03

 耳声霊の調査をすると決めた揚羽は、まず大学の図書館へと向かった。

 怪談話といえばネット……と言いたいところだが、詳細な情報を知るのにネットは不向きだ。確かに昨今は専門的な論文がネットに掲載される事もあるが、全てではない。またブログ記事のようなものは、参考文献が載っていないどころか、何が出典かも分からない話が多い。「ネットに真実がある」と語る人々は、その真実の出所を少しでも気にした事があるのだろうか? と揚羽は常々思う。

 大学図書館ならばしっかりとした文献書籍が多く、また巻末を見れば参考文献へ出典も載っている。参考文献の有無が真偽に直結する訳ではないが、出所不明の何かネットを盲信するよりは遥かにマシというものだ。真面目に辿っていけば最終的に論文へと行き着くので、その論文の研究手法や評価から、真偽をある程度判別する事が出来る。

 また揚羽が通う大学には民俗学の学部があるため、その系統の書籍が大量にある。それこそネットに載っていない情報も山盛りだ。過去の先輩達や教授が発表した研究論文もあるため、本にも載っていない話だって多い。

 その図書館に一週間ほど籠もって調べた結果を一言で言うなら。


「成果なし、か」


 あまりにも無情な言葉だった。

 図書館のテーブルに多量の本を積み上げ、椅子の背もたれに寄り掛かりながら揚羽は思案する。

 書籍だけでなく卒論や論文も読んだ。古今東西だけでなく、欧州やアジア諸国、アフリカなどにも調査範囲を広げている。翻訳は信用にならんと、英語文献まで手を出した。

 しかし『耳声霊』という単語は、まるで見当たらなかった。類似する言葉、発音だけ似ている別言語にも注意を払ったが、それらしきものさえ見付からない。


「(話としてありきたりなのが、調査を一層困難にしているのよね)」


 例えば耳声霊の話が『ひとりかくれんぼ』のように特定手順の儀式であれば、調べるのは比較的調査は容易だった筈だ。複雑だからこそ類似の事例がなく、大元を辿りやすい。

 しかし「覚えていると死ぬ」単語なんてものは、珍しくもない。日本だけで紫鏡やイルカ島など複数あるのだ。だからこそ耳声霊の起源が何処にあるか分からない。起源が分からねばその真偽や対処法も判然としない。

 ……だが、これだけ調べて単語もでないという事は。


「(比較的新しい怪談なのは間違いない)」


 先行研究やローカル怪異としての記録がないのは、まだ誰も研究していないから。

 つまり誕生して間もない怪異という可能性が高い。無論単に揚羽の調査が甘く、見落としている可能性もあるだろう。

 このような時に役立つのが、ネットだ。

 ネット情報が使い物にならないのは、あくまで一次ソース情報源に辿り着けないからだ。政府機関や研究機関の公式ホームページ情報なら、ある程度は信用しても良い。そもそも論文だって時には嘘を吐くのだから、あくまで使い方が大事なのである。

 何よりネット情報は極めて早い。論文にもなっていない、文字通りの『うわさ』がそこには載っている。現時点の状況という意味では、論文よりネットの方が確実だ。


「(耳声霊、やっぱり最近の話みたいね)」


 スマホでざっと検索してみれば、その結果はすぐに表示される。

 検索結果はたった五件。

 作成日も最古のものがほんの五日前とごく最近であり、書き込まれたのも某掲示板のスレッド内という客観性も何もない場所だ。スレッドのタイトルも「耳声霊を知らない奴wwwww」という、学術的知性の欠片もないものである。

 実際書き込んだ側も、学問に貢献しようなどという気は微塵もないだろう。書き込み内容が「今知ったから死亡確定」という、学問以前にそれが何かを教える気もない点からして明らかだ。

 しかし書き込み側がどう思おうと、学者が見ればそこに科学的な結果は見出だせる。

 例えば五日前という日付。


「(大切な情報からデマ、そしてくだらない情報まで瞬く間に広がるのがネット社会の良くも悪くも優れた点)」


 もしも耳声霊が歴史あるうわさであれば、もっと古くから書き込みがあった筈だ。それこそ二十年も前には個人制作のオカルトサイトなんかは多数あった訳で、紫鏡同様怖い話の一つとして何処かのサイトが取り上げていてもおかしくない。

 それにこう言うのも難だが、人間というのは人の知らない知識をひけらかすのが大好きなのだ。投資など損得があるなら兎も角、誰も知らない雑学を言い触らさないでいられるとは思えない。

 ところがそれらはヒットせず、ほんの五日前の情報が最古と来た。どうやら耳声霊は、うわさ話としては極めて真新しい、ごく最近になって生まれたものらしい。

 それこそ、牧原自身がうわさの発生源かも知れない。


「(根拠不足だけど、発生源を限定出来たのは大きい)」


 仮に、牧原がうわさの発生源であったとする。

 そして耳声霊のうわさが本当だとすれば、牧原の行動を調べる事は解決への大きな一歩だ。もしも牧原が何か、祠を壊すなどの行為をしていた場合、その修繕などで耳声霊から逃れられるかも知れない。或いは天災が如く不条理な存在だと分かれば、いよいよ忘れる事を頑張らねばならないだろう。

 仮にうわさが嘘であれば、牧原は普段通りの行動をしている筈だ。それが分かれば、来月のメンタルクリニック受診日まで心穏やかにして過ごせば良い。

 次の調査方針が決まった。幸いと言うべきか、牧原と揚羽は同じゼミの学生。つまりどちらも民俗学ゼミの学生とは面識がある。


「次は聞き込み調査……フィールドワークね」


 出した本を本棚へと戻した揚羽は、早速ゼミの学生達への聞き取りへと向かった。

 ……………

 ………

 …

 ゼミ学生への聞き取りは、順調に進んだ。

 牧原は揚羽と違って社交的であり、多くの友人がいたらしい。それなりの人数が牧原の、死ぬまでの一ヶ月の行動を(完璧ではないにしても)記憶していた。そしてその記憶について、さして抵抗もなく話してくれた。

 牧原の突然死について、誰もが思うところがあるのだろう。親しい者達からすれば、どうしてこんな事に、という想いがあるのは自然だ。合理的に考えれば、若い事と死なない事はイコールではないと分かるのに。

 ともあれ数多くの話が集まり、お陰で揚羽は一つの結論に辿り着いた。


「めっちゃ、怪しい行動してるじゃん……」


 自宅である学生寮。安くて比較的防犯設備の整っている、狭い上にシャワーしかない事以外は良いところの多い一室にて、揚羽はぽつりと独りごちた。

 揚羽は机の上に乗せた調査資料……聞き取った話について書き込んだノートを眺めている。

 ゼミの学生達から聞いた話によれば、牧原は死ぬ半月ほど前から言動がおかしくなっていたらしい。突然背後を振り返る、何かに怯えた様子を見せている、一人でいると耳を塞いでいるなどの行動がよく見られた。

 声を掛けると驚いたように跳ね、やや疲れた表情を浮かべる事が多かったらしい。とはいえ話をするのを嫌がる事はなく、むしろ楽しそうだったという意見が多かった。また死ぬ五日前ぐらいからそういった不調は回復し、二日前には以前と変わりない様子になっていたという。

 不調な期間が短かく、なんやかんや回復していたため、一時的なものだろうとあまり気にしていなかったが……今思えば、という話だった。


「(突然背後を振り返る、何かに怯えている。確かに色々おかしな行動ね)」


 半月前に見せていたという異常行動。普通ならば精神的不安定、または薬物中毒を疑うだろう。大学内で飛び交ううわさは、以前の牧原の行動が発生源のようだ。揚羽もその行動を見た上で訃報を読めば、あれこれ邪推していたかも知れない。

 しかし知識があれば、違う見方も出来る。


「     」


 今正に聞こえる『幻聴』。牧原にもその声が聞こえていたのならば、全ての行動に説明が付く。


「……………」


 声が聞こえた瞬間、揚羽は背筋が凍ったように冷たくなるのを感じた。

 背後には気配も現れた。今にも背中に張り付きそうなぐらい近く、吐息どころか体温さえも感じられる。

 これまでは、ここで終わっていた。だが今では違う。

 顔の傍に、『手』が伸びていた。

 正確には手があるように感じた。視界の外にあるため、見る事は出来ない。だが生温い体温が、じわりじわりと頬に伝わる。

 ぺたぺたという足音も聞こえてきた。見える範囲に、音を鳴らすナニモノかの姿はない。常に背後、死角側を歩いている。数は一つではなく、正確には分からないが、三つか四つはいそうだ。

 更にドアノブを回す音も聞こえてくる。何かが扉を抉じ開けようとしているようだが、その強引な音色に理性は感じられない。少なくとも泥棒なんかではあるまい。

 あらゆる音が、気配が、揚羽の身体を蝕む。

 夏なのに凍えるほど、全身から血の気が引いていく。身体が震え、強張り、身動きが取れない。そうしている間に足音はどんどん増え、背後の気配は近付き、そして耳許の囁きは喧しいほど聞こえてくる。

 気付いてはいけない。知ってはいけない。だけどその正体が、間もなく目の前に現れる――――


「来るなら来なさいよ、ウスノロ」


 それを感じながら、揚羽は思いっきり悪態を吐いた。

 すると今まで感じていたものが、あっという間に消えてしまう。

 音も気配もしない。血の気は戻り、身体の震えも止まった。まるで夢でも見ていたかのような気分だが、身体中から流れ出る汗と、ばくんばくんと波打つ心臓が現実に起きた事だと物語る。

