都合のいい無限理論

森本 晃次

第1話 限りなく近い

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年10月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


 世の中には、無限と思われること、限界があると思われること、それぞれにたくさんあることだろう、

 ただ、普通の発想をしていれば、たいていの場合は、

「限界がある」

 と考える人が多いと思われる。

 限界を感じることで、

「自分の人生に言い訳をしよう」

 と思っている人、同じような意味で、

「限界を感じている方が、もし、自分が達成できなかった時は、限界があるということで、自分で納得ができるからだ」

 と思えるのかも知れない。

 少なくとも、限界があるものの方が圧倒的に多いということは、理屈が示しているような気がする。

 例えば、

「命に限界というものがなかった場合に、どうなるだろう?」

 もちろん、生まれてくるというのは、普通にあると考える場合である。

 これは、一種の、

「不老不死」

 という考え方で、昔、中国などの物語で、

「不老不死」

 というものを考える物語があった。

「西遊記」

 のように、

「徳のある坊主の肉を食らえば、不老不死になれる」

 というような話があったりしたではないか。

 ただ、不老不死という話は、そんなにいいものではない。

 というのも、これは、不老不死ではないが、日本のおとぎ話に出てきた、

「浦島太郎」

 の話になぞらえることができるといってもいいだろう。

 浦島太郎は、助けたカメの背中に乗って竜宮城にやってきて、数日で、陸が恋しくなり、寂しさから、名残惜しいと思ったが、地上に帰っていった。その時、陸では、数百年が経っていて、自分が知っている人は皆死んでしまっているようで、まったく違う光景が自分の村で展開されていた。

 それを見た時、浦島太郎は、失念から、

「開けてはいけない」

 と言われた玉手箱を開けてしまった。

 それで、結局、出てきた白い煙を浴びて、おじいさんになってしまった。

 という話であった。

 この物語は、

「戻ってきたところが、自分の村であるにも関わらず、知っている人が誰もいなかった」

 ということでの失望が、まず大きな問題だったのだ。

 玉手箱を開けると、おじいさんになったということだが、ここに何の意味があるというのか。

 なるほど、年を取って、自然と死んでいくのであれば、少なくとも、長い間、孤独で苦しむことはない。

 という風に考えればいいのだろうが、実は、ここに、宗教的な発想が含まれているとすればどうだろう?

 御伽草子は、室町時代に書かれたものだというが、ひょっとすると、それ以前にキリスト教の影響を受けるか何かして、その教えを書いた話なのかも知れない。

 実際には、もっと昔にキリスト教は伝来していて、完全な国家機密のようなことで、書物として残っていないから、

「フランシスコザビエル」

 という宣教師が最初だということになるのだろう。

 当時の日本であれば、考えられなくもない、日本は、キリスト教というよりも、海外貿易に、金儲けを掛けていたのだから、キリスト教信者を利用するのは当たり前だ。

 そう考えると、キリスト教というものが、そぞれの土地で、独自に発達していて、それを知られたくないということをしていたとすれば、室町時代にキリスト教が知られていたとしても無理はないだろう。

 キリスト教は、

「細川ガラシャ」

 の話にもあるように、

「自殺は禁止」

 ということになっている、

 だから、浦島太郎も、自殺になるような、玉手箱から出てきたものを、

「毒ガスのようなものだ」

 ということにすると、都合が悪かった。

 だから、

「年を取って、すぐに死んでしまう」

 ということにするという、苦肉の策が考えられたのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「浦島太郎という話は、宗教がらみであり、さらに、土地でそれぞれ、機密にしていることを守るために、しょうがなく、あのような玉手箱の出現ということになるのではないだろうか?」

