鉄道その2

増田朋美

鉄道その2

「何だ今日も又泣いたのね。」

「そうなんです。」

買い物から帰ってきた杉ちゃんに利用者たちは困った顔で言った。

「本当に困ります。落ち着いて宿題ができません。」

確かに利用者さんたちの言い分もそのとおりだなと思われるのだった。とりあえず、杉ちゃんが製鉄所の食堂へ行ってみると、希さんは椅子に座って泣いていた。水穂さんがそっと側についていてくれているが、それでもまだ泣いていた。

「ああ、杉ちゃんおかえりなさい。」

水穂さんは、そういうのであるが、なんだか疲れているような顔をしている。

「一度、精密検査とかしたほうが良さそうですね。記憶がどうのだけじゃありません。ここまで情緒が不安定だと、周りの人たちに迷惑をかけてしまうので。」

水穂さんの提案で、二人は松井希さんを、影浦先生の病院に連れて行って、検査を受けさせることにした。

「そうですね。」

影浦先生は、カルテになにか書き込みながら、ちょっと困った顔で言った。

「先日受けた検査と大体同じことになってしまうんですが、いずれにしても、自分の名前が松井希ということだけは覚えているみたいです。しかし、それ以外の記憶は殆ど抜け落ちてます。それに、対して妄想で埋め合わせようとする、コルサコフ症候群の症状もありません。ただ、先程、杉ちゃんから、アルカンの鉄道という曲と、ウクライナ関連のニュースを聞くと激しく泣いてしまうというところから、そのあたりの記憶は持っていなくても、その時の恐怖感などは覚えているようです。」

「はあ、なるほど、つまり、恐怖感ということだけは覚えているって言うことか。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「ええ、そういうことなんだろうと思います。どこに住んでいるのかとか、職業は何だとか、そういうことは、彼女は全く覚えていないので、身元を特定するのは難しいですね。」

「そうなったら、僕たちは、どうすればいいのでしょうか?」

水穂さんが聞いた。

「そうですね、とりあえず、こちらとしては、パニックや不安などに対して精神安定剤を投与するしかできないんですよね。あとはそうですね。彼女をまわりの人たちが支えてあげるしか無いとしか、言いようがありません。」

影浦先生は、大きなため息をついた。

「なるほどねえ。結局、医者なんてそういうことしか言わないよね。まあ、なんとかしてあげてくれとか、そうやって、薬だけ出して、あとは支えてやれとか、そういう綺麗事をいう。まあ、薬の知識はプロとして持ってんだろうけど、苦労している僕らの支えには何もならないよねえ。」

水穂さんが杉ちゃんそんなこと言って、と止めようとしたが、杉ちゃんはでかい声で言うのであった。

「まあ、そういうもんさあ。ま、医者なら、上から目線で偉そうなこと言ってれば解決するだろうくらいしか、思ってないでしょう。きっと、病気の症状しか見てないんでしょう。それを支える周りのやつがどんなに大変か。それを、考えてなんとかしようって言う気持ちはこれっぽっちもないよねえ。」

「杉ちゃん、そういうこと言っては行けないよ。影浦先生から、指示が出たんだから、これから先どうするかを考えよう。まず初めに、希さんには、落ち着いてもらわなくちゃ。薬を出すだけではだめだってことはちゃんとわかっているんだから、他の手段で落ち着いてもらうしか無いよね。」

杉ちゃんの話に水穂さんは言った。とりあえず、杉ちゃんたちは、薬で落ち着いてもらった希さんを連れて、タクシーで製鉄所に帰った。結局、医者に見せても、そのくらいのことしか言われないのだ。現実は何も変わらないし、ただ薬だけが投与されるだけである。その繰り返しであった。

製鉄所に戻ると、利用者たちが心配そうに待っていた。希さんはもう疲れてしまったらしく、他の利用者さんに連れられて、静かに眠ってしまったのであった。

「なんとかしなければなりませんね。病院につれていくだけでは、何も進歩もしないでしょう。それでは、可哀想ですよ。なにか、心を癒やしてくれるものが必要ですね。」

と、水穂さんは、希さんを眺めながら言った。

「そうだねえ。そういうことなら、誰かに来てもらうか。あれほど泣いてしまうようでは、まだ何があったか口に出して言うことも難しいだろう。それなら、心を癒やすとか、そういうセッションが必要になるよなあ。」

