野良猫の寿命

エル

野良猫の寿命

「ひー、こら。チクチョウ、このオンボロめ」

 この車は社内でも有名なポンコツだった。

 エアコンは効かない、燃費は悪い、エンストも日常。とっとと処分してもいい程なのに、替えがないからとずっと社用車として使われてる、いわくつきの代物だ。

 そして俺の仕事は社内で貧乏くじを引くこと。

 つまりは、俺はよくまぁ、こいつと組まされることになるわけだ。

「カーステレオ無けりゃあ、ラジオもイカレてると来たもんだ。こんなだだっ広い草原で、ひたすら走るにゃ向いてねえ」

 ぐちぐち言ってもなにも変わらないが、暇はつぶれる。

 こんな片田舎のつまらない出張に駆り出される身も、少しは浮かばれるってものだ。

 だが、そんな俺の言葉が置きに召さなかったのか、エアコンが突如熱風なんぞを吐き出しはじめた。

「あちち、こりゃなんとも、また壊れたか」

 俺はイラつく手でつまみを調整してなんとかもとに戻そうとするが、これがまた一向に戻りはしなかった。

「こいつめ、反抗期か」

 そういうやつは叩いて直す。

 グーを握って振り下ろし、ガンと大きな音がして、エンジンが止まった。

「おい、嘘だろ」

 俺はキーを必死に回し、ええいままよとアクセルを踏み込むが、これがまたうんともすんとも言わない。

 ふて腐れてるのがいつもの態度だとしたら、今回のこれはそう、ご臨終。

「おーい、嘘だろ!」

 その引き金を引いたのは他ならぬ自分だが、俺は神を呪った。

「こんなだだっ広い、ガソリンスタンドなんて影も形も見えない場所で、こんな」

 冗談じゃない。俺はすぐさま保険の会社に電話する。

「は?なに!?半日かかる!?アホなこというなって、そんな、おい、もしもし、もしもーし!」

 対応は最悪だった。

 いったいどれだけ保険料をケチればあんな対応をする会社にぶち当たるのか。

「おいおい、嘘だろ」

 三度、つぶやく。

 つまりはもう、これで、こんな場所で半日過ごさなければならなくなった。

 こんな車は捨てて歩くにしたってこんなド田舎で次に人工物とお目見えできるのはさて、どれくらいあとか。出来ればそれが自販機程度には文明的であってくれれば助かるものだが。

