05

「ふんふふーん」


 鼻歌を鳴らしながら、揚羽は大学のキャンパス内を歩く。

 揚羽の通う大学は、それなりの学生数を誇るものだった。全国的にとまでは言わないが、それなりに様々な地域から入学希望者が来る程度には有名である。当然平日の昼間なら学生は多く、授業の合間では多くの学生が廊下を歩いていた。

 ……少し前までは。

 今では、学生の姿は殆ど見掛けない。いてもそれらの学生は揚羽の姿を見るやびくりと身体を跳ねさせ、逃げるように立ち去っていく。

 ただ、揚羽自身を攻撃する者はいない。彼等が慄いているのは別の存在に対してであり、何より誰も気付いていないのだ。

 揚羽がこの惨状の元凶だとは。


「よっこいしょっと」


 キャンパス内の食堂に辿り着いた揚羽は、空いている席……尤も大半が空席だが。間もなく昼食時だというのに……に座った。キッチンから鳴る物音は疎らで、働いている人の数も少ない。

 訪れる学生がいないというのもあるが、食堂の従業員達もなのだろう。


「検索検索〜っと」


 それを理解しながら、揚羽は気にも留めず。自前のノートパソコンを開き、大学構内のWiFiに接続。ネットへのアクセスを行う。

 検索して向かった先は、大学のある市のホームページ。

 そこには今月確認された、市の出生数と死亡数が記されていた。これだけ見ても大した事は分からないが……という数を見れば、なんらかの異様さは感じられるだろう。

 ここから前月、前々月と辿れば、様々な知見が得られる。

 例えば死亡数が、月を経るほど増えている事もその一つ。そして死亡数が増加しているのは、この市ではない。市を中心にした近隣地域でも、少しずつだが死亡数の増加が確認出来た。

 来月は果たしてどうなっているだろうか。再来月は? この広がりが県を越え、東京や神奈川など人口密集地に到達したら何が起きるか……


「予想通りの結果ね」


 その『発端』である揚羽は、笑う。

 発端と言っても揚羽は大した事などしていない。やった事は極めて些細な、客観的にはつまらない事。

 耳声霊の話を、大学キャンパス内で言い広めただけだ。

 その言い広めた人数も、ほんの三人だけ。誰に話したかの記録も取った。それ以外の事は何もしていない。無理やり話を聞かせる事も、広がるのを促すような事もしなかった。

 そんな事をしたら正しいデータにならない。これでは『研究』のノイズになってしまう。


「広がり方も、大方予想通り」


「     」


「あら、あなたも満足? 前と違って全然怖くないわよ」


 耳許で聞こえた囁きに軽口を返す。背後にぴたりと張り付く気配も感じたが、どうとも思わない。

 耳声霊のうわさを聞いてから、かれこれも経っている。

 覚えていると一月後に死ぬ。そんなうわさである耳声霊の内容を、揚羽は今でも覚えている。しかしこうして大学キャンパスに来ているように、揚羽は健在だ。多少寝不足なぐらいで、健康上の不安はあまりない。その寝不足も研究に没頭している所為であり、耳許の囁きや気配とは無関係。意識すれば改善は可能だ。

 今や幻聴と気配のどちらも長い付き合いになり、冷静に受け流せる。更に日々考察する事で、様々な事を理解出来た。

 確信こそないが、耳声霊の正体について大凡纏める事も出来た。


「(まぁ、正体も何も、私自身なんだけど)」


 その仮説通りなら耳声霊とはであるため、先程如何にも幽霊か何かのように話し掛けた揚羽はくすりと自嘲する。

 耳声霊の正体。揚羽が予想するそれは、自分の脳に刻まれた『記憶』である。

 そもそも記憶とは何か。答えは脳の神経細胞同士の繋がりと、そこを行き交う電気信号により生じるものだ。記憶自体に実態はなく、ただの情報交換に過ぎない。だが、その記憶を想起する過程で脳には電気やホルモンが行き交う。

 この際、周りにある神経を少なからず巻き込む事がある筈だ。

 脳がなんらかの反応をした際、その反応とは関係ない場所を刺激する実例として、共感覚がある。一部の人間は、言葉に色を感じたり、音に味を感じたりするという。人間の感覚というのは存外きっちり分かれていないものなのだ。「黄色い悲鳴」や「冷たい言葉」などの表現があるぐらいなので、意識しないだけで人の感覚は何時も『混線』しているものかも知れない。

