愚者と碧眼

ぶうたcaramel

指輪は何処へ

 春休みの学校帰り。進級前に借りた図書室の本を返すため、わざわざ制服を着て職員室まで向かった。わざわざ返しに行かなければならないのが億劫で、借りなければよかったと後悔している。今日は三月十五日。卒業式で先輩たちに言葉を送ったのが、つい二週間ほど前だと考えると、時の流れが早く感じる。怠けた生活を送るばかりで、活気あふれる高校生として不甲斐ない。高校二年生。いや、高校新三年生と表現する方が意味合いとしてはしっくりくる。

 車通りが多く、昼過ぎに静寂など訪れるわけのない大通りをてくてくと歩いていく。せっかく家を出たのだから、どこか喫茶店にでも入って、さっき本屋で適当に買ってきた小説を読みたい。この大通りは地元の人間ならば、ほぼ通学路になっている。俺もまた、地元の人間だ。そのためこのあたりの景色は何千回と見ている。しかし見ているだけであってどんなお店なのか、どこに喫茶店があるのかなどの地理的な話をすることは出来ない。

 とりあえず、大通りにあった脇道を進むことにした。しばらくして『そよ風』という名の喫茶店を発見した。ドアは木製で一部がガラスになっていた。そこから店内を覗いてみると、カウンター席におじいさんが一人のみ。ちょうどいい。ここにしよう。

 店前には手書きのおすすめメニューが小さな黒板に書かれていた。カフェオレ、アイスコーヒー、ミルクティー。このおすすめメニューがどんな周期で更新されているのか知らないが、いちいちチョークを消して書き直すのは手間がかかるだろう。

店に入るとチリンチリンとドア上につけられていた鈴の音色が鳴り響いた。内装はダークブラウン色で統一された机や椅子、暖色の照明、入り口前の観葉植物などで彩られ、落ち着いた雰囲気を醸し出している。お世辞にも広いとは言えない店内だが、巧みなレイアウトによって狭いとは思わない。

 店内をぐるっと見渡し、入り口から左手にある席に座る。どうやらこのお店は窓に面している席は二席しかない。せっかくなら太陽でも浴びながら読書をしたい。

 席に着くと、店主のおばあさんが注文を聞きに来てくれた。そこで手作りのメニュー表を渡された。一通りメニューを見たが、結局一番値段の安いアイスコーヒーを頼むことにした。一杯三百円。今の時代にしてはなかなか安いものではなかろうか。小遣い稼ぎのアルバイトではあまり値が張るものを頼む気にはなれない。ベイクドチーズケーキがあったけど、五百円だった。こんなの食べてたら財布が悲鳴を上げる。

 細身のおばあさんがメニューをもってカウンター席の奥にあるキッチンへと帰ったが、そこで白髪の生えたおじいさんと話しているのが聞こえた。会話の内容からおじいさんは客ではなく、おばあさんの旦那さんのようだ。なるほど、どうやらこの店は老夫婦が営んでいるらしい。無愛想なおじいさんも営業を手伝っているのか知らないが、怒らせたら怖そうだ。

しかしこんな辺鄙なところでは、客なんて満足来ることはないだろう。老後の趣味で営んでいるのだろうか。

 黒いリュックの中から小説を取り出す。

 こんな脇道に喫茶店があるなんて知らなかった。まぁ、この道を通ったのが初めてだから当たり前を言えば当たり前だけれど。

 地球温暖化が進んでいると世間では話題になっているが、流石に三月の中旬は肌寒い。店内は暖房が利いていて、しばらくしたら体も温まるだろうからアイスコーヒーをよりおいしく頂けるだろう。

「はい、お待たせ」

 いきなり横から声をかけられた。声の方向を向くとお盆の上にアイスコーヒーを乗せたおばあさんがおり、軽く会釈をするとテーブルの上にアイスコーヒーが置かれた。俺はブラックでは飲まない。備え付けのコーヒーフレッシュを入れてストローで混ぜる。真っ黒だった液体はだんだんと白味帯びてくる。

さて、ゆっくりとコーヒーを飲みながら文庫本を読むことにする。せっかく300円を払ってこの優雅な場所にいるからには存分に満喫しないと。この喫茶店にいるとき限定の優越感はなんとも形容しがたいものだ。

 以前、表紙がいいのと話題作と帯が巻いてあったという二つの理由から購入した文庫本を開く。作者も知らないし、挙句の果てにはどんなジャンルなのかも知らない。時間を潰すために購入したもので、どうせなら流行に乗ってみようという魂胆だ。