「なんて日だ」

 まったくもって。

 運の悪さもここに極まれりだ。


 半日の間蒸しぶろ状態の密室で過ごすか、それともいつどこにたどり着くかも分からないウォーキングに出るか、悩んだ末に歩いて町を目指すことにした。

 ただ待っているより歩いてる方が気が紛れるだろうというのが主な理由だった。

 だったのだが。

「チキショウ、なんで俺は大人しく待っとかなかったんだ」

 後悔したって後の祭り。

 歩けども歩けども人の気配なんてこれっぽっちの存在しない。

 どこにたどり着く気配もなく、ただひたすらに喉が渇くだけだ。

 短絡的な行動をとった自分が恨めしい。

 戻ろうか、と、考え踵を返すが、すぐにバカバカしくなる。

 あの距離をもう一度歩いて車に戻ったところで、なにをしろというのか。大人しく座って待ってるのならここでもできる。

 俺はスーツが汚れるのも構わずにその場にへたり込んだ。

「はー」

 嫌になる。

 うだつの上がらない人生。考えなしに動く癖。要領の悪さ。

「チクショウ」

 この口癖も、全部、全部。

「車でも通らねえかな」

 言っててアホか、と思う。

 こんな田舎の道を誰が好き好んで通るというのか。

 いや、そもそも。

 今まで生きて来て、そういう類の都合のいい話、起きた試しが......。

「ありゃ?」

 なかった、のだが、どういうわけか遠くの方に車が見えた。

「とうとう俺にも運が回って来たか」

 俺は両手を挙げてぶんぶん振り回し、必死に困っているとアピールする。

 車は、きちんと俺の方に向かってきてくれた。


「へー、こんなところで車が故障?そいつは災難だったな」

 俺を助けてくれた人はたいそう端正な顔をした男で、年齢は俺と同じくらいか少し下くらいに見えた。

 だが、その自信に溢れた顔つきと助けて貰ったという後ろめたさから、俺は助手席で縮こまっていることしかできずに、敬語と愛想笑いで相づちを打ち続ける。

「そうなんですよ。こりゃあにっちもさっちもいかんと言ったところにあなたの車がたまたま通りかかって。ほんと、助かりました」

「はっはっは。そうかしこまるなよ。こっちもどうせ町に行くところだったんだ。乗客が一人増えたところで、車の負担も俺の負担もそうは変わりはしないさ。どころか、俺は話し相手が出来てうれしいくらいだ」

「それくらいなら、いくらでも」

 その豪快な笑い声と、堅苦しさを感じさせない自由人らしい気質に、俺はすぐに好感を持った。

 同時に、こういう男に生まれたかったなぁ、という劣等感のようなものにも苛まれるが、それは些細な問題だ。

「でも最初は随分驚いたもんだ。スーツ姿の人間が、あんなところで一人腕をぶんぶん振り回してるんだから。なにごとかと思った」

「ははは、自分も無我夢中で」

 これを逃したら終わりだと思って恥も外聞もかなぐり捨てていたのだ。

 結果は、こうして助かったのでよしとしよう。

 それから、俺はその男と名前やらなんやらの軽い自己紹介をする運びとなった。

「この辺りの人なんですか?」

「いいや。俺も外様さ。旅をしててね。日本全国を回ってる。こいつと一緒にな」

 そういってハンドルを叩く。

「旅?」

 それも全国を、だ。

 自由人の雰囲気があると思ったが、まさか現代にそんな人間がいるとは。

「……失礼ですが仕事はなにを?」

「さてね。決まった仕事なんてないさ。金が無くなったらその土地で適当に稼ぐ。色々やったよ。漁師に農業、宿の掃除人に、お偉いさんの使いっぱしり。気楽なもんさ」

 俺は酷く驚いた。その内容に、というよりも、そのことを何の気負いもなく、かけらも恥じている様子もなく言うものだったからだ。

「不安とか、ないんですか?」

「ないね。ねえ兄さん、野良猫の寿命ってどれくらいか知ってるかい?」

「いいえ、猫にはそれほど詳しくないので」

「いいかい。野良猫ってのは家で飼われてる猫の、その四分の一くらいしか生きられない。外の環境ってのは過酷なもんだからさ。けど、代わりに自由がある。完全なる、自由だ」

 そこには憧憬の色があった。

「そこ行くと、俺なんてただ人間ってだけで、こんな野良猫みたいな生活をしてたって命はそこまで短くない。この国で生きる人間の平均寿命の四分の一なんてとっくに超えちまってる。なら、だ。自由を愛する以上、俺は自分のここから先を、もうけものだと思って生きることにしてるのさ。それなら、惜しいなんて思わないもんだ」

 町にたどり着いて、男は言った。ちょっと一杯、付き合ってくれと。

 俺は話の続きに興味があったので、酒の席を共にすることにした。

「町から町を回って、金が無くなればそれなりに仕事をして、時には宿をとって眠って、時には車の中で眠る。それは、俺にとって愛すべきことなんだよ。こんな風に、酒を飲むことも含めてな」

 そう言って、俺にビールのジョッキを向ける。

 俺はなんとも言えない気持ちのままで、グラスを合わせた。

「はぁ、なんとも。自分には、できそうもありません」

「それでいいのさ。それが正常だ」

 男はグラスを一気に空にしてしまった。俺は強くもないので、ちびちびとアルコールを摂取していく。

「いいかい。普通の人生なんて無いというやつがいる。だが、普通の人生なんてものは無くとも普通の選択ってのはいつだってあるもんだ。進学、就職、結婚、持ち物一つとっても、普通の選択は、ある。なら、それが普通の人生さ」

 関心こそすれ、俺の目には憧憬など浮かばなかったことだろう。

 それが、この男と俺の差、なのだ。

「俺のように、逸脱したい奴はすればいい。どうあったって、野良猫よりは長生きできるんだ。それで、良しとするさ」

 それが男との最初の出会いだった。

 

