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第58話 お着替え


 秘蹟の儀の後、プリンスの容体は安定していた。医師団は、これなら転地も可能だと太鼓判を捺した。最も、宰相が許したなら、という条件付きだが。

 転地は認められなかったが、面会が許可された。



 エドゥアルドは、命を救ってくれたクラウスを、国民の前に立たせたかった。自分と並んで立たせ、その勇気と栄誉を讃えたい。

 けれど、クラウスが拒んだ。

 今、エドゥアルドは潜在的なゲシェンクだ。かつてクラウスがそうであったように。今のクラウスが救えるのはエドゥアルドしかいないが、エドゥアルドは違う。彼はあらゆる人を救うことができる。但し一人だけ。選ばれた人が、たとえ自分の意志に反していようとも。

 それを悪用される危険があると、クラウスは危惧していた。同じことを、ギルベルトも憂慮していた。

 エドゥアルドが潜在的なゲシェンクになったことは、隠しておかなければならない。

 彼が回復したことは、当分の間、二人だけの秘密にしておこうということになった。テュベルクルーズを再び体の奥底に封じ込めた風を装い、徐々に回復したという形にしようというのが、クラウスの考えだ。



 「お着替えをしましょう」

 忍び寄った影が囁く。アルフレード・モーデル男爵の身分を借りたクラウスだ。

 軽々とエドゥアルドはベッドの上に起き上がる。つい先日までは、考えられなかった体の動きだ。

 クラウスが眉を顰めた。無言で寝巻着のボタンを外していく。

 負けじと、エドゥアルドも手を伸ばし、クラウスからシャツを剥ぎ取ろうとする。

「ダメです」

 にべもなくエドゥアルドの手が払われた。

「というか、対外的には貴方、死にかけてるんですよ? 何やってんですか」

「僕はもうすっかり治った。お前がなおしてくれたんじゃないか」

 性懲りもなく相手のシャツを剥ぎ取ろうとする。

 ぴしゃりと手を叩かれた。無言でエドゥアルドのボタンを外し終えたクラウスは、シャツの前を拡げ、すぐに閉じてしまった。

「何してるんだ、クラウス。それじゃ、着替えができないじゃないか」

 拒絶されて機嫌の悪いエドゥアルドが文句を言う。顔を上げたクラウスを見て、ぎょっとした。

 クラウスは泣いていた。

「殿下……。お痩せになって……。肋骨なんて、浮き出ている。がりがりじゃないですか。……見たくない。痩せ衰えたあなたなんか見たくないです」

 紅潮した顔に涙声を聞かされ、エドゥアルドの理性が吹っ飛んだ。いきなり、クラウスにとびかかった。両腕に封じ込め、口づけを繰り返す。

 もう、夢中だった。

 口の中を蹂躙し、両手で慌ただしく相手の服をはだけていく。首筋にキスを繰り返し、鎖骨に鼻を埋め、懐かしい人の匂いを、胸いっぱいに吸う。

 咳が出ない。

 肺が、クラウスの香りで満たされていく。

 安堵のあまり、涙が出そうだった。


 無言でエドゥアルドは、クラウスを抱きしめた。ぎゅうぎゅうと力を籠め、筋張った固い体を抱きしめる。最初は自分より背が高かったクラウスが、今は、胸にすっぽりと収まってしまっている。

 汗ばんだ体が温かい。頭頂から、ほんのりと、染め粉の匂いが立ち昇ってくる。エドゥアルドの元に帰ってくる為に、染めた髪だ。

 抱きしめ、密着し、このまま、この体を、自分の裡に、摂り込んでしまいたかった。

 腕の中の体から、くたりと力が抜けた。

 頭を下げて、エドゥアルドは、首筋にキスをした。首筋を舐め上げ、顎の下に舌を這わせる。


 どん、と、胸を突かれた。弾みで後ろへ押し飛ばされる。驚いて見上げると、クラウスが恐ろしい顔で睨んでいる。

「なぜ、なぜもっと早く、僕の血を飲まなかったんですか! そうすれば、ここまで痩せ衰えることはなかったのに!」

「お前を殺すことがいやだったからだ」

「どのみち、あなたが死んだら、僕も生きてはいけない。わかっていたでしょ、それくらい」


 実際彼は、エドゥアルドが死ぬ前に自死を遂げようとした。瀕死の状態で生き残ったら、自分の血を啜れと唆した。エドゥアルドを救い、彼はいつまで続くかわからない死の苦痛を引き受けようとしたのだ。その愛の深さを思い、エドゥアルドの体がかっと熱くなった。

 なおも抱き寄せようとする手を、クラウスがはねのける。エドゥアルドはしょんぼりと俯いた。

「お願いだ、クラウス。僕はディートリッヒ先生から、もう、十分叱られた。無理ばかりするってね。お前まで怒るのは、やめてくれ」

「ディートリッヒ先生は、正しい!」

クラウスはいきり立った。

「悔しいんです。あなたが苦しい思いをしたことが! あなたは、死の淵の一歩手前でいったんですよ? あんなにも激しい咳をして、血を吐いて……僕は、それをなすすべもなく、ただ見守るしかなかった……自分の無能さが、どんなに腹立たしかったことか!」

