第4話 ひき逃げ
りえが、中学生の頃のことであった。
当時高校生だった、りえは、いつもと同じように、田舎道を通学していた。
彼女の家は、何とも田舎のあぜ道のようなところを舗装しただけというような道が、結構、いろいろなところにあるという、
「一種の田舎」
といってもいいだろう。
当然、最初から交通の要衝のように、車ありきの道ではなかったので、車一台が、徐行してやっと離合できるかどうかというような道だったのだ。
そんな道は、都会のように、車が慢性的に渋滞を繰り返しているわけではなく、
「都会と都会を結ぶ、幹線道路が混んだ時のために、近道として利用されることが多い」
というところであった。
だから、本来であれば、そんなに混むことはないのだ。
実際に混む可能性があるとすれば、
「朝のラッシュ時くらいであろうか、夕方は、皆退勤の時間がバラバラということで、混むとしても、曜日によるということではないだろうか?」
といえるのだった。
そんな道を、いつも自転車で通学していた、りえだったのだが、いつもは遅くなることもなく、それこそ、
「冬でもなければ、完全に日が暮れた、夜の静寂の中を走り抜ける」
ということはなかったに違いない。
当然、あぜ道を舗装して作った道ということで、街灯が、まともについているわけでもなく、夜になると、半分が、
「暗闇」
ということで、自転車になど乗っていると、それだけで危ないということになるのだった。
というのも、その道は、近道ということで、たいていの車は飛ばしてくる。
しかも、夜ということになれば、離合してくる車も、ヘッドライトがついているので、分かりやすいと思い込んでの運転になるだろう。
だが、それは、
「歩行者や、自転車に乗っている人はほとんどいない」
という勝手な思い込みによるものであった。
もし、人を引っ掛けたとしても、
「動物でも轢いてしまったのではないか?」
ということで、ほとんど、意識をしないといっても過言ではないだろう。
しかも、暗い時間に走っているのは、
「早く帰りつきたい」
という意志が強く働いているというのは、分かり切ったことに違いなかった。
それだけ、スピードを出していると、視界が狭くなってくる。
というのは、
「スピードを出すということは、それだけ焦点が前にあるということで、その理屈としては、自分が見えている距離というものが、実際には、目の前に見えることも、実際には距離があるのであり、そのせいで、正面に意識が集中するから、道の端の方にまで意識がなかった」
といってもいいだろう。
まっすぐに見える道でも、スピードを出していると、横の視界が狭まるので、スピード自体の錯覚から、
「実にその道が、狭く感じられる」
ということであった。
「その道を人や自転車がいるなど、思いもしなかった」
とほとんどの人が感じないだろう。
極端にいえば、
「何かをはねた衝撃を感じた時。
「しまった」
と、とっさに思うことであろうが、その次の瞬間、
「どうしてここに?」
と考えるのだが、その思いというのは、当然、
「人間」
ということを考えるからであろう。
だが、その次の瞬間には、
「こんなところを人が歩いているなんて」
と感じる。
それは、
「なるべく、自分の都合の悪い考え方はしたくない」
という発想からくるもので。それを、
「都合よく解釈している」
と感じるのは間違いないだろう。
しかし。実際に降りて、確認するのは怖い。
「もし、そこに転がっているのが、人間の死体だったら?」
とは、どうしても、一度は考えているだろう。
しかし。それが、
「人間の死体」
ということであったら。
「俺はどうなるんだ?」
ということを考える。
すると、発想はそっちにばかり行くことになるのだ。
本当に事故を起こしたということであり、その運転手が気の弱い人であれば、どうなるだろう?
