第59話 けなげでいじらしくて
「アメリア大陸へ参りましょう」
腕に金色の頭を抱き、汗ばんだ体を密着させたまま、クラウスが言う。
美しい紫の蝶が、色鮮やかに、脳裏に蘇った。シェルブルン宮殿の
「アメリア大陸?」
気だるげな声が、くぐもって問い返す。
クラウスは頷いた。
「殿下の叔母君は、アメリア大陸へ嫁がれましたね? ブラダー王国へ」
エドゥアルドの母マリーゼと、もう一人の、「売られた花嫁」。アメリア大陸へ嫁いだマリアンは、既に亡くなっている。
エドゥアルドが顔をあげた。暗い表情が浮かんでいる。
「叔母上もお気の毒に……。シェルブルンへ来たばかりの頃、よく遊んでもらったことを覚えているよ。ユートパクスの歌を歌ってくれた」
エドゥアルドが父と離され、ウィルン宮中に来たばかりの頃。ウィスタリア風の教育を施すために、ユートパクス語を話すのは禁じられていた。
年若い叔母マリアンは、語学が堪能だった。まだ宮廷にいた彼女は、幼い甥にこっそりと、ユートパクスの歌をうたってくれた。
「マリアン様は亡くなられましたが、ご子息のペロドス殿下がおられます」
不人気だった王は、国民により、排斥された。5歳で即位したペロドスは、エドゥアルドの従弟に当たる。
「渡航には、マリーゼ様のお力を借りましょう」
「母上の?」
「はい。マリーゼ様の領土には、港がございます。そこから、船に乗って、アメリア大陸へ渡れます」
大陸との貿易は、マリーゼの荘園に、富を齎していた。
母マリーゼは、息子が最後の秘蹟を受けたと聞いて、ようやくウィルンへ向かう準備を始めたらしい。意外なことに、彼女を呼んだのはメトフェッセルだった。
ロートリンゲン公の死の床を訪れない母親の評判は、悪くなる一方だった。宰相は、ウィスタリア皇族が、これ以上評価を落とすのが我慢ならなかったのだ。
母の名を聞いて、エドゥアルドは眉を顰めた。
「お前、変わったな、クラウス。女嫌いだったお前が、母上に頼れと?」
猜疑の色が浮かんだ。
「……クラウス。まさか、」
「はい?」
「まさか、好きな女ができたとか? 母性豊かなタイプの」
「何言ってるんです、こんな時に!」
クラウスは呆れた。
早朝のしばらくの間は、病室には人は来ない。だがもう少しすると、大勢の見舞客が訪れる予定だった。なんといってもロートリンゲン公は死の床にあるのだ。たくさんの人が、最後に一目、彼に会いたがっている。
「それに、女? ひどいじゃないですか。僕は、そこまで節操なしじゃありません」
エドゥアルドが口を尖らせる。
「しょうがないだろ。心配でたまらないんだ。男女を問わずお前は、ふらふら、ふらふらと……」
ギルベルトは死んだが、この宮殿にはまだ、フェルナー王子がいる。エドゥアルドの叔父であるフェルナーは、身分からいったらずっと上だ。
フェルナーの名が出る前に、クラウスは遮った。
「私はもう、貴方の物です。わかっているでしょう?」
「お前が大きな犠牲を払ってくれたことはわかっている。けれどゲシェンクは、命のやり取りに過ぎない。僕がいなければ、お前は死ねないというだけだ」
「殿下!」
「かつての、お前とギルベルトのように。それは、愛ではない。そうだろう?」
激したクラウスをよそに、エドゥアルドは平然としている。ギルベルトの名が出ると、クラウスには言い返すことができない。それを計算に入れているのだ。
「でも、僕は何度も言った。お前を愛している、クラウス」
真っ赤になってクラウスは俯いた。
自分は、そう簡単に愛などという言葉を口にできない。クラウスは恨めしく思った。
エドゥアルドが返事を待っているのが感じられる。けれど、舌が喉の奥に貼り付いてしまったように言葉が出てこない。意地になっているのかもしれない。けれど、この意地があったからこそ、今まで生きてこれた。
「……それで、なぜ、アメリア大陸なんだ?」
先に矛を収めたのはエドゥアルドだった。
エドゥアルドと争いたくないのは、クラウスも同じだ。
「シェルブルン宮殿の展示室で、私は、美しい蝶の標本を見ました。遠くアメリア大陸の蝶です。その時私は思いました」
……遠い大陸の、珍しいもの、美しいものを、プリンスに見せてあげたい。
「あの時、貴方は絶望的な死の床にありました。海を渡るなど、遠い遠い夢でしかなかった。でも、今は違う。今なら、現実にすることができるんです」
跳ねるようにして、クラウスは起き直った。つられて、エドゥアルドも起き上がる。
意気込んで、クラウスが言う。
「プラダー王国では、内乱の兆しが見えていると聞きました。お家騒動に反乱。幼い御従弟様には、あなたのお力が必要なのではないでしょうか」
「いや。ウィスタリア王家の人間なら、自分で何とかするだろう」
一瞬の絶句の後、クラウスは、とうとう本音を出した。
