カウフマン子爵領から
ジュールは目覚めるまで夢も見ず、ただ一瞬で時間が過ぎたように錯覚した。寝起きも万全、体のどこも痛まない程よい心地。起きたことに気付いた医者がずたずたと被っていた布を剥ぎ取って問診を始めるまで、彼はちゅんちゅん鳥の啼く外を眺めていたぐらいである。
「中はまだ完治してないけどまぁ歩ける程度には回復したようだね」
「……そうか」
「さて、君にはこれからせっせと動いてもらわないと行けないんだ。着替えはいいからその臭い体を流してきてくれ」
降ってわいた謎の暴言にジュールは理不尽さを感じつつ、脇を少し匂って用意されたタオルをもって水場に向かった。
「右だよ!入って右!」
医者の助言に耳から耳に聞き流し、水桶の中身をぶちまけた。
「あっつ!」
善意で温められたお湯であったが、善人はまさかジュールが一気に水を被ることは想定していなかったらしい。乱雑な水かけは少ない水で身体を綺麗にするために編み出した方法である。実際のところ、今の状況は彼が落ち着いていなかっただけだろう。
「あっははは!ごめん、ごめん!」
「み、ふ、普通の水を!」
「はいこれ!」
開いた壁の隙間から水の満ち満ちた桶が現れ、ザブンと頭から被った。
「おあっ?!」
ただのお湯である。
「あは、あはは!石鹸、貸してもらえるらしいから全部洗っちゃって!」
返された桶、入れられる桶、それを数回繰り返した後ジュールの入浴は終わる。シェビークリスタル以前からというもの十数日の温かい水は、彼の傷ついた体に深く染み込んだ。しかし悪いとは思っていない。
北方の土地で入った温泉と言うのは魔物との戦闘で木津着いた体にも優しく作用し、四人共々すぐに次の依頼を受けることが出来た。効能というらしかったが、お湯としか分からないジュールにはどれも一緒なのだ。
鳴れたお湯を浴び終って真っ白いタオルで身体を拭き、街で買っていた服を着直したジュールは寝ていた部屋に戻った。
「うわぁ良い匂い」
浴室から上がったジュールはさながら動く芳香剤である。
「もうなれちゃったんだよな……」
くんくんと体に鼻を押し付けるがさっぱりいい匂いとやらが分からない。それはともかくと、ジュールはベットに座って寝ていた間の話を聞いた。
「回復魔法から洩れるなんて、はは……」
「ごめん。神聖魔法の系列でしか回復魔法が無いの知らなくて」
「回復魔法……?」
ジュールの記憶が正しければ魔法使いのキュリーも回復魔法を使えていたはずである。信奉者にしか使えないというならば、キュリーは女神を信仰していることになる。もしくは異端、しかしとジュールはその予想を考えるのを止めた。
異端であるなら仲間殺しは最も忌避する。そうジュールは信じたかった。
「……ジュール?」
「あ、ああうん。考え事、昔の仲間のことだ」
心配そうな視線から目を逸らす。
「洗い終わったようだね」
逸らした先にも話の種は尽きそうにない。
女医は椅子を手繰り寄せて座った。肘を机に手を顎にあて、人生が面倒と顔に書いてあるようだ。
「ドロシーから子爵のことは聞いたかい」
「子爵?カウフマン子爵のことか?」
「そう。その人に二人を紹介するって話」
ジュールは衝撃のあまり体が動かなくなった。
「同じ異端同士。生き延びたい気持ちは一緒だよ。カウフマン君は女神も異端も関係ない考え方を持ってるし、何より彼は手駒を欲してるからね。二人を受け入れてくれるさ」
「手駒を欲す子爵……ね」
「まぁ直接子爵に聞いてくれ給え、首が飛んでも知らないけど」
冗談らしい口調ではなかった。伯爵並みの力を持つ子爵の前では次の一手を予想して発言することにリスクが伴うようだと、ジュールとドロシーは緊張感を持つ。気の難しい人という偏見が二人の共通認識になった。
「へんなことをしない限りは、大丈夫。私が保証しよう」
女医の耳がぴくぴくと動き、何やら物々しい気配が近づいてくる。港町の住民が何事かと家の外に出てあったりなあったりの会話をしているようだ。
その様子に女医は全く焦らず、二人に立ち上がるよう言う。
「さぁ立て。お迎えが来たよ」
診察所を出ると屋根付きの馬車が止まっていた。来客用の馬車はジュールとドロシーが見たこともないほど豪華に装飾がちりばめられ、貴族の権力を誇示するように威厳を放っている。
「お待たせしました」
「遅いじゃないか。ウォルター君」
馬車の扉が開ききった途端に女医は文句を言った。
「相変わらずですね。ガロア先生」
元冒険者の想像以上に若い子爵の登場に平伏するのも忘れてしまったのだった。
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