杉ちゃんはしばらくなにか考えてこういったのであった。

「ああそうだ。竹村さんに頼もう!あのクリスタルボウルという楽器であれば彼女を癒やしてくれるかもしれないぞ。」

「そうですね。」

水穂さんもそう考えてくれたようだ。それで話は決まった。すぐに竹村さんに電話して、セッションに来てもらうことにした。竹村優紀さんは、すぐに引き受けてくれた。

翌日、竹村さんが、リヤカーに7つのクリスタルボウルを乗せて製鉄所にやってきた。水穂さんの指示で、竹村さんは、クリスタルボウルを縁側に設置し、クライエントである希さんを近くに座らせた。

「眠っても構いませんので、できるだけ楽な姿勢で聞いていてください。それでは行きますよ。」

竹村さんはそう言って、マレットを取った。ゴーン、ガーン、ギーン、優しいクリスタルボウルの音が流れ始めた。

「すごい、素敵ですね。なんか、教会の鐘みたいですね。」

希さんは、竹村さんのクリスタルボウルを聞いて、そう感想を言った。

「ああ、ありがとうございます。定期的にコチラへ伺いますから、なにか刺激になってくれれば嬉しいです。」

竹村さんは、マレットをしまいながら、そういった。その仕草を希さんは、とても興味がありそうに見ているので、

「なにか思い出しましたか?」

と、竹村さんは聞いた。

「い、いえ、たんに素敵だなあと思っただけなんです。ただ、教会の鐘みたいな優しい音色が気に入りました。」

と、希さんはいう。

「教会って、キリスト教の教会ですよね。こちらでは、仏教寺院ばかりで、鐘を付属している教会は、近くにはないですけれど、どちらの教会のことですか?」

竹村さんは希さんにきいた。

「それが、思い出せません。」

希さんはそういう。

「でも、頻繁に教会の鐘の音を聞いたことがあったのですね?」

竹村さんが聞くと、

「はい。それは間違いないです。」

希さんは言った。

そのやり取りを聞いていた水穂さんが、希さんの顔をそっとみて、

「彼女、やはり西洋に住んでいたことは間違いないようですね。」

と、杉ちゃんにいった。

「たしかに。鐘があるチャペルは、なかなか日本にはないぞ。長崎とか、そういうところならあるかもしれないけど、九州へ行ったことはあるのかな?其れも思い出してもらって、希さんの身元をはっきりさせないといかんね。」

杉ちゃんもすぐにいった。

「杉ちゃん、僕は思うのだけど、彼女、記憶を取り戻して良いことがあるのかな?」  

不意に水穂さんは、そういった。

「なんでだ?だって、どこの誰か分かんないと、就職するのも、家族の下へ帰ることもできないよ。」

杉ちゃんはもっともらしく言ったのであるが、

「でも、解離する、つまり記憶をなくすのは、弱い人間が自分を守るためだって、影浦先生もいってたから、彼女は、そのために、何も思い出せないのではないかな?きっと、記憶をなくさなければ、平和なせいかつが、得られないような状況にあったのではないかなと思うんだ。身元だけ思い出させると言うのもうまくいかないよ。彼女は、思い出してはいけないような危険な記憶をもっていて、それを思い出させないように、いまなにも思い出せないのでは?」

と、水穂さんはいうのであった。

「それも一理あるけどさ。」

杉ちゃんは、ため息を付いた。

「でも、やっぱり彼女は、ちゃんと身元を理解したうえで、本当のご家族の下へ、返してあげないと。きっと彼女のご家族も心配してるかもしれないでしょ。」

杉ちゃんが急いでそういうと、

「そうだね。でも、心配しているのなら、もう警察が来てもいいと思うけどね。それがないというのはやっぱり。」

と、水穂さんがそういうと、

「どうもありがとうございました。希さんは、クリスタルボウルのおとを気にいってくれたようです。なんでも、教会の鐘に似た響きがあって懐かしいとか。頻繁に教会の鐘がなっている街に住んでいたのかもしれないですよ。」

と、竹村さんが、クリスタルボウルを片付けながらいった。そのまま、竹村さんは、次のクライアントさんが待っていますのでといって、クリスタルボウルをリアカーに乗せて、製鉄所をあとにした。

それから、数分後。

「こんにちは、水穂さんいらっしゃいますか?あの、由紀子です。」

そういいながらやってきたのは、今西由紀子であった。いつも岳南鉄道の制服をきて、頭には、駅員らしく岳南鉄道の制帽を被っている。特に美人とか、そういうわけではない平凡な女性だけど、制帽を被っていれば、由紀子さんだなとすぐわかった。

「ああ、由紀子さん。今日は仕事早かったんだねえ。最近は夏休みで岳南鉄道は大忙しでは?ほら、自由研究でさあ、最近はローカル線に乗ってみたとか、そういう記事をかいてくる子どもが多いから。」

