第66話 クラウスのかけた魔法
エドゥアルドは、しばらくの間、誰も病室に入らぬよう、言い置いてきたという。
「大丈夫。僕には協力者がいる」
「協力者?」
「うん。それに、僕はもうすぐ死ぬ人間だ。みんな、ディートリヒ先生でさえ、言う事をきいてくれる」
「貴方は、悪い人ですね」
得意そうに笑うエドゥアルドに、前を向いたままクラウスは顔を顰めた。
埃っぽい道を抜け、馬は、森の中に入っていった。こんこんと水の湧き出る泉の脇で、急停止した。
「こらっ! 何、立ち止まってるんだ。走れ! 走れよ!」
エドゥアルドが懸命に足で腹を締め付けた。だが馬は、一向に動こうとしない。
「だめです。一度こうなったら」
クラウスは言った。
「少し休ませましょう。そのうちまた、走る気になるかもしれません」
「そのうち? そのうちって、いつ?」
「さあ。そのうちです」
「僕は、急いでいるんだよ!」
「急用でも?」
「僕は、太ったんだ」
重大な秘密を明かすように、エドゥアルドは打ち明けた。
クラウスは瞬きした。
「私が留守をしていた、たった数日で?」
「うん、確かに太った。だから、急いで宮殿に帰って……」
「無理ですよ。駄馬なんだから」
そわそわするエドゥアルドに、クラウスは言い渡した。
「とにかく馬から降りましょう」
舌打ちして、エドゥアルドは、馬から降りた。
クラウスも降りようとして、足を挫いたことを思い出した。でも、エドゥアルドに気が付かれたくない。彼が下りたのとは反対側に、両足を垂らす。少し、ぎこちない動作だったかもしれない。
「クラウス!」
エドゥアルドが気づき、駆け寄ってくる。
「大丈夫です」
クラウスは、慎重に、鞍から滑り降りた。着地の時、右足首ががくりとなって、前にのめった。
「無理をするな!」
前より痩せた、でも、頼もしい腕が出てきてしっかりと支える。
「まったくお前は、後先考えず、無茶ばかりして……この国の宰相を狙撃するなんて! しかも、あんな粗末な銃で! あれじゃ、野ネズミだって殺せやしないよ」
深いため息をついた。安堵のため息だ。
「……お前が殺されなくてよかった。無事でいてくれて、本当によかった」
エドゥアルドの腕を逃れ、クラウスは項垂れた。
「メトフェッセルを仕留めることができなかった。あんなに近くにいたのに、無傷のまま逃がしてしまったなんて!」
「クラウス……僕はね」
エドゥアルドは、まっすぐにクラウスを見つめた。
「僕は、彼を恨んではいないよ。宰相は宰相なりに、ずっと平和を望み、彼のやり方で不断の努力してきた。そのことを、高く評価している」
クラウスは絶句した。
「この、お人よし!」
最初の衝撃が去ると、彼はわめいた。
「馬車の事故で殺されそうになって、故意にテュベルクルーズ病をうつされて、それから、ウィルンから一歩も出してもらえず、飼い殺しにされて……」
大きく息を継いだ。
「オーディン・マークスは戦犯です。そして、メトフェッセルは、陰謀家の殺人者だ。どっちも、犠牲者は、あなただ。あなたを犠牲にして、世界が平和になってもしようがない!」
「……クラウス」
「あなただ。あなたが救われないなら、ユアロップ大陸なんてどうなったっていい。僕はね。ただただ、あなたに幸せになってもらいたいんです」
「クラウス、」
「誰かが誰かの犠牲になっての平和なんて、そんなの、意味がない。まやかしだ!」
「クラウス!」
にゅっと、手が、伸びてきた。親指と人差し指で、唇をつままれる。
あまりのことに唖然とし、口を噤んだ。
親指はすぐに離れ、人差し指だけが、口の上に残っている。クラウスの唇に、縦にまっすぐに渡されている。
指が、唇をそっと上下になぞる。
青い目に瞼が下りた。そのまま、そっと唇を寄せてくる。もう、何度も何度も繰り返してきたキスを、クラウスの唇に与えた。この上もなく優しく。
「あ……」
クラウスの頭に、閃光が差し込んだ。
ぱっと離れ、エドゥアルドが微笑む。
「思い出した?」
「キス……?」
「そうだよ。初めて会った時、お前、僕にキスしたじゃないか」
……。
よく動くふっくらとした唇。
真っ赤に紅潮した頬。
子どもと言われたのが悔しかったのか。力いっぱい地団駄を踏んで、喚いている。
……ああ、ダメじゃないか。そんなに可愛いのに、癇癪を起こしたら。君は、もっとずっと幸せになれる。楽しんで生きられる。だって、ほら……。
……
洪水のように押し寄せる記憶に、クラウスは消え入りそうになっていた。
「……殿下。その節は、大変なご無礼を」
「今更だぞ、クラウス」
弾かれたように、エドゥアルドは笑った。
「今更だ」
「……」
「これが、お前が僕に仕掛けた魔法だ」
再び、エドゥアルドはクラウスの唇にキスをした。
「ずっと覚えていたよ。片時も、忘れたことはなかった」
クラウスは、激しく混乱した。