 そして普通ならば、これで大きな問題は起きない。言葉が冷たく感じたところで、生きていく上で不都合などないのだから。

 ――――耳声霊という例外を除いて。


「(うわさ、というより物語は複数の単語を繋げたもの。つまり複数の記憶の集合体と言える)」


 耳声霊という名称。一ヶ月という期間。鼓膜を自分で破るという奇行。死ぬという末路……様々な記憶が想起される度、複数の脳神経が刺激される。その刺激範囲が聴覚や触覚に関わる場所と重なれば、幻聴や気配を感じさせる事もあり得るだろう。感情部分も刺激すれば、止め処ない恐怖や不安だって感じてしまう。

 それが耳声霊の話を聞いた時に生じる、様々な幻覚の正体。揚羽はそう確信している。

 事実揚羽はうわさを聞いてからもう半年も経っているが、未だ死ぬ気配は微塵もない。牧原やその両親が亡くなったのは、睡眠不足や極度のストレスによるもの。揚羽の体験したあの恐怖が毎日続く事に、普通の人間は長く耐えられないというだけ。死因は恐らく不摂生による心筋梗塞。うわさ通り一ヶ月で死んだのも偶々そうなっただけで、人によって多少の差はあるだろう。

 ……と、これだけなら奇妙で不気味な現象として終わりだ。銀歯を入れたらラジオが聞こえた、という都市伝説の科学的実例のようなもの。死者が出たのは忌むべき事だが、人類や社会にはなんの影響もない出来事である。

 だが、耳声霊の効果はそれだけではなかった。


「(人に話したがる、話す事への衝動さえも刺激する)」


 人間の行動は、脳によりコントロールされている。精神だの心だのも、全て脳内物質や電気により生み出されたものだ。

 言い換えれば脳内物質や電気を制御すれば、人間の『心』を操作する事は容易い。実際覚醒剤などの薬物依存は、脳の報酬系に関与する事で強烈な依存症を引き起こす。

 耳声霊の記憶は、恐らく会話衝動を誘発するよう脳神経を刺激する。耳声霊のうわさを話したくて堪らない状態にし、そしていざ話すと――――満たされた気持ちを抱かせる。幻聴や気配と共に感じていた恐怖が吹き飛ぶほど、強烈な安堵感と共に。

 不安から解放され、一気に幸福感を与えられる。この落差に耐えられる人間は皆無であり、快感のまま誰彼構わず耳声霊について話して回るようになる。仮に耐えたところで、やがてまた幻聴や気配が現れ、再び恐怖に見舞われる。一度解決法逃げ道を知った者に、それを堪える事など出来やしない。

 そうして話を聞かされた者も、耳声霊の記憶に侵される。幻聴などと共に恐怖を覚え、やがて耳声霊について話したくて堪らなくなり、誰かに話してしまう。そして聞かされた誰かは、また別の誰かに話す……

 さながら咳で周囲に感染していく、ウイルスのような『うわさ記憶』。それこそが耳声霊なのだ。


「(まぁ、全部私の想像だけど)」


 ここまでの話に物質的な証拠はなく、状況からの推測でしかない。

 だからこそ揚羽は実験を行った。

 耳声霊のうわさを意図的に流し、その流行度合いと『死者数』を数えたのだ。耳声霊の正体がうわさであれば、うわさが広まるほど犠牲者数が増えていく。ネット上で語られる情報も収集し、その賑わいを予測する。

 結果、現時点で一日当たり二十人ほどが耳声霊の悪影響で死んでいると思われる。皆うわさを聞いて一ヶ月程度で死んでいると推定し、尚且つ毎日同程度の死者が出ると仮定すれば……耳声霊の話を今知っている人間は、凡そ六百人前後か。

 揚羽一人から、六百倍もうわさは拡散した。その事実を認識した瞬間、幸福感が全身を駆け巡る。

 うわさの『拡散』を実感する。これでも揚羽の脳は快感を覚える事が出来た。半年の経験から言うと、この快感に浸っている最中なら幻聴や気配を感じてもまるで怖くない。幸福感が恐怖を中和しているのだろう。お陰で睡眠時を妨げられる事もない。

 この仮説が正しければ、生命を脅かすのはあくまでもストレスと、それに伴う睡眠不足だ。ならばそのストレスを消す……セロトニン幸福物質の分泌を促す薬などを使えば改善出来るだろう。気持ちが落ち着けば幻覚も怖くなくなり、上手くいけば耳声霊の事も忘れられる。つまり『治療可能』という事だ。