 と考えられる。

 おとぎ話というのは、本来であれば、結構、領主が納めたり、国家体制を盤石にするということで考えられることとして、

「内緒にしておかなければいけない」

 ということが多くなってきていることだろう。

 自殺が禁止ということだから、浦島太郎の話が、

「玉手箱を開いたら、死ぬ」

 ということにしてはいけないのだ。

 玉手箱を開いて、とりあえず、

「年を取らせる」

 ということで、

「死ぬということに、限りなく近い」

 という発想になるのだ。

「限りなく近い」

 ということは、ある意味、無限という発想のようなものなのかも知れない。

 というのも、

「合わせ鏡」

 というものを発想した時、

「前と後ろに鏡を置いた時、そこに、自分と、その向こうに映る鏡が、半永久的につながっていく」

 というものだ。

 半永久的という言葉を、果たして、無限と表現していいのかどうか難しいところであるが、合わせ鏡のように、どこまで行っても、つながっているという理屈で考えると、

「無限以外には、考えられない」

 ということになる。

 そして、どんどん、距離は遠ざかっていくわけだから、どんどん、見えているものは小さくなるわけである。

 しかし、どんなに小さくなったとしても、それが、

「無限につながっている」

 そして、

「半永久的な存在だ」

 ということであれば、

「ゼロになるということはない」

 ということになる。

 それは、整数の除算を考えれば分かることであった。

「整数からどんどん2で割っていくとして、どこまで行っても、ゼロになることはない。そして、正の値から、正の値を割るので、マイナスになるということもない」

 それを考えると、

「ゼロに限りなく近い値が、半永久的に繰り返される」

 ということになるのだ。

 だから、合わせ鏡というものの、結論としては、

「限りなくゼロに近い」

 というものではないかといえるのではないだろうか。

 そんなことを考えると、

「無限というものは、どこまで行っても絶対にゼロになることのない。限りなくゼロに近いものだ」

 ということになるだろう。

 映画の話を思い出したことがあったが、

「宇宙物の話で、地球人が開発した、

「スターシップ」

 が、大気圏を超える時、映像は、目の前に、そのスターシップが中心に大きく描かれていて、その後ろに、地球の端が丸くなって次第に小さくなっていくのが見えた。

 実際に横から見れば、地球の大きさは、そのスターシップの果てしないほど大きなものであるにも関わらず。地球から出てきた船の大きさは、地球とさほど変わりはない感じであった。

 その大きな地球が、微妙に回転しているのが分かる。

「それは、地球が自転をしているからだ」

 ということは分かっているのだが、ゆっくりであるが、回っているのを見ていると、

「確か、24時間かかるはずなんだけどな」

 と思うと、その回転が、

「少し早いのではないか?」

 と感じられるのであった。

「それはきっと、船が宇宙い飛び出していく動きを見ているから、その錯覚と、それぞれの大きさと距離とが、微妙に絡み合って。錯覚を見せているのかも知れない」

 と感じるのであった。

 宇宙に飛び出したロケットや、スターシップというのは、基本的に、光速で飛ぶことになる。月や火星であれば、そんなに遠くないが、というのは、他の星に比べてはという意味であるが、これが、太陽系外などということになると、よく言われる単位としては、

