04

「亡く、なった?」


 思わず、揚羽は言われた言葉を繰り返してしまう。

 よく晴れた夏の市街地。昨今の異常な高温もあって、道路上は比喩でなく生命が危険なほどの暑さに見舞われている。肌は熱波と紫外線で焼かれ、ひりひりとした痛みが感じられた。

 その暑さを体感しながら、揚羽は自身の身体が一気に冷えていくのを感じる。

 目の前にいる、如何にもうわさ好きそうな中年女性の一言によって。


「そうなのよー、牧原さんちのご夫婦。一昨日の朝、二人とも亡くなったらしいのよ!」


 中年女性はさも重大ニュースであるかのように、そして(隠しているつもりかも知れないが)楽しそうに語る。

 当の牧原家の前で。

 ……揚羽は牧原の両親から、ここ最近の牧原について聞こうと思っていた。とはいえ娘を亡くしたばかりの二人からすれば、思い出したくもない話かも知れない。端から興味本位だと思われ、ろくな会話も出来ないうちに出禁となる可能性もある。故に話を聞けない事自体は想定済みだ。

 だが、二人とも死んでいるとは流石に思わなかった。

 それも一昨日という事は、会おうと考えた日の朝には亡くなっていたらしい。あと数日早く動いていれば、という後悔が心の底から湧き出す。

 尤も、そんなものは些末な事だ。

 真の問題は、の方である。


「……その、死因とかはご存知でしょうか?」


「うーん、私も人伝に聞いただけなんだけど、どうやら心不全らしいわ。娘さんとおんなじ!」


「心不全……」


「旦那さんの方は糖尿とかいう話もあったけど、奥さんの方はそういうの全然なかったのにねぇ。それにね!」


 揚羽が言葉を失っていると、中年女性は聞いてもいない事を次々と話し出す。

 曰く、牧原夫妻は亡くなる一週間前から行動がおかしかったらしい。

 元々はよく外出をし、近所付き合いもある明るい夫婦だったが……ここ一週間はあまり外で見掛けなくなった。偶に見掛けても怯えたようにビクビクしていて、常に周りを気にしていたという。会話の最中もやたらそわそわしており、話が脈絡もなく変わったという者もいる。

 そしてしばらく姿を見掛けなかったが、夫の勤め先が無断欠勤を心配して警察と共に自宅を訪れ――――遺体が発見されたのが、一昨日の出来事らしい。

 話の半分ぐらいは至極どうでも良いものだったが、『意味』のある部分を抽出すると大凡こんなものだった。


「……それはまた、少し不気味さを感じますね」


「でしょう? 心不全で亡くなったって話だけど、私は薬物とか疑ってるわ。奥さんも旦那さんも明るい性格だけど、ちょっと神経質そうなんだもの!」


 薬物云々は絶対このおばさんの憶測妄想だな……揚羽はそう思いつつ、彼女の言葉について考える。

 見た目通りうわさ好き、というより情報をうわさに変えてしまう元凶のような人だ。正直話している内容を信じていいか、かなり疑わしい。会話相手も似たようなものと思うと、九割ぐらい出鱈目でも驚かない。

 しかし悪意はないだろう。純粋に情報を増やしたつもりで、根も葉もない事を言っているだけ。悪意がある方が、意図が見え隠れするだけマシかも知れないが。


「(信用出来るのは、死亡時期と発見の経緯ぐらいかな)」


 旦那の無断欠勤が発見のきっかけというのも、(一般的には一人暮らしでの話だが)死体発見のケースとしては珍しくもない。即日確認されたのも、普段から真面目な勤務態度であれば、さしておかしな事ではあるまい。

 一昨日だけでなく三日前も平日。普通なら三日前も旦那は出勤していた筈であるため、予想される夫婦の死亡時刻は三日前の夜から一昨日の朝の間となる。

 牧原が死んだのと同じ時間帯だ。


「(心不全だけじゃ死因が同じとは言えやいけど、外傷や薬物ではないからそう言われている筈。これはただの偶然?)」


 心臓がなんらかの要因、それこそ心筋梗塞などで止まるなんて、歳を取った人間の死因としてはあり触れている。牧原大学生の両親であれば若く見積もっても四十代、昨今なら五十ぐらいでも普通だろう。現代社会ならまだ『若い』方だが、心筋梗塞などのリスクは確実に高まっている。突然死をしたとしても、不幸ではあっても不思議はない。

