結-3
「アザゼルという天使をご存じですか?」
「神に反旗を翻した堕天使とか……」
象徴的な首吊り自殺を考察するうえで、これが事件に占める割合とはいかなものだったのか? 恭个はこれを重要視していた。ゆえに、こうも長々と詭弁を弄して意味ありげに解きほぐそうと試みた。その試みの是非は兎も角……つまり、これがそのもの臼君聖児の気味悪い存在感を象徴していたからに他ならない。
「私は近衛さんがなぜあなたの助言を受け入れてまで町ひとつを包み込む幻想を起動させることにしたのかは解らない。それは私が知る権利もないし、なによりそれに興味がなかったということもある」
究極、臼君聖児はこの事件に直接手を下していないのだから。
「私が巻き込まれたのも、実のところ偶然のようなものだったんじゃないか、と考えられなくもない」
臼君聖児にとってはこれもまた一つの啓示として受け取れる因子になったに違いない。
「あなたに唆され、繭子さんの遺骨を盗み、奥座敷に鎮座することで近衛さんの中である想定以上の現象が発生した。私は彼女の判断によって召喚された。これはあなたにとってはいい兆しだったかもしれない。真相は解りませんがね」
あるいは、託宣を下す巫女の声を聞いた可能性だって完全に否定することはできない。
「悪い知恵を授けた黒幕。人間を愛するがゆえに知恵を授ける堕天使が暗躍していた」
「私がアザゼルのようだと? まったく! 想像もつかないようなことを言う。私には畏れ多いことを……しかし、それはあなたなりの最上級の賞賛と受け取らせてもらって構わないのでしょう?」
「謙遜されるのも腹立たしいですが、ちっ――開き直られるとなお始末に悪い」
だから、芸術家だのと言う人種はいけ好かない。臼君聖児を推して総体となる芸術全般を皮肉ることは恭个もナンセンスであることを理解している。しかし、彼女のような自意識の持つ、自信を野放しにはできない。さっきも言ったが、正義と悪を明確に区分するのは難しい。それに、そのような二元論に意味などない。ただしそのどちらの領域にも触れていない純粋とされるカテゴリーこそ最も御しがたく厄介な性質だということを知っている。
「人間の女性に惹かれた神聖が、統治下にある人間と交わる禁を犯し児を成す。象徴的なんですよこの元天使も。臼君聖児っていう影も。どこか共通のイメージが通っている。これは偶然ですか? 正直私の理解の範疇を越えていることだけは確からしい」
それは、繭子の部屋に飾られていたセイレーンのような母性。初めから、臼君聖児にはそれしかなかったのだ。有り余る母性は紙一重で狂気と化す。ゆえに、聖性に暗い影を落とす、あのような陰鬱な雰囲気の絵が一枚、完成した。
繭子に対する母性か。あの地獄に存在した神秘に対する母性か。
どのように考えようと答えは出ない。だが、この臼君聖児の孕む母性は正常な精神では容認できない危うさによって均衡を保っているようだ。
その瞬間、自分の言葉から導き出された意外な解答に戦慄を覚えた。いやしかし……。そこでゆらりとひらめく手のひらを表に、そこに白々とした炎を掴んで見せる。
「堂々巡りの末の考えたくもない結論……この炎が見えますか? あなたにはなじみの深い聖性というやつなのか私にも解らないが、現にこうして何もない空間から私は火を発生させることができる」
あるいは、許容量以上の情報を有しているに違いない幽霊という存在を目視すると脳の容量は容易く限界を超え恭个は気絶をする。
「私はよく知っているこの世の中には説明のつかない異常な現象が存在し、あたかもそれに意味があるように錯覚してしまう現実が――」
臼君聖児は見ていた。いつだってその情景が現実として現れる説明のつかない絵画たちの中に。
「最後まで繭子さんの手足の骨は見つかっていないんです……いつどこで失ったかもわからないその骨は間違いなく聖性を帯びた触媒たりえる」