 しばらくして、店内に鈴の音が鳴り響いた。ほう、意外にもご来店の方がいらっしゃるのか。ちらりとドアの方へと向ける。

 制服姿の女子高生。紺色ベースの制服を一目見て、すぐ俺と同じ高校だと分かった。背丈は平均程度、肩に毛先が触れるくらいのミディアムヘアー。黒髪は降ろしており、前髪は目の上あたりまでもばしてある。背には制服と似たような紺色のリュックサックが見える。女の子にしてはリュックが大きいように感じる。それともただ錯覚しているだけかもしれないが。学校指定色である黒の革靴を履いている。横顔を見るに容姿端麗であることは間違いないだろう。

 俺の視線に気が付いたのか、はたまた偶然かもしれないが、彼女と目が合った。綺麗な目をしている。まるで宝石のような美しい碧眼だ。

 俺は気まずくなり視線を文庫本へと戻した。じろじろ見るのも失礼だろう。静かに本を読んでいると、コツコツと革靴が店内の木目調の床上を歩く音が近づいてくる。おいおい、目が合ったらバトルを仕掛けてくるのはゲームの中だけにしてくれないか。

 束の間の杞憂、彼女は俺の隣に腰を下ろした。リュックの中からカバーのついた文庫本を取り出し、椅子の下にある籠に荷物を入れた。

 おばあさんがオーダーを取りに来ると、何も見る事なく彼女はアイスココアを頼み、文庫本を読み始めた。

 しかしまぁ、なんで俺の隣に座りに来るかね。店内は俺以外の場所は空席で選び放題だっただろうに。……あぁ、窓側の席がよかったのか。

 日が当たる席は二席。今俺が座っている席とその隣だけだ。もし彼女の中で、日光を浴びたいという目的があったのならば、必然的に座る位置はここになる。

 早々と彼女のドリンクが届き、店内には静寂が訪れる。


 時計の分針が半周ほど回った。頼んでいたアイスコーヒーの氷が解け、グラスと当たってカランと高い音が鳴った。店内は静寂に包まれていたから、より一層その音が鮮明に聞こえた。

 テーブルの左上に置いていたグラスに目が行く。隣の彼女も同じようだった。彼女からしてみれば、右上の方向からだ。

「その本……」

 彼女が口を開いた。どうやらグラスを見たときに俺が読んでいる本も目に入ったらしい。

「この本がどうかしたか」

 なんだ、まさかこの本の作者は私です、なんてフィクションの世界でしか聞くことの出来ないセリフを言うつもりかい?

「奇遇だね、丁度私も同じ本を読んでるんだ」

 そういって、彼女は読んでいた文庫本のカバーを外し、表紙をこちらに見せてきた。見覚えのある表紙だ。桜の木の下に後ろ姿の少年のイラストが描いてある。

「表紙が気に入ったから買ったの。まだ読んでる最中だけど、結構見ごたえがあると思わない?」

「あぁ、確かに面白い。時間潰しに買ったけど、今度は同じ作者の人の本を探してみたい」

「私もそう思う。ところで君って神林君……だよね?」

「あぁ、神林魅月。風神雷神の神の字に、風林火山の林で神林。魅惑の月で魅月だ。今は新三年生だ。何で俺の名前を知ってるんだ?」

「私の友達が一年生の時クラスが一緒だったの。覚えてる、高梨奈波って子」

 ………そういえばそんな奴はいた。やけにうるさい女子だった覚えがある。

「私は夏野涼架。春夏秋冬の夏に、野原の野。涼しいに架け橋の架けると書いて涼架。私も同じく新三年生。よろしくね」

「あぁ、よろしく」

 夏野涼架。聞いたことのない名前だ。おそらく俺の交流が乏しいのが原因だろう。

 それにしても、意外にも活発的だ。体系はスラリとしていて、髪も整っており、最初はおとなしく清楚な子だと感じた。しかし話してみると、気さくな感じがする。

 人は見かけによらず。そう言いますから。俺の勝手な認識を押し付けるのは良くないことだ。まぁ、押し付けてはないか。

「ねぇ、神林君は部活に入ってるの?」

「いや入ってないよ」

「そっか」

「夏野さんは運動部か?」

「どうしてそう思うの?」

「リュックが大きかったからかな。文化部ならそこまで荷物は必要じゃない。楽器を持ち歩いていないし、吹奏楽部でもなさそうだ。なら運動部の可能性が高いだろう。夏野さんは今革靴を履いているから、もしランニングシューズを持ち運ぶならリュックに入れるだろう。こう考えるとリュックが大きいのも納得がいく。俺が思うに、バスケ部なんじゃないか」