 ――――他諸々の異常さに目を瞑れば。

 会社に連絡が行かなかったからには、牧原夫妻は恐らくほぼ同時に心不全を起こした筈。偶然と考えるにはあまりにも不運な重なりだ。

 そして娘である牧原と同じ死因原因不明なのも気になる。親子であれば体質・生活習慣が似るため、掛かる病気も似るのは論理的な話。だが三人全員が心不全で亡くなるのは、些か奇妙に思える。

 どれか一つだけなら、珍しい事例で片付けられただろう。しかし三つも重なるのは、奇跡と呼ぶには不気味過ぎる。

 それでも確信と呼ぶには、少々証拠が足りないが……


「……先程言っていた、脈絡なく変わる話というのはどんなものなのですか?」


「ん? うーん、なんだったかしら。私が聞いたのは一週間ぐらい前なんだけど、なんか聞いたら駄目な言葉とかなんとか。えっと、じ、じか……?」


 興味がなかったのか、唐突な話題故の困惑からか。中年女性は話の詳細を覚えていない様子だ。

 しかし頭文字が出てくれば十分。


「……耳声霊、では?」


「ああ、それよそれ! あなたも知ってるなんて、有名な話なのかしら?」


 中年女性は本当に今の今まで忘れていたのか、とても清々しい笑みを浮かべた。

 適当な事を言ってる可能性も、未だゼロではない。だが十中八九、本当に耳声霊の話が牧原夫妻から出たのだろう。

 それは異様な事だ。

 牧原の両親も耳声霊の話を知っていた。牧原から聞いたのか、或いは牧原は両親から聞いたのか。いずれにせよ同じ死に方をした人間が、同じ話を知っていた事になる。

 そう、覚えていたら一ヶ月に死ぬうわさを。

 果たしてこれは偶然なのか。自分の精神状態が良くない事は、揚羽もよく自覚している。だから都合の良い情報を意図的に結び付けているかも知れない。客観的な意見がないために、揚羽自身には判別が付かなかった。

 しかしそんな事はどうでも良い。今、揚羽がやりたい事はただ一つ。


「く、詳しくお教え、しましょうか……?」


 


「ん? ……遠慮しとくわぁ。私、そういうの全然興味ないし」


「そ、そう、ですか」


「あっ。そろそろ買い物行かないと」


 中年女性はそう言うと、そそくさとこの場を後にする。

 灼熱の太陽光が降り注ぐ中、揚羽は女性の後ろ姿をじっと見てしまう。

 やがて中年女性が見えなくなったところで、ようやく我を取り戻す。そして自分のした事を、今更になって自覚した。


「なんで……私、今話そうとした……!?」


 牧原夫妻が耳声霊について話していた。情報としてはそれだけ得られれば十分であるし、そもそも耳声霊について中年女性に教える必要性は全くない。

 それが分からないほど、揚羽は人とのコミュニケーションが苦手ではない。なのにあの瞬間、話したいという気持ちで頭が埋め尽くされた。他に聞くべき事が何かさえ考えられず、牧原夫妻が耳声霊について知っていたという重大な情報を聞きながら、どうでも良いとすら感じていた。

 明らかに普通ではない状態だと、今なら分かる。

 興奮が冷めて客観的な判断が下せるようになった、と言えば聞こえは良い。だがそんな前向きなものには到底思えない。


「(この状態が、牧原や牧原夫妻にも起きていたなら……色々説明が付く)」


 何故牧原は揚羽に話し掛けてきたのか。

 何故牧原の両親は近所の人達に、耳声霊について話したのか。

 答えはあまりに単純。耳声霊について話したくなったから話したのだ。そしてその瞬間、人間的な理性はすっかり消えてしまう。我慢するという考え自体が失われる。

 これが、ただの精神疾患? そんな訳がない。

 恐らくコイツは、人の心を操るような『怪異』だ。怪異など非科学的だとは思うが、そうとしか今は考えられない。

 人間の知性がどれだけ優れていても、使い方は結局のところ気分一つだ。人間がその気になれば環境破壊や生態系保護の問題は解決出来るのに、人々の気持ち一つでやる気が出ないように。それほどまでに人間の行動の根幹である気持ちを弄られては、対抗なんて出来っこない。