まずは、自分が、車から降りて、どのような行動をとるか、シミュレーションしてみたといってもいいだろう。
「その場面を誰かに見られていたとすればどうだろう?」
と考える。
そうすれば、もし、最悪の場合。
つまりは、人を轢いてしまったとして、その後、自分が、
「ひき逃げ」
というものをしたとすれば、もし、警察の捜査が及んで、自分に事情聴取が回ってきたとすれば、
「どんなことを言ったとしても、それは虚偽の証言であり、すべてが言い訳にしなからない」
ということになるだろう。
だから、その時点で、大方、
「ひき逃げ犯人」
として、連行され、逮捕されるということになるだろう。
この場面を見られていなかったとすれば、いくらでも、言い訳はできるだろう。
ただし、それも後ろめたいという思いを打ち消して、
「堂々としていないと、成立するもものではない」
ということになるのであろう。
そう思うと、
「車を降りて確認するのが怖いと思っているくらいの小心者なのだから、結局、堂々としているなどということは、無理なことだといえるに違いない」
といえるだろう。
そんなことを考えていると。
「一番いいのは、その場から立ち去ることだろう」
という、最悪な形の答えを出してしまったということを考えると、今度は、それ以外のことを思い浮かべることができなくなってしまうのだ。
その心としては、
「そもそも、急いでいるという一心で、そこに誰もいないという根拠のない考えだということを分かったうえで、とにかく、思い込みの塊のようになってしまったことで、柔軟に考えることができなくなってしまう」
と考えると、
「目の前のことだけを考えればいい」
ということになり、どんどんと狭まっていく視野が、判断力をマヒさせ、決断を、誤った方向に進ませるという、
「何も考えずに、パッと思いついたことを答え」
と考えるようになるのだった、
その答えが見つかるというのも、結局は、
「目の前のことを、すべての答えだ」
としか考えられないという結果が、結論になってしまうということでしかないというものであった。
そんな、小心者が起こしたひき逃げなどは、犯人が、もし、その考えが、一番の正解だと思ったとしても、それは、原因から見えている結果を見たというわけではなく、
「その場で考えられる問題」
というものが、
「無限に存在する可能性というものだ」
と考えられるのであれば、答えは、少し複雑だったことだろう。
とにかく、
「その場から逃れたい一心」
ということになると、
「考えることが嫌だ」
という思いから、小心者であればあるほど、
「理屈を急いで、自分の立場と組み合わせる」
ということが、
「都合のいい解釈だ」
ということになれば、それは、
「組み合わせると得られるかも知れない最良の方法を、都合よく思える答えで、勝手に解釈されてしまうと、求まりそうな答えが、あくまでも、
「正しい答え」
として認識されてしまうことになるだろう。
というのも、
「正しい答えではない」
という考えを一気に否定してしまうだろう。
しかし、冷静に考えるとすれば、最悪の考えが生まれたとしても、それは、
「やってはいけないこと」
ということでの、
「戒めに使える」
という程度の発想であって、
「結局、いかに答えを見つけるか?」
という思いと、
「見つかった答えを吟味して、最善の方法を思いつく」
というのは、その中に、幾度か分岐点があり、その都度、
「最善の方法」
というものを見つける必要がある。
「だけど、最善の方法というのは、すでに分かっているということではないか?」
と考えるが、ここでいう。
「最善の方法」
というのは、
「自分にとっての最善の方法」
ということで、その場においての、最善の行動というのが、本当の、
「最善の方法」
というものであって、
「自分にたいしてのものだ」
ということであれば、それは、
「最善の方法」
というわけではなく、
「最良の方法」
といってしかるべきといえるのではないか?
それを考えると、
「そもそも、最という言葉が使われているのだから、最ではない他の答えも存在していることになり、その答えがいくつなのか、そして、その詳細までが分かっているのかどうか?」
ということが分かり切っているわけではないと考えられるのだ。
「数が多ければ多いほど、その成立可能性は、薄い」
といえるのかも知れないが、
「真実は一つ」
というように思い込んでいる人は、それらの可能性を一つ一つ潰していって、最後には、残ったものが正しいとして、回答以外に存在しているものは、ゼロであって、決まったものだけが、百ということであれば、
「最初から答えは決まっていた」
ということであろう。
確かに人間というのは、
「何が正しいのか?」
ということを考え。最後にたどり着いたものを、最初から分かっていたかのように解釈することで、出てきた答えが、最初から分かっていたということで考えると、途中考えていたということを忘れてしまい、
「最初から結論は出ていた」
と感じることであろう。
これは、別に、
「ひき逃げに限ったことではない」
ともいえることで、
「人はそれを素直にできることから、フレーム問題も解決できたのだ」
といえるのではないだろうか?