「だって、僕は貴方のゲシェンクで……、確かに、貴方と出会ったのは、あなたがテュベルクルーズに罹る前だったけど……。王子でありながら、貴方は孤独で、こんなに能力があって素晴らしい才能に恵まれているのに、いつだって一人ぼっちで、だから……」
途切れ途切れにつぶやいていると、エドゥアルドが笑い出した。
「違うよ。僕は、初めて会ったあの時から、お前が好きだった。ゲシェンクは関係ない」
クラウスは胸が詰まった。エドゥアルドは、相変わらず柔らかな微笑みを浮かべたままだ。
「お前は僕に、キスしてくれたね。初めてだった。ああいうキスは」
「……いちごのようだったから。瑞々しくて、真っ赤で。でも、触れたらきっと、熱くて甘いのだろうと……」
言い澱む唇に、また、キスが落ちてくる。
「お前が魔法をかけたんだ。生きることは楽しいってね。あれから、いつだってお前のことを考えていたよ。そうやって寂しさに耐えてきたんだ。お前と会わなければ、僕の子ども時代は、もっと殺伐としたものだったろう。お前が思うよりもずっと前から、僕はお前が好きだったんだよ!」
「……そんな、」
「ゲシェンクとかなんとか? それは、お前とギルベルトだろう。僕とお前は違う。お前が好きだ。誰よりも」
エドゥアルドは、真顔になった。
「覚悟しろよ。もう二度と、お前を離さないからな」
なにもかも、あっという間だった。
クラウスには、気持ちを整理する余裕がなかった。
エドゥアルドに幸せになってほしいという気持ちのまま、白樺の幹に押し付けられた。
青臭い、夏の草いきれが急に強くなった。バッタが一匹、足元で飛び上がる。
……本当にこの人を、自分のものにしてしまっていいのか。
多くの人に愛され、帝王としての力を持ち、そして、公明正大な判断のできる人。自分が損なわれることさえ、少しも、恐れず、許すことのできる人。
クラウスは、惑い続けている。
エドゥアルドが、切なそうな顔をした。肩を押さえつけるようにして、遮二無二、顔を押し付けてくる。クラウスが薄く口を開けると、すぐに舌が、侵入してきた。
時間をかけて、長いキスをする。
息が続かなくなって、頭がくらくらして、口を離した時には、もう、わけがわからなくなっていた。
「クラウス、クラウス」
浮かされたように、エドゥアルドが名を呼んでいる。
「ねえ、ねえったら」
「殿下」
「名前を呼んで」
「エドゥアルド。……エドゥ!」
ぎゅっと抱きしめられた。
そばにいたい、と、クラウスは思った。そばにいて、護ってあげたい。
だってこの人は、こんなにも愚かで気高い。帝王にふさわしい公正さを持っている。でもそのせいで、自分を守る心を置き去りにしてしまっていて……。
心配だ。エドゥアルドのことが、心配でたまらない。
……護りたい。この人を。
力の限り、クラウスはエドゥアルドを抱き返した。
泉の向こうで、馬がのんびり草を食んでいる。
木々の間を落ちてくる陽光は、夏の葉に遮られ、美しい色合いに揺れている。
どこか遠くで、鳥が飛び立つ羽音がした。
長く、鋭い鳴き声。
クラウスの手の動きが止まった。
「今、何か」
「え?」
途中で、エドゥアルドは止められない。
「何もいないよ」
ろくに気にする風もない。
愉悦をこらえ、クラウスは顔をもたげた。静かな森の気配に、じっと耳を澄ませる。
「いえ、確かに、……人の気配が」
「こんな森の奥深く、人が来るわけ、ないじゃないか」
そう言うエドゥアルドの息は荒い。
「ここには、僕とお前しかいない」
「……そうですね」
納得して、クラウスは再び、行為に没頭した。
再び、その手の力が抜けた。今度は、エドゥアルドの手の動きも止まった。
「確かに、誰かに見られている気がする」
名残惜し気にクラウス自身を握りしめたまま、エドゥアルドが言った。クラウスも頷く。
「いいよ。誰に見られたって、構わない」
エドゥアルドが苛立たし気だった。
「途中でなんか、止められるもんか。せっかくお前が、こんなに感じてくれてるのに!」
なおも、続けようとする。クラウスの腰が左右に揺れ、わずかに逃げた。構わず押さえつけ、快楽を与える。
白樺の幹に押し付けられ、クラウスは耐えた。
不意に、エドゥアルドの動きが止まった。
「くそ。集中できない」
素早く、クラウスはエドゥアルドの服の前を閉じ合わせた。
「確かに、人ではないようです。ですが……」
しつこく口づけを迫り、抱き寄せてくるエドゥアルドを押し返す。
「お忘れですか? 貴方は今、宮殿で死にかけているんですよ? 誰に見られるかわかりません。外でのこうした行為は、慎むべきです」
「外で? なら、室内ならいいんだな」
即座にエドゥアルドが言葉尻を捉える。クラウスは肩を竦めた。
「隠れ家を用意してございます」
「隠れ家?」
「万が一、貴方の身に危険が迫った時の為に」
「ここから近いの?」
そこが一番、大事だった。無言でクラウスは頷いた。
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