第65話 怒り
残酷な場面があります
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最初は馬車の事故で。それに失敗すると、次は、恐ろしい不治の病を、プリンスの体に埋め込んだ。
クラウスの体は震えた。今まで感じたことのないほどの、激しい怒りを感じる。
何が何でも、やりとげなければならない。
エドゥアルドの為に。
彼をもう、二度と苦しませない為に。
◇
ゆっくりと、馬車は止まった。ウィルンへの道すがら、ここは、最後の休憩所なのだ。
御者が、御者台から降りた。キャリッジに回り、扉越しに何か話しかけている。
かたかたと音がした。窓が左に開いていく。クラウスは、引き金にかけた指に力を込めた。
笑い声がして、御者の頭が右にそれた。不機嫌そうな主の顔が、ちらと覗いた。
腹に力を込め、クラウスは引き金を引いた。
ぱあん。ぱあん。
呆れるほどのどかな音が、二発。
最初の弾は、窓枠に当たって跳ね返された。
二発目が当たったのは、人のいない窓だった。馬車の中の人は、座席の上に伏せて難を逃れた。
怒声が聞こえた。
御者が、御者台に駆け戻った。鞭の音が鳴り響き、馬が猛スピードで走り始めた。馬車はあっという間に大地の向こう逃げ去っていった。
馬車を追走していた二頭の馬から、軍服を着た者たちが飛び降りた。素早く、弾の飛んできた方向を見定める。彼らに迷いはなかった。腰に佩びた剣を抜き、軍靴で岩場を走ってくる。
……仕損じた。
クラウスは立ち上がった。接近戦なら、岩陰にいても意味はない。彼は走り始めた。何にしても、クラウスの銃は飛距離が短すぎる。獲物の身近での待ち伏せ以外、勝ち目はない。
あっという間に、追いつかれた。
右の、若いほうの兵士が、剣を振り上げた。大きく弧を描いたそれが、クラウスの背を掠める。弾みで左にぶれて、クラウスは走り続けた。
剣の重みと走る勢いに負けて、右側の兵士が転ぶのが見えた。これでしばらく、余裕が稼げる。
ほっとしたのも束の間だった。
左側の兵士は、一歩先んじていた。真横に並び、クラウスの首筋めがけて、剣を振り下ろす。
一息に、息の根を止めようと。
「!」
次の瞬間、剣ははじけ飛んでいた。剣の束には、彼の指が巻き付いたままだ。大量の血があふれ飛んだ。激痛に兵士は悲鳴を上げた。
「?」
その間、右側で転んだままだった若い兵士は、仲間に加えられた惨劇を認識できなかった。相棒の手が、剣を握ったまま、千切れ飛んだことに。
素早く立ち上がり、若い兵士は、再び獲物を負い始めた。クラウスだけを見て走る。
クラウスもまた、逃げるのにせいいっぱいだった。だから、気がつかなかった。音もなく忍び寄り、腕ごと、年嵩の兵士の銃をもぎ取ったのは……。
麦わら色の髪。エドゥアルドより少しだけ身の丈の足りない、がっしりとした体つき。
淡い水色の目がクラウスを見た。表情は感じ取れない。若い兵士の前方を走り去るクラウスを、ただじっと見つめていた。
鹿のように敏捷に、野ネズミのように小回りを利かせて、クラウスは走る。
足の速さには、自信があった。だが、相手もしつこかった。どこまでもクラウスを追いかけてくる。
岩に、足を取られた。しまった、と思った瞬間、くるぶしのあたりで、右足首が外側に崩れた。激しい痛みが突き上げてくる。
挫いたか。
若い兵士がにやりと笑った。にきびの痕があちこちにある、まだ子どものような顔つきだ。足を挫かなくても、スタミナではかなわない。いずれこの兵士の餌食となっていたろう。
笑った顔のまま、兵士が剣を振り上げた。
……ああ、やられるな。
切りつけられ、大量の血を流し。それでも死なない自分を見て、この幼い兵士は、どれほど怯えるだろう。
……気の毒に。
「クラウス! 何をしている。この馬鹿!」
愛する人の罵声が聞こえた。
幻聴かと思った。
馬の上に引きずり上げられる。馬は若い兵士を蹴倒し、土ぼこりを上げて疾走を始めた。
背を向けて走り去っていく二人は気が付かない。再び、どこからともなく現れた人影が、起き上がろうとした若い兵士の首を、素手でもぎ取ったのを。
「殿下……どうして?」
クラウスには解せなかった。シェルブルンの宮殿で療養中のエドゥアルドが、なぜ、ここに?
「全くお前はっ! 僕を置き去りにしてっ!」
憤懣やるかたないといった声が、後ろから降ってきた。
「メトフェッセルの予定を知っているのは自分だけだと思うなよ?」
クラウスとエドゥアルドを背に乗せ、馬は走っていく。その走り方はいかにも雑で、まるで躾の跡が感じられない。
すぐにわかった。
「殿下。この馬……?」
「そう、お前の馬だ。お前が最初に宮殿に乗ってきた」
その後、クラウスはエドゥアルドから白い駿馬を宛がわれ、馬はそのまま王宮の馬場で面倒を見て貰っていた。
ごつごつと走る馬の背で、クラウスは胸がいっぱいになった。
「大事に面倒見て下さってたんですね」
「馬丁が嘆いていたぞ。ちっとも言う事を聞かないって。だが、何しろ僕は、死にかけている。自分の馬で来るわけにはいかない。だから、いなくなっても誰も気にしないお前の馬を使った」
エドゥアルドは鼻を鳴らした。
「そんなことより、エマに聞いた。お前、猟に出掛けるからと言って、銃を買ったんだって? ヒグマに襲われるんじゃないかと、あの子は半狂乱だったぞ。ちなみに、それは僕のせいだそうだ。クマの肝は滋養強壮にいいから」
確かに銃は買った。しかしそれは、熊撃ちの為なんかではない。
「たった一人でこの国の宰相を狙撃するなんて、なんて無茶を……、僕が間に合わなかったら、どうするつもりだったんだ?」
エドゥアルドは怒り続けている。後ろから、彼に抱かれるようにして馬に揺られながら、クラウスは首を竦めた。
「平気です。僕は、ほら、不死だから」
「不死!?」
鋭く短く、エドゥアルドは叫んだ。
「だってお前、怪我をするだろ。治せないほどの大怪我をしたら、いったいどうしたらいいんだ?」
腹に回された手にぎゅっと力が入る。クラウスは後ろから羽交い絞めにされた。
「その時は……」
……エドゥアルドに殺してもらうしかない。
それが一番いいのでは、と、今でもクラウスは思う。彼の前から永遠に姿を消せば、これから先、エドゥアルドは好きに生きることができる。
彼はゲシェンクの呪いを脱し、きっと素敵な恋をみつけるだろう。子を成し、長きにわたって、ユアロップを繁栄させることができるのだ。
そして、自分もまた、エドゥアルドに愛されたまま死ぬことができる。愛し愛される幸せを抱えたまま、永遠の眠りにつくことができる……。
「だめだ」
むっとした声が、頭上から降ってきた。
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