耳声霊

彼岸花

01

「ねぇねぇ、耳声霊じせいれいって知ってる?」


 狭山さやま揚羽あげはが、大学の同期である牧原と初めて交わした言葉は、こんな胡散臭いものだった。

 場所は学生達の声でわいわいと賑わう、昼時の大学食堂。講義が終わり、昼食を食べようと一人で席に座っていた揚羽に突然牧原はそんな言葉を掛けてきた。そして揚羽が何も言わないうちに、牧原はさっと揚羽の前の席へと座る。

 当然のように向き合い、牧原はフレンドリーな笑みを向けてきた。

 牧原はとてもキラキラとした雰囲気の、可愛らしい女性だ。スタイルもよく、前屈みの姿勢になるだけで平均より遥かに豊満な胸の谷間が強調されている。格好も比較的派手なもので、彼女の色気を一層引き立てている。

 一般的な男性ならば、その魅力を前にすれば細かな問題は脇に置いてしまうかも知れない。しかし揚羽は牧原と同じ女子大学生。同性愛者でもないので魅了される事もなく、自分の容姿に興味もないので牧原の美しさを羨ましいとも感じない。だからこそ率直に、惑わされずに思う。

 自分が人との交流を好まない(苦手や不得意ではない)性格なのを差し引いても、このファーストコンタクトはあまりに距離感が近いと。誰かと間違えていないか? とも思ったが、バッチリこちらの顔を見てくる辺り、狭山揚羽に話し掛けているつもりなのは間違いなさそうだ。

 A定食を食べるため持っていた箸を一旦置いて、揚羽はあからさまにため息を吐く。それでも牧原が退散しないので、渋々言葉を発する。


「……最初の言葉は、せめて挨拶の方が良いと思うよ。牧原さん」


「あ。私の名前知ってるんだ。よかったー、同じゼミなのに全然話もしてないから、忘れられてるかもーって思ってた」


「一応、先月自己紹介はしたし。人付き合いは好きじゃないけど、人の顔と名前、その他プロフィールを覚えるのは得意なのよ」


 揚羽と牧原は同じゼミ――――文化人類学部民俗学研究室に属している学生だ。

 この大学では三年生から研究室に入り、専門分野について学んでいく。三年生になったばかりの揚羽も、今はまだ勉強中の身である。

 当然ゼミ内の学生とも顔合わせぐらいはしたが、言い換えれば顔合わせぐらいしかしていない。親密な人付き合いを好まない揚羽は、向こうから話し掛けてこない限り、自分から交流を広めようとはしなかった。

 故にキャラが違う……所謂陽キャのような牧原とは、今まで言葉さえ交わしてこなかったのである。向こうも少し合わないと本能的に察したのか、今まで話しかけてきていない。


「で? なんの用……って、さっきの話か」


 だからこそ逆に、揚羽は少し好奇心が疼く。

 人付き合いを好まない故に、揚羽と人を繋げるのは主に好奇心だった。


「そうそう、耳声霊のうわさ。聞いた事ある? 狭山さんって確か、怪談や都市伝説を研究したいのよね? だから詳しいかなーって」


 牧原は少しワクワクした様子で尋ねてくる。

 揚羽が民俗学を専攻する理由は、牧原が言うように怪談などを研究するため。

 昔から所謂『怖い話』が好きだったが、高校ぐらいから学術的な興味が出てきた。どのような文化背景、政治や経済が怪談に影響するのか。怪談が世相とどう関わるのか、或いは世相が怪談からどのような影響を受けるのか。そういった内容の研究をしたいと思っている。

 当然学術的な話をするには、ある程度の知識が必要だ。怪談だけ知っていても発展した研究は出来ないが、怪談を知らなければ話にならない。このため揚羽は日々勉強に励み、非常に様々な怪談・都市伝説を知っている。


「じせいれい、ねぇ。聞いた事もない」


 その揚羽でも、『耳声霊』という話は単語からして初耳だった。


「あ、そうなんだ」


「類似する単語にも聞き覚えはないわ。どんな話なの?」


 興味方位で尋ねてみると、牧原はにやりと、随分嬉しそうに笑う。


「えっとね、耳声霊って言葉を聞いて、覚えてしまった人は一ヶ月後に死ぬの」


 開いた口から出てきた言葉は、全く笑えない言葉だったが。


「……死ぬ?」


「そう。朝起きたら、恐ろしい形相で、心臓が苦しかったかのように胸を掻き毟った状態で。しかもその死体は、どれも自分で鼓膜を破ってる。そんな恐ろしい目に遭いたくないなら、聞いたら絶対、一ヶ月以内に忘れないといけない……って、うわさ」