 そういうと、夏野はくすくすと笑った。

「残念、バスケ部じゃないよ」

「さいですか」

 あらら、外してしまった。まぁ、数ある運動部の中でピンポイントに当てるのは厳しいものだ。

「けど、リュックにシューズが入っているのは合ってる。正解はソフトテニス部だよ」

「ソフトテニス?ラケットはどうしたんだ」

「ラケットは基本部室に置いているの。いちいち持ち帰ってたら大変でしょ」

「確かにそうか」

 ラケットが無いんじゃ、当てれないな。案外当たっているかもしれないと思っていたが、そううまくはいかない。吹奏楽部じゃないと言ってはいたけれど、担当が持ち運びできないような楽器だったらこの推論は破綻する。リュックだってほぼあてずっぽうに近い。今の推論には抜け道が数多と存在するわけだ。

「ねぇ、もしかして神林君は分析力が高いんじゃない」

「なんだ、嫌味か?」

「違うよ、率直に思っただけ。私が神林君の立場だったら、きっとリュックの大きさなんて気にしないと思う。シューズがリュックに入っていることに気づけた事実は神林君の慧眼によるものだよ」

「慧眼ね…。言われたこともなんて一度たりともないな」

 果たして俺が本当に慧眼であるかはさておき、褒められるのは悪くない。渇いたのどを潤そうとグラスを持つ。溶けかけの氷がグラスの中で音を立てた後、残ったコーヒーを飲み干した。

「夏野さんは常連なのかい」

「時々来るけど、常連って程でもないかな」

「なんだ、てっきり常連なのかと思ったよ」

 そうか、部活をやっているのだから何度も来れるわけがないか。それに大学生でもあるまいし、毎週通い詰めるほど、懐に余裕は無いだろう。

 何気ない会話をしたことで、だいぶ居心地が良くなった。見ず知らずの赤の他人と隣り合わせの席にいるよりかは、多少なりとも世話話が出来る方が何かと気を使わないで済む。幸い、俺も夏野も静寂を嫌うようなタイプでは無さそうだ。話始めたら何を言い出すかわからないが、黙っていれば容姿端麗の少女である。

 静寂が訪れ、ふと考える。未だかつて読んでいる本が被った経験はあるだろうか。少なくとも俺はない。今の時代、数多とある小説の中から同じ小説を手に取り、同じ文字列を読み、同じ感動を覚えることなど、ほぼないと言っていいだろう。SNSが盛んになり、学校で本を読む習慣も薄れてきた。俺は愛読家と呼べるほど、本に夢中になり多くの本を乱読しているわけではない。ミステリーや表紙がいい本を適当にとっているだけなので、本に関して話が合うことはない。

 そう考えると、同じ小説を隣の席で読みあっているこの状況は天文学的確率と言っても過言ではないだろう。

「ねぇ、そういえば…」

 夏野が口を開く。いったい次はどんなことを言うのやら。

「どうして私が常連客だと思ったの?」

 なんだ、そんなことか。安心した。

 夏野はこちらを見つめる。これではまるで、夏野が俺を試しているように感じた。納得のいく回答が得られなかったら、一体何と言うつもりなのか少し気になる。

「君は店に入って、辺りを見渡すことなく、窓側の席に座った。それは最初から店の座席について知らないとやらない行動だろう。それにメニューも見ずにアイスココアを頼んだな。店前のおすすめには書いてなかった。そりゃ、大抵喫茶店にはアイスココアは売ってるだろうが、初めての来店だったら流石にメニューを確認してから頼むだろ」

 夏野は俺の言葉を聞き、うんうんと満足そうに頷いた。どうやらこの様子を見るに納得して頂けたみたいだ。文庫本を読んでいただけなのに、ここまで会話が発展するとは思わなかった。

「素晴らしいよ、神林君」

「なんだ、悪役が主人公を褒めるときみたいなことを言って」

「私には悪役が適任だと?」

「飛躍しすぎだよ、夏野さんには悪役は似合わない」

 悪役になれるほど、戦闘力は高くないだろう。君はポンコツ聖女の方が似合っていると思う、と思わず口にしてしまいそうだが、何とか心の中だけで留めた。

 話を戻すように、夏野はわざとらしくコホンと咳払いをしてから話す。

「ありきたりな場面から、情報を汲み取って推論を立てる。私は羨ましいよ。そこまで注意深く生活していたら色んな発見がありそうで楽しいそう」

「たまたまメニューを憶えてただけだよ。注意深く生活なんてしてないし、しても疲れるだけだろう」

 夏野の発言に対して、真っ向から否定しておいた。俺は色恋沙汰を経験していないだけの普通の男子高校生だ。趣味を満喫し、少ないながらも仲の良い友人たちとの雑談に花を咲かせる。そんな特殊な生き方なんて御免だ。


