第2話 フィクションの無限性
釘宮りえという女子中学生がいるのだが、彼女は、中学に入ってから、小説を書くようになった。
小学生の頃までは、
「自分が本を書くなどということは、想像もできなかった」
というのは、
「作文が大の苦手で、皆の書く文章を読んで。本当にうらやましいと感じた」
というほどであった。
小学生の作文というと、テーマは、日ごろの身近なことであり、漠然としているようだが、テーマとしては、ある程度絞られている。
それは、
「作文というものが、ノンフィクションだ」
ということだからだ。
実際に、これがフィクションであれば、そうもいかないといえるだろう。
「フィクション」
というのは、
「架空のお話」
というもので、
「ノンフィクション」
というのは、
「架空ではない、現実のお話」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「ノンフィクションというのは、作文のことである」
という定義づけをしている人がいたが、まさにその通りだといってもいい。
逆に、
「フィクションというのは、物語であり。創作としての架空の話」
といえるだろう。
だから、フィクションでテーマが決まっていたとしても、そのテーマは。本当に漠然としているもので、この場合の漠然というのは、
「いくらでも、発想が膨らむもの」
といってもよく、
「どの方向からでも、物語を作ることができる」
という意味での、柔軟性というものを感じさせるものが、テーマとなるといっても過言ではない。
だから、これは、勝手なりえの思い込みなのかも知れないが。
「ノンフィクションを書ける人は、フィクションも書くことができ。フィクションを書ける人は、ノンフィクションを書くことはできない」
と思っていた。
「できない」
というよりも、
「しない」
と言った方が正解なのかも知れない。
ただ、りえが考えているのは、
「あくまでも、小説というのは、フィクションであり、ノンフィクションということになると、それは作文なのだ」
と考えると、
「私は、フィクションを書きたいのだから、ノンフィクションが書ける書けないというのは、どうでもいいことで、意識することでもない」
と思っていた。
だから、
「どちらも書けるという人は、あまり自分はかかわりたくない」
という風に思うのだった。
りえが書きたいと思っている小説のジャンルとしては、
「ミステリー」
と、
「SF小説」
であった。
それぞれに、元々は、
「探偵小説」
あるいは、
「ゴシック小説であったり、元々のSF小説と呼ばれるジャンルから、の派生といってもいいだろう」
探偵小説の中には、種類があって、一つは、
「本格派探偵小説」
と呼ばれるものであった。
こちらは、
「トリックや謎解きが主の話で、それを探偵であったり、刑事が鮮やかに解決していく」
というものであった。
そして、もう一つが、
「変格派探偵小説」
というもので、定義としては、探偵小説と言われるものの、
「本格派探偵小説以外のもの」
ということであった。
となると、どういうものが、それにあたるのか?
というと、
「猟奇殺人」
であったり、
「異常性癖」
あるいは、
「耽美主義」
などという、一種のアウトローや、カミングアウト系というものも、それにあたるので、オカルト小説であったり、ゴシップ小説に近いものも、探偵小説に含まれれば、
「変格派探偵小説」
ということになるのだろう。
りえは、その中でも、
「本格派探偵小説」
の方を好んで書いていた。
だからといって、
「変格派」
の方を書かないというわけではない。
特に、
「オカルト系」
と言われる話を、小説としては、
「都市伝説系の話」
として描くことが多かった。
その村や街に、昔から伝わる伝説のようなものも書くのだが、それが、新たな都市伝説を生むというような形である。
本格派探偵小説などを描こうと考えていると、なかなかトリックなどというものを考えるのも大変であった。
正直、定型化されているようなトリックは、ほぼほぼ出尽くしているので、あとは、そのバリエーションでしかないのだ。
しかも、今の時代は、
「科学捜査」
というものが、行き届いてきたので、定型化されたトリックであっても、なかなか、使用することは、実際には不可能になってきた。
まずは、アリバイトリックなどである、