 今になって揚羽は思う。心の奥底では、耳声霊は人間の力で『管理』出来ると。

 だがそれは傲慢だったのではないか。心を操る奴等は、人の手に負える存在ではない――――


「     」


 不意に耳許で聞こえる、囁き声。

 背後にぴたりと、気配が現れた。ようやく気付いたかと言わんばかりに、張り付くような近さで。

 視界の両側から手が伸びてくる。見えないし、触れてもこない。だが生きた人間を思わせる体温が、頬を生ぬるく温めていく。

 何時もと変わらない手口。だが突き付けられた『現実』を前にした今の揚羽は、何時もの余裕がない。


「は、ぁ、はぁ……はぁ……!」


 息が詰まる。心臓が激しく鼓動し、冷や汗が吹き出す。

 慣れたと思っていたのに。克服した気になっていたのに。

 身が凍り付くほどの恐怖が、血流と共に全身へと広がるような感覚に見舞われた。今すぐ此処から逃げ出したいのに、全身が強張って動かない。口も震えて、叫ぶ事さえ出来ない。

 誰かに助けてほしいが、見渡せる範囲に人の姿はない。もっと広く、後ろなども見れば誰かいるかも知れないが、震え上がった身体はろくに動かず。それ以前に気配がする背後を見る勇気が湧かない。溢れ出す恐怖が、頭の中を塗り潰す。


「(ヤバいヤバいヤバい……!)」


 感情が抑え込めない。大きくなる恐怖心に、理性が押し出されていく。この恐怖さえも、耳声霊によって操られているのではないか。

 このまま恐怖に飲み込まれたら? 恐らく二度と立ち直れない。湧き立つ衝動のまま行動し、一生後ろを振り返る事も出来なくなるだろう。

 そうなったらお終いだ。自我などあってないようなものになってしまう。


「(どうしたら、何をしたら……)」


 恐怖から逃れたい一心で、揚羽は思考に没頭する。自分に何が出来るか、どうすれば恐怖と死から逃れられるか考える。

 考えたから、気付く。

 


「(……………ああ。そういう、事、か)」


 最初から、助かる方法はあった。

 話を忘れる事だ。最初から語られていた通りに。あの中年女性はなんの興味もなくて、だから忘れてしまい、耳声霊に苦しめられる事もなかった。恐らく今日聞いた事も、家に帰る頃にはすっかり忘れているだろう。

 しかし揚羽に同じ手は使えない。最早忘れるには深入りし過ぎたのに加え、耳声霊は頻繁に『出現』する。記憶を固着させようとしているかのように。

 もう、耳声霊から逃れる術はない。

 だが……


「(なんで覚えていると駄目なの?)」


 それでも疑問が浮かぶのは、揚羽が根っからの学者肌だからか。

 人智の及ばない怪異だから、と言えばそれまでだろう。されど本当にこれは『怪異』なのか。

 そもそもこの世にそんなものがあるのか。恐怖から先程までなんとなくそんな存在と仮定していたが、本当にそれで合っているのか。

 人類は世界の全てを知っている訳ではない。だが世界の根幹である物理法則は知っている。それを無視する怪異なんて存在がいるとは、科学的には考え難い。

 とはいえ現実的な存在と仮定すると、それはそれで問題が生じる。なんらかの感染症なら、耳声霊を覚えているかどうかなど関係あるまい。精神疾患であればトラウマの想起という例があるため、覚えているか否かは大事だが……耳声霊自体は面白味のないただのうわさ話だ。極度の怖がりなら兎も角、怪談好きである揚羽にとってトラウマになるとは考え辛い。