 一通り会話も終わり、話題も思い浮かばなかったので読んでいた文庫本に視線を戻した。さっきまで読んでいたはずなのに、夏野と会話していたらその記憶が吹き飛んだ。えーと、主人公とヒロインが閉じ込められたんだったかな。

 喫茶店に訪れてから一時間ほど経過した。依然として俺と夏野は同じ文庫本を読んでいる。夏野はブックカバーを付けているのに対して、俺は何もつけていない。本に対する価値観の違いだろう。

 お互い喋らず、店内は静寂に満ちている。カウンター席の端には雑誌を読んでいるおじいさん。おばあさんはキッチンで何か作業をしている。ケーキなどの仕込みだろうか。若干甘い香りがしなくもない。壁時計の秒針が鳴る音と本のページをめくる音、さらには遠くの大通りを走る車の音までもが耳に入る。些細な音が静寂により鮮明になる。こんな状況は嫌いじゃない。

 しかしこんな状況も束の間。聞き馴染みのある鳴き声が聞こえた。

「ニャー」

 声は椅子の下あたりから聞こえ、視線を下ろしてみると小太りの三毛猫が俺の黒いリュックの入った籠をひっくり返そうと健闘していた。口元には光沢のあるものを咥えている。

「にゃん太?」

 にゃん太と呼ばれた三毛猫は、呼ばれると同時に懸命に伸ばしていた手を止め、そそくさとどこかへ行ってしまった。あいつ、小太りのくせに動きは俊敏である。何を咥えていたのか知らないが、リュックはチャックが閉まっており、生憎華やかな装飾品を身に着けるような趣味はないので、お店のものだろう。

「………あの三毛猫、何を咥えてたんだ」

「指輪だよ、派手な装飾もなかったし、多分結婚指輪だと思うよ」

「よく見えたな」

 とてもじゃないが、俺には目で追える速度ではなかった。さぞ、動体視力の良い少女だと事。そう思っていると、心を読まれたのか、はたまた表情に出ていたのか知らないが、夏野は指先を自分にひょいひょいと指して自慢げに口を開く。

「私はソフトテニス部だよ」

「……そういえばそうだったな」

 ついさっき彼女の部活動を教えてもらったにも関わらず、きれいさっぱりその記憶を忘却し、考慮しなかった。まぁいい。記憶力が良い方ではないことは自分が一番理解している。

 そんなことより。

「喫茶店に猫がいるのか」

 猫がいると言ったら猫カフェのイメージだけれど。

「娘さんが飼ってる猫らしいよ。用事があって家を空けてしまうときは、この喫茶店に預けてるだって。私も数回しか見たことないけど、可愛いよ。本を読んでいると、気づいたら足元にいるの」

 ふうん、個人経営だし猫がいようが犬がいようがお構いなしってわけだな。本当はダメだろうけど。それに動物アレルギーのお客さんが来たら色々と大変なことが起きそうだが、余計なことに首を突っ込む必要はない。

 そういえば、あの三毛猫は俺のリュックを狙っていたが、一体何が目的だったのだろうか。生憎、猫が興味を持ちそうなストラップなどは付けていない。匂いにつられたのか?いやしかし、俺のリュックから猫が好みそうな匂いはしない……と思う。

「こら、何してるんだ!」

 カウンターの方から声が聞こえ、同時に三毛猫が逃げる姿を発見した。この状況から察するに、あの三毛猫が悪戯でもしたんだろう。

「どうしたの、あなた」

「マグカップに触ろうとしてきたんだよ、倒れたらどうすんだ」

 三毛猫も悪戯をする相手は選んだ方がいい。もしマグカップを落としたりなんかしたら、一週間は猫缶を食べれないだろうな。

 店内をぐるりと見渡すと、テーブルの下で丸まっている三毛猫の姿が見えた。老夫婦がいるカウンターの裏には回すタイプのドアノブが付いたドアが一つある。入店してから、老夫婦がそのドアを開けた音を一度も聞いていないことを察するに、最初から三毛猫は店内のどこかで昼寝していたのだろう。

 さっきおじいさんに怒られたことなど気にして無さそうに欠伸をしている。なんとも肝の据わった奴だ。長らく猫を見ていると、眼を飛ばしてきた。猫の癖に中々良い目力をしているじゃないか。