杉ちゃんがそういうと、由紀子はそうねとだけ言った。

「それで、水穂さんはどうしてる?」

由紀子が聞くと、

「ああ、いつも通り四畳半にいるけど?」

杉ちゃんはすぐに答えた。由紀子は、お礼もいうのをわすれて、すぐ四畳半にいった。鶯張りの廊下が、けたたましいおとをたてた。

「水穂さん具合はどう?最近は雨が多くて大変だけど、大丈夫?ごめんなさいね、最近電車を利用する人が多くて、なかなかコチラにも来られなかったわ。ごめんなさい。」

由紀子は、そういいながら、四畳半にはいった。 

水穂さんは、希さんとなにか話していた。由紀子にしてみれば、初めての珍客だ。なんだか可愛い顔立ちの人で、水穂さんと、話しているのがなんだか由紀子にしてみれば、腹の立つことであった。でも、水穂さんの顔が偉く疲れているように見えたから、由紀子は、すぐに水穂さんの側に駆け寄った。確かに由紀子と希さんを比べてしまうと、平凡な顔つきの由紀子と、可愛い顔立ちの希さんでは、かなりの落差があるようだけど、そんなことは、由紀子は考えている余裕がなかった。

「水穂さん、疲れているんだったら、横になって休みましょう。」

そういう由紀子に、水穂さんは、

「ああ大丈夫ですよ。」

とだけ言うのであるが、本人も疲れてしまったらしく、咳き込んでしまったのであった。すぐに由紀子は、水穂さんに、横になって休んでといった。水穂さんがその通りにすると、由紀子の前に希さんの顔が真正面に来た。由紀子はその女性を真正面に見て、

「あ、あ、あれ。」

と由紀子は思わず言った。

「なんですか?」

希さんがいうと、

「あなた、どこかで見たことある!」

と、由紀子は思わず言った。

「どういうこと?」

希さんがそう言うが、

「いや、私見たことあるわ。なんかすごい賞をもらったとか、そういうことで見たような、、、。名前はどうだったかとか、そういうことは、見たことなかったから、、、。」

由紀子は、希さんの顔を見て考え込んでしまった。水穂さんが、布団の上からそっと起きて、

「なにか有名な人だったんですか?」

と、由紀子に言った。

「水穂さんは、寝ていたほうがいい。そのほうが良いわ。」

由紀子はすぐそれを止めたのであるが、

「だって、どこかで見たことあるって言ってたのは由紀子さんでは無いですか。この人は、身元も何もわかってないんです。ただ名前が松井希さんということだけがわかっているのですが、それ以外何もわかっておりません。今みんなで彼女の身元を調べているのですが、何も出てこなくて。由紀子さんはなにかご存知なのでしょうか?」

水穂さんは、そう話を続けた。

「いえ、あたしもそれしか知っていることはなくて、それ以上ご協力は。」

と由紀子は言ったのであるが、確かにその顔は、由紀子にもなんとなくわかる顔であった。確かに、どこかの月刊誌とか、そういうところに載っていたような気もするのである。だけどどういう人であったか、それが思い出せない。

「そうなんですね。由紀子さん。まあでも、どこかで芸能活動でもしていたのでしょうか。確かにその可能性はあったかもしれないですね。さっき、竹村さんが来られたときも、彼女、教会の鐘の音のことを話しておられました。そういうところから、少しづつ、身元がわかっていくのだと思いますが、ゆっくりやっていきましょうね。」

水穂さんは、そういうのであるが、由紀子は、なんだか希さんが、自分から水穂さんを盗ってしまうのではないかと不安になり、とてもゆっくりやっていこうという気持ちにはなれなかった。

その後、由紀子は、水穂さんや希さんとなにか言葉を交わしたと思うが、何を喋ったかというのは全く覚えていなかった。不思議なもので、人間って、覚えていることと忘れてしまうことがあるらしい。車を運転しているときも、涙が止まらなくてどうしようもなかったのである。