「(重要なのは覚えている事? うわさと共に広まる怪異と思っていたけど、そうではなくて――――)」


 思考すると恐怖が薄れる。好奇心が不安を打ち消す。心臓は鼓動し、冷や汗も出て、嫌な感覚もあるが、意識は決して塗り潰されない。

 思考の果てに一つの答えに辿り着くと、いよいよ恐怖はなくなった。

 恐怖する必要もなくなった。予想通りであれば、揚羽はそう簡単には死なないし、心も乗っ取られた訳ではないのだから。コントロールは難しいが、不可能ではない。


「そうか、そうか……!」


 答えが見えれば、揚羽の顔に笑みが戻る。彼女は生粋の科学者気質。未知の存在を、うわさの『正体』を解き明かせば、どうしたって気持ちは高ぶってしまう。

 とはいえ解明したものは、あくまでも想像。仮説とも言えない空想の産物に過ぎない。

 これが確かであると証明するには、


使……」


 ぼつりと独りごちた言葉。

 無意識に発したそれに、揚羽は遅れて首を傾げる。今自分が何を言ったのか? ゆっくり考え直し……気付いて、また顔を青くした。

 そこらの人を使っての実験。

 つまり人体実験であり、現代においてはあまりにも倫理に欠けた発想と言えよう。しかも実験内容は耳声霊――――下手をすれば死んでしまう存在だ。あまりにも非人道的である。

 自分が人権意識に優れた善人だとは、揚羽自身微塵も思っていない。だが市民の命を脅かして良いとは考えていない。それは倫理観や人権意識というより、人として超えてはならない一線なのだから。

 その一線を今、無意識とはいえ越えてしまった。

 無意識だから、と言い訳をするにはあまりにも自然に浮かんだ考え。何故そんな発想をしてしまったのか。原因はすぐに思い至る。


「(そうか、そうかそうか……! コイツは、これは、そんな性質まで……!)」


 『何』が起きたのかは理解した。それは今までの推論と一致するものであり、むしろ自説を補強する。だが、分かったところでどうすれば良いのか。

 どうにもならない。自分が抑え込めない。

 このままでは大惨事が起きる。だからこそ今すぐ自室にでも籠もるべきなのに、身体が全然動かない。


「あら、どうしたの?」


 そんな時に、知らない人から声を掛けられたなら。


「……………」


「大丈夫? お節介かもだけど、さっきから此処でぼうっとしているみたいだから……」


 声を掛けてきたのは、先程まで話していたのとは別の中年女性。おっとりとした雰囲気で、日傘を差している。

 どうやら炎天下で思案棒立ちしていた揚羽が、熱中症になっていないか心配しているようだ。実際じりじりと照り付ける太陽光は強烈で、我に帰ると全身から汗が吹き出していると気付く。このまま立ち続けていれば、いずれそうなっただろう。

 彼女は、恐らく善人だ。

 炎天下という環境とはいえ、見ず知らずの相手の健康を心配するぐらいの善人。勿論これだけで手放しに素晴らしい人だと言うのは軽率だが、声掛けすらしない者に比べれば善性の持ち主と言える。

 その素晴らしい人を前にして、揚羽は衝動を抑えられない。すべきでないと心で思っても、それは片隅に追いやられてしまう。

 薬物中毒者が、目の前のドラッグを我慢出来ないように。今の揚羽は、自分の衝動を堪えられない。


「……いえ、大丈夫です。研究の進みが悪くて」


「研究? あら、科学者さん?」


「その卵の学生です。論文を書くために様々な方にアンケートを取っているのですが……もしお時間があれば、ご協力頂けないでしょうか」


 にっこりと微笑みながら尋ねれば、女性もまた「あらあら。それぐらいなら喜んで」と答える。卵とはいえ、科学者に協力出来て嬉しいのかも知れない。

 その善意を踏み躙る事への後ろめたさはあれど、もう揚羽は止まれない。


「では一つ目の質問です。耳声霊といううわさをご存知ですか?」


 心から湧き出す衝動と好奇心の前に、理性なんてものは粉々に壊されてしまったのだから。

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