第63話 家庭音楽会


 一瞬、エドゥアルドの目が、期待に輝いた。だが、すぐに何かを察したように、不審げに瞬きした。

 クラウスがその目を見つめる。

「多分この絵は、前から用意されていたのです。多分、秘蹟の儀よりもずっと前に」

「僕の死の姿絵を? 随分、用意がいいんだな。きっと、一儲けを企んだんだね。その割には、安く売ってるみたいだけど」

 エドゥアルドは気にしている風でもない。だが、クラウスは、はっきりと悟った。

「いいえ、殿下。これは、殿下の死を、国の内外に知らしめたい輩の仕業です。彼らは、万端の用意を整えて、あなたが死ぬのをじっと待っているんです!」


 ロートリンゲン公爵家解体の話をもちかけたマレー将軍のことを、クラウスは思い出した。

 ……「同家は、プリンス一代限りの家柄だからだ。これは、最初からの決め事だ」

 また、在ユートパクスのウィスタリア大使には、もう随分前に、ロートリンゲン公爵死去に関するコメントが届けられていたという噂も聞く。メトフェッセル宰相、直筆の。


 エドゥアルドが、眉を顰めた。

「だって、僕には王位継承権も何もないんだよ? そんなことして何になる」

「でも、王としてあなたを担ぎたい者は、大勢います。独立を図りたい民族は、たくさんあるんです」

「ああ、僕は、オーディン・マークスの息子だからね。我が国の宰相殿の、喉に刺さった棘だから」

「殿下!」

「宰相が言ったんだよ。二人きりで話したことがあるんだ。まだ僕の病気が重くなる前に。彼、言ってたよ。僕には華があるって。まるで役者のように見栄えがするんだと」

「殿下。あなたのご病気は……」


 その話を、クラウスはまだ、エドゥアルドにしたことはなかった。

 だが、エドゥアルドは頷いた。


「知ってる。メトフェッセル宰相の家で感染したものだ。彼の家の音楽会へ招かれて。僕が11歳の時のことだ」

「まさか……ご存知でしたか!」

 その件については、ディートリッヒ先生でさえ、確信はなかったではないか。

 エドゥアルドは頷いた。

「宰相の家で行われた音楽会が終わった時、レオポルディーネが、教えてくれたんだ。父の宰相が、僕に、テュベルクルーズという病気をうつそうとしている、って。彼女が言った通り、その後、僕は高熱を発し、しばらく起きられなかった」

「殿下!」

 クラウスは、蒼白になった。

 だが、エドゥアルドは、にっこりと笑った。

「だいじょうぶ。ほら、この通り、僕は今、生きている」

「それは、偶然でしょ。偶然、僕と出会い、あなたを治すことができたから……」

 エドゥアルドが喀血した日のことを思い出し、クラウスは身震いした。

「危うくあなたは死ぬところだったんだ。そんな……そんな小さな子どもの頃に、死の罠を仕掛けるなんて!」

「怒らないで、クラウス。僕は平気だ。それに僕はその時、もう11歳だったんだよ?」

「11歳! まだまだ抵抗力の弱い、子どもじゃないですか!」

「でも、すでにお前と会っていた」

「……え?」

 クラウスの思考が止まった。

「ほら、僕が馬車に乗ってたら、白い馬に乗ったお前がやってきて……」

「殿下」

 震える声でクラウスは言った。

「私が殿下と初めて会ったのは、殿下がまだ、テュベルクルーズに感染する前だったんですね?」

「そうだけど?」


 クラウスの全身から力が抜けた。

 エドゥアルドは、クラウスが潜在的なゲシェンクであるがゆえに、彼を求めたのではなかった。だって二人が初めて会った時、彼は、死病テュベルクルーズに感染していなかった。彼には、ゲシェンクの血など必要なかったのだ。

