後編

「そうですね……」


 蘇芳は、少しだけ考えこんだ。


「……昔の私なら、〝喪失〟と答えたんでしょうね」

「喪失?」


 ええ、と頷き、蘇芳は僅かに目を細めた。

 脳裏に浮かぶのは、師匠と弟弟子——家族同然だった彼らとの幸せな時間。


「大切なものを永久に喪うこと……私は、それが怖かった……」


 呟きながら、蘇芳は長椅子から静かに立ち上がった。


「ふうん——今は違うのかしら?」

「私にはもう、何も残っていませんから」


 自嘲気味に笑いつつ、ゆっくりと事務机へと歩み寄る。


「あの日誓った使命の他には、何も」


 そう——師である鶴泉ゑいをこの手で殺めたあの日。

 私は誓ったのだ。

 たとえ悪魔に魂を売り渡そうと。

 地獄の業火に焼かれることになろうと。

 この使命だけは、必ず成し遂げてみせると。

 もう、後戻りはできない——……

 

「だから、月並みな答えになってしまいますが。今の私が恐れているのは〝死〟——ということになるのでしょうか」


 蘇芳は、机に置かれた本へと手を伸ばした。

 手に取り、表紙をじっと眺める。


「……蘇芳君?」

「いや、違うな——死、そのものではない——」


 訝しげな表情の百目鬼に背を向け、再び歩き出す。


「死によって、使命を果たす前に命を落とすことが、私は——僕は、一番——」

「蘇芳君」

「そう——この本にも、きっと、そう書いて——」



「——蘇芳君ッ!」



 百目鬼の一喝で、蘇芳はハッと我に返った。

 蘇芳の両手は、今まさに『牛の首』のページめくろうとしていたところだった。


「——ッ!」


 蘇芳は、すぐさま本を遠くへ投げ捨てた。

 本はバサリと音を立て、出入り口の扉付近へと落ちた。

 危ないところだった。

 冷や汗を拭いながら大きく息をつく蘇芳に、百目鬼が尋ねる。


「大丈夫?」

「ええ——有難うございます」

「何があったの?」

「突然、あの本を読まねばならない気がしまして……不覚でした」

「成程——どうやら、単なる『怖い話』って訳じゃなさそうね」


 やれやれ、と百目鬼が溜息をつく。

 おそらくこの本は、近くにいる人間に影響を及ぼす呪物の類であろう。


 となると、読んだ者が死んだり発狂したりするのも、純粋な怪談の恐ろしさによるものではない、単なる『呪い』の効果という可能性もある。

 その場合、例えば全てのまじないごとを無効化する男——七人岬を統べる破戒僧・市川虚空こくうであれば、この本を読み切ることが可能だろう。


 しかし。

 やはり、それを試すのは危険過ぎる。

 この本にかけられたまじないが、『近くにいる者に頁を捲らせる』という効果だった場合——無明は、市川という貴重な戦力を失うこととなるだろう。

 創作物フィクションのもたらす恐怖までは、和尚おしょうの異能でも打ち消せはしまい。


 ——そこまで考えて。

 蘇芳の頭に、ふと疑問が浮かんだ。


「というか——博士は大丈夫なんですか?」


 百目鬼は、なぜ本の持つ魔力に操られずに済んでいるのか?