「あらら、嫌われてるね」

 一部始終を見ていたのか知らないが、横から夏野が声をかけてきた。

「威嚇されてるのか?」

「多分ね。神林君はお気に召さなかったみたい。ここは弱肉強食が激しいから」

「こんな辺鄙の喫茶店で、猫にまで弱肉強食の考えが浸透してるとは思わなかった。夏野さんは一体どんなふうに思われているんだろうな」

「にゃん太は私の方が格上だと認識してる。だから手招きするだけで寄ってくるよ。それに私は犬よりも猫の方が好きなの」

 夏野は自信満々に言い切り、栞を挟んで文庫本を閉じた。

 夏野が三毛猫に向かって手招きをする。次の瞬間、三毛猫はシャーと言って威嚇してきた。離れているのに聞き取れるほど、しっかりと威嚇されていた。さっき気づいたら足元によって来ると言っていたが、懐いているわけではなさそうだ。

「夏野さん?」

「………………」

「とんでもなく下に見られてるけど」

「私、猫より犬の方が好きなの」

「たった今、派閥が入れ替わったな」

派閥がこんな簡単に入れ替わっていいものか。手のひら返しにも程がある。しかし猫の反応を見るに、どうやら序列的には俺、夏野の順で高いみたいだ。

「いったい何をしたら、こんなに嫌われるんだ」

「それは何もしていない私が知りたいよ」

 そうなると、見た目だろうか。

 もし、猫と遊びたいならな猫じゃらしのようなものがあれば最適だろう。猫はそれだけで懐くようなチョロい生命体だと俺は思っている。しかし手持ちには猫じゃらしもないし、代用できそうなものもない。

しばらくすると、猫は重そうな体を動かし、おばあさんのもとへと歩いて行った。夏野と俺は意味もなく、その様子を眺めていた。おばあさんが手に持っていた煌びやかなストラップを振ると、忽ち猫はジャラジャラと揺れるストラップの虜になった。

 おばあさんが持っているのは様々な形をした光沢のあるストラップを五つ程束ねたもので、手作りだと思われる。ストラップを上にあげると、猫は瞬間的に二足で立ち上がり、もちもちとした肉球のついた手で懸命に掴もうとしている。何度か繰り返すだけで、猫にとってはかなりの運動になるだろう。

 所詮は猫である。縦横無尽に駆け回る姿は可愛らしさが勝つ。

「滑稽ね」

 どうやら隣人とは考えが違うみたいだ。不服そうに猫を見ている。先ほど与えられた格下の烙印は、犬猫派閥を変えさせるほどの効力があったが、どうやらそれだけでは済まなかったようだ。

 俺たちが見ていることに気が付いたおばあさんがこちらに問いかけてくる。

「君たちもやってみるかい」

「是非やらせてください!」

 まるでこれを待っていたかのように、反応が早かった。

 嘘のように夏野の顔が晴れ、足の長い椅子から降り、猫たちの方へと歩いていく。しかし、歩み途中で止まった。

「神林君も早く」

「俺もやるのか?」

「もちろん」

 いつの間にかやる事になっていた。まぁ、別に構わないけれど。長らく座っていたせいで、体が少し痛む。座りすぎは体に良くないとどこかの記事で見たことがある。縮まり切った体の筋肉をほぐすように、伸びをする。心なしか、血液が循環していくのを感じる。

 今日は昼を食べていないせいで、お腹が空いてきた。しかし財布を振っても音はならない。お金に余裕があるわけではないので、夕食まで我慢だ。紙幣しか入っていないから音が鳴らないという意味合いだったら、良かったのに。

「この子は光るものが大好きなのよ」

「そうなんですね。猫ちゃんらしい」

 夏野はおばあさんからストラップを受け取り、三毛猫に向かって振る。心のどこかで、威嚇されないかなという負の期待があったが、その期待を裏切り、三毛猫はつぶらな目をしてストラップと戯れている。

「おぉ……」

 感嘆の声をあげる夏野の表情はにこやかであった。今まで何を考えているか読み取れなかったが、現在は喜んでいるのだと断言できる。

 先ほどまで威嚇していたとは思えないほどに猫は懐き、喉を鳴らす。

「どう、太っちょだけど可愛いでしょう?」

「ええ、とっても。神林君もほら」

 そういって夏野は俺にストラップを渡してくる。いつしかこの空間は動物園にあるふれあいコーナーのような雰囲気になっていた。

 ほれ、三毛猫。ストラップを左右に振る。すると猫は先ほどと同じく夢中になるが、やがて興味は薄れ、なぜか俺の革靴を猫パンチしてきた。おい、やめるんだ。その黒い革靴は母親が記念にと奮発して買ってくれたやつなんだぞ。