――だから、自分の作品に聖女の骨粉を混ぜた顔料を使用したな。託宣の巫女。それは思い描いた世界を現前させるに十分な神秘を発現させた。純粋とも呼べる願いに向かって……。
それを受けてなお、ただただ興味津津とした猫の目で見つめてくる臼君聖児のその瞳の奥に隠された満月の存在を計り知ることは叶わなかった。
あれこれ考えが廻った末に恭个の口から零れ落ちた言葉はそれをよく表す一言だった。
「……気持ちが悪い」
唾棄するかのように。吐き捨てられた言葉は桜の花びらのように一瞬ひらめき潔く散った印象だった。
臼君聖児は微笑を浮かべている。どこまでも偽りのない笑みに対して付け加える。
「気持ちが悪い」
恭个には理解できない。その正邪を問わない無償の愛情を。歪んだ母性に視る怪物じみた異形の愛を。世界を捻じ曲げる狂気じみた純粋を。
なぜ愛せる。それでなぜ臼君聖児は成立するのか。まったく相容れない。それは、巡り合ったその瞬間から解りきった事だったように思える。
膨らんだ胎。今はまだほんの芽生えた瞬間にすぎない。
優しく撫ぜる腹部に。迎え入れた神秘を愛でる。紛れもないまごころに、どうしようもない不安を見つめるのはいずれ恭个も辿り着く涯を予言しているようで恐ろしい。
途方もなく恐ろしかった。
またいつかどこかで、再会することはあるか。まったく別の形で、それと気が付かない出会いが。奇妙な縁が結ばれる可能性を危惧して、暗澹と沈む。
沈むのはいつだって心地よい。この気分の沈潜も。
すべて心地よさに流されていく。早咲く桜の花吹雪を一身に浴びた次の瞬間、臼君聖児の姿はそこにはなかった。
「時期には早いお花見というのも素敵だと思うけど、私を無視してぶつぶつと独り言をなんて……不気味」
顔をしかめる伊折の存在に気が付いた恭个は、ああ、と意味をなさない呻きと共に我に返る。伊折の稀に見る動揺ぶりは貴重な光景だった。
桜の木の見せる幻想だったのか?
いいえ、それは確かにそこに存在し、この私の前に現れ消えた。はじまりとおわりの時に。
臼君聖児は幽霊だ。この観念はレトリックのようなものだったはず。しかし、果たしてこれをどうやって説明すればいいか。
「臼君聖児の視野は次元が違うのかもしれないな。ああ、だから画家なんていう酔狂な人間を演じているわけだ」
「言っている意味が全く解らないわ」
「知る必要のないこと。これはこの世に生きる上では弁えておく必要がある」
「説教臭くって……まあ、いいわ。こんな町さっさと出て行ってしまいましょう」
後腐れのない背を認めながら思う。『安曇野伊折』とは何なのかを。あるいは、とも考える。被創造物は創造主を認識することができないのでは? と。
それはそれで都合のいいことだったかもしれない。臼君聖児という人間を前にした時、伊折の心情に要らぬ変化があっては、今後彼女を独占することが難しくなってしまう恐れもあったはず。
『安曇野伊折』のイメージは確かに臼君聖児の中、世を侵食する創造の一種として存在していたのだろう。それに関しては感謝することしかできない。しかし、これだけは誰にも譲りたくない。恭个は思った。
私が認めた存在こそ安曇野伊折だったのだと。
そして、きっと。あるいは、
「私にとって伊折は――」
刻印。それも呪いの類の……。
下らない、とその考えを振り払う。
恭个は伊折の背中を追いかける。進むべき道はない。ただ漠然と北に向かうことを選ぶ。
空には美しい白鳥が南へ真っ直ぐと飛行していった。それは、存在するはずのない美しさで。
長かった白日夢が終わっていく。町の外に近付くにつれその実感が湧いてくる。
地中深く、桜の木の根が絡み合う大きな町で。
まるで長い夢を見ていたような気怠い尾を引きずりながら、恭个は櫻見町を立ち去った。
天使地獄 由良 となえ @kyo-ka
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