「お前はいつまでも成長しないな」

「はぁ、すみません」

「そんなんだから同期の奴に先を越されるんだ!」

 翌日に会社に戻ってみれば、俺には説教が待っていた。

「聞いてるのか、あぁ?」

「はい、勿論です」

 こうして上司の恫喝と周囲の嘲笑に身を晒されていると、思い出すのはあの男との酒の席での話だ。

 自由で誰の目もはばからず、そして世間とは隔絶している自身には何の負い目も感じない。そんな生き方を羨ましいと心底思う。

「分かったな!処分は追って伝えることになる。さっさと仕事に戻れ!」

「はい」

 そして待っているのはつまらない仕事の山だ。

 俺は自分のデスクに戻ってため息を漏らす。

 いつまでこんなことが続くんだろうか?


「ふーん。それが今日やけに落ち込んでた理由かい?」

「ああ」

「は、そうかい。自由人ねぇ」

 俺はちびちびとグラスを傾けながら、同僚にその男のことを話していた。

「そいつは羨ましい限りだ」

「お前ならやれるんじゃないか?」

「買い被るなよ。俺にだって、ま、無理さ」

 そうだろうか、と疑問に思う。

 こいつは同僚の中で唯一自分と同じくらいやる気がない奴だ。

 適当に、要領よくサボるし仕事もする、そんな誰もが鼻をつまんで遠巻きにするような。

 そんな男だからこそ、明日にでも常識から逸脱したように辞表を提出して自由な旅に出てもおかしくないではないか。

 だが、滅多に見ないほど真剣な顔で否定されてしまった。

「おいおい、信用してないな。俺はね、こう見えても絶対にそういう選択はできない男さ。口や態度ではどうしてたってね、最後にはあら不思議、型からは少しもはみ出ちゃあいない。いわば、俺のこれは、生き方であって生き様じゃあ無いんだよ」

「俺には違いなんて分からない」

「俺に言わせりゃ全然違うね。ま、俺のはファッションみたいなもんだと思えばいいさ。それで」

 一息酒を飲んで、俺に問う。

「お前はなんで落ち込んでるんだ?気前のいい兄さんに助けて貰った。それで終わればいい話だ。だが、お前はなにやら思うところでもあるらしい」

「そうだな」

 自分の中のことを整理すように俺は話す。

「器の大きさとか、俺の小ささとか、恥知らずな部分とか、そんな思いはたくさんある。だが、一つ。これに尽きるか」

 俺は顔を伏せることしかできなかった。

「俺は、一生あんな風にはなれない」


 それから時は流れて、そんな男と出会った事など、多忙の向こう側に押し込めなくてはいけないほどの年月が過ぎた。

 しかし、俺はその男と、意外な場所で再会することとなる。

「おい、今日の契約、もしとってこれなければクビにしてやるからな!」

 そんな風に脅しつけられて出向いた会社でのことだった。

「ですから、まずアポをとっていただいてからでないと」

「いえ、そこをなんとか」

 もとより無理難題を押し付けられたようなもので、成果は芳しくない、どころか門前払いの様相でさえあった。

(こりゃあダメだな)

 そう結論付けるのが遅すぎたくらいだ。

 どうせ同じ結果なら下げた頭も浮かべた愛想笑いも全部無駄な労力だ。

 俺は会社でのさらなる肩身の狭さと上司の薄っぺらい説教を覚悟して、では仕方なしと担当者に背を向け。

「あ、お待ちください」

 その背中に声を掛けられた。

「今連絡が入りました。社長がお会いになるそうです」

「は?」


 俺は通された部屋で、混乱のただなかにいた。

 社長が、何故?