ここで出てきた。
「フレーム問題」
というのは、ロボット開発において、
「一番の結界ではないか?」
と言われることであり、
「ロボット工学」
あるいは、
「ロボット開発において、問題になることとして、この、フレーム問題というのがあるのだ」
ということであった。
ロボットというのは、
「頭の中に、人工知能を持たせて、自分で判断しながら、行動できるロボットというのが、一種の最終形態だ」
といってもいいだろう。
人工知能というものは、なんでも判断できなければいけない。
最低でも、
「人間と同じか。それ以上」
ということになるのだが、その結界というのが、ロボットの解釈というものであった。
ロボットの人工知能も、人間の頭で作ったものだから、しょせんは、
「人間と同じレベル」
というのがその最高であり、
「ロボットにおいての、フレーム問題の解決は、人間と同じレベルということに対して。それ以上でもそれ以下でもない」
といえるに違いない。
ロボットにおいて、フレーム問題は、
「その時における無限に広がる可能性の中から、関係のあることだけを選びだして、どんどん狭めていくことで、答えにたどり着く」
ということであった。
しかし、無限というものが、たどり着く先は、
「限りなくゼロに近いもの」
という理屈にもあるように、どうして、そういう結果になるかというと、
「ゼロ以外の整数を、ゼロ以外の整数で割った場合に求まる答え」
というのは、
「限りなくゼロに近い、ゼロではないもの」
ということになり、
「フレーム問題」
のように、
「無限なものを割った場合」
ということで、出てきた公式として、
「無限というのは、何で割っても、無限しかない」
ということで、結局、無限に考えられるというものは、
「限りなくゼロに近いゼロ以外のもの」
ということと、
「何で割っても無限は無限でしかない」
という、一種の、
「極端な例」
とでもいえる。
「究極の答え」
というものが、無限には存在しているということである。
「無限からは何で割ったとしても無限にしかならないということは、公式で考えたとすると、逆算を考えてしまう」
ということになるのだが、その逆算というのは、
「無限に何を掛けても無限」
ということになり、その答えというものは。
「究極の答えとして、ロボットにおける人工知能を作り出すことは不可能なんだ」
という理屈であった。
しかし、そのフレーム問題というものを、人間は、行動するときに、ちゃんと判断できているのだ。
しかも、まったく意識することなく、まるで本能であるかのように人間であればできるのだ。
ということは、これから作り出すロボットというものは、
「人間という。一介の生き物から作られる」
ということであり、
「人間であったり、それ以外の動物というのは、神様が作った」
ということで、その結論は、
「人間というものが、素晴らしい」
ということになるのであろう。
しかも、その無意識というものが何かというと、
「本能」
という言葉の一言で片づけていいものだろうか?
と考えてしまうのだった。
それが、人間とロボットの間の、
「絶対的な結界」
だということになるのは、無理もないことであろうか?
りえは、そんな田舎道を、いつものように、自転車で走って家に帰っていた。
その時、
「怖い」
という感覚がいつものようにあったはずなのだが、いつも、怖いと思っていても仕方がないと感じていたからなのか、次第に、恐怖を感じなくなっていった。
恐怖を感じないといえばいいのか、恐怖が襲ってこないのだった」
恐怖は恐怖として感じるのだが、その感じ方が恐怖ではなく、慣れ切ってしまったことで、逆に、何かを感じることがあり、それが、自分の中で、
「虫の知らせ」
のようなものとなっているのだった。
その日も自転車をこぎながら、後ろが気になっていた。いつものように、そんなに車の数が多いわけではないのだが、車が少ないことで、安心するどころか、その日は、気持ち悪さを感じるのだった。
いつもの道は、一直線であった。昼間、その道を歩いていると、遠くの方に見えるスーパーを目指して歩いているのだが、近づいているはずなのに、まったく、近くにいるという感覚がない。
感覚というよりも、
「気配」
と言った方がいいのだろうか。
歩いているその道が、まるで、吸い込まれていくように思えるのだった。
「そのくせ、近づいているような気がしない」
というのは、どういうことなのか?
