2

 ここは、どこだ……。

 目を覚ますと、オレの視界はまっさらで埋まっていた。辺り一面、空も地も、その先も、どこまでも、どこまでも白一色に染まった世界が広がっていた。

 唯一色を持っているのは、オレだけだ。そう、オレ以外には、なにもない。建物も、植物も、生き物さえいない、なにもない世界だ。

 なにもない――。そうだ。ここはオレが望んでいた世界だ。

 オレ以外の人間は誰もいない、とても静かな世界だ。ここなら誰にも邪魔されることなく、好きなだけ大学受験の勉強を……、いいや、大学なんて、この世界には存在しない。受験勉強なんてする必要はない。それなら、すぐにでもミレニアム問題に取り組めるだろう。

 オレはその場にしゃがみ込むと、持っていたペンで地面に数式を書き出す。地面は真っ白だから、いくらでも数式が書ける。

 オレは自由だ、自由なんだ――!

 この世界には、わずらわしいものは、なに一つない。オレのことをバカにするクラスメイトも、いつも同情的な視線を投げかけてくる近所の大人たちも、誰もいないんだ。

 ここはオレだけの世界。オレが望んだ世界。時間という概念さえ存在しない世界だ。

 それなのに。

 なんなんだ、この不安感は。なんなんだ、この虚無感は……。

 名前のつけがたい感情がオレの中を支配していく。次第に思考が停止し、手が止まってしまう。

 一体どうしたと言うんだ。まだろくに問題に取り組めていないのに。思う存分、好きなだけ問題解読ができるんだぞ。それなのに……。

 頭を左右に振っていると、ひらりと黄色いなにかが視界に入ってきた。なんだ、チョウ……? チョウチョだ。帰り道に見かけたチョウに似ている気がする。

 って、あれ……。なぜ、この世界にチョウがいるんだ? この世界には、オレしか存在しないはずなのに。

 チョウは、オレの顔の前を行ったり来たりを繰り返す。だが。

「あっ……」

 チョウは、ひらりとまた彼方へと飛び始めた。

 オレの足は考えるよりも先に動いていた。無意識にも、そのチョウを追っていた。

 ひらひらと宙を舞っていたチョウだが、次第に降下し出した。チョウが降り立った先には扉があった。

 なんだ、この扉は。チョウはドアノブに止まり、パタパタと小さく羽を動かしている。

 この扉の先には、なにがあるんだ? 分からない。オレの足は、扉の前でぴたりと止まっている。

 扉の先には恐怖のような、触れてはいけないような、そんなものが渦巻いているように直感した。

 この先に行っては、だめだ。今すぐ離れるんだ。

 そんな思いに駆られ、オレは咄嗟に扉に背を向ける。

 そうだ。オレは、この世界で生きて行くんだ。ずっと望んでいた通り、一人きりで生きて行くんだ。

 扉に背を向けたまま、一歩、踏み出した瞬間だ。

『黒沢くん……!』

と遠くの方から声が聞こえてきた。

 なっ……、なんだ、今の声は。なんだか真白の声に似ていたような……。

 いや、そんな訳ない! ここには、オレしかいないんだ。幻聴だったに違いない。

 再び歩き出そうとしたが、今度は、はっきりと聞こえてきた。

『黒沢くん、黒沢くん、黒沢くんっ……!』

 オレは、声のした方を振り返る。扉だ。扉の向こうから真白の声が聞こえてくる。何度も何度もオレの名を紡いでいる。

 オレは扉の取手へと手を伸ばす。だが今度は、

『本当に行くの? あなた、ひとりぼっちなんでしょう……?』

 真白ではない、冷ややかな声が直接的に脳内に響いてきた。

『世界は、あなたのことを必要としていない。あなたがいなくたって、正常に動き続けるわ。そんな世界でも、あなたは生きていくの?』

 どうして、どうして、どうして――……。

 冬の魔女の声が、ぐるぐると頭の中を回り続ける。支配される。白の世界から一変、真っ暗な闇に包まれる。

 自分の姿さえも見えなくなっていく中、刹那、そんな闇を照らすよう、一筋の光が差し込んできた。

『大丈夫です』

 チョウがオレの指先に止まった。

『大丈夫ですよ。だって黒沢くんは、一人じゃありませんから――』

 一人じゃない……。真白の声がオレの中で強く反響する。波紋のように広がっていく。

 そうだ……。大事なことを思い出した。

 たとえここが、どんなに理想的な世界であったとしても。オレは、こんな所にはいられない。

 オレはドアノブに手をかけ、そして。ゆっくりと扉を開いていった。

 その先は、真っ白な光に包まれていて……。

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