 蘇芳の問いかけに、百目鬼は、


「ん?——ああ、それはね」


 と、何でもないことの様に答えた。


「私はどうやら、呪いとかそういうのに耐性のある体質らしいのよ。おかげで戦時中も、実験の失敗で大勢死んだのに、私だけは何故か生き残ったし」

「それは何より」

「とは言え、普段は服で見えないところの皮膚なんかは、後遺症でなかなか面白いことになってるけど——見る?」

「興味深いですが、遠慮しておきます」


 あら紳士ね、と百目鬼が笑う。


「まあとりあえず、その本は一旦木箱に戻して、死んでもいい人間で改めて実験を——」


 と、百目鬼がそこまで言った時だった。

 ガチャリ、と音がして——出入り口の扉が開いた。


「百目鬼博士……」


 ——六道であった。


「御堂博士が、後で話があると……」


 室内へと足を踏み入れた六道は、足元に落ちている本に気がつき、歩みを止めた。

 眉根を寄せると、本をひょいと拾い上げ——


「六道君!?」「読むな!」


 百目鬼と蘇芳の声が重なる。

 しかし、二人の制止も虚しく、


「これは……?」


 そう呟きながら、六道が表紙をゆっくりと捲る。

 ひょっとすると、既に本の魔力の支配下に置かれているのかもしれない。

 舌打ちし、駆け寄ろうとする蘇芳であったが、


「!——待って、蘇芳君!」


 百目鬼がその腕を掴み、蘇芳を引き留めた。 


「なっ!?」


 人差し指を口の前に立て、しいっ——と蘇芳に囁きながら、百目鬼は六道を見つめていた。

 眼鏡の奥の瞳が、爛々と輝いている。

 それは、貴重な被験体を前にした、研究者の眼だった。


 その視線の先——

 六道は、怪訝そうな表情で、ぱらぱらと頁を捲り続けていた。


「六道君、貴方——平気なの?」

「平気……とは……?」


 続いて、蘇芳が問いかける。


「その本には、何が書いてある?」

「何も……書いてはいない……」

「書いてない?」

「ただ、文字が……蚯蚓みみずのように、紙面をのたくっている……様々な文字になっては……すぐにまた、形が変わり……読むことは、できない……」


 そこまで聞いて、


「成程……そういうことね……」


 百目鬼が、眼鏡を押し上げ微笑んだ。


「何かわかったんですか?」

「ええ。『牛の首』の正体は、生きた文字群——紙面に記された一文字一文字が、読むものによって形を変えるあやかしなのよ」


 そうか、と蘇芳も頷く。


「読者の深層心理を読み取り、対象が最も恐れるであろう物語を、瞬時に紡ぎだす——私の捕まえたサトリとも、少し似ていますね」

「けれども、六道君は六人分の人格がぎされた存在。そして蘇芳君の言う通り、人はそれぞれ、恐怖を抱く物事が異なる」

「つまり——、『牛の首』は


 わかってしまえば、何てことはない対処法ではある。


「で——このあやかしはどうします?」

「ん?そうねえ」


 少し考えた後で百目鬼は、


「それじゃあ、お礼替わりに、貴方にあげる」


 と、にっこり笑った。


「よろしいので?」

「ええ。貴方だって留飲を下げたいでしょう?」

「心遣い、感謝します」


 そう言いながら、蘇芳が腕に巻かれた包帯を解き始める。

 腕には経文さながらに、びっしりと文字が刻まれていた。

 手の甲には、紅で「怪」の一文字。 掌には、中心に目のついた、蓮の花の紋様が描かれている。花びらの色は黒く、瞳だけが紅い。


「さて——六道。頁をこちらに向けてくれるかな。そう、それでいい——」


 蘇芳と百目鬼の二人が見つめていることにより、『牛の首』は〝物語〟に成ることができない。

 六道が言った通り、黒い蚯蚓の様なもの達が、紙上をうねうねと蠢いている。


「本来、〝ふちどり〟のないものは祓えない。退治する対象がないのだからね」


 本から、苦しげな獣の鳴き声が響いた。

 牛の声だ。

 それに臆すことなく、蘇芳が続ける。


「『牛の首』とは、まさにそうした怪異の代表格だったわけだが——今の私には、君の〝縁〟がはっきり見える」


 一歩、また一歩と近づきながら、蘇芳が言う。


「霧が晴れたような喜びと同時に、言いようのない寂しさを覚えているよ。こんなにも脆く弱い存在が、多くの人間を恐怖させた『牛の首』の正体だとは」


 蘇芳が、掌に咲いた黒い蓮を、ゆっくりと頁に近づける。


「とっとと終わりにしよう。これから君の、〝おもて〟を奪う」


 やがて、掌が完全に頁へと触れ、


「今の君は、そう——」


 牛の断末魔の叫び——そして、肉を引き裂くような音と共に、蘇芳の手は頁の中から、何か〝黒い塊〟を引きずり出した。

 それは動き回っていた文字群が融合した、だった。


「——恐れるに足りない」






「……——悲鳴を聞きつけ息子達が駆け付けると、男は既に、恐怖に目を見開いた状態でこと切れておりました」


 蘇芳のよく通る声が、室内に響く。

 現在、百目鬼の部屋に居るのは、蘇芳と、部屋の主の二人きりであった。

 蘇芳は手に持った本——『牛の首』の頁に目を落としながら、室内をゆっくりと歩き回っていた。

 一方の百目鬼は、事務机の椅子に座り、じっと蘇芳の朗読を聞いていた。


「男は手に、先刻さっきまで読んでいたのであろう手紙を握りしめておりました。しかし、その内容は白紙で、何も書かれてはいませんでした。斬り落とされた牛の首から流れ出た、その墨の様に黒い血は、今でも違う物語に姿を変えて、誰かに読まれる日を待っているのです——」


 ——そこまで言って。

 蘇芳、読んでいた書物を片手で持つと、ひょい、と手首を返して、開かれた頁を百目鬼に向けた。

 頁は白紙で、何も書かれてはいなかった。


 一瞬の沈黙の後——百目鬼は、ふう、と息を吐くと、静かな拍手で蘇芳を讃えた。


「成程ね——なかなか聞き応えのある話だったわ」


 有難うございます、と頭を下げる蘇芳に、百目鬼が続ける。


「村の因習を破った男の嫁が、牛の頭をした男児を産み落とすくだりなんかはぞくぞくしたし、その子が座敷牢の中で、誰に教えられたわけでもない怪談話を語りだすところは不気味で素敵だった。ただ——」

