第64話 運び込まれた食事


 空気が僅かな振動を伝えた。

 前方左手から、連続して路面を叩く揺れが伝わってくる。揺れは、次第に固く鋭い音となり、辺りに響き渡った。

 手に入れることのできた銃の、飛距離は短かい。

 ごつごつした岩場の岩陰伏せ、クラウスは銃を構えた。肘を岩に乗せて固定し、左手で銃身を支える。

 今日は、メトフェッセルが、故郷ハンガルから、帰ってくる日だ。

 ロートリンゲン公の死を宣言した宰相は、秘蹟の儀にも姿を見せなかった。故郷で休暇を取っていたのだ。

 皇帝の孫に秘蹟が授けられると、首都へ向かった。彼の死に立ち会う為に。仇敵オーディン・マークスの血筋が、完全に途絶えるのを見届ける為に。

 クラウスは身を伏せた。

 太陽の光を浴びて、2頭立ての馬車が、走ってくる。



 エドゥアルドは、部屋に入ってきた少女を、しげしげと眺めた。

 10歳くらいだろうか。赤いスカートをはいている。小ぎれいにはしているが、可愛いらしい子どもではない。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せない。町の子どもだろうと思った。

 数日の間、食事を運んでこれないと、クラウスは言った。彼ははっきり言わなかったけど、ギルベルトの葬儀があるのだと、エドゥアルドは推測している。

 死んでしまってもギルベルトの名前なんか聞きたくないというのが、エドゥアルドの本音だ。けれど今では、クラウスはエドゥアルドのものなのだ。エドゥアルドがそう思っているだけでなく、クラウス本人もそう言った。だから行き先くらい教えてくれたったいいではないかと、正直、不満ではある。

 自分の代わりに、別の人間に運ばせるから、部屋に入れてやってほしいとクラウスは言った。それが、この少女だ。


 彼女は、重そうな籠を下げていた。ベッド脇のテーブルの上に、どん、と置く。

 チーズ。ソーセージ。山盛りポテト。最後に、密閉されたポットのようなものを取り出した。

牛肉の煮込みシュルターシェルツル

一言、彼女は言った。

 「……これを、どうしろと?」

 不機嫌を隠そうともせず、エドゥアルドは尋ねる。クラウスの代わりがこのチンケな女の子とは、あんまりだ。

「食べさせる」

「は?」

「クラウスがそう言った」

「クラウスが?」


 エドゥアルドは、憮然とした。

 あのふらふら者は、いったいどこまで射程範囲が広いのか。女嫌いをあっさり返上して母親を頼れと言ったことといい、昨日の焼き菓子といい……。知り合いが焼いたと、彼は言った。知り合いのだ、多分。いや、間違いなく。そういう味だった。甘くて、ほろほろと柔らかくて。

 ギルベルトが死んでも、心配は絶えない。クラウスの回りには常に女の影がちらついている。そうしてまた、この子だ。

 だから答えた。


「いらないよ。君の持ってきた料理なんか、食べない」

「だめ」

 少女が、テーブルに飛びついた。いきなりポテトを鷲掴みにすると、間髪入れず、エドゥアルドの口に押し付ける。

「クラウスが言ったから!」

 金切り声で、彼女は叫んだ。

 驚きのあまり、エドゥアルドの口は、半開きになっていた。完全に虚を衝かれた形だ。そこに、ぐいぐい芋を押し込んでくる。

「……!!!」

 口にものを詰め込まれ、エドゥアルドは、声も出ない。加えて、芋は、喉に詰まりやすい。クラウスの血を受け容れたあの日から初めて、エドゥアルドは咳き込んだ。

「あんたなんか嫌い!」

 なぜか、少女は泣きべそをかいていた。掌で、口から飛び出ていた芋の端を、とどめとばかり、ぎゅっと押し込む。

「大っ嫌いよっ!」

 叫び声を残し、彼女は、走り去っていった。


 「エマを許してあげて」

 芋を喉に詰まらせ、俯いてえずいていたエドゥアルドは、不意に声を掛けられ、ぎょっとした。

 ドアのところに、少女が立っていた。生真面目そうな女学生風だ。

「ごめんなさい。門が開いていたから。宮殿のこの棟には、見張りもいなかったし」


 それはエドゥアルド自身が遠ざけたからだ。まさかあんな野蛮な女の子が食事を運んで来るとは、思ってもいなかったから。

 対外的に今のエドゥアルドは、死を待つばかりの人間だ。それに、恐ろしい死病に罹っている。刺客さえも訪れはすまい。……警護が緩んでいるのには、そんな理由もあった。


「エマは、クラウスのことが大好きなの。だから、ロートリンゲン公、貴方のことが嫌いなのよ。私は、初めはわからなかった。だってクラウスははっきり教えてくれないし、それに貴方に結婚しないしね。貴方がだってことは、エマが教えてくれたようなものよ」

 一人で喋り散らしている。なんのことだか、エドゥアルドにはさっぱりわからない。

「君は誰?」

 息の継ぎ目を狙って口を挟むと、奔流のような少女の独白が、やっと止まった。

「ミリィ。中央大学の学生よ」

「ここへ何しに来た? まさか君も、クラウスの信者だというわけじゃあるまいね?」

「信者? 変な言い方ね。私はクラウスのことが大好きよ。彼の味方だわ」

 エドゥアルドの不安のど真ん中を、あっさりとミリィが踏み抜く。

 不意に顔が歪んだ。

「それどころじゃないのよ。大変なの。クラウスはどこ? ギルベルトの柩がなくなってしまったの!」



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