「……随分性質タチの悪い話を聞かせてくるのね」


「えへへー」


 笑って誤魔化す牧原。どれだけ取り繕っても、人が死ぬ言葉を伝えてきた事実は変わらない。

 尤も、それは話が『本物』であればだが。


「単語を覚えていたら不幸になる。そういう都市伝説は他にもあるよ」


「あ、そうなの?」


「有名どころだと紫鏡、または紫の鏡かな。二十歳までこの単語を覚えていると不幸になるってやつ。結婚出来ないとか、死ぬとか、話の結末には派生があるけど」


「へぇ……」


「病弱な女の子が鏡を塗り潰した後悔が怨念になって、みたいなストーリーが付属する場合もあるけど、私がよく聞いたのは単純に単語を覚えていると死ぬって感じかな。ま、一緒に対抗呪文もあったけどね」


「へぇ。あ、耳声霊にはそんなのないよ。聞いて、覚えていると一ヶ月で死ぬ」


「無理矢理にでも覚えさせようとしてない? そんな事しなくても、この手の話は中々忘れないよ。だからこそ怖い話になる訳だけど」


 「覚えていると死ぬ」という話の真に理不尽なところは、「忘れる」という行為が自発的に出来ない事だろう。

 覚える事は自発的に可能だ。毎日ノートに書く、言葉に出すなどの『反復行動』をすればいずれ脳に定着する。だが忘れる事は自発的に出来ない。「あの言葉もう忘れたかな?」と考える事自体が反復行動であり、記憶の定着を促す。

 なので意識しない事ぐらいしか方法はないが、アレを思い出すなと心の中で繰り返せば実質何度も単語を口ずさむのと変わらない。努力するほど逆効果になるという不条理さが、この手の話を怖くする一因だろう。


「まぁ、多分紫鏡の派生の一つじゃないかな。名前は違うのに似たような話がたくさんあるってのも、怪談ではよくある事だし」


 例えばエンジェルさんやキューピッドさんという『占い』がある。これは文字を書いた紙とコインを用意し、呪文を使うと召喚出来て、質問に答えてくれる……と、所謂コックリさんと類似のものだ。

 怪談にはこのような、名前だけ変えたような話がちょくちょく出てくる。人から人へと伝わる中で名前だけが変化したのか、名前だけ変えてオリジナルの話だと主張する『盗作者』がいたのか。原因は知りようもない。

 今回の耳声霊も、紫鏡の名前が変化したものだろう。時間制限や不幸の内容にも変化がある点は、少し興味深い。


「うわさってのは、世相を反映する。何時だって時代に適したものが広がり、そうでないものは淘汰されていく。生物進化と同じね」


「そーいうもんなの?」


「そーいうもん。私はそれが学びたくて、民俗学を専攻してるの。ちなみに文化やうわさの推移が生物進化と似ている事から、ミームって呼び方もあるわ」


「うわー。如何にも真面目って感じの答え」


 如何にも不真面目そうな言い方をした牧原は、そのまま席から立つ。


「うん、ありがとう。なんかみょーに気になってたのよ。科学的に解説してくれたお陰で、ちょっとすっきりした」


「それなら良かった。私も、知らない話を聞けたから収穫があったよ。また何か奇妙なうわさを聞いたら教えて」


「ええ。その時はよろしくね」


 軽い約束を交わし、牧原はこの場を後にする。揚羽はそのまま、すっかり冷えてしまったA定食を食べ始めた。

 ――――また何か奇妙なうわさを聞いたら教えてくれ。

 揚羽が伝えたその言葉に、多少の社交辞令があったのは否定しない。だが知らない話を聞いた事そのものが嬉しかったのは事実だ。だからこそまた教えてくれと伝えた。

 しかしその約束が果たされる事はなかった。

 揚羽が耳声霊の話を聞いた翌朝、のだから……

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