「光年」

 という言葉が使われる。

 これは、

「光速で飛んだ場合に、何年かかるか?」

 という単位であり、一種の、

「距離の単位だ」

 といっていいだろう。

 その単位に、

「光年」

 しかないということは、それだけ、

「光速で、1年以上がかかる星ばかりだ」

 ということになるだろう。

 ということは、例えば、

「500光年離れた星がある」

 ということで、その星のことを調べようと思ったとして、

「その星が現在存在しているかどうか、分からない」

 ということである。

 どういうことかというと、

「今空に光っているその星の光は、光のスピードで、500年かかるところから来たものを見ている」

 ということになるので、

「今見えている光っている星というのは、500年前の光だ」

 ということになるのである。

 日本で500年前というと、どれくらい前なのかというと、16世紀と呼ばれる時代で、

「1500年代前半」

 ということになる。時代というと、

「群雄割拠の戦国時代」

 ということであり、

「毛利元就であったり、北条早雲が見ていた光だ」

 といえるであろう。

 数十年前から、SFアニメや、SF映画であれば、そんな数百光年というものを、はるかに超えてやってきて、

「地球を侵略しようとする宇宙人がいる」

 という設定がある。

 それを考えると、もし、これが人間と同じ寿命であれば、

「宇宙船の中で、最初に乗った宇宙飛行士の何代目が、この宇宙船で来たということになるのか?」

 ということになり、普通であれば、説明がつかないのだ。

 しかも、特撮などでは、

「まるで、隣の国から侵略に来た」

 というくらいのもので、数日くらいで、その星の母性から、宇宙船団がやってくるという設定になっている。

 ただ、この場合に、

「アインシュタインの提唱した、相対性理論であれば、どうだろう?」

 それは、

「光速で移動すれば、実際の速度の時間よりも、かなり遅く過ぎる」

 ということで、ある映画では、この設定を忠実に描いていて、

「宇宙船では、1年くらいであっても、表は、数百年が過ぎているはずだ」

 ということになっているので。宇宙船の中で一年くらいであれば、表は、500年くらい過ぎていたとしても、無理なことではない。

 ただし、これは、

「宇宙船の光速の中」

 というのが、距離と比較できるものなのか、それとも、

「表の数百年」

 というが正しい時間なのか?

 それを考えると、次第に分からない世界に入ってくるのであった。

 そんなことを考えると、

「アインシュタインの理論は正しい」

 といえるのではないか?

 光の速度というのが、どのようなものか?

 それを考えた時、アニメでは、さらに光速で飛ぶだけではなく、そこから、

「ワープ走行」

 という発想まで生まれた

 ワープというのは、

「超過速度」

 という印象であろうか?

 しかし、これは考え方として、

「本当に可能なのか?」

 ということであった。

 その可能というのは、

「科学的に可能なことなのか?」

 ということではなく、ワープをすることで、人間が、その速度に耐えられるか?

 ということになる。

 例えば、戦闘機などの、音速を超える程度のマシンに乗るだけで、一般人には、とても耐えられるものではない。

 何しろ、垂直落下よりも、さらに、圧力がかかるのが、戦闘機の操縦なのである・

 それが光速を超えるのだから、

「想像を絶するものだ」

 といえるのではないだろうか?

 一つ考えられることとして、

「慣性の法則」

 というものがある。

 これは、電車の中などの、密室のようなところにいれば、表の影響を受けることがないというもので、

「電車の中で飛び上がれば、電車がいくら動いても、着地は、飛び上がった地点になる」

 というものである。

 この法則を、

「光速を超えるところで物理的に可能に、今の科学力ではできるのだろうか?」

 ということだった。

 光速を超える、例えばワープなどのシーンを描いたアニメなどでは、タイムトンネルのような中を、宇宙船が飛んでいる。そこには、太古の昔に存在した恐竜や、古代人などの進化が写っていて、そこで、古代人などは、その宇宙船を見て、臆病に震えていたのかも知れない。

 そんな宇宙船は、ある意味、

「タイムマシンを模しているかのようではないか?」

 つまりは、宇宙船が、

「タイムトンネル」

 を通って、別の場所に飛び出すのが、ワープだとすると、

「タイムマシンが、時間を超えて、同じ場所に降り立つ」

 ということであり、

「ワープというものは、時間を感じさせず、まったく時間が経っていないのに、まったく違う場所に飛び出す」

 というものである。

 このどちらも、飛び出す場所に何があるか?

 ということをちゃんと計算しておかなければいけないだろう。

 マンガなどで、容易に、タイムマシンで別の時代に行って、そこに何があるのかを気にすることなく描いているが、それは、

「子供相手の番組だから許される」

 ということで、飛び出した先が、予期せぬ場所だったことで、それがストーリーを膨らませるということにもなるのかも知れない。

 だから、

「本来なら、その時代のその場所をサーチできる」

 というような機械が、一緒に開発されないといけないということだ。

 これは、ワープでも同じことで、少なくとも、何か新たな開発をする場合には、同時にいくつか必要な開発があるということは、未来の機械に限らず、今の時代にも言えることなのかも知れない。

 ただ、タイムマシンと、ワープとが同じ発想だというのは、どうなのだろう?

