レシピ5:またねのムラング・セッシュ

1

「あっ、チョウチョさんです。とってもきれいですー!」

 下校途中、真白は、道端に咲いていた花に止まっているチョウを目を輝かせて眺める。コイツは本当に小学五年生か? チョウ一匹に大はしゃぎして、同い年だとは思えない。

 無視して一人歩いていると、真白が慌てて追いかけてきた。

「黒沢くん。待ってくださいよー」

「お前は好きなだけチョウを眺めていればいいだろ。大体、オレは一人がいいんだ。ついてくるな」

「そんなこと言わずに、同じ方向なんですから一緒に帰りましょうよー」

 ったく。この女は、本当になんなんだ? どうしてオレなんかにつきまとうんだ。

 その答えが出る前にカフェ・プランタンに着くが、

「あれ……。お店が閉まってます。どうしたんでしょう?」

 扉には、『準備中』の札がかかっていた。確かにおかしい。今日は定休日ではないはずだ。

 真白は、慌てた様子で店の扉を開けた。

「ノワールさん、どうかしたんですか?」

 カウンター脇に置かれているイスの上で寝ていたノワールは、オレたちの来訪に、ゆっくりと身を起こした。

「なに。冬の予感を感じてな」

 冬の予感? どういう意味だ?

 大体、今は五月だ。冬は数カ月前に終わっている。次の冬までは、あと半年ほども先だ。

 オレには、なんのことやらさっぱりだったが、真白には分かったようだ。「そうでしたか」と簡単に納得している。

「まほ子、鍵を閉めろ」

「分かりました」

 真白は二つ返事で答えると、扉に向かって手をかざした。だが、ぽんっ! と奇妙な音が鳴り響いた。扉の鍵穴から、なぜか花が飛び出した。

「ふえーん! また失敗しちゃいましたー……!」

「この落ちこぼれ!」

 即座に、ぴしゃりとノワールの雷が落ちる。真白のヤツ、相変わらずのポンコツ魔女っこだ。こんな調子では、真白が一人前の魔女になれる日は遠いことだろう。

 ノワールに同情していると、くすくすと小馬鹿にしたような笑い声が聞こえてきた。

 なんだ、この声は……?

 まるでその嘲笑に同調するよう、急に空が曇り出し、バケツの中の水をひっくり返したかのような大雨が降り出した。風も強くなったのか、ヒューヒューと音が聞こえてくる。

「来る――!」

 ノワールが声を上げた瞬間だ。

「どうやらウワサ通りの落ちこぼれのようね……」

 カラン、カランと、出入り口の扉の上部につけられている鐘の音が鳴った。薄らと開かれた扉の隙間から姿を見せたのは、全身が真っ黒な少女だ。

 少女は黒いローブを羽織り、頭にはツバの広い三角で先端が折れ曲がった、とんがり帽子をかぶっている。

 その瞳は、氷のように冷ややかだ。作りもののようで血の気が感じられない。オレたちと同い年くらいだろうが、全身にまとっている空気のせいで、ひどく大人びて見える。

 黒尽くめの女の肩には、真っ白な毛のネコが乗っていた。先程から響き渡っている嘲笑の出所は、どうやら、このネコの口からのようだ。

 黒尽くめの女は、ゆっくりとした動作でこちらを向き、真白のことを見つめた。

「あなたなの? 私がかけた魔法を解いたのは」

 唇を小さく開け、氷のような声音で黒尽くめの女はたずねる。

「魔法を解いた? もしかして、あなたが空くんに魔法をかけた魔女さんですか?」

 黒尽くめの女は、ゆらりと瞳を揺らして、「そうよ」と素直に答える。

 真白は黒尽くめの女の前に進み出ると、

「私、真白まほ子といいます」

と名乗った。

 ぺこりと頭を下げる真白に、一方の魔女は、「ふうん……」と空気混じりの声で返す。

「今、名乗ったのは、あなたの真名よね? 魔女が真名を教えるなんて。非常識だと思うけど、まあ、いいわ。そうね。私のことは、エムリス・マルジンとでも呼んでちょうだい」

「分かりました。エムリスちゃんですね」

 真白がにこりと微笑むが、やはりエムリスと名乗った魔女は、表情一つ変えやしない。時折瞬きをする程度で、接着剤で顔面全体を固めているようだ。

「人は見た目によらないと言うけど本当ね。せっかく私が魔法をかけてあげたのに解いてしまうなんて……。どうして魔法を解いたの? あの迷える子羊ちゃん、願い通り、せっかく両思いになれたのに」

「それは陽芽子ちゃんが望んだからです。空くんにかけられた魔法を解いてほしいと」

「望んだ? ふうん……。人間って、つくづくおかしな生き物ね。理解に苦しむわ。あの子が望んだから魔法をかけてあげたのに、今度は、それを解いてほしいだなんて」

 エムリスは、冷ややかな目をより一層鋭かせる。魔力なんてふざけたものをオレは持っていないが、それでも分かる。コイツには近付かない方がいいと。

「ところでエムリスちゃんは、どうしてここに来られたんですか?」

「あなたに言いたいことがあったからよ」

「言いたいことですか?」

「そう。私の商売の邪魔をしないでもらえるかしら?」

「商売ですか? エムリスちゃんは、どんな商売をしているんですか?」

「どんなって、私たちは魔女よ。人間どもの願いを叶えることが仕事じゃない」

 エムリスは、きっぱりと告げる。魔女って、そういう商売が主流だったのか?

「人間の願いを叶えてくれるなんて、随分と人思いなんだな」

 つい横から口を出してしまった。エムリスは、ふいと視線をこちらに向けた。

「人思い? おもしろいことを言うのね。商売なのよ、こちらになんのメリットもない訳ないじゃない。

 私たち魔女は、人間ほど強い感情を持たないの。だから人間の願いを叶える代わりに、人間どもの感情をいただいているの。人間の感情は、甘い蜜のようにおいしいから。なににでも代償はつきものでしょう」

 代償――。

 その単語の響きに、一瞬の内に全身が凍りついた。

 なんだ、この感覚は。なんだ、この胸騒ぎは……。

 心臓が、ばくばくと不規則に鼓動を打ち出す。

「人間の欲は、底なし沼のようなもの。ドロドロで汚らわしく、果てなんてない。一度願いを叶えても、すぐにまた別の願いが生まれる。一生満足できることなんてない。だから人間は、いいカモなのよ。私たち、魔女にとって。そう、魔法は、欲望を叶えるためのもの――」

 エムリスが近付いて来る。だめだ、この女は危険だ。今すぐに逃げないと。

 根拠なんて知らないが、オレの本能がそう訴え出す。

 なのに体が動かない。指先一つ動かせない。

 エムリスの瞳とオレの瞳とが、宙の一点を通してまっすぐに交わる。視界がエムリスでいっぱいになる。

「人間は、誰もが欲望を持っている。そう、あなただって――」

 エムリスの指先がオレの頬に触れた瞬間、禍々しい光が視界を埋め尽くす。なんだ、この光は……!?

 やがて意識が遠退いていき――……。

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