第61話 僕がパパだ


 次に面会に訪れたのは、フラノ大公夫妻だった。エドゥアルドの叔父フラノ大公と、その妻メリッサだ。

 「来てくれてありがとう、メリッサ。愛らしく優しい君は、僕の美の天使だよ」

「絶対に良くなるのよ」

 掠れた声が礼を言うのに、わざと高圧的にメリッサが返す。彼女の腹は大きく膨らんでいた。臨月に入ったのだ。

 「長い間、貴方の所に来るのを止められていたの」

恨みがましい目で、ちらりと夫を見やる。

「実際、そうすべきだよ。もし、テュベルクルーズが君に伝染ったりしたら……」

「あら、そんなの運ですもの。私は運が強いの」


 言いかけたエドゥアルドをメリッサが制した。実際、寝着いたばかりの頃は、よく見舞いに来てくれた。あの頃、クラウスはいなかった。この部屋を居心地よく調えてくれたのは彼女だったし、大きな安楽椅子を特注してくれたのも彼女だ。

 もっとも、常にハイテンションのメリッサが帰った後には、エドゥアルドは、しばしば高熱に襲われたのだが。


「俺が止めたんだ。お前はベッドから起き上がることもできないくせに、礼を失うまいとフロックに着替えようとして……見てはいられなかった」

 傍らで彼女の夫がつぶやく。影の薄い大公は、今まで、妻と甥のやり取りを、目に涙をにじませて眺めていた。

「相変わらず、姉上はいらっしゃらないのか?」

「ええ。南の荘園で母は、政務にお忙しいのでしょう」

 何心なさそうにエドゥアルドが返す。

 「思ったより元気そうで、安心したわ」

強引にメリッサが話題をそらす。


 ……「プリンスは、お母様に会いさえすれば、もちなおす筈です。どんなに重病であっても、です!」

 数日前、鼻の頭を真っ赤にして、家庭教師のディートリヒはメリッサに訴えた。母親にも会えずにプリンスは死んでいくのかと、家庭教師は、自分自身が死にそうな顔をしていた。

 家庭教師だけではない。シェルブルン宮殿にいる誰もが、メリッサ内親王の訪れを待ちわびている。

 ……私なら、私なら決して、我が子を一人にしたりしないのに!

 それがこんなに美しいプリンスなら、なおさらだ。


 「そんな顔しないで、メリッサ」

 エドゥアルドが彼女の手を取った。実際のところ、母のことはどうでもよくなっていた。だって今の彼には、クラウスがいる。

「君を悲しませたら、僕は、極悪人だ。あのね、メリッサ。僕は、それほど悪くないよ?」

「本当にね。随分元気そうだわ」

「秘蹟を受けて、元気になったんだな」

 無神経な夫のコメントを、メリッサはひと睨みして黙らせた。


 叔父の大公とエドゥアルドは、9つしか違わない。幼い頃はよく、一緒に遊んだ。というより、叔父からはいたずらを仕込まれた。女官のスカートをめくったり、年寄りの貴婦人をからかったり。意地悪な従者が重い荷物を運んでいるのを見かけると、彼の前でばたんとドアを閉めたりもした。また、キツネ狩りと馬の種付けの見学には、毎年のように駆り出されたものだ。