 少し、発想が違っているように思うのだが、

「タイムマシンというのが、ただ時間を超えるだけで、同じ場所にしか着地できない」

 ということでったり、

「ワープは時間を飛び越える」

 ということであるが、それは、一種の、

「限りなくゼロに近い時間の間で移動する」

 ということになる。

 ということであれば、

「タイムマシンというのも、時間を飛び越えながら、限りなくゼロに近い距離を移動しているのかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 ただ、この発想は奇抜というよりも、前提として、

「タイムマシンというものが、ワープの相対的な存在であるとすれば」

 という発想から生まれた奇抜さといってもいい。

 何が奇抜なのかということを考えると、

「どれだけ冷静に考えることができるか?」

 ということが重要で、

「いくら天才的な頭を持っていて、すばらしい発明ができるとしても、それは、冷静沈着な状態であるということが大前提だ」

 ということになる。

「冷静に考えることができなければ、それは焦りとなって、判断力を狂わせるばかりか、決断のタイミグを逸する」

 といってもいいだろう。

 冷静に考えることは、まずは、判断力を助け、最後に必要な、

「決断力」

 というものを生かせないのであれば、まったく意味のない力だといってもいいだろう。

「決断力」

 というものは、

「覚悟」

 というものに繋がっている。

 ともいえるだろう。

 決断するために、判断力という武器を磨き、覚悟という、タイミングを自分で理解できるようになる力を養うというのが必要である。

 それは、

「自信に裏付けられる、自分にとっての確証」

 というものが、生まれてくる土台が必要であり。

「理論を証明するために必要な勉強」

 というものがあり、それが、

「学問」

 というものである。

 それには、判断力を養うための知識と、常識というモラルというものが必要となるだろう。

 少なくとも、知識が自分の判断力をはぐくむっものであり、常識がまわりの見る目を確かなものにし、さらには、いずれは。自分が正しいという自信にもつながってくる。

 その判断力に、今度は、確証というものが、研究や開発によって、生まれたものが、間違いではなかったという、まわりに抱かせるものとなるのだ。

 それらすべてのものは、

「何を基準に考えられるのだろう?」

 と考えると、それが、

「裏付けによって、自信にも、確証にも、判断力というものにも、決断力というものにもなるということだ」

 といえるだろう。

「自信の裏付けが、判断力であり、覚悟の裏付けが、判断力というものであり、それが結果として確証となるのだ」

 と考えると、世の中というものが、

「一人の人間の考えは、それぞれなのだが、その積み重ねが、確証であったり、自信というものの裏付けとして成り立つ」

 ということになるだろう。

 そう思うと、

「タイムマシンと、ワープ」

 という正反対のものも、裏付けによって、確証に変わる日が来るというものであろう。

 そんな、

「裏付け」

 であったり、

「判断力や決断力」

 というものに対しての、時系列における見え方とうものを考えた時、その先にある、

「無限」

 なのか、あるいは、

「限界というものがある」

 ということなのかというのを考えていると、そこには、目に見えない何かがあるのを感じさせられるのであった。

 というのも、

「判断力も決断力」

 というのも、出発点から見れば、どんどん小さくなっていくものであり、ゴールと思われるところから見れば、前述の、

「宇宙船が、地球から飛び立つときに見える光景」

 に見えるのかも知れない。

 その時、本当であれば、小さく見えているはずの、宇宙船が、いかにも大きく見えるということで、

「出発点」

 から見ても、

「ゴール」

 から見ても、その二つに言えることというのは、

「限りなくゼロに近い」

 というものであり。その確証として用意されているものは、

「無限」

 というものになるという感覚になるに違いない。

「タイムマシン」

 にしても、

「ワープ」

 にしても、絶対的な、

「無限」

 というものではないかも知れないが、この時の、

「限りなくゼロに近い感覚」

 というものを、判断力や、決断力としてみようとした時、

「限りなく」

 という言葉は、そのまま受け取っても、

「無限」

 ということになる。

 ということを意識させないほどに、

「無限」

 と

「限界がある」

 ということの間で、曖昧な感覚にしているのが、

「ゼロに近い」

 という感覚なのではないだろうか?

 さらに、一つ考えられることとして、

「人間が都合よく物事を考える時というのは、決して無限な世界ではなく、必ずどこかにゴールがあるという、限界のあるものではないだろうか?」

 ということであった。

 そこには、結界というものがあり、その向こうには、別の世界が広がっている。

 だから、

「無限であってはいけないのだ」

 ということがいえる。

 それが。お互いに、相対するものであり、

「昼と夜」

 であったり、

「表と裏」

 というような、片一方が表に出ている時は、もう一つは、裏に控えているという感覚なのではないだろうか?

 それを思うと、

「限りなくゼロに近い」

 というものは、相対するものが存在しないものではないといけないと、いえるのではないだろうか?


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