りえは、いつもそんなことを感じていたのだ。
そして、ある一定の場所までくると、
「あれ?」
と感じるのだった。
さっきまで、遠くの方にあったスーパーが、急に目の前に見えるようになると、
「これは錯覚だ」
と思うようになる。
「さっきまで、なかなか近づかなかったはずの道」
そして、
「今度は、目の前に迫って見えるスーパーが見える道」
どちらも錯覚のように思え、どちらも正しいように見える。
そして、どちらかが錯覚だという感覚になることはない。
こんな中途半端な状態こそ、錯覚の正体だと感じるようになっていたのだ。
途中から、急におかしな感覚になるのは、
「そこに結界というものがあるからだ」
と、りえは感じるようになった。
その結界を感じながら歩いていると、スーパーまでついた時、一気に疲れが噴き出すのだった。
最初はそこまで汗を掻いているつもりはなかったが、一気に噴き出した汗のために、身体のだるさがたまらなくなると思いきや、その汗が心地よく感じられ、そのきつさを感じないのが、
「疲れを感じさせるわけではないのかも知れない」
と感じるのだ。
疲れというのは、慣れがあるかどうかで変わってくる。毎日同じ道を同じように歩いていると、慣れてくることで安心感があるのだろう。
たとえその道が、危険な道であっても、
「いつも通っている道なのだから、恐怖を感じることはない」
という思いが、慣れから、安心感につながるというのか、ただ、考えてみると、これほど、
「危険極まりないものはない」
といえるだろう。
感覚が勝手に、自分の中で恐怖を呼び込み、その恐ろしさを、感じさせない。
それは徒歩の時だけではなく、自転車の時も同じだった。
もちろん、暗い道の対策も行っていた。肩からたすきのようなものを掛けて、それが、車のヘッドライトに照らされて、光るような、蛍光塗料を塗ったものだったのだ。
暗い時間帯であれば当たり前のこと、その日は、夕方の時間で、季節的には、秋だった。
日差しは背中から当たっているので、東に向かって走っている。
これは、りえが方向音痴だということも手伝ってか、気が付けば、どっちに向かっているか、分からないという錯覚に陥る。
まるで、ツバメの子供のように、
「最初に見たものを、親だと思う」
という感覚に似ているというのか。
「初めてこの道を通った時に、感じた感覚が、自分にとっての、その道の光景と同時に、方角として認識されてしまった」
ということである。
「方角を違って覚えるくらいは、別に問題はない」
と思っていた。
別に毎日通っているところだから、意識の中で違っているだけで、
「そんなものだ」
と考えれば、困るということはない。
だから、気にすることもなく、自分が感じているだけのその道を、毎日通うだけだったのだ。
そんなことを考えていると、
「道というのは、そんなに、意識を深く持つ必要はない」
と感じた。
特にここのように、まっすぐに続いている道だから、余計に、必要以上のことを考える必要もなく、変に考えてしまうと、却って恐怖が募ってくるものだと思っていた。
背中から夕陽が当たっているということは、自分の影が足元から伸びているのが分かる。そして、それを意識して見ていると、
「今日の影はいつもに比べて長い」
と思うと、
「さらにまっすぐに伸びているその先ばかりを意識していたのだが、不意に自分の背中に、太陽の光を遮るものが、襲い掛かってきていることに気づいた」
といっても、後ろを振り向くわけにはいかない。バランスを崩して、却って、そっちの方が危ないというものだ。
その時、いつにない恐怖を感じた。
ここちよいはずの汗が、ゾッとするような寒気を感じさせるのだ。
「こんな思いを感じたことなどなかったはずだ」
とりえは感じたが、それが、
「恐怖というものだわ」
というのを思い出すまでに少し時間が掛かった。
というよりも、そもそも、その時に、時間が経つのに、ゆっくりであるということを分かり始めていた。
この思いは、以前にも感じたことがあったような気がしたが、それがいつだったのかまでは思い出せない。
ただ、その記憶がハッキリしないことで、
「初めて感じるはずなのに」
という、
「デジャブ現象」
というものを感じていたようだ。
自分が、この、
「デジャブ現象」
というものを感じるのは、その時が初めてだった。
だから、それからずっと、
「初めて、デジャブ現象というものをいつ感じたのか?」
ということをハッキリと思えているのだろう。
もし、自分が、
「ひき逃げをされた」
と最初に感じた時があったとすれば、それがこの時だったと感じるのではないだろうか?
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