由紀子は、自宅へ帰った。そして、制帽を脱ぐことも忘れて、すぐに自宅にあるノートパソコンに向かった。そして、検索欄に松井希と入れてみる。

確かに、アイドル歌手みたいに出るわ出るわという感じではなかったけれど、でも、芸能ニュースに力を入れている、新聞社のウェブサイトを開くと、松井希さんの名前があった。それによると、何でもウクライナで開かれたバレエコンクールで優勝したということだ。そして、キーウの舞踊学校に入学が決まったことも掲載されていた。それが描かれたのは昨年の生地であった。バレエコンクールで使用した曲は、アルカンという人が書いた、鉄道という曲であることもわかった。それに振り付けをつけた振付師の話も載っていた。しかし、本年になって、彼女のことを示す生地は何も載っていない。引き続きバレエコンクールの動向を調べてみたところ、バレエコンクールは、ウクライナが爆撃されたせいで、中止になってしまっていることもわかった。由紀子は、その女性が、今製鉄所にいる松井希さんだと、直感的に感づいた。それでは、本当に、水穂さんが松井希さんのものになってしまうのではないか、そんな不安で頭の中がいっぱいになった。

次の日、由紀子は、車を走らせて製鉄所に行った。その日は偶然というかわからないけれど仕事はなかったから、製鉄所に行くつもりでいた。急いで製鉄所の入口に飛び込むと、ちょうど希さんが、製鉄所の廊下を掃除していたところだった。由紀子はその顔を見て、昨日のバレエコンクールの記事に掲載されていた女性と同じ顔をしていることを確信した。どう言おうかとか、考えもせずに、言葉が先に出てしまった。

「彼女の身元がわかったわ!彼女はキーウのバレエ学校にいた松井希よ!多分きっと、身分を偽って、ここでなにかしようと企んでいるんだわ!」

「はあ、そうなんだねえ。」

一番初めに返事をしたのは杉ちゃんだった。

「まあ多分彼女にそれを言っても、彼女自分のことだとはわからないと思うって、影浦先生が言ってたよ。だから、まあそれは参考資料程度に留めておくよ。どうもありがとうね。」

「そうじゃなくて、悔しいとか思わないの!こういう身分を隠して来たということは、もしかしたら、ここを乗っ取るつもりではないかとか、そういうこと考えてもいいじゃない!」

由紀子は杉ちゃんに言ったのであるが、杉ちゃんも水穂さんも態度を変えず、

「ですが、それを彼女に伝えたとしても、多分本人は理解できないと思いますよ。それがわかったとしても、今は伝えないであげておきましょう。」

というのであった。希さん本人は、偉く驚いた顔で、持っていた雑巾を落としただけだった。

「あなた、一体何をするつもりなの?身分を偽って、障害者を演じて、ここを乗っ取るつもり!」

「由紀子さん、それはいいすぎです。」

由紀子がそう言うと、水穂さんはそういった。

「そのようなことは毛頭ありませんよ。彼女の表情を見ればわかるじゃありませんか。そういうことだったら、遅かれ早かれ、関係者が来訪するはずですよ。それがまったくないのですから、そのようなことは無いでしょう。」

「そうは言っても、身分の高い人達は何をするかわからないって言ったのは水穂さんでしょう?」

由紀子は、思わず言った。

「それなのに、この女の肩を持つんですか!」

「まあ、とりあえずだな。事実なんてものはただあるだけだよ。それにしても、こんなに早く、彼女の身元がわかるとは思わなかったねえ。なんか警察も本気出してくれないようだから、もう一回電話するかとか、話してたところだっただよ。由紀子さんが教えてくれたおかげでその手間が省けた。いずれにしろ、彼女は、バレリーナであるわけだ。それでちょっと前まで、キーウにいたってことか。それなら辻褄合うよ。かもの娘で泣いたり、教会のこと話してたりしてたもん。由紀子さんありがとうね。助かったぜ。」

杉ちゃんだけ一人ニコニコしていた。杉ちゃんという人は、そういうふうに考えを変えることが出来る人だった。水穂さんはこれからどうしようとえらく困った顔をしている。そして肝心の希さんは、何が起きたのか全くわからないという顔で、天井を見つめているだけであった。

「由紀子さん、彼女のことを悪人扱いするのはやめてくださいね。それよりもこれからどうするかを考えないと。そこから始まるでしょ。」

水穂さんに言われて由紀子はもう何も言えなくなってしまったのであった。どうして水穂さんは自分だけではなくまず他人のことを考えてしまうのだろうか。本当は、自分のことだけを考えるだけで精一杯なのに。それが出来るのは、やはり、彼も新平民であるということだと由紀子は知っているから、水穂さんが余計に可哀想に見えてしまうのであった。他の人達がそれに同じて、なんだか動こうとしているのも由紀子にとってはもどかしくて辛かった。

「まあいいさ、次のステップへ続くときってのは、痛みが伴うもんなのよ。だから、もう気にしないで、自分を取り戻すために頑張ろうな。はははは。」

杉ちゃんだけが、明るかった。



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