「ただ?」


 訊き返す蘇芳に、百目鬼が悪戯っぽい笑顔で答えた。


「——死ぬほど怖い、という事はなかったわね」

「これは手厳しい」


 笑いながら、蘇芳が本を机に置く。


「肝心の、生きた文字が紡ぎだす怪談の詳細も、結局ぼかされちゃってるし」

「その部分こそが『牛の首』という怪異の本質ですからね。無理にかたちを与えると、どうしても陳腐化してしまう。ま、ある種の逃げではありますが。それに——」

「それに?」

「やはり、生きた人間が、恐れ、楽しんでこその怪談でしょう。死ぬほどの恐怖を与える話というものが具体的にどういうものか、私なんぞには想像するのも難しいですが——例えば、幾ら甘いものやしょっぱいものが好きといっても、致死量の砂糖や塩をいっぺんに与えられては——」

「とても食べられたものではない?」

「私はそう思いますね。まあ、負け惜しみのようなものですが。それに、たとえ急ごしらえの話だろうと、こうして何らかかの〝縁〟を与えてやらねば、使役するのが困難なもので」


 そう言って、蘇芳は懐から、一本の硝子ガラス瓶を取り出した。

 何かの薬品でも入っていそうな透明のそれは、今は漆黒の液体で満たされている。

 ——墨汁のような状態となった、『牛の首』である。


「死ぬほど怖い怪談をご所望でしたら、こいつに何か書かせてみましょうか?」


 瓶を軽く振って微笑む蘇芳に、百目鬼もフフ、と笑顔を返した。


「悪かったわ。ちょっと意地悪を言っただけ。許して頂戴ちょうだい

「しかし、本当に私が頂いてしまっていいんですか?」

「構わないわよ。怪談『牛の首』の内容を書き記したとされる書物、か——」


 果たしてそれが本物だったのか、元がどんな内容だったのかは最早わからないが——

 それは人々の噂によって、文字群があやかしと化し、やがて書物自体が一種の呪物になり果てたたのだ。


 「——種が割れたら、急に興味が失せたわ。誰かを呪い殺すなら、効率的な方法が他に幾らでもあるしね」

「わかりました。では有難く」


 瓶を懐にしまい、部屋を去ろうとする蘇芳の背に、


「ああ、そうそう——」


 そう声をかけ、百目鬼が呼び止めた。

 蘇芳が、足を止めて百目鬼を振り返る。


「——六道君が言ってたことだけど、私は別に構わないと思ってるわよ」

「と、言うと?」

「貴方が無明に身を寄せている理由は知ってるわ。貴方には六道君や市川和尚の様な、組織に対する忠誠心はない。貴方が無明に身を置いているのは、あくまで利害関係によるもの」


 思わず押し黙った蘇芳に、百目鬼が言う。


「でもね、私なんかは心なんて不確かな物より、そっちの方が安心できるのよねえ。それに、私も同じだし。正直ね、私は無明の掲げる、この国を〝在るべき姿〟へと創り直す、なんて理想はどうだっていいの。ただ、面白そうだから力を貸してるだけ」


 だ・か・ら——と笑って、百目鬼は続けた。


「貴方も私達を存分に利用して頂戴。私達も、貴方を利用するから」


 ——少しの沈黙の後、


「やはり恐ろしい人だ、貴女は」


 微かに笑いながら、蘇芳はそう言った。

 しかし、その双眸そうぼうは笑ってはいない。

 蘇芳の刺すような視線を受け流しながら、百目鬼は、いつもの陽だまりのような笑顔で答えた。


「フフ——誉め言葉と受け取っておくわ」

「……」


 蘇芳は一礼すると、身を翻し、今度こそ部屋を後にした。






 ——蘇芳が出ていった後。

 百目鬼は椅子の背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を見上げていた。


「……私もね、蘇芳君……貴方と同じで、『死』が一番怖い……この世の謎を……面白いものを知り尽くす前に死んでしまうのが……」


 ぽつり、ぽつりと呟く言葉が、次第に熱を帯びていく。


「だからきっと、完成させてみせる……百八機関も成しえなかった、人類の夢……『』の研究をね……!」


 ——かつて、志田しだ興邦おきくにという男が居た。

 戦時中、「不死身の兵士の開発」を担当していた研究者だ。

 結局彼は、その悲願を達成することができなかった。

 しかし、私はあんな負け犬とは違う。

 必ず——必ず、成し遂げてみせる。


 百目鬼は、静かに笑いだした。 


「フ——フフ——」


 やがてその声は、徐々に大きくなっていき——


「ハハ——アハハ——アハハハハ——アーーーハッハッハッハッハッハーーーーーーーーー!!!!!!」


 ——彼女の哄笑こうしょうは、いつまでも、いつまでも、一人きりの室内に響き渡っていた。

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牛談〜おそれをいだきて〜 阿炎快空 @aja915

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