今は、至るところに防犯カメラがあり、カメラに映らずに、アリバイトリックを完成させることは、昔に比べても、難しいことになってきたのだ。
そして、もう一つは、
「顔のない死体のトリック」
あるいは、
「死体損壊トリック」
と呼ばれるものであった。
これに関しては、
「首なし死体」
であったり、
「特徴のある部分をめちゃくちゃに潰す」
と言ったことで、
「被害者が誰なのか分からない」
というものであった。
昔であれば、
「首を切り取って。手首を切断し、さらに、手術痕や、あざなどという特徴のあるところを傷つけて分からないようにすれば、被害者が誰か特定できないようにする」
ということであった。
この場合は、一つの、
「公式」
のようなものがあり、
「被害者と加害者が入れ替わる」
というものがあったのだ。
それが、
「死体損壊トリック」
というものであるが、今の時代には、これも通用しない。
指紋がなくとも、首がなくとも、
「DNA鑑定」
というものを行えば、かなりの確率で特定できるというものであろう。
それを考えると、トリックの柱と言われるいくつかのうちの2つまでもが、
「今の時代ではできないのではないか?」
ということになると、探偵小説と言われている、今でいう、
「ミステリー小説」
を書くのは、なかなか難しいといえるだろう。
ただ、そんな中でも、
「作者が、その書き方によって、読者をある程度欺くというような、話を書けないわけではない」
と言われる。
それがいわゆる、
「叙述トリック」
というものであり、それこそ、
「小説でしか、表現できないものだ」
といえるだろう。
そういう意味で、
「実際には、不可能ではないか?」
と言われる。トリックというか、殺人のやり方があった。
それは、どういうものかというと、
「交換殺人」
と呼ばれるものであった。
これは、どういう犯罪なのかというと、
「お互いに、相手が殺してほしい相手を、まるでたすきに掛けるかのように、交互に殺人を行うというもので、警察からすれば、容疑者には完全なアリバイがあることで、犯人を決めることができない」
という、一種の、
「完全犯罪」
というものを狙ったものだといってもいいだろう。
この、
「交換殺人」
というものは、実は、
「不可能ではないか?」
と思われる。
それは、この殺人を行うためには、心理的な面で、不可能だということになるのであった。
というのは、
「交換殺人というのは、まず、二つの殺人を、交互に行う必要があるということであった。しかも、その間を一定期間は開けなければいけない」
ということになる。
なぜなら、この二つの殺人を、
「連続殺人」
と思わせてはダメだからであった。
ということは、
「殺人の間隔をあける」
という必要と、もう一つは、
「犯行をまったく別の犯人であると思わせるために、特徴を変える必要がある」
ということだ。
そもそも、犯人は別々なので、そこは、意識する必要はないだろう。
ただ、この犯行計画を、一人の人が練ったのだとすると、その意識は強く持たなければいけないということであろう。
それぞれの殺人をいかに考えるかということであれば、
「まず、最初に犯行を犯す人は、第一の殺害目標に殺意を持っている、教唆犯に、完全なアリバイを作ってやる必要がある」
そして、犯罪が見事成立すると、今度は、
「相手に、自分の殺してほしい相手を殺してもらい、その間に、自分が完璧なアリバイを作っておく」
ということができれば、
「完全犯罪の成立」
ということになる。
ただ、これは、
「おっとどっこい、問屋が許さない」
ということになるのだ。
というのは、今の第一の犯行を犯した人の心理であるが、第二の犯行を行うはずの人間からすれば、普通なら、どこかで気づくはずである。
それが、
「自分に第二の犯行を、わざわざ危険を犯して行う必要などない」
ということであった。
というのは、
「自分の立場を考えるから」
ということで、その自分の立場というのは、
「第一の犯罪に限り、自分には、完璧なアリバイがあり、捜査線上で、自分は蚊帳の外なのだ」
ということである。
だから、今でも十分、完全犯罪なのだから、それを今度は、
「約束だから」
といって、律儀に犯行を行い。自ら、
「火中の栗」
というものを拾いにいくという、
「危険を犯す必要はない」
ということであった。
つまりは、もし、相手が、
「約束が違う」
