第6話 ドジとバケツは使いよう

 テオドール様の屋敷でさっそく恋人役兼使用人生活が開始されました。

使用人仲間のオルガノさんが、私にピストリークス伯爵家の何たるかを教えてくれることになりました。

 オルガノさんは、若い女性たちが見れば、きゃあきゃあ騒ぎそうな見た目の美丈夫。


 だけど……


「まあでも、家のことって、特にやることはないんですよね~~」


 本人の中身は至ってふわっとしています。

 ふわっとしてるし、やる気がないだけで、ピストリークス家のことが嫌いだとか、そういうことはないみたい。


「マリアさんには、せっかくだから坊ちゃんについてお教えしますね」


 オルガノさんが簡単にテオドール様の過去について説明してくれた。


 数年前のわりと有名な事件……テオドール様のお父様が不正を働いたというものだ。結果的に、ピストリークス家は元々侯爵家だったのだが伯爵家に降格する憂き目にあったのだ。


(この話はわりと街でも有名で、今でも時々街の皆の間では話題になるから、世間に疎い私でも知っていたかな)


 爵位が降格しただけで済んだのが幸いで、本当ならおとりつぶしになっていたそう。その頃に、ピストリークス家の財産の大半が国に没収されてしまい、貴族だけど貧乏になってしまったそうです。

 使用人たちの大半が解雇されたんだけど、オルガノさんと彼の祖父母の三人だけが忠義が篤くて、この家に残ることになったらしい。

 テオドール様のお姉さまは修道院送りにされたし、お父様はそもそも病気で亡くなったりした。そのため、ピストリーク家には、テオドール様、オルガノさん、オルガノさんの祖父母の四人で暮らしているのだそうだ。


「しかしアリアさんは、やはり神に見初められし存在ですね」


 突然私に向かって、オルガノさんが突拍子もないことを言い出した。彼の瞳は爛々と輝いている。


(テオドール様といいオルガノさんといい、私の名前はマリアなのですが……)


 今はそのツッコミはどこかに置いておくとする。

 私はオルガノさんに問いかけた。


「神に見初められし、とは?」


「そりゃあ、洗濯物を干しては突然の強風に見舞われ全て飛んでいき、皿を洗わせたらなぜだか皿の方から割れていき、料理をすればなぜかそこにあった塩がどうしてだか砂糖にすり替わり、書類を集めればなぜか出現した墨の海の中に全て落とし……! これはもう神に愛されているとしか言いようがないですよ!!」


 私はどう反応して良いのか分からなかった。


(オルガノさんは私を褒めているのかな? けなしているのかな?)

 

 オルガノさんの言葉は、とにかく私の心にぐさぐさ刺さる。

 今、彼が説明してくれたように、住み込みで働いて炊事洗濯をこなすことになった私だけど、街に住んでいた頃とは変わらずドジの連続だった。

 このままだと、ただでさえ少ないピストリークス家の財産を、私の存在が食いつぶしてしまいそうだわと悩んでいたので、心が痛い。


(ますますピストリーク伯爵家を不幸にしてしまうかも……)


 私はオルガノさんのそばを離れて、モップで廊下の水拭きを始めることにした。

 そう言えば、使用人の仕事をするにあたってオルガノさんから作業着を一式渡された。いわゆるメイドさんが着用する、膝丈の黒いワンピースに白いフリルのついたエプロンをいただいたのだけど、これがとにかく可愛い。


(まだこの可愛い洋服を着ていたいから、解雇にはなりたくないな)


 そんなことを考えながら、モップを動かしていたからか。


「……って、ぎゃ~~っ!!」


 私はうっかり濡れた廊下に足を滑らせてしまった。

 つるりと滑って床に突っ込む。そして、なぜかそこにはバケツが!

 そのまま転んでバケツに頭をぶつけたら、中に入っていた水が顔面に直撃した。

 しかも、なぜかバケツは飛んでいく。


「あいたたた」


 カラン。


 近くで金属が鳴る音が響いた。バケツが落ちた音だろう。

 どうしてモップをかけるだけで、こんなことになるのだろうか。頭やら膝やらをぶつけて、ところどころ痛い。


(お兄ちゃんと違って、運動神経に恵まれなかった自分が憎い)


 そんな中、低めの声が頭上から聴こえた。


「大丈夫か?」


 見上げると、そこには……


「テオドール様!」


 転んでいた私の近くに、テオドール様が近づいてきた。

 どうやら彼はバケツの被害には遭わなかったらしい。

 それにしたって恋人役をさせてもらっているのが申し訳なく感じるほどの凛々しい美形である。


(好みじゃないけれど……)


 彼に醜態を見られてしまって、私は焦る。

 うろたえていたら、テオドール様が私に手を差し伸べて来た。


「ほら」


「え?」


 私は理由が分からず戸惑ってしまう。


「どうした? ほら、俺の手を取ったらどうだ? 床にしゃがみ込んだままだと、衣服が汚れるぞ」


 催促された私は、テオドール様の大きな手におずおずと自分の手を重ねた。


(男の人の手)


 手を掴まれて、彼に立たせてもらった。

 なんだか温かいし、私の肌よりも少しだけ硬くて、すらりと長い指はしっかりしていて、ドキドキしてしまった。


(恋人役だから優しくされてるのよね? これがずっと続くの? 心臓がドキドキしてもたないよ)


 自分のほっぺが自然と紅くなっていくのが分かった。顔が熱い。

 テオドール様に御礼を告げようとして、ハッとなった。


「テオドール様に水が!」


 てっきりバケツの被害からは逃れたと勘違いしていたけれど、テオドールの紺碧のフロックコートの腰回りに、水がかかって濡れてしまっていたのだ。

 私は慌ててエプロンの中に入れていたハンカチを取り出して、テオドール様の衣服を拭き始めた。


「ああ、こら、そんな場所まで拭かなくて良い」


 彼に制止されて、私はまたしてもハッとなった。


(男の人の腰のあたりをごしごししちゃったわ!)


 また恥ずかしくなって、あわあわと慌てていると……


「それにそれは雑巾だぞ」


 自分の手に持っていたハンカチだと思っていたものが、本当は雑巾だったと気づく。


「ご、ごめんなさい!!!」


 私はテオドール様に何度も何度も頭を下げる。


「まったく、赤くなったり、青くなったり忙しいやつだな。気にしなくて良い。じいやもお前は頑張り屋だと褒めていたぞ。それと、ドジなところが尊いとかなんとか……」


 じいやとは、オルガノさんの祖父兼執事頭のシロフォノさんのことだ。白髪に白い立派な髭をしている男の人で、御年七十歳は超えていられるけど、とっても機敏な動きをしている。

 じいやさんにも褒められているなんて、嬉しくなってしまった。


「俺も、アリアがドジでも困りはしない」


 目の前のテオドール様がふっと笑った。美形の笑顔とは、かくも破壊力があるものか、心臓がものすごく速くなってしまった。


(突然微笑むのは反則だわ)


 ドキドキなかなか心臓が落ち着かない。


 ……ピストリークス家に住み込んでいて分かったことがある。


 噂では、テオドール・ピストリークスは、冷徹で恐ろしい人物だと言われていたけれど……


(テオドール様は本当は優しい人だわ)


 私が満面の笑みになると、テオドール様も心なしか頬が赤くなって照れているように見えた。


(私の目の錯覚なのかな?)


 自分だけが彼の素顔を知っているようで、なんだか嬉しくなった。


 ちなみに……バケツで大惨事になった床の掃除をテオドール様が一緒に手伝ってくれたのでした。

 

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