 「もうすぐ生まれるんだね?」

 メリッサの膨らんだ腹部から儀礼的に目をそらして、エドゥアルドが囁く。声のヴォリュームを上げると、掠れ声にならないのだ。

「ええ、楽しみだわ。ねえ、エドゥ。貴方は、この子にも会うのよ?」

 不意にエドゥアルドは、居住まいを正した。

「実は、叔父上ご夫妻にお願いがあります」

「お前が、お願い? 珍しいな。言ってみろ言ってみろ。金の相談以外なら、何でも聞いてやるぞ」

 軽薄に応じる夫を、再びメリッサが睨みつける。

「言ってごらんなさい、エドゥ」

「君のその子……お腹の子を、……」

言い澱んだ。

「この子?」

 メリッサが腹に手を置くと、エドゥアルドは頷いた。何か言いかけ、言葉を飲み込む。

「何よ」


 メリッサは笑いだした。少しだけ、以前の雰囲気が戻ってきた。以前の……エドゥアルドがまだ、元気だった頃の、親密な、けれども屈託のない……。

 エドゥアルドが、顔を上げた。真っすぐに、メリッサの顔を見つめ、大公に視線を移す。


「その子を、僕に下さい」

「え?」

「なんて?」


 思いがけない言葉に、メリッサは、咄嗟に反応できなかった。それは、夫の大公も同じだった。

 反対に、エドゥアルドは平静だった。

「その子は、僕の子だ。いいですね?」

「んなわけ……」

「エドゥ。言ってる意味が……」

大公と大公妃が同時に言いかける。ふい、と、エドゥアルドは横を向いた。

「叔父上は、贅沢すぎる。優しくきれいな奥さんと、かわいい子ども。少しくらい、僕にも分けてくれるべきだ」

 駄々っ子のようだ。フラノ大公は目を丸くし、メリッサは吹き出した。

「くれる? 僕に。赤ちゃん」

 上目遣いで、エドゥアルドがメリッサを見上げた。初めて会った少年の日と同じ、透明な眼差しだ。

「話してみるわ。この子に。生まれてきたら」


 何か言いかけた(どうせ下品なことに決まっている)夫を肘で突いて黙らせ、膨らんだ腹を、メリッサはそっと撫でた。腹の内側から、とん、と蹴られた。

 間違いなくこの子は、エドゥアルドの子であることを選ぶだろう。実の父フラノ大公ではなく。


「いいわよね、貴方」

「もちろんだよ、お前。だってこれから僕たちはたくさん子どもを作るんだろう? ひとりぐらい、エドゥアルドのことを父親だと思うやつがいたっていいじゃないか。そうすれば……」

 不意に大公の目を涙が伝った。

「そうすれば、エドゥアルドは、永遠に生きていられる。そうだろう?」


 一度引っ込んだ涙腺が、再び決壊した。「たくさん子どもを作る」の件で拳を固めたメリッサは、胸元からハンカチーフを取り出し、夫に渡した。瀟洒なレースで縁取られたそれで、大公はためらいなく鼻をかむ。


 「お腹に触ってみる?」

彼女は尋ねた。

 エドゥアルドは強く首を横に振った。腹の子をくれ、などと言いながら、まるで怯えているみたいだ。

 微笑みながら、メリッサは彼の手を取った。エドゥアルドは、されるがままになっている。

 彼の手を、自分の腹の、膨らんだ頂上に乗せた。

 胎児が動いた。服の上からもわかるくらい、はっきりと。

 火傷したように、エドゥアルドが手を引っ込めた。青い目を丸くしてメリッサを見つめている。

「ここにいるの。私達の声も聞こえてる」

小声で告げる。

 エドゥアルドが身をかがめた。

「僕が君のお父さんだ。覚えておいて欲しい」

 腹に向かい、かすれた声で囁いた。



 王族の訪問が相次いだ。

 皇帝陛下。大叔父たち。皇族の訪問が相次いだ。来なかったのは、フリッツ王子と、エドゥアルドの母マリーゼ内親王くらいだった。


 フェルナー王子が訪れなかったのは、彼もまた、ウィルンにいなかったからだ。

 大学蜂起が起きる前、密かに放っていたスパイの報告を受け、宰相メトフェッセルは王子を、首都から逃がした。「うつけ」と評判の彼は、年老いた皇帝ちちおやと同じく、メトフェッセルの傀儡になるしかない。宰相の独裁を嫌う民が、フェルナー王子を襲撃するのを避けたのだ。


 大叔父のフリッツ大公は、エドゥアルドが眠っている時に訪れた。慌てて起こそうとする付き人に、起こさないように手で合図すると、足音を忍ばせて部屋の外へ出て行った。





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