といっても、相手はすでに殺人犯になっているわけだから。警察に対して圧倒的に不利であり、犯行を犯したということが分かってしまえば、いくら交換殺人の話をしたとしても、警察が捜査をしても、
「殺してほしい」
と思った人間には、絶対的なアリバイがあるので、
「もし、捕まってしまったのであれば、そのことを口にするかも知れないが、そうでなければ、安全であった」
つまりは、
「未解決事件として迷宮入り」
ということになれば、第一の犯行に関しては問題はない。
しかし、肝心の第二の殺人が行われないということは、第一の殺人の犯人にとっては、いかんともしがたいことだが、
「自分が、捕まってしまうというリスク」
を負ってまで。第二の犯行を行うかどうか、微妙なところであろう。
「もし第二のターゲットが生きていることで、自分の身が危ないなどということであれば、話は別だが、復讐ということであれば、計画がとん挫したということで、何とか自分の中で、納得いかないが、これも、警察に捕まることを思えば、しょうがないことであろう。
そんなことを犯行計画を練っている時に分かるというもので、
「交換殺人というのは、もろ刃の剣だ」
ということになれば、最初から計画をすることはないというものだ。
そういう意味で、
「興味を引く犯罪」
という意味で、
「架空のお話」
としてであれば、
「フィクション」
ということで、面白い話になるということは分かっているというものである。
つまり、
「小説ではありえるが、本当にはなかなかない」
というのは、
「ミステリーとして面白い」
ということであり、逆に、
「現実にはあるが、小説にはない」
というのは、
「小説にしても、面白くない」
ということから、小説にならないのだ。
それは、逆にいえば、
「ドキュメント」
として、
「ノンフィクション」
だということだ。
それだけ、
「おもしろい」
ということが分かり切っているということでは、楽しい話に違いはないが、実際に、りえには、
「自分が書くには、面白くない」
と思っているのだった。
これが、ミステリーということになると、どちらかというと、サスペンスか、ハードボイルドというような、
「ドラマになりそうな、映像化が可能で、映像化すれば、一定のファンが付きそうな話」
といってもいいだろう。
りあは、そういう話が嫌いだった。
言葉で説明するには難しいが、
「ノンフィクションというものは、何か、安易な気がする」
というものだった。
もっといえば、これが、
「小説と、シナリオの違い」
とでもいえばいいのか、小説というものと、シナリオというもの、基本的には、
「違うもの」
といってもいいだろう。
小説は、
「読ませるもの」
というのは、誰もが思う認識で、映像に頼らずに、読者の自由な想像で、小説を書きあげるというものであった。
しかし、シナリオというのは逆に、
「映像化するために、いろいろな部門の中の一つ」
といえる、
つまり、小説が、一人で製作という意味で、完結するものだが、シナリオは、映像作品になるがゆえに、俳優から監督、その他のスタッフと一緒になって、製作に携わる。要するに、
「映像化のたねに、一部というのが、シナリオだ」
ということだ。
ということになると、作品を作るうえで、それぞれの役割分担があり、
「邪魔しないように、気を遣って制作する」
というのがシナリオだった。
それぞれの領域を冒すことなく、自分の役割をしっかりと示すというのは当たり前のことであり、
「俳優や監督というのも、それぞれにプライドがあるので、それを踏みにじらないようにしないと、俳優は、
「演技ができない」
と言い出すに違いなかった。
俳優にしても、監督にしても、
「一筋縄ではいかない」
という人が多い。
それは、それだけ、
「自分の仕事にプライドを持ってやっているか?」
ということであり、それは、シナリオライターにしても、同じなのだが、一番の違いは、
「俳優や監督が、表に出るような仕事であるのに対し、脚本家というのは、裏方の仕事だ」
ということになるだろう。
俳優というのは、
「その人が演じなければ、芝居にならない」
というのは当たり前で、最終的な視聴者は、
「自分の贔屓の俳優を見ている」
という人も多いだろう。
監督にしても同じで、映画にしても、
「あの監督がメガホンを取っているのだから、見に行こう」
と、お金を払ってでも見に行くということが当たり前といえるであろう。
しかし、脚本家は、そうもいかない。