「ここにいたら、あなたはどうしても、オーディン・マークスの息子という立場から抜け出すことができない。でも、アメリア大陸では、誰も、あなたのことなど知りません。違う大陸へ渡れば、あなたは、オーディン・マークスという枷から抜け出すことができるんだ!」
だが、返ってきた答えは、期待していたものとは違った。
「僕は、オーディン・マークスの息子であることから逃げ出すことはしない」
「殿下!」
思わず声が高くなる。だが、エドゥアルドは動じなかった。
「お前の言いたいことはよくわかる。そこまで考えてくれて、ありがたいと思っている。だが、だめだ、クラウス。僕は、オーディンの息子なんだ。そのことを、否定しようとは思わない」
「あなたは生まれ変わったのです。オーディンの息子という呪縛を断ち切り、新しい大陸で、新しく生きなおすべきなのです」
ほんの一瞬だけ、エドゥアルドは黙った。
「……それはすごく魅力的だ。誰も知らない場所で、お前と二人きりで。ただただ愛し合って……。だが、駄目だ、クラウス。そんなことはできない」
「なぜ!」
「オーディンの名のもとに、多くの者が死んだ。そのことを、僕は、忘れるわけにはいかない」
「……」
「今も、父上の誤った政策に苦しめられている者がいる。僕はそれを、正さなければならない」
「殿下にそんな義務はありません!」
「お前が言うなよ、クラウス」
そのあまりに弱々しい声音に、クラウスは、はっとした。
「父上の犠牲になったお前が、言うんじゃない」
「犠牲になっているのは、あなただ!」
「でも、僕は、オーディンの息子だ」
……「だが、クラウス。お前は彼を見くびっているよ。父親と全く無関係で生きるなんてこと、プリンス自身が望まないだろう」
クラウスの脳裏に、死に臨んでのギルベルトの言葉が蘇る。こんなことまで、彼は正しかった。
「クラウス。今、何を考えている?」
我に返ると、心配そうな青い目が、じっとのぞき込んでいる。臆せず、その青い瞳を見つめ返す。
「前に、ギルベルトが言っていました。あなたは、オーディンの息子であることから逃げはしない、と」
「ギルベルトが? あいつ、意外と、僕のことを見ていたのだな」
「彼は、あなたのことが好きでしたよ」
だから、クラウスを、エドゥアルドの元に返した。手遅れにならないうちに。
エドゥアルドは、深い吐息を漏らした。
「そうだな。僕が初めてだってことも、教えてくれたもんな」
「はい?」
「お前、見た目と違って、意外と奥手だったんだな」
「……何のお話ですか?」
「もっとも、彼はお前に、いろいろといたずらをしていたようだが。そのことを、僕は、今でも、許しがたく思っている」
不意に、昔よく見た夢のことを、クラウスは思い出した。あんな夢を見るなんて、と、ひどく悩んだものだったが……。
全てが、符合した。
「……なっ! ! !!」
クラウスは、喉を詰まらせた。
含み笑いを漏らしながら、エドゥアルドが小さな欠伸をした。
「眠い。僕のことを、クラウス、ぎゅってして。それで、一緒に寝て起きよ?」
だが、顔を赤らめたまま、クラウスはベッドから滑り降りた。エドゥアルドに背を向け、散乱した服を身に着け始める。
「クラウス!」
「しばらくは、こういうことは……つまりその、殿下が健康を取り戻されるまで」
「えっ!?」
絶望的な呻きが返ってくる。
「何言ってるんだ。大丈夫だよ。病気はすっかり治ったんだから」
なおも続く抗議を、クラウスは無視した。
「だってあなたは、そんなにも痩せこけているじゃないですか。……さきほどは、殿下。お許しください。本当は、しちゃ、いけなかったんです。でも、あんまり、あなたがかわいかったから……」
「かわいい? 僕が?」
「ええ、あなたです」
耳たぶが熱くなっていく。つぶやくように彼は続けた。
「けなげでいじらしくて。そんなあなたが、かわいくてかわいくて、たまらなかったから……」
言い終えた途端、背後から、熱波が押し寄せた気がした。
「クラウス! ねえ、こっちを向いて? 僕を見て!」
「いいえ!」
エドゥアルドが飛び起きる気配がした。後ろを向いたままのクラウスの前に回り込む。頭一つ分、背の高い体が、抱き着いてきた。
喰いつくようにキスされた。
「うう、う、……だから、ですね。こういうことは……」
力いっぱいその顔を押し戻し、クラウスは叫んだ。
「ダメです! 殿下。もうしません! 元通りお太りになるまで、もう、しませんから!」
「横暴だ!」
「少しの辛抱です!」
「無理だ!」
「無理じゃありません! とにかく、」
なんとか身体を引きはがす。
「今は、ごゆるりとお休み下さい。お願いですから」
これ以上ここにいたら、きりがない。回復したばかりの体に障る。
汚れものを両手に抱え、クラウスは病室を出て行った。
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