 なにやら普通に考えて、ロクなことにならない気がする。

 自分の人生はずっとそうだった。

「チクショウ」

 不安を抱えてその社長の来訪を待っていると冷や汗が噴き出してくる。

 手に、脇に、嫌な感じだ。

 そしてついにその時が来てしまった。

 コンコンと、部屋のドアがノックされたのだ。

 俺は心臓が縮み上がる思いで飛び上がって、開いていくドアを注視した。

 どのような御方が、と思って入ってきた人物を見ると、その精悍な顔つきには見覚えがあった。

「あ、あんたは」

「やあ」

 それはあの日、俺を助けてくれた自由人だった。

 

「済まないが彼と仕事の話があるのでね。外に出てくるよ」

 それだけ会社に告げて、俺を連れ添って向かった先は、あの日に一緒に酒を飲んだのと同じような店だった。

「済まないね。抜け出すダシに使うような真似をして」

「い、いえ」

 最初は助けられたという立場から、今度は社会的立場から、俺はこの男の前では恐縮しっぱなしだ。

「いや、なに。会社であたふたとしているあんたを見かけてね。懐かしい気持ちになって誘ってしまったんだ。丁度、仕事を切り上げる言い訳が欲しかった所だったしね」

「はぁ」

 あの日と同じように、ウェイターに安い酒を注文し、男は俺に向き直った。

「君の会社の方には私から連絡しておいた。今日の仕事は終わりだ。気兼ねなく飲めばいい」

「では、お言葉に甘えまして」

 なぜこんなことになっているのか、俺はキツネにつままれたような気分だった。

「社長、だったんですね」

「だった、というのは少し違うな。あの時は、俺は本当に自由人だった。そうだな、なら俺の生い立ちから話すとしよう」

 

 俺はある会社の社長の、その二番目の息子として生まれた。ある会社ってのは、さっきの会社のことだがね。

 そこから先は、まあよくある話さ。俺の兄貴は出来が良くて、俺はこの通りの人間だ。いや、昔は今より無責任で奔放だった。優等生だった兄に、成績も素行も悪かった俺。これが兄弟逆だったらもう少し話は複雑だったかも知れないが、そうはならなかった。

 会社は兄貴を正式に後継者としていたし、勿論親父もそのつもりだった。

 俺が自由人なんてやってたのは生来の性質もあっただろうが、その環境も大いに関係していた。

 俺という存在に興味なんてないくせに、比較ばかりは一丁前にしやがる両親。自分の地位を奪われるのが怖かったのか、外では人格者面してたのに俺をいびることには余念のなかった兄貴。俺を個人としてではなく、あの会社の社長の息子という側面でしか見ない周囲の人間。上等な教育も、高価な調度品も、みーんな俺の肌には合わなかった。

 だから、俺はあの家を勘当同然で出た。反動、反発。親父に言わせりゃ、ま、下らないことでさ。

 そして、俺は自由になった。家の援助なんて当然無かったが、かえってそれが良かった。

 俺は俺のために稼いで、俺を頼りに生きることができたからさ。あの家に居た時には感じられなかった充実感があった。

 あんたに会ったのもそんな生活のただなかだったな。

 だが、事態は急変した。

 兄貴が事故で死んじまったんだ。

 あっさりしたもんだったよ。

 どれだけ立派に生きてきてもさ。

 それでもって、困ったことに、兄貴の死がよほどショックだったのか、親父の方もまいっちまった。

 体調を崩しがちになっただけじゃなく、精神的にも不安定になってな、そこから先はまぁ、転がり落ちるように先は長くなかった。

 しかもだ、なにをトチ狂ったのか、最後の最後、俺を後継者に指名しやがったのさ。

 弁護士のお墨付きの、正式な遺書でだ。

 もちろん俺は放棄しようとした。だが、性格の悪いことに、俺がその権利を放棄すれば、親父の会社の人間が全員路頭に迷うような内容が、遺書には記してあった。

 酷い話だ。

 俺への嫌がらせだとしたら、これはお見事としか言いようがないね。

 俺は、最後の最後に親父に負けたんだ。


「それで、こうしてスーツ姿で社長なんてやってる訳さ」

 俺は言葉が見つからなかった。男は続ける。

「だが、不思議なことに親父や兄貴がやってる時より会社の経営はうまくいってるらしい。周りは血だの遺伝だの言うが、断じて違うね。俺のこれまでの経験全てが、俺の助けになっているんだ」

 最も、いつ過労で倒れるか分からないほど働かされているがね、と男は付け加えた。

「こうしてあんたを誘ったのは、昔の俺を知っている奴とあの時と同じように話したかったからさ。今がどんなにうまくやれてても、俺にはあっちの方が性に合っていた。それは間違いない」