ただ、一時期、テレビドラマなどで、
「トレンディドラマブーム」
というのがあった時は、シナリオライターが注目され、
「〇〇という作品を書いたあの脚本家の作品」
ということで、ドラマのでき自体を、
「脚本家」
というものの力によるものだということで、もてはやされた時期もあった。
だが、それも、数年しか続かなかった。
そもそも俳優も、
「トレンディドラマ」
などでは、男優も女優も、ほぼ、毎回主役は決まっていて。
「トレンディドラマの女王」
などと言われていた人もいたくらいだった。
ただ、脚本というのは、小説とは違って、
「すべてを描く」
ということではない。
脚本というのは、ある意味、
「台本」
というものであって、それが一種のテキストということになり、それを元に、監督が演出を行い、俳優がそれを演じるということになる。
つまり、
「あまりすべてにおいて書いてしまうと、監督や俳優の、独自性であったり、個性というものが奪われて、いいところが発揮できない」
ということになる。
テキストというのは、
「学校などの授業や講義で使われるもので、それを元に、カリキュラムが決められ、それの通りに教師が生徒に対して教える」
という意味で、カリキュラムを考える教育委員会や、文科省が、
「監督」
という役割であり、授業で、生徒に教える役割が、
「俳優」
というものであろう、
あくまでも、テキストは、カリキュラムを決めて、授業に役立てるための指針でしかなく、最終的には、先生が生徒に教えるという意味で、
「俳優が演技をして、視聴者を楽しませる」
という意味では、脚本というのも、
「指針のようなものだ」
といってもいいだろう。
ただ、物語ももとになる部分ということで、テキストよりも、暗しい必要はあるというものだった。
映像作品を作るうえで、
「原作」
ということを考えると、最近では、
「人気漫画」
というものが多かったりする。
昔であれば、基本は、有名小説家の作品だったが、トレンディドラマのあたりから、脚本家オリジナルというものが多くなり、次第に、マンガが多くなってきたというのが、時系列的な流れだったのだろう。
実際に、脚本家が、
「原作ありきで、脚本として起こす」
というのと、
「脚本家のオリジナル作品」
というのとのどちらが難しいのか?
ということである。
普通に考えれば、
「原作があるのであれば、それをそのまま脚本として仕上げればいいだけで、オリジナルともなれば、ストーリーから何から独自で考えなければいけないので。大変だろうな」
と思うことだろう。
しかし、実際にはそうでもないようだ。
「そのまま、原作を、脚本として起こす」
ということは、聞こえとすれば、
「原作があるのだから、楽じゃないか?」
と感じるが、実際にはそうではない、
前述のように、そもそも。
「小説と、脚本では、かなり違う」
ということなのだ。
原作は、基本的に、読者の想像力を掻き立てるように、できるだけ表現を組み込まなければいけない。
しかし、シナリオになると、
「中にはアドリブが必要なところもある」
というくらいに、柔軟性を重視した形でなければ、堅苦しいものであれば、監督も俳優も個性を生かせない。
もちろん、
「脚本家に、個性は必要ない」
などとは言えないが、
「できるだけの柔軟性によって、どこか、無限の可能性を秘めているかのようにしておく必要がある」
ということだ。
つまり、無限の可能性というのは、
「車のハンドルなどでいうところの、遊びの部分」
ということであり。それがないと、いざという時に、力が入らず、事故を引き起こしてしまうということと似ていると思うのだった。
そういう意味で、
「小説家のオリジナリティ」
というのも、無限を感じさせるが、脚本は、それを演出するもの、さらには、演技をして、視聴者を楽しませるという、
「エンターテイメントを、皆で作り上げる芸能」
というのが、
「ドラマ」
であったり、
「映画」
という、
「映像作品」
ということになり、それぞれの役割のところで、
「無限の可能性を秘めているものを、邪魔することはできない」
ということになるのではないだろうか?
それは、
「エンターテイメント」
そして、
「フィクション」
というものの、
「無限性」
といってもいいのではないだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます