02
牧原の葬儀は、亡くなったという報せから五日後の事だった。
葬儀は小規模なもので、親族だけで済ませたという。それは昨今の新型コロナ流行という事情もあるだろうが……何より親族が、『部外者』に配慮出来る状態ではないかららしい。
気持ちとしては理解出来る、と揚羽は思う。少なくとも、大学内の様子を見れば。
「この前死んだ牧原って生徒、薬やってたんだって?」
「え? 私が聞いたのだと自殺って話だったけど」
「ラブホテルで見付かったとか……」
大学食堂内で耳を傾ければ聞こえてくる、牧原に関する様々なうわさ。
検証するまでもなく、根も葉もないうわさというやつだ。何しろ話に統一感がなく、同一の情報源とは考え難い。意図的な貶めではなく、好奇心と無責任さにより生まれた現象か。
悪意はなくとも、揚羽としては醜悪な状況だと思う。果たして牧原の親族がどの程度このうわさに触れたかは分からないが、若い愛娘を喪ったところにこんな話を耳にして気分が良い筈もない。部外者を拒絶するのも致し方ないだろう。
「(まぁ、うわさする側の気持ちも少しは理解するけど)」
唐揚げ定食を食堂のテーブルに起き、揚羽はため息を吐く。大きな唐揚げをぱくりと口に運び、周りの声に耳を傾けつつ思考を巡らせる。
牧原の死について、揚羽も遺族などからきちんと話を聞いた訳ではない。それでも学内掲示板に貼られていた訃報から、ある程度の事は知る事が出来た。
まず牧原は五日前の昼間、講義に来なかった事を心配した学友により発見された。
死亡推定時刻などは分からないが、どうやら昨夜未明から朝に掛けて亡くなったらしい。死因は訃報によれば心不全……心臓が止まって亡くなったという事だ。
訃報から読み取れる情報はこの程度しかない。ましてや心不全という言葉は、本来(医学的な意味での)死因には用いない。全ての人間は心臓が止まると死ぬのだから「心臓が止まって死んだ」なんて当たり前の事ではなく、「何故心臓が止まったのか?」を書くべきだからだ。例えば心筋梗塞などと記すのが正しい。訃報に心不全と書くのが悪いとは言わないが、知識のある身からすると些か胡散臭く思える。
更に葬儀が親族だけで行われた事から、遺体の状態を知るのは親戚を除けば、初検者である友人とやらだけ。
うわさの発生要因は複数あるが、「真偽が不明」というのはかなり大きなものだ。人間は想像する生き物であり、分からない部分をそのままに出来ない性を持つ。自覚していればまだ良いが、大抵その自覚はなく、故に人は『事実』と『意見』を混同して話し、それが根も葉もないうわさとして広まっていく。
牧原のうわさが多種多様なのも、情報が少ない故の必然と言えよう。
「(ま、事故なら事故と書くだろうし、薬物なら購入先の捜査として、大学に警察が来てもおかしくない。消去法だけど、訃報通り心不全……原因不明と考えて良いかな)」
最も現実的な可能性を考える。そうすれば、本当の不審点に気付く事は容易い。
まず牧原はとても若い。年齢を尋ねた事がないので揚羽は詳細を知らないが、仮にこの大学を現役合格し、尚且つ留年していなければ、二十歳か二十一歳の筈だ。外見年齢も大凡そんなものであるし、仮にプラス五歳程度だとしても二十代には変わりない。飛び級の可能性は否定出来ないが、それだとどう計算しても十代となり、若いという前提は揺らがないので考慮しない事とする。
一般的にその年頃の人間が死ぬ原因は、事故や暴行などによる外傷、または薬物中毒や自殺によるものだ。ゼロではないが病死や突然死はかなり少ない。
その少ない死に方をした時点で、牧原の死には疑問が残る。
「(疑問、ねぇ)」
話の進め方が強引だと、揚羽自身思う。
確かに牧原の死に方は、二十代の若者としては稀なものだろう。しかし稀である事は、当然ながら起きない事ではない。若くして突然死する事がゼロではない以上、それは起き得る出来事だ。
明確な証拠があるなら兎も角、そうでなければ単なる勘繰りでしかない。
……何時もの揚羽なら、ここで考察を止めただろう。言い方は悪いが牧原は知人程度の関係であり、真剣に死の真相を追わねばならない相手ではないのだから。
だが、今回はそうもいかない。
「 」
何かが、揚羽の耳許で囁くのだから。
「っ!」
反射的に揚羽は後ろを振り向く。
そこには一人の学生がいた、が、明らかに揚羽に声を掛けた様子はない。むしろ揚羽が突然振り向いた事に驚いた様子である。どうやらただ通りがかっただけらしい。
居た堪れない空気を振り払うように、揚羽は顔を前に向き直す。苛立ちを、そして『不安』を噛み殺すように、強く口を閉ざす。
そんな事で気持ちが収まらないのは、もう朝から何度もやっていて分かっているのに。背筋の震えも、青ざめた顔も、そして恐怖で引き攣る表情も、何もかも取り繕えない。
その態度を見透かすように、何かが背後に立った。
ぴたりと背後に張り付くように、何かがいる。吐息が首の後ろをくすぐり、生温い体温がじわじわと背中から伝わってくる。そしてまたぼそぼそと、何かを耳許で呟く。
まるで、目を逸らすなと言わんばかりに。
揚羽は分かっている。鏡を見たところで、ましてや振り返ったところで、そこには何もいないと。今だってこの食堂には大勢の学生がいるのに、彼等は誰一人として揚羽の事など見ていない。その無関心さこそが、自分の背後の安全性を証明していた。
ならばこれらの感覚はなんなのか。
「(幻覚だとは思うのだけど)」
状況からして、本当に耳許で囁かれている訳ではない。背後には誰もいない。ならば幻覚の類だと考えるのが自然である。
幻覚自体は、取り立てて騒ぐ話ではない。なんらかの精神疾患……統合失調症などの初期症状としてはあり触れたものだ。統合失調症は百人に一人は掛かると言われる病気でもあるため、自分がその当事者になる事もなんら不思議ではない。一昔前なら兎も角、現代なら病院で適切な投薬治療を行えば、大半の患者は無事
揚羽はこうした知識があるため、既にメンタルクリニックへの予約は行った。一ヶ月待ちとの事だが、他によい病院もなかったのでこればかりは仕方ない。
精々一ヶ月、病状が悪化しないよう平穏な生活をするだけ。ただの幻覚であるなら、これで良い。
そう、ただの幻覚であれば。
「……馬鹿馬鹿しい」
独り言の形で、思わず気持ちが言葉に出てくる。
それでも、胸の中にくすぶる気持ちは拭えない。
「 」
再び聞こえてくる『幻聴』。揚羽の耳許で、何かが囁くように言葉を発しているような感覚。
聞き取れない幻聴自体は、珍しいものではない。統合失調症の初期症状として出る幻聴は、なんとなく意味が理解出来る程度のものだと言われている。しかし奇妙な事に、今揚羽に聞こえている幻聴には一つの確信があった。
絶対聞いてはならない、聞こえてはならないという確信だ。
これが幻聴ならば、ただの思い込みである。精神疾患の症状の中には妄想……根拠のない考えを事実と確信する事もあるのだから。「聞こえてはならない」なんて感覚も、精神疾患だから、の一言で説明可能だ。
そこまで理解しながら、それでも揚羽は気になってしまう。
いや、気になる、なんて言い方は正しくない。ぼそぼそとした声が耳許に吹き付けられる度、背筋が震え上がってしまう。思考が塗り潰され、他の事が考えられない。血の気が引き、今頃死体同然の顔色になっていると鏡を見ずとも分かってしまう。
声はほんの一言分であるため、少しすれば恐怖も引いていくが……しばらくするとまた声が聞こえ、気配が背後に張り付く。絶え間なくというほどではないが、忘れる事も出来ない程度には頻繁に。
これも症状の一つだ、と言い切ってしまえれば多少は楽になれただろう。だが一つの可能性が、揚羽の脳裏を過る。
「耳声霊……」
牧原から聞いた、怪異のうわさ。