「あれ?もうストラップに飽きちゃったのかな」

「きっと太ってるからすぐ疲れちゃうんだよ。遊んでくれてありがとね」

「いいえ、こちらこそ」

 軽くお礼を言ってから、座っていた場所まで戻った。カウンターで雑誌やら新聞やらを読んでいたおじいさんは猫と遊んでいる間も話しかけてくることはなかった。やはり寡黙な人だ。

「やっぱり私は猫派だよ、神林君」

「そりゃよかったな」

 さっきみたいに心変わりしないことを祈るばかりだ。


 読書をしている合間に時刻は十七時を回った。この店に来てから二時間近くは経っている。帰宅を考えてもおかしくない時間帯だ。しかしそうは問屋が卸さない。おばあさんが焦っておじいさんに話しかけている。

「ねぇ、あなた。私の指輪知らない?さっきカウンターに置いといたんだけど」

「指輪?見てないな、落としたんじゃないのか」

「それが探しても見つからないのよ」

 指輪……なるほど、おばあさんが仕込みをするから指輪を外したのか。その結婚指輪を猫が咥えていたのだろう。

「にゃん太が持ってたのっておばあちゃんの指輪じゃないかな」

「俺もそう思う」

 そういうと、夏野は本を閉じ、おばあさんたちのいるカウンターへと向かい話し始める。きっと三毛猫が持ってると伝えたのだろう。夏野とおばあさんはすぐさま太々しい三毛猫を捉え、口元を確認した。しかし結果は予想通り、見つからなかった。もし持ってたならストラップで遊んでいたときに気が付くだろう。

「まさか飲み込んじゃったのかしら」

「それはないと思います。誤飲したにしては元気ですし、指輪を飲み込んだのに吐き出す素ぶりも見せません。多分、どこかで落としたんだと思います」

「さっき一通り見たんだけどねぇ」

「もう一度見ましょう。私も手伝います」

「悪いねぇ、涼架ちゃん」

 なんだか、帰りにくい空気になってしまった。夏野が積極的に指輪を探している中で、のうのうと鞄に荷物をしまい、帰宅準備をするという悪魔的所業は俺には出来ない。せいぜいほとぼりが冷めるまでじっと文庫本を眺めるのが安定択だろう。

 ……しかし、それは得策とは言えない。俺が協力して、指輪を迅速に見つける方が、客観的に見て最善だ。それに夏野曰く、俺は慧眼らしい。指輪を見つけて、格好つけてやろうじゃないか。……こんな下心があるのが、いかにも男子高校生らしいなと自分でそう思った。


 入店してからの出来事をさらりと脳内で振り返り、指輪の場所の見当はついた。しかし、俺の推論が間違っていて、シンプルに床に落ちていたというパターンは恥をかくだけなので、おばあさんと夏野がある程度店内を探すのを待つことにした。探して見つかったのならそれでいい。

 椅子を引く音や床を歩く音がしばらくの間聞こえた後、おばあさんが残念そうに「ないねぇ」と呟いているのが耳に入った。

 頃合いだ。夏野の方を向き、手招きをする。気づいた夏野は素直に俺のもとへと駆けつけてくれた。

「どうしたの、神林君」

「俺も考えてみたんだ、どこに指輪があるか。多分…………だと思う」

 俺の言葉を聞いて、夏野は頷いた。

「確かめてくるね」

 そう言い残して、颯爽とおばあさんを連れてカウンターに向かった。おじいさんとおばあさんの話し声が聞こえた後に、おばあさんが喜びながら何かを持っている。どうやら目的の指輪が見つかったようだ。

 なぜ俺が直々に出向いて伝えなかったのかという質問の答えは簡単で、老夫婦と仲がいいわけではないからだ。いきなり得体のしれない高校生が近づいてきては、指輪の位置を伝えるなり、すぐに席に戻る様は奇妙極まりない。そこで老夫婦と面識のある夏野に仲介役をやってもらうことでおばあさんも素直に聞き入れてくれるだろう。うむ、合理的だ。

 おばあさんは見つけた指輪を水で洗い、タオルで拭いた後に左手の薬指にはめた。見つかって何よりだ。

 時間は午後五時半丁度。営業終了まであと三十分あるが、別に閉店まで居座るつもりはない。指輪を見つけたことだし、荷物をまとめて帰ることにする。席を立ち、籠の中にあるリュックを掴もうとした瞬間に後ろから声をかけられた。

「待って、神林君」

 おいおい夏野さん。今後は何の用だ。もう俺は座りすぎて、太腿付近の血流が滞り、若干の足のだるさを感じているというのに、まだ君は俺をこのやけに座高の高い椅子に座らせる気かい?今から俺を座らせるのは至難の業と言っていい。俺の意志は固いぞ。