 しかし今の言葉で『撃退』出来たのも事実。


「ふむ、やっぱり直接的な行動には出ないのよね」


 意図して行ったからこそ、揚羽は冷静に先の事態を分析出来た。

 聞こえてくる不気味な声と気配は、この一週間で更に強くなっている。

 今のように、間近に気配が迫る事も珍しくなくなった。裸足で歩き回るような音、顔の横に迫る手など、干渉もかなり積極的になっている。

 だが決して視界には映らず、そして絶対に触れてはこない。あくまで存在を示すだけ。まるで『実体』などないかのように。

 毎日、それも一日に何度も襲い掛かってくるがために、観察数は十分に集められた。どんな状況下だろうと、人気の多い食堂だろうが一人暮らしの風呂場だろうが個室のトイレだろうが、決してそいつは姿を見せず、触ってもこない。

 それどころか声で威嚇してみれば、簡単に止まってしまう。

 真正面から向き合い、強気に対峙してみれば、案外どうにか出来る『現象』だった。勿論感じる恐怖は本物であり、心臓の鼓動や全身からの発汗を思えば、心身の負担は大きい。今だって揚羽は息を乱し、また聞こえやしないかと微かな不安が残っている。

 おまけにこれが出来たのは、強い『好奇心』のお陰だ。恐怖を感じながらも、その気配の正体を知りたい、現実化した怪談の正体が単なる精神疾患かどうか確かめたいと思ったが故の行動。揚羽自身異常な動機だと思う。対処法として勧めようにも、誰にでも真似出来るとは思えない。

 果たして牧原に、揚羽のような事が出来ただろうか?


「(十中八九無理。だとすると牧原は、この声を四六時中聞いていたのかな)」


 止めなければ、声は延々と聞こえ、気配は何時までも張り付く。一日だけ実験として無視してみたが、本当に何時までも存在し続けた。

 あまりのしつこさ、そして手出ししてこない事に呆れて恐怖も僅かに薄れたが……それは揚羽の感性がおかしい故の感想。牧原のような『一般人』に耐えられるとは思えない。

 また亡くなる一〜二週間前に目撃された姿からして、牧原は威嚇やケンカを売るような真似もしていない。ただ我慢するしかなく、恐らく一睡も出来なかっただろう。

 睡眠不足は死に至る症状だ。ネズミで行った実験によれば、二週間の不眠で全個体が死亡したと言われている。人間の場合でも、三〜四日寝ないと錯乱や幻覚が生じると言われており、絶食や脱水同様非常に危険な行いである。

 睡魔が限界を超えて失神するように寝る事はあったかも知れないが、慢性的な睡眠不足は心筋梗塞などのリスクが上がると言われている。訃報によれば牧原の死因は心不全。要するに原因不明だが、つまり死に繋がる外傷や薬物などは確認されなかったのだろう。だとすれば本当に、心臓が止まったから死んだのかも知れない。

 つまり過大なストレスによる寝不足、それに起因する疾病が、耳声霊により引き起こされる死の真相と考えられる。

 ようやくだが此度の出来事に、科学的な説明が付けられた。


「(でも、そうなると死ぬ直前の状態が説明出来ない)」


 聞き込み調査によれば、牧原は亡くなる五日前から体調が回復していたという。

 前向きに考えるなら、牧原はその頃には幻覚がなくなっていた筈。或いは今の揚羽のように、あしらい方を覚えたのかも知れない。

 だが、それならば何故亡くなったのか。確かに健康というのは数日生活を改善した程度で綺麗サッパリ戻るものではなく、今までの不摂生が祟って心筋梗塞などを起こしてもおかしくはない。しかし二十代という牧原の若さを考えれば、肉体の耐久力は非常に優れている。二週間にも満たない程度の不健康生活で簡単に死ぬとも思えない。

 回復したように見えて、何も状況は変わっていなかったのか。それとも別の何かが起きたのか。


「     」


 だとすると今聞こえている幻聴も、背中に張り付く気配も、何時か何かに変化するのだろうか。


「……まだまだ調査が必要ね」


 死の原因が分かったようで、謎もまた新たに増えた。しかしこれ以上を知るには、更に詳細な情報が必要になるだろう。

 ゼミの学生達を見下す訳ではないが……彼等は牧原の『友人』に過ぎない。彼等から詳しく話を聞こうとしても、大した成果は得られないと思われる。

 より詳細な、言い換えればよりプライベートな情報がほしい。可能なら遺体の詳細な状態が知りたい。それを知っている者がいるとすれば……


「親友や恋人、そして親族の三択」


 どれを選ぶか? 揚羽からすれば迷うまでもない。

 親友や恋人はいるかどうか分からないが、親族ならば高確率にいる筈だ。それに葬儀は近親者のみで行ったため、詳細を知っているのは親戚筋のみ。ならば聞き込みをすべき相手は親族、その中でも特に状況に詳しい両親だろう。

 尤も、簡単な事ではないとも思う。娘を亡くした親に、死ぬ前の娘の様子について尋ねるなど地雷を踏むのに等しい。それに牧原が養護施設の出身というような、複雑な家庭事情もあり得る。詳細な話を聞ける確証はない。

 過剰な期待は禁物。

 そう自分に言い聞かせながら、早速揚羽は明後日にでも向かおうと、牧原家の住所について調べ始めるのだった。

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