記憶に残るあの話に、囁き声について直接的に述べる部分はない。だが聞いた一月後に亡くなった者達は、自らの鼓膜を破いているという。
常識的に考えれば、薬物中毒でもなければやりそうにない異常行動だ。だがこの不気味な囁きから逃れたい一心だとすれば、一応の説明が付く。まだ揚羽はそこまで追い詰められていないが、毎日毎日この声を聞かされたらやりかねないと多少は理解する。
そう、理解出来てしまう。
だとすれば牧原もまた、この声を聞いたのではないか? 彼女は揚羽に耳声霊のうわさを教えてくれた当事者。つまり彼女もうわさを知っている身だ。もしもうわさを聞いたのが一ヶ月前から……
牧原は、耳声霊によって殺されたのかも知れない。
「(飛躍した考えだとは思うけど)」
怪談というのはフィクションだ。研究者だからこそ、揚羽はそう信じている。そもそも牧原が自身の鼓膜を破ったかどうかは、掲示板に貼られた訃報だけでは分からない。
しかしどうしてもこの考えを捨てきれない。一ヶ月後の診察を待つ事が出来ない。
いや、そもそもそんな悠長にしていて良いのか。耳声霊のうわさ通りであれば、一ヶ月後に自分は死ぬ。牧原と同じように――――
「っ……」
しかし一度考えてしまったら、もう無視は出来ない。こびり付いた汚れのように、何時までも頭の中に残る。
なまじ意識してしまったがために、不安が止まらない。あのうわさは本当なのではないか。だから今不気味な声が聞こえているのではないか。
「 」
馬鹿馬鹿しい、と言葉で否定する直前に声が聞こえる。こちらの考えを読んだかのように。
果たしてそれは偶然か。なんらかの『意図』があるのか。
……偶然に意図を見出そうとするのは、人間の悪癖だ。世にある陰謀論の多くは偶然を認めない事から始まり、偶然を悪意として糾弾する。今回の事だって、本当に偶々このタイミングで幻聴が聞こえてきただけかも知れない。
だが何者か、或いは何かの意図的という可能性が出てきた事を無視する訳にはいかない。
「(この考え自体、頭がやられている証かもだけど)」
精神疾患の症状として説明出来ると分かっていながら、それでも揚羽は『想像』を信じる。空想だと切り捨てるのは、メンタルクリニックを受診する一ヶ月後でも遅くはあるまい。
むしろ嘘だ偽りだと思い込み、何もしなければそれこそ手遅れになるかも知れない。もしも耳声霊のうわさが本物ならば、何かしらの手を打たねば一ヶ月後には死ぬのだ。
忘れる事こそが生き残る術と明言されているが、こうも耳許で囁かれては今更記憶を失うなど出来っこない。仮に忘れたところで、本当にそれで助かるのか。耳声霊の話はあくまでもうわさ。何処から何処までが真実かなんて分からない。忘れる事に努めるのは、詳細を知ってからでも良い。忘れ方については、色々試さねばならないだろうが。
何より。
「(こんな興味深い題材を前にして、ただ怯えるだけなんて勿体ないわね)」
揚羽は本質的に、学者気質なのだ。
揚羽はオカルトを信じていない。あくまで民俗学、うわさがどうやって人々に広まり、変質していくかを、怪談話という観点から知りたいと思っている。
そこに現れた、現実となったオカルト。これがただの精神疾患なのか、はたまた本物なのか。その真偽が怪異のうわさにどう影響するのか、実地調査が出来るチャンスをみすみす逃すなど論外。
「 」
また囁く声が揚羽の耳許で聞こえた。気付いてはいけないという予感が、聞き取ってはならないという確信が、揚羽の背筋を恐怖で震わせる。
だがもう揚羽の顔は引き攣らない。不敵な笑みを浮かべ、目にはギラギラと好奇心を滲ませた。
「面白くなってきたじゃない……!」
心を埋め尽くす恐怖を、知的好奇心で塗り潰す。
それだけすれば、揚羽が動き出す事は十分に可能だった。
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