「おばあさんがベイクドチーズケーキをくれたの。これは神林君の分だって」

「そうか、それはありがとう」

 甘味を前にして、簡単に意思は崩れ去った。おばあさんのご厚意を無下にするわけにはいかない。夏野から紙ナプキンとフォーク、そして主役のベイクドチーズケーキの乗ったトレイを受け取り席に座る。

「しかし、俺の分までくれるとは」

 指輪の捜索に協力していたのは夏野である。おばあさん目線では俺は座って文庫本を読んでいる奴だと思われているのが自然である。

「私が伝えたの。神林君がアドバイスしてくれたって。そしたら喜んでくれたよ」

「そりゃよかった」

 なぜ俺のことをおばあさんに伝えたのかと聞こうと思ったが、心の中で留めておいた。影でコソコソとやろうとするのが俺の悪い癖だ。高校三年にもなって、未だの心のどこかでは影の暗躍者のような立ち位置に憧れているらしい。

 フォークでベイクドチーズケーキの鋭角部分を頂く。子供の頃は、円周から食べ始める異端児だったが、周りからの冷ややかな目が気になってからは、普通に食べるようになった。

 うん、美味しい。………食レポは期待しないでほしい。ケーキの見た目からして、市販のものではなく、おそらくおばあさんの手作りだと推測できる。お菓子作りは大変だろうに。そういえば、さっきキッチンで仕込んでいたのはこのベイクドチーズだったのか。

敬意を表しながらもう一口頂く。うまい!

 上質なスイーツを堪能している最中、横から声をかけられる。

「それで神林君、どうして指輪がおじいさんの使っているマグカップの中にあると思ったのか説明してもらいましょうか!」

 高揚した夏野の表情を一目見て、こいつにはこの表情がお似合いだと無意識に感じた。どこか無邪気で、心を躍らせているのが分かる一挙一動は、夏野の本性を表しているといっても過言ではない。

 整った容姿に、心躍る様子と煌びやかに光る碧眼に思わず見惚れそうになるが、一度誤魔化すために咳払いをしてから話始める。

「あの三毛猫の好きなものは何だと思う?」

「おばあちゃんが持ってるストラップみたいな光る物」

「そうだ、けれどそれだけじゃない。今日のことを振り返ってみろ、一体猫は何にちょっかいをかけている」

 そう言うと、夏野は首を傾げ、唸り声を上げながら振り返る。素直だな、君。

「まずおばあちゃんの指輪……次に神林君のリュック…それでおじいちゃんのマグカップ…その後にストラップの束で遊んで、あそこのテーブルの下でぐっすり」

 最後は余計……いや、そうでもないか。

「その通り、あの三毛猫は指輪を咥えたあと、店内を歩きまわった。そして俺のリュックに悪戯をしようとした。その時に夏野さんが三毛猫を驚かせて、三毛猫は逃げた」

「何だか語弊があるような……」

 何か訴えかけるように、ジト目でこちらを見てくるが無視する。

「その時は指輪を持っていた。けどストラップの束で遊んでいるときには持っていなかった。つまり指輪を落としたのは逃げてから遊ぶまでの間と分かる」

「そうだね」

「この間に起きたことと言えば、店内を走り回ること、そしておじいさんのマグカップにちょっかいをかけたことの二つだ。店内を探して、指輪が見当たらないのなら、残る可能性はカウンターだけになる。そこでだ、何で猫はこれらのものにちょっかいをかけたと思う。おばあさんは光るものに目がないと言っていたな。だから指輪に手を出したんだろう。けど、この三毛猫が好きなのはこれだけじゃない。黒っぽい物にも手を出すんだ」

「ほう、言われてみれば確かに」

「俺のリュックは黒色だ。多少劣化はして薄くはなっているけど。それに夏野さん、本を読んでいると足元に寄って来るって言ってたな。革靴の色を見てみろ」

「黒だ!」

「そう、あの三毛猫は夏野さんになんか一切興味はなくて、この革靴にご執心だったわけだ」

「言い方に棘があるように聞こえるけど気のせいかな」

 夏野はムッとした表情でこちらを見る。

「気のせいだよ、きっと。話を戻すと、今あの太々しい猫が寝ているテーブルの下、照明が当たらなくて影になってる。もしかするとあの三毛猫からしたら黒っぽいものだけじゃなくて、場所も好きなのかもしれない。これだけ黒色が好きな三毛猫が、カウンターに行って真っ先に手を出すとしたら、それは当然ブラックコーヒーに決まっているだろ」

 つまり指輪はブラックコーヒーの入ったマグカップの底にある。どんなちょっかいをかけたのかまでは知らないが、概ね、可愛い肉球のついた手でコーヒーに触れようとしたところをおじいさんに見つかり、びっくりして落としたのだろう。

 夏野は話を聞いて、うんうんと満足そうに頷く。さっき、常連かどうかの話をしているときも、こんな仕草をしていた。納得したときにする彼女の癖なんだろうか?