「お前は、無能なんかじゃないよ……」

か細い声が擁護する。

「そうです。もっと早く助けることができたんだ。それを……」

 本当に悔しそうに、クラウスはエドゥアルドを睨みつけた。

「あなたは、軍人でしょ。人一人、殺せなくて、どうするんですか!」

「無茶を言うなよ。それは、お前なんだぞ?」

「僕にだってできた! あなたは、僕よりずっと、優れている!」

 誉め言葉は逆効果だった。


「……から」

 項垂れて見えなくなった口元から、かろうじて声が漏れた。

「なんですって?」

「だから、僕は、……」

「聞こえません、エドゥアルド」

 クラウスが名前で呼ぶときは、機嫌がよくない時だ。ぱっと顔を上げ、エドゥアルドは言ってのけた。

「僕は、ギルベルトを超えられないから」

「は?」

 クラウスは、きょとんとした。

 そんな彼から、エドゥアルドは目をそらした。徐々に下を向き、すっかり項垂れてしまう。


 ギルベルトとクラウス。

 クラウスと自分。

 護るものと、護られるもの。

 ギルベルトの死を経て、また、エドゥアルドの命を救い、クラウスは、護られる者から、護る者へと変わった。

 エドゥアルドを護る者へと。

 しかし、自分は、クラウスに護られる立場の自分は、どこまでいっても、彼の庇護の元にある。

 もしかしたら、将来、誰かの命を救うことはあるかもしれない。しかしそれは、クラウスではない。エドゥアルドは、クラウスを護る存在には、絶対になれない。


 「つまり、僕は、ギルベルトを、永久に超えられないということだ」

クラウスの顔に、驚愕の色が浮かんだ。

「そんなことで……、そんなつまらないことで、あなたは……」

「つまらないことなんかじゃない! 僕には、耐えられなかった! ギルベルトを超えられないことが! 永遠に、あの男に、嫉妬し続けるしかないってことが!」


 気持ちでは、負けるつもりはなかった。いや、思いの強さでは、ギルベルトを、遥かに凌駕している。

 でも、自分は、クラウスに、何もしてやれない。

 ユートパクスの刺客に刺されたクラウスの傷を、ギルベルトは塞いだ。そんなことは、自分には不可能だ。それどころか、不死となった彼を、死の淵へと送り込まねばならない。


「それじゃ、ただの殺人者じゃないか! 僕はお前に守られるだけで、お前には、何もしてあげられない。そんなの、耐えられなかったんだっ!」


 だが、最後の最後に、エドゥアルドは決断した。

 クラウスと一緒にいようと。

 それがどれくらいの時間かは、わからない。最後がどのように悲惨で苦しいものかもわからない。

 それでも、エドゥアルドは手を伸ばした。少しでも長く、クラウスと共に生きる時間に向けて。

 クラウス自身はどう思っているのだろう。結局、生きのびることを選んだ意気地なしと思っているのではないか。

 エドゥアルドは、思い切って顔を上げた。

 クラウスが凝視していた。


 「クラウス……」

 呼びかけた途端、肩をぐいと掴まれた。


 床に敷いたラグの上に、抑え込まれる。

 尻もちをついた形で座らされると、クラウスが上に乗ってきた。

 対面に座り、エドゥアルドにキスを仕掛けてきた。

 嘗め回し、舌先で突き、吸い上げ、……巧みで、いやらしいキスだった。

 エドゥアルドは鬱屈を忘れた。与えられるキスに、夢中になった。

 クラウスの両腕が肩に乗る。彼はエドゥアルドと胸を密着させ、腕を後ろに、長く伸ばした。

 クラウスが腰を持ち上げた。わずかに、かかってくる体重が減った。

 すでに、エドゥアルド自身は、痛いくらいに立ち上がっていた。

 次の瞬間、狭く熱い場所にぎゅっと押し込まれた。

 肩に乗せられた両腕が、背中に回される。

 強い力で、抱きしめられた。



 ……「とにかく、僕は、この手で、お前を殺したくない。そこが、」。

 シェルブルン宮殿で、エドゥアルドは言い放った。

 その時、クラウスには、この言葉の真意がわからなかった。

 でも、今なら、はっきりとわかる。

 嫉妬。

 命を懸けた、ギルベルトへの嫉妬。

 クラウスは、呆れた。

 今まで完璧だと思っていたエドゥアルドの、ゆがみを見た気がした。

 けれども、そのゆがみは、まっすぐに、クラウス自身を指し示していた。

 ……自分なんかを……。

 愚かだと思った。

 同時に、愛しかった。 

 心の底から、愛おしく思った。

 愛しくて愛しくて、たまらなかった。

 本当は、控えるつもりだった。

 まずは、体を元通りにしてほしかった。

 それまでいくらでも待つ……待てるつもりでいたのに……。

 床に座らせたエドゥアルドの上に、対面で跨った。

 欲望の匂いに満ちた、いやらしいキスを施した。

 エドゥアルドは、全身で応えてきた。

 体の下に、当たっている。

 準備は、殆ど必要なかった。

 悲しいくらいすんなりと、彼を導くことができた。

 恐ろしい快感が、全身を貫いた。

 愛しかった。

 蘇った命が。自分の為に、生きることを選択してくれたことが。体の中の、大きく熱い、脈動が。

 溶けて蕩けて、流れ出してしまいそうなほど、愛しかった。

 両手で力いっぱい、その背を抱きしめた。





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