 あの時よりも窮屈そうに酒を飲んで、天を仰ぐ。

「自分を取り繕うこともせずに安酒を飲む。それが、今の俺にとっては最高の息抜きさ。そうは、叶わないがね」

 

 別れ際に、あんたの会社との話は前向きに考えとくよ、と言われた。

 付き合ってくれた礼だとも。

 そんなに適当でいいのかとも思ったが、それこそが彼の成功の秘訣なのだろうとも、同時に思うのだった。


「へー、例の話の男がねえ」

 珍しく上司に褒められるようなことをした俺に興味を持ったのか、隣席の同僚にまた話を聞かれた。

 俺も、丁度いいと思って応じたのだ。

「俺は、またも羨ましかった」

 大した出世もできないであろう身としては、これまた失礼な話かも知れないが俺は羨ましかった。

 膨大な遺産と共に、大会社の社長の座。その上成功と来ている。

 嫉妬する自分に罪などない、はずだ。

「そりゃあまあそうだろう。大企業の社長様。羨ましがらない方が無理だ」

 だが、本当にそうだろうか?

「……俺は、あの男の自由な人生に憧れたし、羨ましいと思った」

「そうだったな。それが?」

「今度は、真逆の人生を彼は謳歌している。そしてそれも羨ましいと思うんだ、俺は」

「だから、それがどうしたって言うんだ」

「俺は、自分という人間のあまりの小ささに絶望しているんだよ」

「はぁ?」

 理解されなかった。

 俺はあまりの気恥ずかしさからそれ以上の説明はせずに、小さな声で一つ呟いた。

「チクショウ」


 それからも本当に稀にだが、その男と飲むことになった。

 だが、それも時間を重ねるごとに少なくなり、最終的にはぱったりと途絶えることになる。

 そしてその顔を久々に見ることになったのは、とある新聞記事でのことだった。

 俺はいつものように新聞を広げて、目を疑う。

(大企業社長、過労死)

 その記事を端から端まで読んだが、読んだ先から滑り落ちるような感覚を俺は覚えた。

 あの男が死んだのか。

 それは現実味無く俺に襲い掛かり、まるで魂を抜き取られたような気分になった。

 あの男が、死んだ。


 俺はやはり現実味のないまま葬儀に出席した。

 俺があれだけ憧れ、嫉妬した男が、若くして死んだのだ。

 その顔はどれだけ年おいても、遺体になっても端正な顔つきをしていて、俺はなんとも言えない気持ちになった。

「あの」

 葬儀の一通りが終わり、それでもなお席を立てない俺に一人の女性が話しかけてくる。

 俺の名前が呼ばれ、はい、それは私の名前ですと応じると、彼女は俺を別室に案内した。

「社長は生前遺書を多くしたためていました」

 社長の秘書だと名乗る女性はそう説明した。

 彼の生い立ちを思えば、さもありなんだ。

「その中の一つに、あなた宛ての物がありました」

「はぁ」

「こちらを」

 手渡された箱を開けてみると、そこには酒が一本とグラスが二つ入っていた。

 手紙なんてものは無くて、ただ、それだけ。

「失礼ですが、社長とはどういったご関係で?」

 その奇妙とは言えないまでも特徴的な送りものに興味を惹かれたのか、そう聞かれた。

 俺はただ、飲み友達ですよ、とだけ答えた。


「よう」

 葬儀の帰りに、隣席の同僚と出くわした。

 いや、彼が俺を待っていたのか。

「なぁ、飲みに行こうぜ。お前のおごりで」

「そうだな。今日は、そうしよう」

「そうしろそうしろ」

「なぁ」

「ん?」

「俺にはもう、何が正しくて正しくないのか、分からなくなっちまったよ」

 俺にとっては、理想や憧れをあれだけ抱いた男が、長く生きることもできなかった。

 自由気ままに生きていたほうが幸福で長生きできたであろうことは、皮肉としか言いようがない。

 同僚は、そんな俺を慰めるように肩を叩いて言うのだった。

「そうだな。俺にも分からねえ。けどな、なにが幸せで何が貧乏くじなのか、それは本当に最後の最後まで、分からないもんだぜ」

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野良猫の寿命 エル @El_haieck

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