新月と幽霊

枕川 冬手

プロローグ 月の無い夜に

開け放った教室の窓に、生暖かい夜風が吹いた。

白いレースのカーテンが靡いて、鼻先をつつくような潮の匂いが薫る。床に落ちるカーテンの影が海底に揺れる波影はえいのようだった。


「案外涼しいものだね、夏でも」


月初めより遠くなった蝉の声に、僅かな波の音が混じる。

真夜中の教室に人の影はない。二時半を指した時計が、黒板の脇で時を刻み続けていた。


港町の少し先には海が覗いている。珍しく凪いでいて、水面に映った星明りが、波に合わせて静かに揺蕩っているのが見えた。

町のどの家にも、波止場の灯台にも灯りは無い。暗闇に飲まれた夜の中で、空に浮かぶ星だけが、真っ暗な教室を仄かに照らしていた。


「なんか、写真みたいな夜。」


小さく呟いて、顔を上げる。

頭上には、夜空にを入れたような天の川が流れていた。その切れ目に沿って、無数の星が散りばめられている。

青く燃えるような星、静かに瞬く赤い星、可愛らしい緑色の小さな星。辺りが暗いからか、細かいものも一つ一つ鮮明に見えた。数えきれない星々の全てが、自分の色と輝きを誇って、暗い藍色の世界を照らす。目を瞑ってしまいたくなるくらい、余りに鮮やかな星空だった。


心を攫われたように見惚れていると、不意にあることに気付く。

どこにも月が見当たらない。いつもなら、ちょうど窓の正面に浮かんでいる。星が余りに明るいから気付かなかったのだろう。満天の星の何処を探しても、その姿を見つけることはできなかった。


(月、見たかったかも)


一瞬小さな迷いが浮かんだけれど、すぐに掻き消した。今更そんな理由で引き返すことはできない。今日引き返してしまえば。きっとまた逃げてばかりになる。未だ理由を探しては躊躇っている自分に馬鹿らしくなった。

或いは、美しい夜空の欠落が嬉しかったのかもしれない。今日の失敗の理由になるんじゃ無いか、なんて。


「あーあ、やっぱり怖いなぁ」


聞かせる相手などいないのに、無駄に大きな声で口に出した。

そうでもしないと、腹の底で暴れる恐怖を抑えられなかった。どんなに死にたい、死にたい、なんて思っていても、結局死ぬのは怖い。窓枠を掴む手はずっと震えている。一人きりになった家を出てから呼吸は荒いままだ。


多分、私は本当に死にたい訳じゃないんだろう。生きたくない、だけなんだと思う。

今までの人生だって悪いことばかりじゃなかった。幸せな人生ですらあった。普通の家庭に生まれて、愛を受けて育って、友達だってそれなりにいた。ほんの偶然、ある一瞬の間違いで全て壊れてしまったけれど。人生は思いのほか崩れやすいものだ。どうせならもう少し歳をとってから知りたかった。


あの時こうだったら、こうしていれば。今になって後悔しても意味はない。一度押し付けられた過去はもう背負って生きていく他ない。その重さに、私が耐えられなかっただけ。誰のせいにしたって現実は変わらない。


そんなことを考えていると、遠くで少し大きな波音が聞こえてきた。


「溺死でもよかったかな?でも苦しいのはちょっとな……」


私は海が好きだ。

港町に生まれたのもあって、海は日常で、隣人で、友達だった。高校に入ってからも、暇を見つけては穴場の浜辺で遊んでいた。


夏は砂浜に座って、緩やかな波に足をさらす。指に絡む冷たい海水と、崩れていく砂の感触が何とも心地良かった。たまに大きな波が来て、びしょ濡れで家に帰ることもあった。もちろん母には怒られたけれど、それを聞いた父はいつも笑っていた。

寒くなってきたら、海の絵を描いた。学校帰り、夕焼けに赤く染まった海面と、忙しない港町の風景を描くのが好きだった。どこまでも深く、夥しい生命を秘めた海。いつもすぐ側にあった青色は、私に無くてはならない存在だった。


全てを奪ったあの青を、私は今も愛している。


「……綺麗」


月の無い夜を見つめる。

燦々と光る星空に、私の居場所は無い。

何処かに隠れている月は今も怯えているのだろうか。いずれ訪れる夜明けを、いつか昇る太陽を、ライオンから逃げるうさぎみたいに。


「もっとちゃんと生とけばよかったなぁ。」


私はいつも誰かの陰に隠れていた。自分から光ろうとも、他人のおこぼれを貰おうともしなかった。永遠に続くと思っていた平穏を貪って、自分の価値だとか、普通の幸せのありがたさを考えもしなかった。

人は失った後にその大切さを知る、このありふれた言葉には言い換えがある。人は失うまで大切さを知ることができない。失ってから考えても、もう手遅れ。寄りかかっていた椅子が脆いのを知るのは、いつだって壊れて、転んだあとだった。


海に映らない月を想う。私は星や太陽どころか、月にすらなれない。

違う、「ならなかった」んだ。


後悔に意味はない。でも、無意味だからこそ人は悔いるのだと思う。どうやっても変わらない現実に、どうしようもない無力に、人は過去を悔いながら気付いていくのだ。それが余りに遅くても、現実は待ってはくれないのだから。


私が最後に見たのは、月の無い星空。


なんてぴったりな夜だろう。


そう、思った。





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