「(まぁ、現代科学が耳声霊を認めればの話だけど)」


 過去の出来事記憶が日常生活に影響を与える例は、トラウマなどが有名だろう。しかし正式名称が心的外傷というように、当人にとって極めて強烈な出来事により起きる。

 対して耳声霊は小学生でも怖がらない、ただの単語の羅列。それを覚えるだけで、薬物依存が如く精神状態を狂わされる。こんな事象は過去に報告されていない。つまり全く未知の出来事だ。

 科学の世界で、新しいものが認められるには時間が掛かる。しっかりとした論文を書き上げても、まずは査読者による審査を受け、それが通らねば学術雑誌などには載らない。また査読自体は論文の正しさを保証するものではなく、載った後研究者による追証・反証が行われる。そしてこの結果から必要な修正を行い、 また提出して、更に反論されて……これを繰り返してようやく学会に認められる。

 簡単なものでも認められるのに数年掛かるなど珍しくない。耳声霊のように全く新しい概念なら、十年二十年経っても議論されるだろう。無論治療法などの研究は、その後にされるものだ。

 つまり今後十年、耳声霊はほぼ野放しになる。

 今の時点で、揚羽の地元自治体は混乱している。一ヶ月だけ死者が極端に多いなら偶々とも言えるが、半年間徐々に増えている状況では見て見ぬふりも出来まい。先日はマスコミも取材に来て、テレビ報道もされた。

 しかし科学的裏付けがない以上、行政が本気になっても事態の収束などしようがない。耳声霊は際限なく増え続け、いずれは日本中に広まる。無論被害者も増え続ける。十年どころか、数年後に日本は一体どうなっているのか……


「(そこまで理解して、それでも幸福感を覚える。ほんと厄介な性質ね)」


 被害の拡大を、心から喜んでしまう揚羽。止めようという気すら湧かないぐらい、耳声霊の衝動に飲まれてしまった。自力ではもう止められず、誰も耳声霊を知らない故に止められる事もない。

 充実感を抱きながら、未来に想いを馳せる。

 ……耳声霊のうわさは、最早完全に揚羽の手を離れた。揚羽の知らない人々が、それぞれの知り合いに話している。

 その内容は、きっと揚羽の知る耳声霊とは少し異なるものだろう。

 理由は簡単。うわさとはそういうものだから。記憶違いや言葉足らず、思い込みやその場の雰囲気に合わせた誇張、単純な言い間違いなどを経てうわさは変容していく。過去には「信用金庫は(強盗が現れて)危ない」という冗談が、ほんの二〜三人経由しただけで特定の金融機関が潰れるという話になったという『実例』もある。耳声霊のうわさもいずれ死ぬまでの期間どころか名前さえ変わり、今までなかった物語があれこれと付随するだろう。

 これは記憶の変化でもある。変化した内容次第では、幻覚などの症状も変化するだろう。幻聴などがさっぱり消え去る事もあり得るが、中にはより苛烈な症状を引き起こすものも起こり得る。

 そして中には、よりうわさの拡散を促すものが生じる筈だ。

 拡散を促すうわさは、更に多くの人に広まっていく。その中から更に広まりやすいものが、より人々の記憶に定着しやすいものが

 さながら生物進化のように、人という環境に適応したうわさが数を増やす。その『進化』がどのようなものか、正確に予測する事は難しい。だが生物進化の原則を踏まえれば、大まかな方向性を幾つかピックアップする事は可能だ。

 耳声霊はただの記憶なのだから、人間を殺そうとは微塵も考えていない。しかし増殖する際、話自体を忘れ去られては困るし、口を閉ざされてはどうにもならない。心霊体験のような幻覚は、忘れ去られないための機能。話す快感は増殖を促すための仕組みだろう。これらの『生態』のお陰で、これほどまでに耳声霊は繁殖した。

 今後も耳声霊は、より忘れ去られず、より語られる方へと進化していく筈。

 より臨場感のある幻覚により、人間達を苦しめるかも知れない。言語中枢に干渉し、無理矢理にでも耳声霊の話をさせるかも知れない。聞いた人間の脳にすんなり入り込む、感染力の高いものに変わるかも知れない。

 一つ言える事があるとすれば、揚羽の地元で起きている悲劇は序章に過ぎないという事。


「はぁ。楽しみ」


 その惨劇を想像するだけで、揚羽は胸から込み上がる悦楽に、頬を赤らめるのだった。

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耳声霊 彼岸花 @Star_SIX_778

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