 エドゥアルドが求めたのは、ゲシェンクではない。クラウスだ。

 そしてクラウスの方は、なんとか、彼を助けようと……。


 はっとクラウスは我に返った。あの時の、馬車の異音。車軸への細工。あれも……

「宰相は、貴方の馬車にまで仕掛けを……」

「それも、クラウス。お前が助けてくれた」

相変わらず穏やかにエドゥアルドが諭す。

「あれは!」

思わず声が上ずった。

「車軸の異常に気がついたのは、ギルベルトなんです。彼が、ツェーの音が半音ずれていることに気づいて……」

「でも、僕を馬車から救い上げてくれたのは、お前だ!」

 強い声だった。クラウスは息をのんだ。

 エドゥアルドは、しかしすぐに柔らかな声に戻った。

「それに、僕に魔法をかけたのは、ギルベルトじゃない。お前だ」

「魔法?」

「覚えてないんだろ? お前は、薄情だから」

「殿下は時々それをおっしゃいます。でも……」

「教えてあげない」

きっぱりとエドゥアルドは言った。

「これは僕の大事な秘密なんだ。思い出すまで、教えてあげないよ。僕はね、」

改まった口調に変わる。

「僕は、お前がいれば、それでいいんだ。いつかお前とまた会えると思えば、病気も克服できた。少なくとも、11歳の僕は、そうだった」

「殿下、何を呑気なことを……」

クラウスはあえいだ。

「許さない。何度も何度も殿下のお命を狙うなんて……絶対、許さない!」

「落ち着いて、クラウス」

 エドゥアルドはクラウスを椅子に座らせた。静かにその頭頂部に手を置く。てのひらから、しずかな熱が伝わってきた。

「初めてする話だ……」

 その時のことを、エドゥアルドは語り始めた。


 ……。

 音楽会に招かれた他の客達から離され、エドゥアルドは、メトフェッセル家令嬢、レオポルディーネの部屋に連れていかれた。

 いつもはうるさくついてくる家庭教師のディートリッヒ先生は、その日はいなかった。遠方に泊りがけで出かけていたのだ。

 宰相令嬢は、絵や玩具を見せ、エドゥアルドの相手をしてくれた。

 活発な男の子に、疲れやすい令嬢は退屈な相手だった。だがエドゥアルドは、彼女が一生懸命、自分を喜ばせようとしていることに気がついた。それで、おとなしく彼女と一緒に過ごした。


 音楽会が終わった。

 エドゥアルドが辞去の挨拶をしようとすると、不意に、令嬢は泣き出した。

「ごめんなさいね。ごめんなさい。父に言われて私、あなたに恐ろしい病気をうつしたのだわ」

 言葉の意味が、エドゥアルドにはわからなかった。なおも、レオポルディーネは言葉を連ねた。

「でもこれは、ユアロップの平和の為なの。もう二度と戦争が起こらないようにするためなのよ。だって、あなたは、オーディン・マークスの息子だから」

 ……。


 「父上が……オーディン・マークスが、ウィスタリア中の人から憎まれているのを、僕は感じていた。よくわからないながらも、僕は彼女に、父の為に死ぬのは怖くないと言った」


 ……。

 レオポルディーネは、なおも謝罪の言葉を繰り返した。

 病気になっても大丈夫だと、エドゥアルドは答えた。

「だって、僕には、大事な人がいるから。僕がつらい時や苦しい時には、きっと、その人が飛んできて、助けてくれるんだ」

「まあ」

涙に濡れたレオポルディーネの顔が、僅かにほころんだ。

「当ててみましょうか? その方は、お母様ね?」

「母上は、僕のところには来やしない」

「きっとお母様は、お忙しいのよ。そんなことを言うなんて、いけない人ね。でも……、まさか、お父様?」

「違う」

「じゃあ……」

「世界でたったひとりの、大事な人だよ」

11歳の少年は、はっきりと宣言した。

「その人がいるから、僕は、生きていけるんだ」

 レオポルディーネは息をのんだ。

「うらやましい……」

やがて彼女はつぶやいた。

「わたしにもそんな人がいたら……」

言いかけ、言葉を途切らせた。

「あなたとその方が、再びお会いになれることを祈っているわ」

 その、数日後、レオポルディーネは亡くなった。

 ……。


 「な。最後の最後にお前が来て、助けてくれたろ?」

澄み切った青い目が、クラウスに向けられた。

 「あなたは……」

 何と言ったらいいのか、わからなかった。

 ただ、とてつもなく高貴で、それゆえひどく純粋で穢れのないものに触れた気がして、クラウスは慄いた。




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