「すごい、良く気付いたね。マグカップの底か……私には想像もつかなかったなぁ」

「偶然だよ、気づいたら足元に猫が寄ってくるって夏野から聞いてなかったら思い付かなかった」

 夏野は視線を下げ、自分の履いている革靴を見つめる。

 さて、夏野が気になっていることには答えたし、もうベイクドチーズケーキは腹の中だ。ここに残る理由もないし、閉店時間を過ぎている気がする。食器を返して早いこと店の外に出ることにしよう。

 老夫婦にお礼をいい、食器を返したのちに店を後にした。大通りの方に歩き始めると、隣に夏野も歩き始めた。この周辺に住んでいるのだろうか。

「私もいつかは自分でこんな風に推理してみたいなぁ、さながらシャーロックホームズみたいに。春川高校の名探偵って一度でいいから呼ばれてみたいなぁ」

「そんな物騒じゃないだろ、うちの高校は」

 この地域は治安もいい。ましてや少年探偵団のような団体も存在しない。

「神林君が想像してるのって殺人事件とかでしょ。私はただ謎を解く第一人者になりたいだけなの。今回の指輪を探すみたいな」

 まぁ、確かに誰しもがミステリー小説の主人公みたいに事件を解決してみたいと考えたことがあるだろうが、もうそんな純粋な気持ちはなくなってしまった。

「まぁ、けど話を聞くのも好きだからどっちでもいいんだけどね。それに何気ない日常の中に少しの謎があった方が素敵でしょ」

 夏野は声のトーンを変えずに話し続ける。喫茶店では喋り足りなかったのかもしれない。

「それで、謎を解いた後の気分はどう?」

 夏野はにやつきながら聞いてくる。………こいつ案外表情豊かだ。

「悪くない」

「冷めてるなぁ」

 ちょっとクールな感じを出したけど失敗だった。

「こういうのは後々良くなるんだよ。ふとした時に、あの時よく分かったな、凄いな俺ってなるから」

「なるほど、だから今はクールぶって澄ました表情を取ることで、のちの幸福を高めようって算段ね」

「やめて、言わなくていいからクールぶってるって。せっかくいい感じだったのに台無しだ」

 夏野は嘲笑する。

「神林君って、意外と冗談とか言う性格なんだね」

 いったい俺を何だとも思っている。

「それはこっちのセリフだな、夏野さん。最初見たときは物静かな人かと思ったけど、思ったより、おしゃべりさんだ」

「そうかしら、私は結構見た目通りの性格をしていると思うけど」

「見た目で人を判断しちゃいけないってことだよ」

「そういう神林君だって、私を見た目で判断してたよね」

「まぐれだよ、普段は見た目で判断なんてことはしない」

「ほんとに?」

 本当だよ、だからその疑いの目つきはやめてくれないか。まったく、まるで俺の信用がないな。俺が見た目で判断するような人間に見えるか?

 話しているうちに大通りへと出た。午後六時付近なこともあり、道路は数多くの車が走っている。俺は右へ、夏野は左へ曲がるらしい。ここでお別れだ。別れの挨拶をして、踵を返した瞬間、袖を掴まれた。

「待って、神林君」

 そういわれ振り返ると、スマホを持った夏野がいた。

「ライン、交換しよ」

 異性の連絡先を登録するのは、高校生になった今でも慣れない。ラインの交換は久しぶりだったので、操作はすべて夏野に任せることにした。

「神林君、今日はありがとね。バイバイ」

 さよならを言い、手を振る夏野を背に向け今度こそ帰宅する。

 今日はなんだか疲れた。慣れないことはするものじゃない。新三年生、すなわち同級生か。それなりの生徒数が在籍し、クラスが同じになる可能性は高くはない。クラス分け、一体どうなることやら。

 ポケットのスマホから通知音が鳴る。買った時から変えてないから、デフォルトの変哲もないピコンという音が鳴る。夏野からメッセージが届いていた。よろしくと書かれたスタンプが一件、その後に文章が送られてきた。

『どうして、おじいちゃんが飲んでいるのがブラックコーヒーだと分かったの?』

 …………夏野さん、随分と簡単なことを聞くじゃないか。そんなの理由は一つしかないだろう。

 あんな風貌のおじいさんがブラックコーヒー以外を飲むわけないだろう。

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愚者と碧眼 ぶうたcaramel @buutacaramel

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