第57話 最後の秘蹟
青い絨毯の上を、人々は粛々と歩いていく。
先頭は、宮廷司祭だ。皇族、貴族、政治家の順に続く。
みな、手にろうそくを持っている。低い声で祈りを捧げながら、長い廊下を歩き続ける。
エドゥアルドは、寝室のベッドに横たわっていた。熱に浮かされた赤い顔をし、時折、ひどい咳をする。
手には聖なる書を持っていた。心を落ち着け、これを読み続けるように、司祭から言われていた。
祈りの声が近づいてきた。鐘を打ち鳴らす音が聞こえる。宮廷司祭の独特の癖のある声。
一行は、しかし、彼の部屋へは来ない。隣の部屋へ入っていく。そこで、彼の為の最後の秘蹟が行われるのだ。
ミサが始まった。集まった人々が、彼の心の安寧と、天国での復活を祈っている。
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「ギルベルトが死んだ……」
呆然としてエドゥアルドは繰り返す。
「革命です、殿下」
クラウスが答えた。
「ギルベルトは、革命軍のリーダーとして活動していました」
「革命!」
エドゥアルドは息を飲んだ。彼の父オーディン・マークスは、革命王と称されている。あの狂乱と混沌が、今度は
「今朝方、大学を中心とした革命軍は蜂起し、ブルクの宮殿を取り囲みました。でも、武器を持たない彼らに勝ち目はなかった……」
革命軍はすぐに鎮圧された。
市民にも軍側にも、それほど被害者が出なかったのは、撤退が早かったからだ。革命というには、あまりにお粗末だった。むしろ、ただの蜂起に近い。
メトフェッセルはもちろん、官僚は誰一人として更迭されなかった。皇族に至っては、武装蜂起があったという認識すらなかった。
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閉められたドアの向こうから、大勢の人のざわめく気配が伝わってくる。部屋に入りきらなかった人たちが、立ち並んでいるのだろう。祈りの声は聞こえない。エドゥアルドの心中を慮って、彼に聞こえぬように配慮しているのだ。
エドゥアルドの咳は、止まらない。こんこんと、小さな咳が、いくらでも出てくる。まるで、喉の奥、胸の底から吐き出したいものがあるかのように。
咳は、次第に激しくなっていく。絶え間なく続く発作の合間に、辛うじて息を吸う。全身で吸い込まなければ、呼吸ができない。
咳は、耐えきれぬほど苦しいものになっていた。抑えきれない。血を吐きそうだ。
エドゥアルドは、寝台の上をのたうち回った。
壁に張り付いていた黒い影が近づいてきた。
そっと背中に手を回し、優しくさする。
「お前は、僕の復活を祈ってくれないのか」
苦しい咳の合間から、彼は尋ねた。
彼は無言だった。黙ったまま、彼の背を撫で続ける。
次第に咳が治まってくる。
……そんな気がした。
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「おわかりですか、エドゥアルド。ギルベルトは死んだ。この手で死なせたんです。もう僕には、義務も責任も何もない。この世に生き続ける理由は、何ひとつ、なくなったんです。……たったひとつ、あなたを除いて」
「何を言う、クラウス。お前にはお前の人生がある!」
「あなたがいなくて、どうやって生きていかれます? あんな風に抱いて。この体を造り替えておいて。あなたがいなくては、もう僕は生きていかれない」
「お前には、普通に生きてほしい。ギルベルトの二の舞を踏みたいのか? 殺されなくちゃ死ねないなんて、おかしい。異常だよ。僕は、神の子として死にたい。ゲシェンクは悪魔だ。血の契約は、人間の所業ではない」
「殿下……」
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聖歌隊の先導で、聖なる歌が始まった。神への祈りは、死後の安寧を願う調べに集約されていく。
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「あなたを愛しています。愛して愛されて、その果てに殺してほしい。あなたに」
「できない。僕にお前は、殺せない」
「エドゥアルド」
クラウスの声が変わった。
「僕は自由です。もう、いつでも死ねるんです。今なら間に合う。僕はまだ、ゲシェンクにはなっていないから。貴方のゲシェンクに」
