような純粋な爽快感を全身に行き渡らせた。何だか楽しくて仕方がないのだ。

「ハァ、あの、ハァ、何で、操縦席に? ハァ、ハァ」

「フゥ、そりゃ、フゥ、ハイジャックし返すのさ フゥ、フゥ」

 途中、銃を持った男を何人か突き飛ばしながら我々は走り、操縦室の前に辿り着いた。

「学生くんもこれを持ちたまえ」

 怪人が拳銃を差し出した。いつの間に黒服からかっぱらったのだろう。

「持つだけならいいですけど、撃てませんよ」

「無論、持つだけでいいんだ。くれぐれも操縦室の中では撃たないように」

「分かってます」

「では準備はいいかね」

「OKです」

 我々は勢いよくドアを開け放った。左右の操縦席には奴らの仲間らしき男が二人座っており、パイロットたちはコクピットの隅に転がされていた。

「何だ貴様ら!?」

「怖がらんでいい。ただの乗客さ」

「な、何しに来た!」

「ムフフフフ… 君たちと同じことさ。今すぐそこをどきたまえ。撃つぞ」

 そう言って怪人は左の男に銃を向けた。それに倣って私も右の男に銃を向ける。

「ふん… やめた方がいいぞ。パイロットは眠らせてある。十時間は目を覚まさないだろう。つまり俺達を撃てばこの機体を操縦する奴はいなくなる訳だ。残念だったな」

 男たちはヘラヘラと笑った。

「どうするんです?」

「構わんよ」

 怪人は両手を振り上げて銃把で左の男の頭頂を殴りつけ、すかさず右の男の顔面に銃を投げつける。うめき声を発するまでもなく二人は席に座ったまま気絶した。

「ちょっ、これじゃ操縦はどうするんですか!」

「案ずるな。昔、遊びで旅客機を操縦したことがある。免許は無いが…まあ大丈夫だろう。私に任せなさい」

 私はこれまで遊びで飛行機を乗り回すような人間と出会ったことがなかった。流石は怪人である。

「さて、一番最初の問いに戻るが…」

 操縦席に座り、慣れた手つきでいくつものボタンを押しながら怪人は話し始めた。

「どうやらちゃんと空を飛んでいたようだねえ」

 機体はいつの間にか雲を抜け、コクピットの外には万華鏡のような星空が広がっていた。

「ええ…きれいですね」

「うわあ! 操縦席からだとこんなふうに見えるんやなあ!!」

 背後からギャルの声がした。振り返ると所々服が裂けて一層露出度の上がった彼女の姿がそこにあった。

「やあお嬢さん、お疲れ様」

「一人で大丈夫でしたか?」

「バッチシや! アイツらみんな素人やったし他のお客さんもてとてくれて楽勝やったで!」

 ギャルは腰に手を当て不敵な笑みを浮かべた。

「皆さんご安心を。ハイジャック犯は制圧しました。空港まではあと一時間程で到着します。今しばらくお待ち下さい」

 怪人のアナウンスが流れ機内が乗客たちの安堵の声に包まれる。

「何ぞうちらヒーローみたいやなあ」

 ヒーロー、か。そうなのかもしれない。さんざんなフライトだったがこの二人のおかげで一生に一度あればおかしい程の非日常を体感することができた。コクピットから夜空を眺めることももうないのだろう。

「ゔっ…!」

 感慨に浸っていると急に吐き気が再来した。やはりあのコーラに毒が入っていたのか。(繰り返すがこれがただの乗り物酔いだったことに気づくのは後になってからである。)両手で口を押さえ、私は再びトイレに向かって走り出す。

 幾千の星々に照らされて機体は雲の上を泳いだ。


                ◆ ◇ ◆


「せやかて、おっちゃんほんまごっついなあ! パイロットなれるで!」

 飛行機は無事空港に着陸し、他の乗客たちが降りる前に我々は早々に退散していた。私の体調もだいぶ回復している。

「ムフフフフ… しかしここが目的地だった空港かどうかは、まだわからないぞ」

「ええ、全くですね」

「まさか! そんな訳あらへんやろ」

 三人分の笑い声がボーディングブリッジに響く。もうこの二人ともお別れである。

「ほな、うちもう行かんと」

 あっという間にターミナルビルに辿り着いた。ギャルが私と怪人の前に左右の手を差し出す。

「お世話になりました。ほんまおおきに」

「いえいえ、こちらこそ」

「うむ、またどこかで会おう」

 駆け去っていくギャルの後ろ姿を私と怪人は見送った。

「では、拙者も警察が来る前に立ち去るよ。学生くんも達者でな」

「はい。気をつけて」

 怪人は何歩か進んでからふと立ち止まり、こちらを振り返った。

「そういえば学生くん」

「はい、何です?」

「君が眠っている間、君のポケットから財布がこぼれ落ちていたんだ。私はそれを拾って戻しておいた」

 右ポケットに手を入れると確かにちゃんと財布があった。

「そうでしたか、ありがとうございます」

「ムフフフフ… 礼を言うのはまだ早いぞ。札入れを確認してみたまえ」

 怪人に言われるがままに私は札の枚数を数えた。一万円札が一枚と千円札が七枚。

「学生くんは、寝る前に札が何枚入っていたか更にその内訳をはっきりと記憶しているかね」

 怪人はにんまりと口だけで笑う。

 一万円札が一枚入っていたのは確かだ。しかし千円札が七枚だったか六枚だったかもしくは八枚だったかはまるで曖昧である。私は彼の言いたいことを理解した。しかし視線を戻すとそこに怪人の姿は無く目の前は人ごみで溢れている。

 どうやら怪人の懐疑論にはささやかなオチがついていたようだ。

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