脇腹の辺りからナイフを取り出した。両手で逆手に持ち、胸の前で構える。逡巡もためらいもない。大きく振り上げた。まるで、面倒な義務のように。
「あなたがいなくなる前に」
彼は本気だ。掠れた声でエドゥアルドは叫ぶ。
「ダメだ! 許さない!」
「なら、倒れた僕の血を啜るがいい。僕の剣の腕は未熟だから、すぐには死ねないかもしれない。貴方が僕の血を取り込んでくれれば、不死になる」
大ぶりのナイフで傷つけられた内臓が治癒するわけがない。それなのにゲシェンク、即ち不死になどなったら! クラウスは想像を絶する苦痛を抱えて生きることになる。エドゥアルドが彼を殺すまで。
「馬鹿! 何言ってんだ! いやだ! 飲まない! お前の死は犬死にだ!」
額に降りかかった前髪の間から黒い目が覗いた。寂しい笑みが浮かぶ。
「そうですね。これは無駄な行いだ。たとえ成功しても、死後の再会はあり得ない。無垢な魂を持つあなたは、天国に行かれるでしょう。でも、僕の行く先は地獄だ。そこではきっと、ギルベルトが待っているでしょう。プリンス。僕が、再びあなたと出会うことは、絶対にない……」
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秘蹟を与えるミサは、まだ続いている。
ひときわ高い声で、司祭が、祈りの結語を唱える。確かにそうなりますように、という意味の単語だ。人々の声がそれに続く。
この後、集まった一人一人に、「聖片」が配られるのだろう。「聖片」とは、乾燥した硬いパンだ。
ただの、まずいパンだ。
エドゥアルドの体の奥底から、激しい怒りが沸き上がった。
どこにそんな力が残っていたのか。彼は、渾身の力を込めて、持っていた聖なる書を投げつけた。
聖なる書は壁にぶつかり、開いたまま、ばさりと落ちた。
「死にたくない!」
彼は叫んだ。
「僕はまだ、この世では何もなしていない! 死にたくなんかない!」
声が刺激となって、再び、咳が口から飛び出した。激しい咳が止まらない。内臓が裏返り、肺が外へ飛び出そうだ。
駆け寄ったクラウスが、力を込めて、背中を撫でる。まるで、苦しみの一端を自らの身に引き受けようとするかのように。強く押し、さすり、こする。次第に範囲を広げ、背中全体を撫でている。
手が、肩へかかった。
自らの熱い手でエドゥアルドは、筋張った冷たい手をぎゅっと掴んだ。
「もっともっと、お前を抱きたい」
冷たい手が硬直した。残った力を全てをこめ、その手を握りしめた。掠れた声で叫んだ。
「お前から、離れたくない」
「なら、」
「ダメだ!」
ひと際激しい咳が出て、エドゥアルドの力が緩んだ。冷たい手が、するりと熱い手から抜け出していく。
エドゥアルドは寝台に倒れ、目を閉じた。
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気配が離れていく。ひとりぼっちになるのだ、と、エドゥアルドは悟った。
隣室で、どれだけの人が自分の為に祈ってくれようと、彼は、ひとりぼっちだ。うつる病を恐れ、誰も、医者さえも、この部屋まで来ようとしない。
最期をみとってくれるはずの愛する男も、去っていった。
自分は、たった一人で死んでいくのだ。
死の淵は、絶望だった。
涙さえ、枯れていた。
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力尽き、閉じられた瞼の裏側に、影が差した。
「プリンス……」
奇跡のような声が降ってきた。
立ち去ったはずの、クラウスだった。
何かを、手にしている。さっきエドゥアルドが壁に投げつけた、聖なる書だ。
クラウスは、書を開き、てっぺんを両手でつかんだ。力を籠め、厚い背の部分を、真っ二つに引き裂いた。
「僕と共に、どこまでも行けますか? 神の救いを捨て、地獄の業火を浴びて。人々の嘲笑を背に受けて。決して離れぬと、誓えますか?」
最後の力を振り絞り、エドゥアルドは微笑んだ。
「行こう」
「では、もろともに参りましょう。僕はどこまでも、あなたと一緒です」
クラウスは、二つに割いた聖なる書を、床に落とした。
その手には、さきほどの短刀が握られていた。
薄い刃を二の腕に当た。ゆっくりと横に引く。
みる間に赤い血が、輝きながら零れ出た。
匂うほどに白い腕に噛り付き、エドゥアルドは、我を忘れてその血を啜った。
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